【Ⅰ列王記12:5~16】(2024/02/04)


【12:5】
『すると、彼はこの人々に、「行って、もう三日したら私のところに戻って来なさい。」と言った。そこで、民は出て行った。』
 ヤロブアムの求めに対し、レハブアムは三日後に戻るよう命じることで応じます。これは早急に答えることで誤らないためだったのでしょう。急ぐと往々にして誤りがちだからです。ソロモンも『急ぎ足の者はつまづく。』と箴言で述べています。ヤロブアムがレハブアムに求めたのは、かなり大きな事柄でした。それは日常的な小さいことではありませんでした。大きな事柄であればあるほど、慎重になるべきなのは言うまでもありません。ですから、レハブアムが考えたりするため三日後に戻るよう求めたのは間違っていなかったでしょう。このように命じられたヤロブアムおよびヤロブアムと一緒にいた人々は、レハブアムの命令に従い、レハブアムの前から『出て行った』のです。こういった求めにすぐ返答が与えられないことを理解できないほどヤロブアムたちは愚かでありませんでした。ところで、レハブアムが求めた『三日』という期間は「3」です。レハブアムはイスラエル社会に生きるイスラエル人でしたから、律法に基づいて『もう三日したら』と言った可能性もあります。律法で「3」は強調や確認を意味しますから、つまりレハブアムは十分な期間を設定したというわけです。

【12:6】
『レハブアム王は、父ソロモンが生きている間ソロモンに仕えていた長老たちに相談して、「この民にどう答えたらよいと思うか。」と言った。』
 ここではレハブアムが『レハブアム王』と言われています。これまでの箇所では単に『レハブアム』とだけ書かれていました。つまり、この箇所からは、もうレハブアムが王になって後のことが語られているのです。これまでの箇所は、まだレハブアムが王になっていない時期のことでした。

 ソロモンには、自分に仕える長老たちがいました。その長老たちは恐らく70人だったと思われます。キリスト時代のイスラエルにおける長老たちも70人でした。レハブアムは、ヤロブアムが求めた件についてどうすればいいか、この長老たちに『相談』します。それは何か良い助言が得られるかもしれないと思ったからなのでしょう。このように王が長老たちに相談するのはごく普通のことです。この長老たちはソロモンに仕えていたほどですから、有益な存在だった可能性が高いでしょう。もし無益だったとすれば、レハブアムは相談をしていなかったかもしれないのです。レハブアムが長老たちの全員に相談したかどうかは分かりません。もしかしたら全員に相談したかもしれませんし、幾らかの長老にだけ話した可能性もあります。

 このように相談するのは知恵です。レハブアムは正しいことをしました。何故なら、ソロモンが箴言の箇所でこう言っているからです。『相談して計画を整え、すぐれた指揮のもとに戦いを交えよ。』(箴言20章18節)『密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する。』(箴言15章22節)このように言ったソロモン自身も、相談をしていたことは間違いないはずです。ですから、私たちは相談の有益さを知るべきです。聖書が相談の良さと必要性を教えているのです。であれば、どうして私たちに相談の有益さを否定することなどできるでしょうか。私たちは聖書よりも賢いのでしょうか。まさか、そんなことはないでしょう。

【12:7】
『彼らは王に答えて言った。「きょう、あなたが、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答え、彼らに親切なことばをかけてやってくださるなら、彼らはいつまでもあなたのしもべとなるでしょう。」』
 レハブアムの相談に対し、長老たちは曖昧さの全くない助言をしました。ソロモンに仕えていただけのことはあると言えるでしょう。長老たちは、レハブアムが民に対し謙遜となるよう勧めました。その謙遜の内容として長老たちは3つのことを示しました。まず一つ目は、レハブアムが『民のしもべとなって彼らに仕え』ることです。これはレハブアムが僕のように民に対し良くするということです。二つ目は、レハブアムが民『に答え』ることです。これは民の正当な求めに快く応じるということです。三つ目は、レハブアムが民『に親切なことばをかけてや』ることです。高慢であればこのようにすることはできません。つまり、長老たちはレハブアムがソロモンの態度を継承せず、ソロモンの課した重労働を解くよう勧めたわけです。ソロモンは民に対して高慢になっていました。長老たちはもしレハブアムが助言の通りにすれば、民は『いつまでもあなたのしもべとなる』と言います。何故なら、王が民に対して遜るならば民は良く思わざるを得ないからです。民が王を良く思うならば喜んで王に仕えたくもなります。良く思っている人物に対して仕えるのはあまり苦とならないからです。ですから、レハブアムが民に対し遜って良くするのは民がレハブアムに良くすることでもあります。このような長老たちの助言は実に良く正しい内容でした。このような助言をする長老たちはかなり使える存在だったのです。

