【Ⅰ列王記8:47~58】(2023/11/19)


【8:47~48】
『彼らが捕われていった地で、みずから反省して悔い改め、捕われていった地で、あなたに願い、『私たちは罪を犯しました。悪を行なって、咎ある者となりました。』と言って、捕われていった敵国で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて、あなたに祈るなら、』
 イスラエルは捕囚の地で大いに嘆き苦しみます。彼らが嘆き苦しむならば、罪と罰のことをよく考えるようになります。すると『反省』するようになります。『反省』するならば『悔い改め』が起こります。そして『悔い改め』るならば、ヤコブの子らは『私たちは罪を犯しました。悪を行なって、咎ある者となりました。』と神に対して言うでしょう。何故なら、罪を犯したからこそ、その罪に対する神の刑罰として捕囚の苦しみを受けたのだからです。ここで『罪』『悪』『咎』と言われているのは、どれも同一の意味内容であり、つまり「律法違反」を示しています。悔い改めたイスラエルは、悔い改めたのですから『捕われていった敵国で、心を尽くし、精神を尽くして』神に『立ち返』ることとなります。つまり、敵国で捕囚状態にありながら、神に再び仕えるようになります。『心を尽くし、精神を尽くして』と言われているのは、つまり<全身全霊をもって純粋に>という意味です。こうしてイスラエルは、エルサレムの宮に向かって神へ祈りを捧げることとなります。祈る内容は、悔い改めと赦しについてです。ヤコブの子らは敵国で捕われの身ですから、祖国に戻ることができず、そのため敵国でエルサレムに向かって祈るのです。祖国に戻って祈れたら幸いでしょうが、そうしようにも出来ないわけです。ところで、この箇所では捕囚の地について『彼らが捕われていった地』また『捕われていった地』また『捕われていった敵国』と3度も繰り返して言われています。また宮と宮があるエルサレムについても、『あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地』また『あなたが選ばれたこの町』また『私が御名のために建てたこの宮』と3回も続けて言われています。これは捕囚の地とエルサレムの地を強調しているのであって、どうして強調するかと言えば、この箇所では場所の認識が重要な意味を持っているからです。

【8:49~50】
『あなたの御住まいの所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民を赦し、あなたにそむいて犯したすべてのそむきの罪を赦し、彼らを捕えていった者たちが、あわれみの心を起こし、彼らをあわれむようにしてください。』
 神は、このような祈りも聞いて下さいます。何故なら、イスラエルが真に悔い改めたからです。悔い改めた者を、憐れみ深い神は決して拒まれないのです。もし悔い改めた者を神が拒まれるならば、神には憐れみがないことになってしまいます。神は悔い改めた『彼らの言い分を聞き入れ』て下さいます。悔い改めたのであれば、その『言い分』はどれも正しくなるだろうからです。しかし、悔い改めていなければその言い分は聞き入れられません。悔い改めていなければ、その言い分も正しくなろうはずがないからです。こうして神は『あなたに対して罪を犯したあなたの民を赦し』て下さいます。また神は『あなたにそむいて犯したすべてのそむきの罪を赦し』て下さいます。ここではこの通り、罪と罪を犯したイスラエルが赦されると言われています。これは罪と罪を犯した者たちは切っても切り離せない関係があるからです。犯した罪が赦されるものの罪を犯した者たちは赦されないとか、罪を犯した者たちが赦されるものの犯した罪は赦されないというのは、意味不明でありおかしいことなのです。神が悔い改めたイスラエルを赦されるのは、先にも述べた通り、イエス・キリストによります。ここではキリストのことが具体的に何も言葉で示されていません。しかし、神が赦されると書かれていれば、それはどれもキリストによる赦しなのです。それというのも神はキリストによらなければ決して罪を赦されないからです。ですから、ここで『赦し』と書かれているのはキリストにおいて捉えねばなりません。そして、神は赦されたイスラエルのため、『彼らを捕えていった者たちが、あわれみの心を起こし、彼らをあわれむようにしてくださ』います。全ての人間の心は神の御手の中にあります。神は自由自在に人の心を支配されます。ですから、神は悔い改めて赦されたイスラエルから刑罰を取り去るため、敵がイスラエルを憐れむようその心に働きかけて下さるのです。こうしてイスラエルは捕われの地から祖国へと戻れるようになります。もしイスラエルが悔い改めないままでいれば、神は『彼らを捕えていった者たちが、あわれみの心を起こ』すようにして下さいません。その場合、敵はずっとイスラエルを捕えたままでいようとしますから、イスラエルはいつまで経っても敵国から出ることができないままとなります。

 この通り、悔い改めと赦しに問題の解決があります。神は悔い改めて赦された者たちから、罪に対して注がれていた悲惨を取り去って下さるからです。それゆえ、何か悲惨があるならば、これ以外のことをしても無駄です。悔い改めてイエス・キリストによる赦しを神から受けるのです。そうすれば神が全てを解決して下さるでしょう。ここで言われている通り、そのようにしてイスラエルも捕囚の悲惨から解放されることができたのです。

