【Ⅰ列王記9:10~21】(2023/12/10)


【9:10】
『ソロモンが主の宮と王宮との二つの家を二十年かかって建て終わったとき、』
 ソロモンが宮と王宮の建設にかかった期間は『二十年』であり、初めの7年が宮の建設に、続く13年が王宮の建設に費やされました。主の宮に「7」年がかかったのは、その建設における完全性が示されるためです。しかし、王宮の期間である「13」年という数字には何も意味がありません。聖書で「13」という数字には何の意味もないからです。またこの2つの建造物が合計で「20」年かかったことも、数字的な意味は見出せません。聖書で「20」という数字に意味は潜んでいないからです。このように『二十年かかって』宮と王宮が建設されたというのは、かなりの期間です。これはこの2つの建設が大規模だったことを示しています。もしその規模が小さければ、これほどの期間を費やす必要はなかったでしょう。この2つはどちらも、ここで言われている通り『家』です。すなわち、『主の宮』とは主が住まわれる家であり、『王宮』はソロモン王の住む家です。どちらも壮大な『家』であると言えましょう。

【9:11】
『ツロの王ヒラムが、ソロモンの要請に応じて、杉の木材、もみの木材、および、金をソロモンに用立てたので、』
 ヒラムは、ソロモンに木材と金を『用立て』ていました。それはかなりの量でした。ヒラムのいたツロには木が豊かだったからです。ヒラムが金を多く持っていたことは間違いありません。でなければ多くの金をソロモンに用立てることはできなかったはずだからです。これらの木材と金は、宮と王宮を建てるために使われました。ヒラムはそれらを無償でソロモンに与えたのです。何故なら、ソロモンとヒラムの間には幸いな関係があったからです。というのも、ソロモンの父ダビデとヒラムが良い友情を持っていたからです。ダビデとヒラムのその友情は、ダビデの子ソロモンへと引き継がれたわけです。もしソロモンとヒラムに良い関係が無ければ、ヒラムがこのように『用立て』ていたかどうかは分かりません。しかし、用立てるほどの良い関係が両者の間にあることこそ神の御心でした。何故なら、ソロモンがこの時に宮と王宮を建築するということこそ神の御計画だったからです。

『ソロモン王はガリラヤの地方の二十の町をヒラムに与えた。』
 ヒラムがソロモンに木材と金を用立てたのは、その友情ゆえでした。無償で与えるというのは良い関係があることの現われだからです。このようにヒラムは善いことをソロモンに対して行ないました。当然ながらソロモンはその善に対して応じるべきことをしっかり弁えていました。その受けた幸いに対して返礼すべきであるということを、ソロモンのような知者が忘れるはずはないのです。ですから、『ソロモン王はガリラヤの地方の二十の町をヒラムに与え』ました。『ガリラヤ』とはイスラエルの北部にある地域です。この地域が与えられたのは、ヒラムの国であるツロから距離的に近かったからなのでしょう。ソロモンが『二十』の町を与えたのは、単に多く与えたというだけのことであり、この数字に象徴的な意味は何も含まれていません。