 長老たちのこの助言は、いつの時代でも、どこの国でも、支配者たちに有益な内容です。何故なら、いつの時代であれどこの国であれ、民に良くする支配者は民から良く思われるからです。しかし、支配者が民に良くしないと民から嫌われてしまいます。この助言には普遍的な内容があります。更に、これは国の支配者だけでなく、あらゆる上に立つ者にも有益な助言です。先輩や上司といった者でも、この助言は有益です。多くの場合、先輩や上司であれ上の者が下の者に良くするというのは多かれ少なかれ効果を生じさせるでしょう。ですから、この助言は記憶するに値します。

【12:8】
『しかし、彼はこの長老たちの与えた助言を退け、』
 誠に有益な長老たちの助言を、レハブアムは愚かなことに『退け』ました。これはレハブアムが高慢だったからです。高慢は遜ることを嫌います。高慢は人間の堕落であり、神の御恵みによらずして謙遜はありません。ですから、レハブアムは神に恵まれていなかったことが分かります。彼は神に喜ばれていなかったのです。もし喜ばれていたとすればレハブアムは長老たちの助言を受け入れ謙遜になっていたことでしょう。

【12:8~9】
『彼とともに育ち、彼に仕えている若者たちに相談して、彼らに言った。「この民に何と返答したらよいと思うか。彼らは私に『あなたの父上が私たちに負わせたくびきを軽くしてください。』と言って来たのだが。」』
 長老たちの有益な助言を退けたレハブアムは、若者たちに相談します。これも何か良い助言が得られるのではないかと思ったからなのでしょう。もしレハブアムが長老たちの助言を受け入れていれば、それで充分とし、若者たちには相談していなかったかもしれません。しかし、長老たちの助言より更に良い助言を求め若者たちにも相談していた可能性があります。レハブアムが何人の『若者たちに相談し』たかは分かりません。若者『たち』とありますから、2人また3人以上だったことならば分かります。また、若者たちに相談したのが、3日間の「いつ」だったかも分かりません。しかし、これは別に分からなくても何も問題ありません。

【12:10~11】
『彼とともに育った若者たちは答えて言った。「『あなたの父上は私たちのくびきを重くした。だから、あなたは、それを私たちの肩から、軽くしてください。』と言ってあなたに申し出たこの民に、こう答えたらいいでしょう。あなたは彼らにこう言ってやりなさい。『私の小指は父の腰よりも太い。私の父はおまえたちに重いくびきを負わせたが、私はおまえたちのくびきをもっと重くしよう。私の父はおまえたちをむちで懲らしめたが、私はさそりでおまえたちを懲らしめよう。』と。」』
 相談を受けた若者たちも、先の長老たちと同様、曖昧さのない回答をしました。しかし、その内容は長老たちの良い助言と真逆の内容でした。この箇所から、若者たちはヤロブアムたちの求めをよく理解したことが分かります。この若者たちは国の事情に決して疎くありませんでした。若者たちは、レハブアムがソロモンの課した重荷を更に重くするよう勧めます。若者たちがどれぐらい重荷をきつくするかは指示していません。ただとにかくレハブアムが重荷を酷くするようにと言っているだけです。これでは民の求めに真逆の対応をすることになります。若者たちのこういった助言は最悪の内容でした。この若者たちは、レハブアムの小指が『父の腰よりも太い』と言うよう勧めます。『小指』とは、つまりレハブアムが民に命じることです。イスラエルに限らず古代の王たちは、人差し指でなく小指を伸ばして色々と命令していたからです。人間の身体で『腰』よりも太い部位は他にありません。つまり、レハブアムが自分の小指を『父の腰よりも太い』と言うのは、レハブアムがソロモンの課した度合いよりも重い重労働を民に対して命じるという意味です。このように若者たちが言ったのは象徴的な言い方です。これは少し考えないと分かりにくいかもしれません。また若者たちは、レハブアムが『さそり』で民を懲らしめるべきだとも勧めました。ソロモンの場合は民を『むちで懲らしめ』ました。『むち』よりも『さそり』のほうが危険であり恐ろしいものです。つまり、若者たちはレハブアムがソロモンよりも厳しい懲らしめを民に与えるべきだと助言したのです。この『さそり』という言葉は単なる厳しさの表現だったかもしれませんが、本当に『さそり』を使うべきだと言った可能性もあります。このような若者たちの助言は、先に見た長老たちの助言と異なり、高慢なレハブアムに適応した内容でした。何故なら、この助言であればレハブアムは民に遜らくていいからです。

