【Ⅰ列王記9:22~10:3】(2023/12/17)


【9:22】
『しかし、ソロモンはイスラエル人を奴隷にはしなかった。彼らは戦士であり、彼の家来であり、隊長であり、補佐官であり、戦車隊と騎兵隊の長であったからである。』
 この通り、ソロモンは本来であれば滅ぼされるべきカナン人たちを『奴隷』とするだけでした。つまり、本当であれば滅ぼすべきでしたが滅ぼせなかったので、せめて奴隷にしたわけです。カナン人が滅ぼされないとすれば、必然的にカナン人はイスラエルの地でイスラエル人と共存することとなります。その場合、滅ぼされるべきだったカナン人とイスラエル人が同等の地位を持つのは、明らかに相応しくありません。だからこそ、ソロモンは生き残っていたカナン人たちを奴隷の地位に引き下げたのでしょう。要するに、ソロモンはカナン人をイスラエル人から差別化したのです。しかし、ソロモンは『イスラエル人を奴隷にはし』ませんでした。イスラエル人がイスラエル人を奴隷にすること自体は律法で禁じられていません。何故なら、イスラエル人は経済的に困窮した際、同胞であるイスラエル人に身売りして奴隷となる場合があるからです。しかし、最も望ましいのはイスラエル人が誰一人として奴隷の地位に引き下げられないことです。何故なら、神は自由を得させるためイスラエルがエジプトから贖い出されるようにして下さったからです。自由の民が奴隷となるのは喜ばしくありません。ですから、ソロモンは誰もイスラエル人を奴隷にすることがありませんでした。イスラエル人たちは奴隷でなく『戦士』でした。これは一般的な兵士のことでしょう。この『戦士』たちも奴隷にされたカナン人を支配していたと考えられます。またイスラエル人はソロモンの『家来』でもありました。これは全てのイスラエル人がソロモンの家来だという意味ではなく、家来だったのは幾らかの割合だったはずです。またこの『家来』には様々な種類や階級があったと思われます。イスラエル人は『隊長』でもありましたが、これは軍隊の隊長です。これもやはり隊長だったのは幾らかの割合だったはずです。イスラエル人の幾らかは『補佐官』でもありましたが、これは何の補佐官でしょうか。これは一つ前の部分で言われていた『隊長』の『補佐官』だと考えられます。文章の流れ具合を見るならば、そのように考えるのが自然でしょう。イスラエル人は『戦車隊と騎兵隊の長』でもありました。この長たちが実際にどれぐらい存在していたかは分かりません。ここでは5つまたは6つの職務が挙げられていますが、これに数字的な象徴性は見出せません。この箇所ではイスラエル人が就いていたこれらの職務を挙げることで、イスラエル人と奴隷にされたカナン人の区別を明白化しているのです。つまり、奴隷だったカナン人は誰もここで挙げられている職務に正式な形で就いていませんでした。何故なら、奴隷という存在はあくまでも奴隷に過ぎない人々だからです。

【9:23】
『ソロモンの工事を監督する者の長は五百五十人であって、工事に携わる民を指揮していた。』
 ソロモンの工事事業において監督者は全部で『五百五十人』いました。監督者だけでこれだけいます。であれば、この監督に指揮される作業員たちの総数はどれだけ多かったでしょうか。普通であれば作業員が550人いるだけでも多いほうなのですが。ここで言われている『五百五十人』は実際の数だったのでしょう。すなわち、これは概数でなかったと考えられます。この「550」という数字に象徴的な意味は何もないはずです。

【9:24】
『パロの娘が、ダビデの町から、彼女のために建てた家に上って来たとき、ソロモンはミロを建てた。』
 ソロモンが『パロの娘』の住む家を建てるまで、彼女は『ダビデの町』にいました。『ダビデの町』とはベツレヘムです。その家が建てられると、パロの娘はベツレヘムからそこに移り住むこととなりました。すると、パロの娘がいなくなったベツレヘムの場所に『ソロモンはミロを建て』ました。『ミロ』とは先にも述べた通り、町の名前です。このミロ建設は、先の箇所で書かれていたように、ソロモンが行なった代表的な事業の一つでした(Ⅰ列王記9:15)。

