【Ⅰ列王記10:4~14】(2023/12/24)


【10:4~5】
『シェバの女王は、ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、その食卓の料理、列席の家来たち従者たちが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たち、および、彼が主の宮でささげた全焼のいけにえを見て、息も止まるばかりであった。』
 ソロモンのもとに行った女王は、そこで様々な事柄を見て非常に驚きました。それは全体的においても諸部分においても、良い意味で理解を越えていたからです。シェバの女王は国家の支配者でしたから、諸国に関して色々なことを知っていたでしょう。その女王でさえソロモンのことで驚きを隠せませんでした。ですから、女王は『息も止まるばかりであった』のです。女王が見た『ソロモンのすべての知恵』は、神による知恵でした。ですから、ソロモンは人間的な制約があるという限定のもとで神のごとく考えたり理解したりできました。このような知恵はソロモン以外に与えられていませんでした。ソロモン『が建てた宮殿』も、凄まじいものでした。それは長い時間をかけて建てられただけでなく、ソロモンの英知も建設に強く関わっていたはずだからです。このような宮殿は恐らく他の国で見られなかったことでしょう。『食卓の料理』は実に豪華で素晴らしかったはずです。ソロモンには多くの富が与えられていたので、食卓の料理を豊かにすることができました。『列席の家来たち従者たちが仕えている態度とその服装』も、凄くて言葉で言い表すことなど出来なかったと思われます。これは英知を持つソロモンの管理下・指導下に従者たちが置かれていたからでしょう。トップの質に、従者たちの質は、連動するものだからです。王の質が高ければ、その下に属する者たちの質も高くなるのは必然的です。『献酌官たち』も女王を大いに驚かせました。彼らも全てにおいて完璧だったはずだからです。ソロモンが『主の宮でささげた全焼のいけにえ』は、実に厳かで、聖なる宗教性の輝きをまざまざと放っていたことでしょう。他の偽宗教で行なわれるのとは異なる真の宗教祭儀がそこにありました。ですから、女王はこのような聖なる生贄の儀式を見ても非常に驚くより他ありませんでした。

【10:6~7】
『彼女は王に言った。「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。』
 こうして女王は、ソロモンの噂が真実であったと悟りました。女王は『自分で来て、自分の目で見る』ことをしない限り、噂を信じようとしませんでした。しかし、今や自分で見た現実的な証拠により、女王の疑いは全て取り払われたのです。女王がここで言っている通り、女王の聞いていた噂は実際の半分にも達していませんでした。過剰な度合いの噂があり、不十分な度合いの噂もあります。女王が聞いていた噂は、このうち後者のほうでした。女王が聞いていた噂は、ソロモンの凄まじさを知らせているという点で、何も間違っていませんでした。ただその凄まじさの度合いが実際に比べて少ししか伝えられていなかったのです。噂が実際の度合いから逸れるのは何も珍しくないことです。こういうわけで女王がエルサレムを訪問したのは、良い結果となりました。もし女王がソロモンのもとに行かなければ、何かが起きない限り、女王は噂が真実であるかどうか分からないままだったかもしれません。女王にとってエルサレム訪問は決して無駄となりませんでした。

 このように自分で確かめない限り信じようとしない人が多くいます。使徒トマスもそうでした。福音書で書かれている通り、トマスは自分で確かめない限り復活のキリストを信じようとしませんでした。現実的に確かめない限り信じようとしなかった点で、トマスとシェバの女王は非常によく似ています。女王のように確かめなければ信じなくても問題ない事柄があります。それは、例えば宇宙のどこかでワームホールが発見されたなどという知らせです。この場合、科学的な証拠を確認しない限りワームホール発見のニュースを信じなかったとしても、何も罪とはなりません。科学の歴史において間違った発見がこれまで多くありましたから、科学で何でもすぐ伝えられたままのことを信じてしまえば大変なことになりかねません。一方、確認する前から信じなければいけない事柄もあります。例えば、福音書から分かる通り、トマスは自分で確認する前から既に復活のキリストを信じるべきでした。天国もやはり確かめるより前に信じなければなりません。もし天国を確かめない限りキリスト信仰に入ろうとしなければ、そのような人は間違いなく天国に入れず、地獄へと行くのです。

