【Ⅰ列王記9:3~9】(2023/12/03)


【9:3】
『わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。』
 神は、ソロモンが建てた『宮を聖別』されました。これは、つまり宮が神の住まいとして全く聖にされたということです。ですから、この宮は俗的な建築物でありませんでした。それは全く神的な建築物です。このため、聖徒たちはこの宮を重視すべきでした。

 ここで言われている通り、この宮は主の御名を『とこしえまでも』置くために造られました。この『とこしえまでも』とは文字通りの意味です。すなわち、これは「限りない時間が経っても」ということです。「しかし、紀元70年においてこの宮は滅ぼされ、再建されてもいないじゃないか。」などと言う人がいるかもしれません。確かにこの宮はローマ軍により全く滅ぼされ、しかもこれから2度と再建されることがありません。この宮がこれから再建される可能性はマイナス無限の無限乗%をさえ遥かに超えています。では、神がここで御自身の御名をとこしえまでも宮に置くと言われたのは偽りだったのでしょうか。決してそのようなことはありません。何故なら、この宮は滅ぼされたものの、今や聖徒たちの身体に切り替えられたからです。神は今でも聖徒という神殿に御自身の御名を置いておられます。ですから、神は聖徒という神殿において今でも歩んでおられます。それゆえ、これからもこの御言葉は聖徒という神殿において全うされ続けるのです。

『わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。』
 神はソロモンの祈りを聞き入れて下さいましたから、いつも宮にその御目と心を向けていて下さいました。つまり、宮で起こることは何であれ神の御前に重視されます。それは決して軽んじられないのです。当然ながら宮で捧げられる祈りもそうです。ですから、神は宮で捧げられる祈りを重視して聞いて下さいました。

【9:4】
『あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正しさをもって、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、』
 ダビデは神の御前で『全き心と正しさをもって』歩みました。パリサイ人の場合、外面的には正しく歩んでいるかのようでしたが、その内側は全く駄目でした。しかし、ダビデは外面的に正しかっただけでなく内面的にも正しく振る舞っていたのです。しかし、このようなダビデであっても幾つかの罪の場合は話が別でした。例えば、バテ・シェバ事件での罪や人口調査における罪がそれです。神はこのようなダビデのごとく、ソロモンも正しく歩むのを求めておられます。何故なら、ダビデが正しく歩んだのは御心に適っており、その子であるソロモンも父に倣うべきだったからです。ソロモンがどれだけ敬虔に歩もうとしても、罪を犯すことから免れはしません。ソロモンが言ったように『罪を犯さない人間はひとりもいない』からです。キリストを除き、あらゆる人間は堕落しているため、罪に陥ってしまいます。しかし、ソロモンが罪を避けられなかったとしても、全力を尽くして神の御前で敬虔に歩もうとすべきでした。ここで神が『わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し』なさいと言っておられるのは、つまり聖なる戒めから右にも左にも逸れてはならないということです。このような忠実さは当然ながら今の聖徒たちにも求められています。

【9:5】
『わたしが、あなたの父ダビデに、『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれない。』と言って約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上に永遠に確立しよう。』
 神は、もしダビデの子孫が正しく歩むならば、ダビデの子孫から王座を取り上げないと約束されました。これは神が御恵みをその敬虔な人だけでなく敬虔な子孫にまでも継承して下さる御方だからです。『わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで保つ』と律法で言われた通りです。正しく歩む者とその子孫に対し、神は慈しみ深くあられます。ですから、もしダビデの子ソロモンも正しく敬虔に歩むならば、神はソロモン『の王国の王座をイスラエルの上に永遠に確立し』て下さいます。これは「2回」が聖書において確認の意味を持つからです。ダビデに続いてその子ソロモンまでも御前に正しく歩むことが確認されたならば、この2人の子孫たちもずっと正しく歩むだろうことが分かるでしょう。それゆえ、ソロモンもダビデのごとく歩むならば、その子孫に王権はずっと確立されたままとなります。こういうわけですから、ソロモンの振る舞いにイスラエルの王権が保たれるかどうかが、かかっていました。すなわち、ソロモンが敬虔に歩むかどうかで、これからの子孫における王権の状態が変わってしまうわけです。当然ながらソロモンは主が願っておられる通り、正しく歩むべきでした。

【9:6】
『もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしにそむいて従わず、あなたがたに授けたわたしの命令とわたしのおきてを守らず、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、』
 神はここで、イスラエルが背く罪に陥ることを述べておられます。イスラエルは神の民であったものの、罪深い点では他の民族と何も変わりませんでした。ですから、イスラエルが聖なる民であったとしても、常に背き去る可能性をその内に潜めていました。イスラエルといえども、いつも忠実な御使いのようではなかったのです。実際、イスラエルは幾度となく背きの罪に陥りました。イスラエルが『行ってほかの神々に仕え、これを拝む』という罪は、背きの極致です。何故なら、偶像崇拝に陥るというのは、根本的に神から背き去っているからです。こうなったらもうイスラエルは最悪の状態にまで堕落しているのです。そのような堕落はあまりにも大きな罪悪です。しかし、実際にイスラエルはこういった偶像崇拝の罪を何度も犯したのです。『ほかの神々に仕え』ると共に『これを拝む』というのは、二重の罪です。何故なら、それは仕えるだけというのでなく、また拝むだけというのでもないからです。ただ偽りの神々に仕えるだけでも悪であり、ただ拝むだけというのでも悪です。であればこの2つを共に行なうのであれば、その罪深さは一体どれだけ大きいことでしょうか。