【8:51】
『彼らは、あなたの民であり、あなたがエジプトから、すなわち鉄の炉の中から連れ出されたあなたご自身のものであるからです。』
 古代においてヤコブの子らは神の民でした。彼らだけが古代で神の民でした。イスラエルでない諸民族は全て神と断絶した状態にあったのです。このイスラエルは、神が『エジプト』から『連れ出された』民族です。かつてイスラエルはエジプトで苦しめられていたのですが、神に贖い出されて解放されたのです。ここでエジプトが『鉄の炉』と言われているのは、そこでの奴隷状態がどれだけ悲惨だったか示しています。このように贖い出されたイスラエルは神『ご自身のもの』でした。神が彼らを御心により御自分の所有の民として下さったのです。他の民に神はこうされませんでした。この通り、イスラエルとは神から贖い出された神の選民でした。だからこそソロモンは、もしイスラエルが神の御前で悔い改めたならば、神がそのイスラエルを憐れんで下さるようにと願っているのです。というのも、神がイスラエルを選んで贖い出されたのであれば、イスラエルが悔い改めた際は憐れむということこそ首尾一貫しているのだからです。もしイスラエルが神の民でなく神から贖い出されていなかったとすれば、話は全く違っていたでしょう。その場合、イスラエルは神と何の関係もないわけですから、そもそも神に対して悔い改めるということさえ考えもしなかったでしょう。神のほうでも、イスラエルが御自分の民ではありませんから、そのような民を憐れむということもされないのです。しかし、イスラエルは神から選ばれた特別な民でした。

【8:52~53】
『どうか、あなたのしもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いとに、御目を開き、彼らがあなたに叫び求めるとき、いつも彼らの願いを聞き入れてください。あなたが彼らを地上のすべての国々の民から区別してご自身のものとされたのです。神、主よ。あなたが私たちの先祖をエジプトから連れ出されたとき、あなたのしもべモーセを通して告げられたとおりです。」』
 ここで『しもべ』と言われているのはソロモンであり、『あなたの民イスラエル』と言われているのは民衆の全体です。彼らはこれからもずっと神に祈りを捧げます。その祈りに対し神が『御目を開』いて下さるよう、ソロモンはここで願い求めています。神が『御目を開』かれるとは、つまりイスラエルの祈りを無視されないという意味です。何故なら、逆に御目を閉じられるというのは、神がイスラエルの祈りを無視されることだからです。イスラエルはこれからの時代において、神に『叫び求める』でしょう。叫ぶというのは、心から強く願うことです。何故なら、強い願いが心にある時、人は叫ぶものだからです。神はそのような叫びを『聞き入れてください』ます。子どもが何か切に願うとすれば、その願いが正しい限りにおいて、親は聞き入れてあげるものでしょう。神がイスラエルの叫びを聞き入れて下さるのは、これとよく似ています。

 ここで言われている通り、イスラエルは諸民族の中から神に選び取られた民族でした。イスラエルの他に例外はありませんでした。ただイスラエルだけが神から区別された特別な民だったのです。イスラエル以外の異邦人たちは、どれも神から見放され捨てられた状態にありました。ですから、古代において異邦の民族が神の民と呼ばれることは決してありませんでした。このようにイスラエルだけが古代で特別な選民だったのですから、ソロモンはそのような民の祈りを神が無視されないようにと願うわけです。実際に神は古代イスラエルの祈りに御耳を傾けておられました。もっとも、古代イスラエル人はたびたび罪に陥っていましたから、その罪が妨げとなり、神に祈りを聞いていただけない場合も多くあったのではありますが。

 神がこのようにイスラエルを特別に選び分けられたということは、『あなたが私たちの先祖をエジプトから連れ出されたとき、あなたのしもべモーセを通して告げられたとおりで』した。ソロモンはこのように以前に告げられた事柄を想起することで、イスラエルについての真実を確認しているのです。このようにしてイスラエルの全集団は、神が自分たちの捧げる祈りを聞き入れて下さるのだと強く感じたわけです。

【8:54】
『こうして、ソロモンは、この祈りと願いをことごとく主にささげ終わった。』
 ここまでがソロモンの主に対する祈りでした。この祈りは普遍的な内容を持っており、本質的で重要な意味を持っています。それゆえ、この祈りは心に留めるに値します。『祈りと願い』とい言葉については説明済みです。