【12:12】
『ヤロブアムと、すべての民は、三日目にレハブアムのところに来た。王が、「三日目に私のところに戻って来なさい。」と言って命じたからである。』
 ヤロブアムたちは、レハブアムが命じた通り、『三日目にレハブアムのところに来』ました。彼らがどのような思いで来たかは分かりません。求めが聞き入れられると期待していたでしょうか、それともほとんど諦めかけていたでしょうか。この時に彼らが集まった場所はどこであるか分かりません。ヤロブアムたちは、三日目に戻るようにという命令には反発しませんでした。何故なら、三日目になればレハブアムが求めを受け入れてくれる可能性もあったからです。

 ところで、ここでの『三日目』は、キリストの復活と関わりがあるでしょうか。ヨナが三日目に魚の中から出たことであれば、それはキリストの復活を示していました。これと同じ意味がここでの『三日目』にもあるのでしょうか。ここでの『三日目』にヨナの場合と同じ意味はありません。これは単に民が三日目に戻ったというだけのことです。ヨナが魚から三日目に出たのは喜ばしいことでしたから、キリストの復活を象徴していました。しかし、ヤロブアムたちは三日目になると残念な思いを持たねばなりません。ですから、ここでの『三日目』がキリストの復活を示していると考えることは全くできません。「三日目」と聖書にあるからというので、何でもキリストの復活に関連付けるわけにはいきません。そのようにすれば大変な理解を持つことにもなりかねません。私たちはよく弁えねばならないのです。

【12:13~15】
『王は荒々しく民に答え、長老たちが彼に与えた助言を退け、若者たちの助言どおり、彼らに答えてこう言った。「私の父はおまえたちのくびきを重くしたが、私はおまえたちのくびきをもっと重くしよう。父はおまえたちをむちで懲らしめたが、私はさそりでおまえたちを懲らしめよう。」王は民の願いを聞き入れなかった。』
 ヤロブアムたちは求めに対しどういった答えが得られるか、この時まで知りませんでした。レハブアムはその求めに対し、長老たちでなく若者たちの助言通りに答えました。この箇所で先に書かれていた『私の小指は父の腰よりも太い。』(Ⅰ列王記12章10節)という言葉をレハブアムが言ったとは書かれていません。しかし、それは単に書かれていないだけであって実際は言っていたと思われます。レハブアムはこの時、『荒々しく民に答え』ました。これは長老たちが『この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答え、彼らに親切なことばをかけてやってくださるなら』(Ⅰ列王記12章7節)と勧めた言葉と真逆のことです。このような荒々しさはレハブアムの高ぶりを反映しています。このようにレハブアムは民の求めを全く拒絶しました。これがダビデであれば民の求め通りにしていたことでしょう。

【12:15】
『それは、主がかつてシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムに告げられた約束を実現するために、主がそうしむけられたからである。』
 偶然というものは存在しません。全ては神の定められた通りに起こるからです。この時の出来事もそうでした。レハブアムが長老たちでなく若者たちの助言通りにしたのは、『主がかつてシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムに告げられた約束を実現するため』でした。神はかつてヤロブアムに対し、ソロモンの子から取り上げた部族をヤロブアムに与えると約束しておられました。この約束は絶対に実現されねばなりませんでした。ですから、神はレハブアムが若者たちの助言通りにするよう働きかけられたのです。そうすれば後の箇所から分かる通り、神の約束が実現することになるからです。もしソロモンが酷い堕落に陥っていなければ、ソロモンの子から部族が取り上げられることもなかったでしょう。そうであってもソロモンが過酷な重労働を民に負わせていた可能性はあります。しかし、その場合であっても、神の呪いはイスラエルに注がれないわけですから、レハブアムは若者たちでなく長老たちの助言を受け入れていたことでしょう。