【9:7】
『わたしが彼らに与えた地の面から、イスラエルを断ち、わたしがわたしの名のために聖別した宮を、わたしの前から投げ捨てよう。』
 もしイスラエルが偶像崇拝の堕落に陥るなら、神はイスラエルを大いに罰されます。そのようにして神はイスラエルに報いられるのです。その報いにおいて、イスラエルは約束の地から追い出されてしまいます。イスラエルは神の民であるからこそ、約束の地を与えられたのです。神の民は当然ながら神の御前で正しく歩むべきです。しかし、神に背いて偶像崇拝を行なうならば、もはやイスラエルは約束の地で生きるのに相応しくありません。ですから、その場合、神はイスラエルを罰してその地から断たれてしまわれるのです。実際にイスラエルはこのような罰を受けました。しかし、そうなったのは酷い堕落に陥ったイスラエルの自業自得でした。もしイスラエルが正しく歩んでいれば、約束の地から断たれることもなかったのです。このように約束の地から断たれるのは、あまりにも恐ろしいことです。何故なら、そうなれば神から見放されることになるからです。そのようになったらイスラエルは絶望的な状態となります。ですから、神はこのように言われることで、イスラエルが偶像崇拝に陥らないよう威嚇しておられるのです。また神はイスラエルに対する報いとして、御自分のために建てられた宮を滅ぼしてしまわれます。これはイスラエルから神が離れ去られることを意味しています。何故なら、神はこの宮のところにおられましたが、その宮が滅ぼされるからです。神が御自分の宮を滅ぼされたとしても、愚かであることにはなりません。というのもイスラエルが堕落したのであれば、もうイスラエルのために宮を保ち続けるべき理由はなくなるからです。イスラエルが神に背き去ったにもかかわらず宮は保ち続けられるのであれば、それこそおかしいことになります。神は酷い背きに陥ったイスラエルを、このようにして思い知らされるのです。実際にこのようなことが起こりました。これも先の事柄と同じで非常に恐るべきことです。もし宮が消え去るぐらいならば、イスラエル人は1億回も死んだほうが遥かにましだったでしょう。イスラエル人は神とその宮を持っていることを非常な誇りとしていたからです。ですから、神はこのように言われることでもイスラエルを威嚇しておられるのです。このようなわけで、イスラエルはこれからどうすべきか選択を迫られていました。すなわち、神に従って祝福され続けるか、それとも神に背いて神から捨てられるのか、ということをです。

『こうして、イスラエルはすべての国々の民の間で、物笑いとなり、なぶりものとなろう。』
 神に罰せられたイスラエルは、異邦人たちから馬鹿にされ軽んじられることとなります。これはイスラエルがその不敬虔において神を蔑んだからです。神を蔑む者は報いとして自分たちも軽んじられてしまいます。それは『わたしをさげすむ者は軽んじられる。』(Ⅰサムエル2章30節)と神が言われた通りです。実際にバビロン捕囚期のイスラエル人がこうなりました。イスラエルは捕囚されたバビロンの地で異邦人たちから蔑ろにされたのです。ユダヤ戦争より後のイスラエル人も、やはりそうです。これまで2000年の間、イスラエル人が諸国民から迫害され軽んじられ続けてきたのは、誰でも既に知っていることでしょう。このようになるのはイスラエルにとって恐ろしいことです。ですから、神はこのように威嚇することで、イスラエルが御自身から背き去らないよう求めているわけです。

【9:8】
『この宮も廃墟となり、』
 堕落したイスラエルに対する刑罰として、イスラエル人の愛していた宮は『廃墟』とされます。神が宮を『廃墟』とされます。それはイスラエルの敵である強い軍隊が用いられることによって、です。内乱により宮が廃墟となるわけではありません。神はイスラエルに対する復讐の武器として敵を用いられるのです。神がこう言われた通り、実際に2度、イスラエルの宮は敵により『廃墟』と化しました。神は言われたことを成し遂げられる真実な御方なのです。

 このように神は刑罰として御自分の宮をさえ滅ぼしてしまわれます。神は御自分の民が極度に堕落したのであれば、決して容赦されないのです。もし容赦されたとすれば、宮が破壊されることまではされなかったでしょう。このような容赦のなさに刑罰の厳しさがあります。それは神が聖であり正しい至高の裁き主であられるからなのです。