【10:8】
『なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできる家来たちは。』
 シェバの女王は、ソロモンの知恵に驚き、強く感激しました。それは唯一無二の英知でした。神はソロモン以外にそのような英知を与えておられなかったからです。知恵は知的な心地良さを齎すものです。その知恵の度合いが高ければ、それだけ知的な心地良さも高まります。これは誰でも経験から分かることでしょう。ソロモンに与えられた英知は最高に高かったのですから、その齎す心地良さも最高に高かったでしょう。しかし、シェバの女王がいつもその英知を聞くということはできませんでした。今のように電話やテレビやネットがあれば話は別だったでしょうが、この時代にまだそういったものはありません。一方、ソロモンに『つく人たち』また『家来たち』は、彼の英知をいつも聞くことができました。それは喜ばしいことです。女王にとってもそれは羨ましいことだったでしょう。ですから、女王はそのような人に対し『なんとしあわせなことでしょう。』と言っています。女王がこのように2度も言ったのは、ソロモンの英知について本当に強く感動していたことを示します。私たちは何かを本当に凄いと思えば「凄い、凄い。」などと言うでしょう。女王が『なんとしあわせなことでしょう。』と2度も言ったのは、これと同じです。実際に彼らはソロモンの英知を聞いて幸せだったはずです。そのような幸せを感じることのできた従者たちがどれだけいたかは分かりません。多くいたのかもしれませんし、そこまで多くはなかったのかもしれません。このようにして神は御自分がソロモンに与えられた英知の賜物を、シェバの女王を通して高められました。それは神の栄光が現わされるためです。女王がソロモンの英知を称賛するならば、それはその英知を与えられた神への称賛となります。ですから、神は御自分の栄光を現わすため、シェバの女王をソロモンのもとに送られたのです。神が英知を与え、その英知を現わされ、御自分の栄光へと帰らせました。これは正にパウロがローマ書でこう言っている通りのことです。『すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至る』。

【10:9】
『あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、主はほむべきかな。』
 ここで女王が言っている通り、神はソロモンを『喜ばれ』ました。これは神がダビデを喜んでおられたからです。神はダビデを喜んでおられたので、そのダビデから出たソロモンをも喜ばれたのです。神がソロモンを喜ばれたので、神は彼を『イスラエルの王座に』『着かせられた』のです。何故なら、イスラエルは神に愛された群れだったからです。そのような聖なる群れに神の喜ばれるソロモンが王として与えられるというのは、何もおかしなことではありません。女王はそのようにされた神を『ほむべきかな。』と言って賛美しています。ソロモンのような英知の王がイスラエルに与えられるのは、イスラエルからしても外国からしても、喜ばしく思えることだからです。こうしてイスラエルにソロモン王を与えられた神の栄光が現わされることとなりました。神は異邦人の口を通しても崇められるべき御方であられるのです。

『主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行なわせられるのです。」』
 ここで女王が言っている通り、神はイスラエルを愛しておられました。実際、神はイスラエルにこう言われたのです。『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』その愛は『とこしえ』の愛でした。実際、神は預言者を通してイスラエルにこう言われました。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。』つまり、神のイスラエルに対する愛は一時的でなかったということです。何故なら、「永遠」とは時間に限りが存在していないことだからです。しかし、神がイスラエルを愛されたその理由は何だったのでしょうか。イスラエルの側に何か愛されるべき要素はありませんでした。神がイスラエルを愛して選ばれたのは、イスラエルが取るに足らない存在だったからです。そのような無に等しい存在が選ばれるならば、神の愛がまざまざと示されるからです。これはパウロがⅠコリント書で述べている通りです。キリストに愛された使徒たちも、やはり漁師や取税人など取るに足らないような人ばかりでした。もしイスラエルが高貴で優れた価値ある存在だったとすれば、恐らく神に愛されていなかったかもしれません。その場合、もしイスラエルが愛されたならば、イスラエルは高ぶり自分たちを誇っていただろうからです。このようにイスラエルは神から愛されていたので、ソロモンが王として与えられました。「愛」とは愛する対象の益を求めることです。神の英知が与えられたソロモンであれば、イスラエルを良く統治するでしょうから、イスラエルにとって良いことです。ソロモン以上に良く統治できる者がいるでしょうか。ですから、ソロモンが王として与えられたのは、神がイスラエルを愛しておられる現われ・証拠でした。神は実際の働きかけによりその愛を示して下さるのです。ソロモンが王となれば、イスラエルの国で『公正と正義とを』行なうでしょう。『公正と正義』は律法で示されています。つまり、ソロモンが『公正と正義とを』もって統治するというのは、律法の命令通りに統治するということです。そのようになるのはイスラエルにとって良いことです。何故なら、律法を守れば祝福されて栄えることができるからです。このようにして神はソロモンを通してイスラエルに良くして下さるのです。