【9:12~13】
『しかし、ヒラムがツロからやって来て、ソロモンが彼に与えた町々を見たが、それは彼の気に入らなかった。それで彼は、「兄弟よ。あなたが私に下さったこの町々は、いったい何ですか。」と言った。そのため、これらの町々はカブルの地と呼ばれた。今日もそうである。』
 ソロモンから与えられた町々はヒラムの気に入りませんでしたから、そこは『カブルの地』すなわち「ないのと同じ」という意味の地名を付けられました。このように名付けられたのは、ヒラムの嘆きが大きかったことを示しています。ヒラムはソロモンから返礼として町々を受けたものの、喜びは全くありませんでした。ヒラムがその町々を見ようと『ツロからやって来』た際、少しぐらいは期待していたかもしれません。しかし、そのように期待していたとしても、その期待は全く裏切られてしまいました。この『カブルの地』という名は、『今日』すなわちⅠ列王記の記者が生きていた時代に至るまでそう呼ばれ続けていました。つまり、カブルと名付けられてから名称の変更が行なわれることはありませんでした。地名というものは、何か特別な理由でもない限り、基本的にずっとそのままで呼ばれ続けるものです。ヒラムのような王の言葉に基づく地名の場合は尚のことそうです。この『今日もそうである。』という部分は、この巻が書かれた時期を特定するための手掛かりとなるでしょう。しかし、ソロモンはどうしてヒラム『の気に入らな』いような町々をヒラムに与えたのでしょうか。ソロモンにとっては問題がなくても、ヒラムの求めていた最低基準に達していなかったということなのでしょうか。それともソロモンは単にケチケチしただけなのでしょうか。そうでなければ、イスラエルの地は神により相続地として与えられた場所でしたから、そのように大事な場所を与えるというのであれば、神に対する配慮として、どうしても価値の少ない場所を与えるより他なかったのでしょうか。つまり、本当は与えるべきでない場所を与えることになったため、仕方なくどうでもいいような場所を選んだということなのでしょうか。ソロモンがどうしてヒラムの不満がる町々を与えたかは私たちに分からず、聖書もその理由について何も述べていません。ヒラムがここでソロモンを『兄弟』と呼んでいるのは、ヒラムとソロモンに幸いな関係があったことを意味しています。実際にソロモンとヒラムが血縁的な兄弟だったというのではありません。しかし、ヒラムはソロモンを実際の兄弟でもあるかのごとく親しく取り扱っているのです。

【9:14】
『ヒラムは王に金百二十タラントを贈っていた。』
 ヒラムがソロモンに贈っていた『百二十タラント』の金は、1タラントが34kgですから、すなわち4080kgです。金の価格は時代により大きく変動しますから、その点を考慮すべきですが、金1kgの価格を1000万円だとすれば、ヒラムがソロモンに贈った金は現在価格で408億円となります。これはかなりの額、かなりの重さです。この「120」タラントという数字に何か意味は潜んでいるでしょうか。もし潜んでいるとすれば、これは選別を示す「12」かける完全数である「10」に分解すべきでしょう。つまり、ヒラムは自分の所有する金の中から完全な贈り物として相応しくなるような量を選び取り贈ったということです。この箇所で贈られたと言われている金は、先の箇所で書かれていた金とはまた別物でしょう(Ⅰ列王記9:11)。先の箇所で書かれていた金は、建設のため用立てられた金でした。しかし、この箇所で書かれている金は、純粋な贈り物としての金です。こういった大きな贈り物は、幸いな関係を築くため、また幸いな関係を保ち続けるために強い効果を発揮します。人は十分な贈り物により他者の心をがっちりと掴めるのです。

【9:15】
『ソロモン王は役務者を徴用して次のような事業をした。彼は主の宮と、自分の宮殿、ミロと、エルサレムの城壁、ハツォルとメギドとゲゼルを建設した。』
 ソロモンは、その生涯において多くの事業を行ないました。そのため、彼は『役務者を徴用』しました。働く人数が少なければ事業をするのは難しいからです。ソロモンが多くの事業をしたことは、伝道者の書からも分かります。『主の宮』については、これまでに詳しく見た通りです。宮の建設は間違いなく、ソロモンの事業の中でもっとも重要な建設だったことでしょう。この宮の建設に続いて『自分の宮殿』が建設されました。ソロモンは主の宮より王宮のほうに多く建設の時間を費やしていますが、だからといって王宮のほうが宮より重要だったわけではありません。『ミロ』とは、ダビデの町が呼ばれていた名前です。つまり『ミロ』とは町のことです。この言葉における意味は聖書において明白です。有名な「ミロのヴィーナス」における「ミロ」と、ここで書かれている『ミロ』は全く無関係です。『エルサレムの城壁』とは、エルサレムの周囲に築かれた城壁のことです。これは敵から都が守られるために建設されました。エルサレムにはこういった城壁があっただけでなく、そこは山に囲まれており、戦略的に有利となれる場所でした。ですから、古代のエルサレムは難攻不落の場所として知られていました。『ハツォル』はイスラエルの最北部にある場所です。ここはツロから近い場所にあります。このハツォルが建設されたというのは、つまりそこが全く開発されていなかったか、まだまだ開発の余地があったことを意味しています。『メギド』はハツォルから50kmほど南西に離れた場所です。この場所は古代において戦場として有名でした。ここもやはりまだ十分に開発されていなかったからこそ、ソロモンは建設を行なったのです。『ゲゼル』はエルサレムから北西に30kmほど離れており、そこはダン族の相続地でした。ここはペリシテ人の場所が近くにあります。ここもやはりまだ開発の余地がかなりあったのでしょう。ここでソロモンが行なった建設事業として挙げられているのは「7」つです。これはソロモンがこれらの建設をどれも完全に成し遂げたということです。ソロモンは神の英知を持つ最高の知者でした。ですから、自分の行なう建設をどれも完全に成し遂げることができました。というのも、英知とは事柄に完全性を齎す実践的な知恵のことだからです。