『彼はそれまで、ひざまずいて、両手を天に差し伸ばしていた主の祭壇の前から』
 ソロモンは、宮の庭にある『主の祭壇の前』で祈りを捧げていました。ソロモンは主の御前で主に対して祈りを捧げていたからです。その祈りを捧げる際、ソロモンは『ひざまずいて』いました。これが民衆の前であれば、王であるソロモンがひざまずくということはあり得なかったでしょう。しかし、神の御前でソロモンは一人の僕に過ぎない存在でした。ですから、ソロモンは民衆の王であっても、神の御前で『ひざまず』くべきだったのです。またソロモンは祈る際、『両手を天に差し伸ばしてい』ました。これは神に御恵みを求めているのです。片手でなく『両手』を差し伸ばしていたのは、心の思いが強かったからです。しかし、差し伸ばしていた腕の角度や広がり具合については分かりません。私たちも、もし心の強き思いが自然とこのように自分を動かすのであれば、このようにしても問題ありません。しかしながら、偽善的になるぐらいであれば祈らないほうがかえってよいでしょう。

【8:54~55】
『立ち上がり、まっすぐ立って、イスラエルの全集団を大声で祝福して言った。』
 それまで神の御前でひざまずいていたソロモンは、民衆を祝福するため『立ち上がり』ました。ソロモンは王ですから、民衆に対してはひざまずく必要がないのです。ソロモンがイスラエルの群れを『祝福』するのは、この時が記念すべき喜ばしい時だったからです。この時には祝福が相応しかったのです。例えば、日本がワールドカップで優勝したとすれば、日本人の多くは祝福の言葉を口にすることでしょう。この時にソロモンがイスラエルを祝福したのは、これと似ています。その祝福は『大声』にて語られました。大声で語られたのは、祝福の言葉を群れの全体によく伝えるためだったはずです。

【8:56】
『「約束どおり、ご自分の民イスラエルに安住の地をお与えになった主はほむべきかな。しもべモーセを通して告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった。』
 カナンの地は、イスラエルにとって『安住の地』でした。イスラエルは、ソロモンの時代において、初めて全き平和を享受できることとなりました。それまでの時期はずっと戦いが続いていたのです。ですから、ここにおいてカナンの地は真に『安住の地』にされたと言えるのです。神はこの地をイスラエルに与えると『約束』しておられました。その約束はずっと前から、すなわちアブラハムの頃から、与えられていたものです。その約束がこの時において全うされたのです。ここでソロモンは神が『しもべモーセを通して告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった。』と言っています。神は約束されたことを全て為し遂げられる御方です。それというのも神は真実で正しい御方だからです。このように約束を全うして下さった神に対し、ソロモンは『ほむべきかな。』と言って賛美を捧げています。神がイスラエルのために約束を遂げて下さったのですから、神には賛美が捧げられるべきでした。もしそうされなかったとすれば、イスラエルは神に無礼を働くことになっていたでしょう。私たちも、神が良くして下さったならば、神を褒め称えねばなりません。そうしなければ神の祝福を失いかねません。何故なら、神は無礼な者を喜ばれないからです。

【8:57】
『私たちの神、主は、私たちの先祖とともにおられたように、私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちを見捨てられませんように。』
 これまでイスラエル人の『先祖』は神がずっと共にいて下さいました。ですから、これまでイスラエルはずっと神の民として保たれていました。それゆえ、ソロモン時代のイスラエルも、それまでのイスラエルがそうだったのと同じで、神の民でした。もしこれまでの時代でイスラエルが捨てられていたとすれば、ソロモンたちはもう神の民でなかったことでしょう。ソロモンは、神がこれまでイスラエルを退けられなかったように、今のイスラエルも退けないように願い求めます。ソロモンがこう願い求めたのは自然なことでした。何故なら、神の民であるというのは非常に重大なことであり、その特権はあまりにも大きな御恵みだからです。ソロモンが神から見放されないことを願ったように、民衆の全体もそのように願っていたはずです。この通り、神は御自分の聖徒たちを見放されません。これは今の時代に生きる聖徒たちでも同じです。神は聖徒たちにこう言われたのです。『わたしは、あなたを見放さず、見捨てない。』

【8:58】
『私たちの心を主に傾けさせ、私たちが主のすべての道に歩み、私たちの先祖にお命じになった命令と、おきてと、定めとを守るようにさせてください。』
 ソロモンは、神が『私たちの心を主に傾けさせ』て下さるよう願い求めます。これは民の心が主にだけ傾くようにということです。すなわち、イスラエルの心が異教徒たちの神々に傾くことは決していけません。何故なら、イスラエルは神の民であり、異教徒たちの神々は実際的に存在しない空想神だからです。そして、ソロモンは民が神の御命令を守り行なえるように願い求めます。神の民は神の御命令を守り行なうべきだからです。しかし、人は神の御恵みなくして命令に聞き従うことができません。ですから、ソロモンは神がその御恵みにより聖なる命令を民に守らせて下さるよう願い求めるわけです。ここで『道』『命令』『おきて』『定め』と言われているのはどれも神の戒めを意味しています。