【9:25】
『ソロモンは、主のために建てた祭壇の上に、一年に三度、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげ、また、主の前にある壇で香をたいた。彼は宮を完成した。』
 宮の庭にはソロモンの建てた『祭壇』がありました。それは庭の北側、宮の正面から見て左側、庭から入って右側に置かれていました。この祭壇が建てられたのは『主のため』でした。もし『主のため』に建てられたのでなければ何のために建てられたのでしょうか。この祭壇を使用するのは全てのイスラエル人でした。一般人は当然ながら使用しますし、祭司や王や預言者であっても祭壇を使用しました。何故なら、イスラエル人で贖いをしなくてもいい人は誰もいないからです。イスラエル人は神の民であったものの罪深い存在でしたから、御自身が犠牲そのものであられたキリストを除き、誰でも祭壇で贖いをする必要がありました。ソロモンはこの祭壇で『一年に三度、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげ』ました。ソロモンがこうしたのは自分独自の判断によりませんでした。ソロモンがこうしたのは律法で、『あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。』(申命記16章16節)と書かれているからでした。この律法における『男子』という言葉は、王も含まれています。ですから、ソロモンはこの祭りに出た際、生贄を主の御前で捧げていたのです。ソロモンは神から多くを受けていましたから、その捧げ物もかなり多くの量だったでしょう。それは祭りにイスラエル人が出る際にこうせねばならないと書かれているからです。『あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。』(申命記16章17節)ソロモンのような富む者が、少しだけしか捧げ物を捧げないというのは相応しくありません。またソロモンはその際、『主の前にある壇で香をた』きました。これは神を宥めるためです。キリストは御自身という生贄による香を父なる神に捧げられました。ソロモンが焚いた香は、このキリストという犠牲を指し示しています。ですから、神はソロモンの焚いた香を嗅がれ、宥められました。父なる神が御自身の御子における香を嗅がれながら宥められないということは決してないからです。

 このようにソロモンは聖なる宮を完成させました。ソロモンは知者という面が今でもよく強調されます。神はソロモンに最高の英知を与えられたのですから、確かにソロモンの知が強調されるのは間違っていません。しかし、ソロモンが宮の建設者だったという点も忘れるべきではありません。ソロモンはダビデでさえ行なえなかった宮の建設を成し遂げたのです。神は聖徒を御自分の宮とされるまで、ソロモンの建てた宮を御自分の宮としておられました。その宮が今や聖徒という宮に変えられたわけです。ですから、ソロモンの建築者という面が強調されたとしても、それは間違っていないことです。

【9:26】
『また、ソロモン王は、エドムの地の葦の海の岸辺にあるエラテに近いエツヨン・ゲベルに船団を設けた。』
 ソロモンは『船団』をも設けました。もう既にサウルかダビデがイスラエルで船団を設けていたかどうかは分かりません。もしまだ設けていなければ、ソロモンがイスラエルで初めて船団を設けたのです。もし既に設けられていたとすれば、ここで書かれているのはソロモンが新しく設けた船団のことです。ソロモンは多くの富を持っていましたから、余裕で船団を設けることができたと思われます。またその船団を豪華にすることもできたでしょう。ソロモン自身が伝道者の書で言ったように、『金銭は全ての必要に応じる』のですから。ソロモンの設けたこの船団がどれぐらいの規模だったかは分かりません。ただ決して小さくはなかったと思われます。この船団は『エラテに近いエツヨン・ゲベル』に設けられました。そこは『葦の海』すなわち紅海の『岸辺』に位置する場所です。そこはエルサレムからかなり南に離れています。エルサレムからそこに行くだけでも大変だったでしょう。

【9:27】
『この船団に、ヒラムは自分のしもべであり、海に詳しい水夫たちを、ソロモンのしもべたちといっしょに送り込んだ。』
 ヒラムのいたツロは地中海に面していましたから、そこには『海に詳しい水夫たち』がいました。海に面している度合いが大きい国であるほど、海に卓越した人物も多くいるものです。イスラエルも西側は多くの場所が地中海に面していましたが、しかしその多くは郊外と呼べるような場所ばかりでした。一方、地中海に面しているツロはヒラム王のいた都です。ですから、海のことではイスラエルよりツロのほうが優れていたことでしょう。だからこそ、ヒラムは『海に詳しい水夫たち』をソロモンの船団に協力させたわけです。これはソロモンの船団が、優れた海の人材を必要としていたということです。であれば、やはり海に巧みな人はイスラエルよりツロのほうが多くいたのでしょう。先に見た通り、ヒラムはソロモンから受けたカブルの地に満足していませんでした。しかし、ここでヒラムが水夫たちをソロモンの船団に送り込んでいることから分かる通り、ソロモンが与えた土地のことで両者の関係は悪化していなかったようです。というのも、もし関係が悪化していたとすれば、このようにヒラムがソロモンのため協力することは恐らくなかっただろうからです。こうしてヒラムの僕とソロモンの僕は協同することとなりました。トップの仲が良ければ、往々にしてその下にいる者たちも交わるものなのです。何故なら、トップとその下にいる者たちは一体であり繋がっているからです。