 このことからも分かる通り、神に愛された群れや集団には、幸いな支配者やリーダーが与えられるものです。神から愛されているというのに、愚かな呪われた支配者が与えられるというのであれば、神の愛が感じられにくくなってしまうでしょう。これの良い例は16世紀のジュネーブです。当時のジュネーブ市民は多くがプロテスタントに切り替えていたので、神から喜ばれていたことは間違いありません。ですから、ジュネーブ市にはカルヴァンという神に恵まれた指導者が与えられたのです。

【10:10】
『彼女は百二十タラントの金と、非常にたくさんのバルサム油と宝石とを王に贈った。シェバの女王がソロモン王に贈ったほどに多くのバルサム油は、二度とはいって来なかった。』
 女王は、ソロモンが聞いていた通りの、それどころか聞いていた通り以上の知恵ある王であることを知りました。ですから、女王は持って来た多くの贈り物をソロモンに贈りました。ソロモンの『知恵と繁栄』と考えるならば、多くの贈り物が贈られるに相応しいのです。もしそうしなければ、ソロモンに対して無礼となったでしょう。女王は、もしかしたらこうなるかもしれないと思ったので、確かめるより前から予め贈り物を用意していました。もしソロモンが噂通りの王でなければ、恐らく女王はその贈り物をソロモンに贈っていなかったかもしれません。女王が贈った『百二十タラントの金』は、前にヒラムが贈っていたのと同じ量です。女王もこれだけの金を贈れるほどに富んでいたのです。しかし、この120タラントの金が女王の所有する金の何パーセントだったかまでは分かりません。こうしてソロモンはますます富む者とされました。神がソロモンを富ませて下さったからです。女王はソロモンに『宝石』をも贈りました。それはかなりの量だったと思われますが、実際の量については詳しく分かりません。その宝石は恐らく様々な種類の内容だったと推測されます。女王は『バルサム油』も贈りました。しかも、それはとんでもない量でした。シェバはバルサム油を多く所有する国だったのでしょう。このようにソロモンは油においても富む者とされました。これは神がソロモンを喜んでおられたからです。

【10:11~12】
『オフィルから金を積んで来たヒラムの船団も、非常に多くのびゃくだんの木材と宝石とをオフィルから運んで来た。王はこのびゃくだんの木材で、主の宮と王宮の柱を造り、歌うたいたちのために、立琴と十弦の琴を作った。今日まで、このようなびゃくたんの木材がはいって来たこともなく、だれもこのようなものを見たこともなかった。』
 先に見た船団は、金だけでなく木材や宝石もオフィルから持ち運んでいました。それは当然ながらソロモンの所有物とされたでしょう。オフィルは金だけでなく、木材や宝石も取れる場所でした。特に『びゃくだんの木材』は良い意味で常識を遥かに超えるほどの量が持ち運ばれました。これもやはりソロモンに対する神の御恵みです。こんなに多くの木材が与えられたのですから、神がどれほどソロモンを喜んでおられたかよく分かるというものです。

 この『びゃくだんの木材で』、ソロモンは『主の宮と王宮の柱を造り』ました。もう既にこの時には神殿と王宮が建てられていました。ですから、これはつまり神殿と王宮が増築されたということでしょう。そうでなければこの箇所では、まだ神殿と王宮が完成されていない時期のことを書いているのです。またソロモンはその木材で『歌うたいたちのために、立琴と十弦の琴を作』りました。ソロモンは歌を好んでいたようです。この『歌うたい』については、ソロモンの書いた伝道者の書でも言及されています。彼らのために作られたこれらの楽器は、どれも完成度の高い素晴らしいものだったことでしょう。

【10:13】
『ソロモン王は、その豊かさに相応したものをシェバの女王に与えたが、それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えた。彼女は、家来たちを連れて、自分の国へ戻って行った。』
 ソロモンは、女王にその望む物を全て与えました。これは女王がソロモンのもとに訪問したからであり、また女王から多くの贈り物を贈られたからでしょう。ソロモンがどのような物を女王に与えたか詳しくは分かりません。しかし、それが女王の『豊かさに相応したもの』だったことは分かります。つまり、非常に高価な物だったということです。ソロモンはこのように女王が望むまま与えることのできる財力を持っていました。神がソロモンを豊かに富ませて下さったからです。この時、恐らく女王の収支はマイナスになったかもしれません。何故なら、女王はソロモンに『百二十タラントの金と、非常にたくさんのバルサム油と宝石』(Ⅰ列王記10:10)を贈ったからです。ソロモンがこれ以上の額となる物を女王に与えたとは考えにくいと思われます。しかし、女王の収支など私たちにとっては別にどうでもいいことです。こうして女王は『家来たちを連れて、自分の国へ戻って行』きました。このような贈り物を贈ることが、エルサレム訪問の主目的ではありませんでした。女王の訪問における主目的は、親交および検証のためです。贈り物は交わりの手段また道具に過ぎません。女王がエルサレムに滞在していた期間は詳しく分かりません。長かったかもしれませんし短かった可能性もあります。また女王が聖書で書かれていること以外にエルサレムで何かしたのかどうかも詳しくは分かりません。