【9:16~17】
『―エジプトの王パロは、かつて上って来て、ゲゼルを攻め取り、これを火で焼き、この町に住んでいたカナン人を殺し、ソロモンの妻である自分の娘に結婚の贈り物としてこれを与えていたので、ソロモンは、このゲゼルを再建した。―』
 イスラエル人がカナンの地に入るより前、その地にはカナン人が住んでいました。そこにいたカナン人たちは、イスラエルと盟約を結んだ人々を除き、全て滅ぼし尽くすべきでした。イスラエルがカナンの地に入植してからもう300年ぐらい経っています。しかし、それでもまだその地には滅ぼされていない残されたカナン人がいました。ここで書かれている『ゲゼル』もそのような場所の一つでした。このゲゼルをエジプト王パロは『攻め取り、これを火で焼き、この町に住んでいたカナン人を殺し』ていました。これはそこにいたのがカナン人だったからです。もしもう既にそこをイスラエルが占領していたとすれば、パロはそこに攻め入ることなどしなかったでしょう。何故なら、もしそこにイスラエル人が住んでいたとすれば、パロは自分の娘が嫁いだソロモンの支配する民の住む場所を滅ぼすことになるからです。このようにするのはソロモンとソロモンに嫁いだ自分の娘に喧嘩を売ることですが、そんなことをパロがするはずはないのです。そして、パロは『ソロモンの妻である自分の娘に結婚の贈り物としてこれを与えてい』ました。町を贈り物にするというのは一般人からすれば考えられません。しかし、王であればしばしばそのような贈り物を誰かに与えていました。王と一般人ではスケールが違うわけです。パロがこのゲゼルを自分の娘に与えたのは、パロにとってそれが良いと思われたからです。というのも、ゲゼルを贈るならば、それは娘の結婚に対する大きな祝いとなりますし、その町を所有した娘のソロモンに対する価値を高めることともなるからです。しかしゲゼルはパロに滅ぼされて廃墟となっていたでしょうから、『ソロモンは、このゲゼルを再建した』のです。再建するのがソロモンにとって好ましいと思われました。何故なら、そのゲゼルはパロからの贈り物だからです。そのような贈り物が荒れたままであれば、それは贈り物として相応しい状態ではないままです。ソロモンが再建してきちんとするからこそ、それは贈り物として喜ばしい状態となります。もしソロモンが再建しなかったとすれば、ゲゼルは惨めな贈り物であるままだったでしょう。

【9:17~19】
『また、下ベテ・ホロンと、バアラテ、およびこの地の荒野にあるタデモル、ソロモンの所有の全ての倉庫の町々、戦車のための町々、騎兵のための町々、ソロモンがエルサレムやレバノンや、すべての領地に建てたいと切に願っていたものを建設した。』
 ここではソロモンの建設した町々や場所について列挙されています。先の箇所で挙げられていた7つの事業は、ソロモンの事業における代表的な事業だったのでしょう。ここではそれ以外の事業が書かれているのです。『下ベテ・ホロン』とはエルサレムの30kmほど北西にあり、そこはエフライムの相続地でした。ここもやはり十分な開発が為されていなかったのです。ソロモンは財力を多く持っていましたから、このような開発を幾つも行なうことができました。ソロモンは『タデモル』という『荒野にある』場所でも建設事業を行ないました。ソロモンは『倉庫の町々』も建設しましたが、これは恐らく食糧や武器などを保管する『倉庫』だったのでしょう。『戦車のための町々』が建てられたのは、戦車を保管したり修理したりする町々でしょう。『騎兵のための町々』とは、騎兵が住み訓練するための町々だったのでしょう。ソロモンは首都である『エルサレム』においても建設を行ないました。そこは首都ですから、そこでの建設はかなり多かったと推測されます。ソロモンは『レバノン』でも建設事業を行ないました。イスラエルの地はこの『レバノン』のほうにまで広がっていたからです。この『エルサレムやレバノン』以外でも、ソロモンはイスラエルの『すべての領地に建てたいと切に願っていたものを建設し』ました。これはソロモンの支配がイスラエルの全土にまで及んでいたからです。