【9:28】
『彼らはオフィルへ行き、そこから、四百二十タラントの金を取って、これをソロモン王のもとに持って来た。』
 こうしてヒラムの僕たちとソロモンの僕たちは、『オフィルへ行き』、そこで金を採集しました。この『オフィル』は金で有名な場所でした。ヨブ記でも金のことでオフィルについて言及されています。彼らは、そこで『四百二十タラントの金を』採集しました。1タラントは34kgですから、これは14トン280kgとなります。今はだいたい金が1kgで1000万円ぐらいですから、現在価格で言えばこれは1420億円の金となります。これはかなりの額です。これは先にヒラムがソロモンに与えた120タラントの金より3倍以上も上回っています。この「420」という数字には象徴性を見出せます。これは「42」かける完全数「10」として分解できるでしょう。ここでの「42」は部分に分けられていることを示しています。聖書において「42」とは3つの14から成り立っており、それは短さや少なさ及び構成的であることを象徴する意味があります。ですから、これを42と10に分解するとすれば、ここで言われているのはつまり船団がオフィルの金を複数回に分けて一度に物理的な上限一杯まで運び込んでいたということです。何回に分けて運んだかまでは分かりませんが、「42」ですから少しぐらいの回数で運搬を完了したことでしょう。つまり、1回だけでなく何回も運搬作業が繰り返されたということを、この「42」という分解数から理解せねばならないのです。こうして彼らは金を『ソロモン王のもとに持って来』ました。当然ながらその金はソロモンの財産となったでしょう。このようにしてソロモンはますます富む者となったのです。先にヒラムから受けていた120タラントの金と合わせれば、ソロモンは540タラントの金を得たのであり、それは現在価格で1828億円です。ソロモンはこの通り最高の英知だけでなく実に多くの金も受けたわけですから、「天は二物を与えず」という諺に当てはまらない人物もいることがよく分かります。

【10:1】
『ときに、シェバの女王が、主の名に関連してソロモンの名声を伝え聞き、難問をもって彼をためそうとして、やって来た。』
 ソロモンの時代からもう既に女の支配者が出ていました。『シェバ』の支配者も女性でした。このシェバの女王は、『ソロモンの名声を伝え聞』いていました。それは『主の名に関連して』伝え聞いていました。つまり、主が英知を与えられたのでソロモンは最高の知者にされたのだ、という内容の噂です。この『主の名に関連』した噂だったというのが重要です。何故なら、それは神がソロモンを通して御自身の栄光を示しておられる事柄だからです。

 しかし、シェバの女王は、ソロモンに関する噂を真実であると信じることができませんでした。それは、噂の内容があまりにも驚くべきことだったからでしょう。人は自分の理解を越えた事柄を聞くならば、たとえそれが真実だったとしても、なかなか信じようとしないものです。ですから、シェバの女王は自分でソロモンのもとに行き、『難問をもって彼をためそうとし』ました。女王が聞いていた噂は難問により本当かどうか分かるからです。すなわち、もしソロモンが噂通りの知者であったとすれば、シェバが示す難問をソロモンは全て答えられるはずなのです。女王にとってはこのようにするのがいいと思われました。女王は僕を遣わして噂について確かめることもできたでしょう。しかし、それでは間接的な確認方法となります。シェバの女王は自分自身の目と耳で真実を確かめたかったのです。律法から分かる通り、人が神を試すのは罪です。しかし、人が真実を確かめるため誰かを悪意なしに試すというのであれば、罪とは言えません。ですから、ソロモンを試そうとした女王はソロモンに対して何か悪いことをしようとしたわけではありません。