 この通り、神の御計画が実現されるため全ては起こります。神はそのため王の心をさえ自由自在に動かされます。ソロモンがこう言った通りです。『王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。』(箴言21章1節)カルヴァンも言った通り、この御言葉は王だけでなくあらゆる人について言えるのです。それゆえ、何かが起こればそこには神の働きかけがあります。神はそれを実現させるため、全てに働きかけ調整されるのです。

【12:16】
『全イスラエルは、王が自分たちに耳を貸さないのを見て取った。』
 イスラエル人たちは、レハブアムの言葉と態度に揺るがなさを感じ取りました。何故なら、レハブアムは『荒々しく民に答え』(Ⅰ列王記12:13)たからです。このため、民はレハブアムがもう過酷な状況を決して変えてくれないと悟りました。つまり、レハブアムの言葉と態度は決定的でした。何事であれ、こういった決定的なことがしばしばあるものです。

『民は王に答えて言った。「ダビデには、われわれへのどんな割り当て地があろう。エッサイの子には、ゆずりの地がない。イスラエルよ。あなたの天幕に帰れ。ダビデよ。今、あなたの家を見よ。」こうして、イスラエルは自分たちの天幕へ帰って行った。』
 レハブアムが求めを受け入れなかったので、民はレハブアムに対し反発の宣言をしました。レハブアムが民に反発したので、民もレハブアムに反発したのです。これは人間が神の似姿として創造されたからです。神は人間の態度にそのまま応じられる御方です。それゆえ、神の似姿である人間も、誰かの態度にそのまま応じる傾向を持っているのです。ここで民が『ダビデには、われわれへのどんな割り当て地があろう。』と言っているのは、つまりもうダビデ王家が全イスラエルの相続地を支配できなくなるということです。『ダビデ』とはダビデ王家およびダビデに連なるレハブアム王のことです。『われわれ』とはユダを除くイスラエルの10部族です。民はもうイスラエル10部族の『割り当て地』にダビデ王朝が関われなくなると言います。これは10部族がこれからダビデ王朝とそのレハブアムの支配から独立し離れることを意味しています。『エッサイの子には、ゆずりの地がない。』と言われているのも、同様の意味です。『エッサイの子』とはダビデ家とダビデに連なるレハブアムのことであり、『ゆずりの地』とは10部族における相続地のことです。これまでダビデ王朝は10部族の相続地をも支配できていました。しかし、もうダビデ王朝は10部族の相続地から遠ざけられてしまいます。『イスラエルよ。あなたの天幕に帰れ。』と言われているのは、もうこの件が完全に決着したからです。もう話が全て決着したのであれば、どうして民がレハブアムのもとに留まっているべきでしょうか。民はさっさと帰るのが望ましいのです。ここで『イスラエル』と言われているのは、ユダ族を含まないイスラエルの部族を意味します。『ダビデよ。今、あなたの家を見よ。』と言われているのは、ダビデ王家がこれから受ける惨めさを注目させようとしています。『家』とはダビデに連なるユダの王家です。その王家はこれから支配力をほとんど失って悲惨になります。民はこのように言うことで、ダビデの子孫であるレハブアムに思い知らせようとしています。こうしてイスラエルの10部族は、それぞれ『自分たちの天幕へ帰って行』きました。この時の状況を考えるならば、彼らが帰宅する際は恐らく穏やかさを持てていなかったかもしれません。しかし、もうこれまで課されていた過酷な重荷から解かれるというので多かれ少なかれ喜んでいた可能性もあります。レハブアムのほうはと言えば、間違いなく平穏さが無かったでしょう。もし民からこのように反発されても平穏でいられたとすれば、レハブアムは狂人か愚か者だったことになります。