 このような訪問と贈り物は、支配者たちの間に関係を築き、良い親交を保たせるものです。そのような親交は支配者たちとその国にとって大きな益となります。何故なら、親交を持っている国が互いの利益を求めるのは自然なことだからです。しかも親交を持つ国と、どうしてむやみやたらに敵対することが出来るでしょうか。自国民のことを考えるならば、その国と敵対しないほうが益になるのは明らかです。ですから、国家の親交とは自国を守るための盾となります。よって、女王がソロモンのもとに行ったのは良かったことになります。もし女王が訪問しなければ、このような親交をソロモンと持つことは無かったはずです。しかもその場合、女王はソロモンの噂が本当かどうかずっと分からないままだったでしょう。ですから、女王のエルサレム訪問は一石二鳥だったことが分かります。

【10:14】
『一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。』
 ここで『一年間』と言われているのは、シェバの女王がエルサレムに訪れる時までの1年間を指しています。この『1年間』にソロモンは合計で『六百六十六タラント』の金を得ましたが、その内訳は、船団がオフィルから持ち運んだ420タラントおよびヒラムとシェバの女王からそれぞれ贈られた120タラントです。こられ3つを合計すると660タラントになります。しかし、ここでは『六百六十六タラント』と言われています。この箇所では『金の目方で』と書かれていますから、この箇所における重量は精確です。つまり、前に書かれていた金の重量はどれも概数だったことが分かります。聖書において概数が使われるのは何も珍しくありません。この通り、ソロモンは1年間でぴったし666タラントの金を得ました。1タラントは34kgですから、これは22トン644kgとなります。金が1kgあたり100万円だとすれば、これは現在価格で226億4400万円となります。1年間でこれだけの収益です。これは凄まじいことです。現代でも1年間にこれだけ収益を得られる人はごく僅かしかいません。この「666」とは、極度の邪悪また非常な堕落を示す象徴数です。どうしてこの数字は忌まわしいことを示すのでしょうか。それは「6」が3つ並んでいる数字だからです。「6」は聖書で人間を意味します。3つが連続するのは聖書において強調を意味します。ですから、この数字は罪深い人間とその邪悪さ(6)が3つも横に並んでいるため、聖なる神から完全に逸脱した忌まわしい状態や行為があることを示すわけです。この数字を言葉に変換して示すならば、「邪悪・邪悪・邪悪」となるでしょう。この通り、「666」はただ何となく忌まわしい意味が付与されているわけではありません。これが邪悪な数字であるのはしっかりした理由があるのです。これが邪悪な意味を持つ数字であるのは今や一般の人々でさえ知っていることです。ですから、意図的にこの数字を使用・選択する者が見られるわけです。そのように人が好き勝手にこの数字を利用するぐらいであれば、そんなのは単なるお遊びに過ぎません。つまり、「悪ふざけ」です。重要であるのは何か単純でない事柄において、結果的に意図せずこの数字が現れる場合です。何故なら、その場合、神がその数字を現れるよう働きかけたからです。このような場合は無視できない重要性がそこにあります。この時に666タラントの金を得たソロモンの場合もそうでした。ソロモンが666タラントの金を得たのは、ソロモンが意図したことではありません。この時にソロモンが666タラントの金を得たのは、ソロモンがこれから極度に堕落することを示す前触れだったのです。ソロモンがこれからどうなるかは教会でよく知られている通りです。この時はまだ大丈夫だったものの、晩年のソロモンは忌まわしい偶像崇拝者となってしまいました。ソロモンが死ぬ前にこの邪悪な罪を捨てて悔い改めたのかどうか聖書では知らされていません。もしかしたらソロモンは死ぬ時まで偶像崇拝を捨てなかった可能性もあります。神はこれからソロモンがこういった邪悪さに陥ることを知っておられました。ですから、ソロモンがこれから悪くなるという預言として、神はソロモンが1年間に得る金の総量を666タラントとなるよう働きかけたのです。