 ここで『廃墟』と訳されているのは、ヘブル語の原文では『いと高き所』です。それが『廃墟』となっているのは、古ラテン語訳よびシリヤ語訳に新改訳聖書が倣っているのです。しかし、これは原文通りに訳するという新改訳聖書の翻訳原則を守っていません。これは原文通り『いと高き所』と訳すべきです。しかし、これを『いと高き所』と訳すならば、この箇所の意味はどのようになるでしょうか。『この宮もいと高き所となり』とは…?これには幾つか解釈が考えられます。その中でもっともらしいと思われる解釈はこうです。すなわち、ここでは破壊された宮が『いと高き所』のように確認できなくなると言われているのです。勿論、『いと高き所』である天は実際に存在しています。しかし、その天は地上に生きる人間からすれば全く確認することができません。『いと高き所』はこの宇宙と異なる世界にありますから、この宇宙のどこを探し回っても『いと高き所』は見つけられません。そのように確認できなくなるほどまで宮が全く破壊されてしまう、とここでは言われていると考えるのが正しいと思われます。

『そのそばを通り過ぎる者はみな、驚いて、ささやき、『なぜ、主はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう。』と言うであろう。』
 罰により宮は滅ぼされても、その宮が建てられていた場所は当然ながらそこにそのままであります。イスラエルは罰されてそこから『断ち』(Ⅰ列王記9:7)切られてしまいますので、もう宮があった場所にいることはありません。しかし、異邦人であればイスラエル人のいなくなったその場所をしばしば『通り過ぎる』ことにもなるでしょう。そのようにしてかつて宮があった場所に来た異邦人は、どうして神がユダヤ人と宮を捨てられてしまったのか不思議に思います。このように不思議に思うのは当然です。何故なら、神が御自分の民と聖なる宮を捨ててしまわれるというのは、あまりにも驚くべき重大な出来事だからです。しかし、そのような驚くべき重大な出来事を引き起こした原因はイスラエル人にありました。このように異邦人が不思議に思うのは、悪意に基づいていません。異邦人は単にそれが驚くべき出来事であるからこそ、どうしてかと疑問に感じるだけだからです。例えば、万里の長城が急に全て消え去ったとすれば、その出来事について驚かない人は誰もいないでしょう。異邦人が無と化した宮の場所を見て驚くのは、このようなものです。このように異邦人が『驚いて、ささや』くのは、イスラエル人にとって嫌なことです。ですから、神はここで「もし背けばこういった嫌なことが起こる。」とイスラエル人に分からせ、背かないための恐れを持たせようとしておられるのです。このようにイスラエルは神から威嚇を受けていました。ですから、イスラエルはもし神に背けばどうなるかよく知っていたでしょう。それにもかかわらずイスラエルは幾度となく神に背いて偶像崇拝を行なったのです。背く結果を知っていながら背いたという点にイスラエルの罪深い愚かさがあります。

【9:9】
『すると人々は、『あの人たちは、エジプトの地から自分たちの先祖を連れ出した彼らの神、主を捨てて、ほかの神々にたより、これを拝み、これに仕えた。そのために、主はこのすべてのわざわいをこの人たちに下されたのだ。』と言うようになる。」』
 廃墟と化した宮の場所を見て異邦人たちが不思議がる際は、宮が廃墟と化した理由について指摘する異邦人もいます。その異邦人たちは、その悲惨はイスラエル人の咎が原因であると指摘します。これは全く正しい指摘でした。異邦人にも神がイスラエルを罰されたことが分かるのです。こうして宮の捨てられた理由が明らかとなりますから、異邦人たちは全く納得することになります。ここで言われている通り、神はイスラエル人の先祖を『エジプトの地から』連れ出し、御自分の民とされました。神がこうされたのは古代においてイスラエル人だけでした。それはあまりにも大きな御恵みでした。これはたとえ異邦人が願ったとしても決して異邦人には与えられることのない幸いでした。しかし、イスラエル人はこのような御恵みを受けたにもかかわらず、その御恵みを下さった『神、主を捨てて』、偶像である偽りの神々を求めました。イスラエル人は偽りの神々のほうが好ましいと思い、それに頼ったのです。イスラエルはその偽りの神々『を拝み、これに仕え』ました。これは神に対するあまりにも大きな忘恩でした。これ以上の忘恩は他に考えられないと言ってよいでしょう。神はこのような忘恩行為について、ここで予め述べておられます。神はそういった罪にこれからイスラエルが陥ることを知っておられました。実際、イスラエルはこれから神を捨てて偶像崇拝に陥ってしまいます。イスラエルがそのような罪を犯したため、神から宮と共に捨てられるという災いを受けたのです。しかし、神が御自分の民と宮を捨てられたとしても、神に責任は全くありません。何故なら、イスラエルがまず先に神を捨てたのだからです。神はそのような背信のイスラエルが御自分に立ち返るよう、幾度となく預言者を通してイスラエルに働きかけられました。しかし、それにもかかわらずイスラエルが神に立ち返ろうとしなかったため、神は大きな災いをイスラエルに下されたのです。ですから、恐るべき災いをイスラエルが受けた原因は全くイスラエルにありました。悪いのはもう全くイスラエルだったのです。この災いにおいて神は非難されるべき点を一つも持っていません。