【10:2】
『彼女は、非常に大ぜいの有力者たちを率い、らくだにバルサム油と、非常に多くの金および宝石を載せて、エルサレムにやって来た。』
 先に見たような理由から、シェバの女王は『非常に大ぜいの有力者たちを率い』てソロモンのもとに行きました。女王が『非常に大ぜいの有力者たちを率い』たのは、女王の存在を大きく見せるためです。この有力者たちは女王の延長であり、それゆえ女王を大きくさせます。支配者にとってこのようなトリックを行なうのは仕方がないのであり、またそれは重要なことでもあります。天皇も車で移動される際は多くの車列が前後に走りますし、サウジアラビア国王が来日した際も随行団は1000人以上でした。しかし、『非常に大ぜい』というのが実際にどれぐらいの数だったかまでは分かりません。この『有力者たち』がどのようであったかは、推測することしかできませんが、恐らく大臣や首長や商売人たちなどから構成されていたのかもしれません。シェバの女王は、この時、『らくだにバルサム油と、非常に多くの金および宝石を載せて』やって来ました。これはもしかすると噂が真実かもしれないという思いもあったからなのでしょう。もしソロモンが噂通りの人物であれば、女王はこれらの贈り物をソロモンに贈るつもりだったのです。何故なら、もしソロモンが本当に高貴な知恵ある王だったとすれば、そのような王には多くの贈り物を贈るのが相応しいからです。もしソロモンが噂通りの王だったにもかかわらず、何も贈り物を贈らないか、贈っても少しだけだというのであれば、女王はソロモンを実際より低く見積もっていることになるのです。しかし、もし噂が真実でなかったとすれば、女王は恐らくこれらの贈り物をソロモンに贈らなかったでしょう。ソロモンが大したことのない王であれば、どうしてシェバの女王は多くの贈り物を偉大な王に対してでもあるかのように贈ったでしょうか。もし噂が真実でなければ多くの贈り物を持って行っても無駄になったかもしれませんが、もしかしたら真実であるかもしれなかったので、女王は真実を確かめるよりも前からこのように贈り物の準備をしたわけです。もしソロモンの噂が真実だとすれば、確かめてから初めて贈り物を持って来させるというのでは遅すぎるのです。

【10:2~3】
『彼女はソロモンのところに来ると、心にあったすべてのことを彼に質問した。ソロモンは、彼女のすべての質問を説き明かした。王がわからなくて、彼女に説き明かせなかったことは何一つなかった。』
 シェバの女王がどのぐらい難問をソロモンに示したかは分かりません。ただ、その数はかなり多かったことでしょう。何故なら、もし少しだけであれば、ソロモンが全てを完答したとしても、噂が本当に真実であるか確証を持てないからです。例えば、女王が2つだけの難問しか示さなかったとしましょう。この場合、ソロモンが2つの問いに完答したとしても、ソロモンが噂通りの知者であるかどうか確かめるのは難しいでしょう。2問ぐらいであれば、たとえ知者でなくても、まぐれで完答できる可能性は少しぐらいあるからです。しかし100ぐらいの難問であれば話は違います。100もの難問に全てソロモンが完答したとすれば、女王はソロモンが真の知者であると確信するより他ないでしょう。まぐれで100の難問に答えることは誰もできないはずだからです。ですから、女王は100とか200ぐらいの質問をした可能性もかなりあります。女王が具体的にどういった内容の質問をしたかまでは分かりません。私たちはただそれが『難問』だったと知っていれば問題ありません。女王と共にやって来ていた有力者たちも、この時にソロモンに質問した可能性があります。

 このような女王の知的挑戦に対し、ソロモンは『すべての質問を説き明かし』ました。ここで言われている通り、例外は一つもありませんでした。これは神がソロモンに最高の英知を与えておられた紛れもない証拠でした。このようにしてソロモンに与えられた英知がまざまざと示されました。神はこのように女王を通して、ソロモンの英知がよく示されることを望まれたのです。それは御自身がどのような賜物をソロモンに与えたのか、人々によく理解させるためなのです。人々がそのことを知れば、神の素晴らしさが分かるので、それは神の栄光となるのです。ですから、女王は神の目に見えない御計画に突き動かされやって来たことになります。もし女王がソロモンに難問をもって挑戦しなければ、ソロモンの受けた英知が豊かに示されるということもなかったはずです。神はこのように御自身の与えられた賜物がどういったものであるか示される御方です。それは先に述べた通り栄光のため、また証しのためです。パウロに与えられた強い信仰も、パウロが受けた数々の試練を通してまざまざと明らかにされました。