 聖書には詳しく書かれていませんが、ソロモンが行なった事業は数えきれないぐらい多かったことでしょう。ソロモンはその全てを成し遂げることができたはずです。というのもソロモンには神の英知が与えられていたからです。もし成し遂げることができていなければ、ソロモンには神の英知が与えられていなかったことになりましょう。何故なら、神の英知を持ちながら成し遂げられないことはほとんどないはずだからです。ソロモンがそのように事業を成し遂げるのは、神の御心でした。それが御心だったので、神はソロモンに英知を与えて下さったわけです。もし御心でなければソロモンは事業を成し遂げられていませんでした。その場合、そもそもソロモンには英知が与えられていなかったでしょう。この通り、神の御心でなければ何かを成し遂げることはできません。しかし、神の御心であれば何かを成し遂げることができます。このため、ヤコブは手紙の中で聖徒たちが次のように言うべきだと命じたのです。『主の御心であれば、私たちはこのことを、またはあのことをしよう。』

【9:20~21】
『イスラエル人でないエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の生き残りの民全員、すなわち、イスラエル人が聖絶することのできなかった人々の跡を継いで、この地に生き残った彼らの子孫を、ソロモンは奴隷の苦役に徴用した。今日もそうである。』
 イスラエル人は、カナンの地にいた異邦人たちをどれも容赦なく聖絶すべきでした。それは邪悪なカナン人たちが罰されて滅びるためです。神が彼らカナン人をことごとく聖絶するようイスラエルに命じられました。ところが、イスラエル人はその罪や不敬虔また愚かさや怠慢により、カナンにいた異邦人を全て聖絶することができませんでした。忌まわしいカナン人がことごとく聖絶されなかったことについて、神に責任は全くありません。その責任は全くイスラエル人だけにありました。何故なら、もしイスラエルが熱心な敬虔さでカナン人を聖絶していたとすれば、神の命令通り、カナン人はどれも聖絶されていたはずだからです。このようなわけで、イスラエルの地には『イスラエル人が聖絶することのできなかった人々の』『子孫』がずっといました。その聖絶されなかった異邦人の子孫がどれぐらいだったかは分かりません。少しだけだったかもしれませんし、かなりいた可能性もあります。しかし、本当であればソロモンの時代までに彼らの総数は<0人>となっているべきでした。ソロモンはこの生き残っていた異邦人を『奴隷の苦役に徴用し』ました。ソロモンは彼らを滅ぼさず奴隷にしました。どうしてソロモンは彼らを滅ぼそうとしなかったのでしょうか。それは恐らく彼らがイスラエルと盟約を結んでいたので、もはや聖絶したくてもできなかったからだと考えられます。ソロモンが彼らを奴隷にしたこと自体について言えば、まだこの時代において奴隷制は悪だと見做されていませんでした。アメリカでも少し前まではまだ奴隷制が続いていました。古代において奴隷制はごく普通に見られる一般的な制度でした。ですから、ソロモンは彼らを奴隷にしたことを何も罪悪視していなかったはずです。この箇所で『今日もそうである。』と言われているのは、つまりⅠ列王記が書かれた時代に至るまで、ソロモンが奴隷にした異邦人たちの子孫は奴隷であり続けたということです。奴隷という存在は、リンカーンの奴隷解放宣言のような決定的な出来事でも起きない限り、その子孫もだいたい奴隷であり続けたものです。ところで、この『今日もそうである。』という部分から、この巻の書かれた時代を特定できるでしょうか。これはこの巻の書かれた時代を特定する手掛かりになるでしょうが、それについて語ると長くなり過ぎるでしょうから、またいつか別の更に相応しい場所で語ることができればと思います。