【Ⅰ列王記12:31~13:5】(2024/02/18)


【12:31】
『レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。』
 子牛の宮を建てたヤロブアムは、そこで子牛に仕える『祭司を任命』することもしました。これは二重の罪でした。まず一つは、偶像に仕える祭司を任命した罪です。聖書は祭司が神にこそ仕えるべきであり、偶像に仕えるべきだとは命じていません。また『レビの子孫でない一般の民の中から』任命するというのも罪でした。聖書は祭司職をレビ族だけに定めているからです。ヤロブアムがたとえレビ族の中から祭司を任命していても、これは罪となりました。何故なら、レビ族の祭司を偶像に仕えさせるというのは相応しくないことだからです。ヤロブアムの任命した祭司がどの部族の者だったかはここで詳しく書かれていません。任命した判断基準についても詳しく書かれていません。ただ分かるのはレビ以外の部族の者が任命されたということです。

【12:32】
『そのうえ、ヤロブアムはユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五日と定め、ベテルで自分が造った子牛にいけにえをささげた。』
 ユダでは、これまでと同様、『第八の月の十五日』に祭りが行なわれていました。それは律法が規定している聖なる祭りです。この祭りについては前に詳しく見た通りです。ヤロブアムは宮と祭司のことで罪を犯しただけでなく、偶像のためこの祭りに倣うということまでしました。ユダがこの祭りを行なうのは全く御心でした。しかし、ヤロブアムが子牛のために祭りを行なうのは間違っていました。こうしてヤロブアムは『自分が造った子牛にいけにえをささげ』ました。これも十戒の第二番目の戒めに違反しています。ですから、それは紛れもない罪でした。律法が命じているのは、神に対して生贄を捧げることです。偶像に対して生贄を捧げよと神は律法で命じておられません。このように北王国イスラエルは、最初の王からしてもう既に異常な状態でした。最初からこうであればこれ以降は一体どうなることでしょうか。実際、これからのイスラエルには罪深い王たちばかりが現われたのです。少し話はずれますが、王であれ何であれ最初が肝心である場合は珍しくありません。何故なら、最初の事柄により全体的な方向性と意味が規定されるからです。古代ギリシャと古代ローマにおける「最初は全体の半分である」という諺は真実なのです。ロケットにしても最初からずれて発射されたならば、もう正常な軌道に戻る見込みは持てなくなるのです。ですから、北王国イスラエルが最初からこのような王に支配されていたのは最悪のことでした。

『また、彼が任命した高き所の祭司たちをベテルに常住させた。』
 ヤロブアムは、勝手に任命した祭司たちを、ベテルの勝手な宮に『常住させ』ました。この祭司たちは、子牛に仕える本格的な祭司だったのでしょう。副業とかいい加減な態度では無かったはずです。この祭司は『たち』と書かれていますから、ヤロブアムが任命した祭司は1人だけでなく複数いました。このように『常住させた』のもまた神の御前で罪となりました。神は偶像のために祭司を宮で常住させよなどと言っておられないからです。この箇所では『ベテル』のほうについてだけ言われています。もう一つの子牛が安置されていた『ダン』のほうはここで全く触れられていません。

【12:33】
『彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。』
 こうしてヤロブアムは、勝手に祭りを定め、勝手に偶像崇拝をしました。祭りを定めたのも生贄を捧げたのも、どちらも罪です。ヤロブアムは神の御心と真逆のことを行ないました。ここでは一つの事柄がヘブル的な二重表現により、2回の言い方で言われていると考えられます。すなわち一回目は『彼は自分で勝手に考え出した月である第八の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、』という部分であり、二回目は『イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。』という部分です。この2つはどちらも同じ事柄を違う言い方で言っていると思われます。そうでなければ、この2つは別々のことを言っているのです。すなわち、前者のほうは『第八の月の十五日』に行なわれた祭りのことであり、後者のほうは前者で言われていない祭りのことです。この2つの解釈はどちらもあり得るものです。

【13:1】
『ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。』
 ヤロブアムが酷いことをしたので、『主の命令によって』『神の人が』ヤロブアムのもとへ遣わされました。神の人が遣わされたのは、ヤロブアムに宣告を与えるためでした。この『神の人』という存在については、もう既に見た通りです。ここで書かれている『神の人』の名前は示されていません。『神の人』は、神の御命令を素直に守り行ないます。神がこの神の人に対し、ヤロブアムのもとへ行くよう命じられました。ですから、この神の人はその命令通りヤロブアムのもとへ行ったのです。その時にヤロブアムは『ベテル』にいましたが、神の人は『ユダから』このベテルに行きました。この人が『ユダ』からベテルに行ったのであれば、この人はユダ族だったのかもしれません。この人が『ユダ』のどの地域からベテルに向かったのかまでは分かりません。

 神の人がベテルに行った際、『ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立ってい』ました。つまり、ヤロブアムは偶像崇拝の行為をしようとしていました。律法では神に対し香をたくよう命じられており、偶像に対してそうせよとは命じられていません。ですから、ヤロブアムが香をたこうとしていたのは明らかな罪でした。この時におけるヤロブアムの礼拝行為が、これで何回目だったのかは分かりません。前節でヤロブアムは『香をたいた』と書かれていましたから、この時が香をたく最初の時だったということはないでしょう。もしかしたら、ヤロブアムはもう何百回と偶像に対して香をたいていた可能性もあります。

【13:2】
『すると、この人は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。「祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。』
 神の人は祭壇の前に行くと、この祭壇に対して神からの宣告を告げました。その宣告はヤロブアムに対する預言でした。ここで神の人が『祭壇よ。祭壇よ。』と祭壇について繰り返して言っているのは、つまり祭壇を強調しているのです。神の人は祭壇に強く語りかけているのです。私たちも、何か強い思いがあれば、ある事柄や名前を繰り返して口にするものです。例えば若い人が何かに衝撃を受けたとすれば、「やばい。これはやばい。」などと<やばい>という言葉を繰り返すのです。『主はこう仰せられる。』とは預言における定型句です。神からの預言が語られる際は、それが本当に神からの預言であることを示すため、『主はこう仰せられる。』などと言わねばなりませんでした。この定型句を偽って使うことはできませんでした。何故なら神の言葉でない言葉を神の言葉であると告げるのは、とんでもないことだからです。

『『見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」』
 神が神の人により預言を語っておられます。神は、ダビデ王家に『ひとりの男の子が』生まれると言われます。これはヨシヤ王のことです。ヨシヤは南王国ユダにおける第16代目の王です。彼は紀元前7世紀の王であり、エレミヤやナホムやハバククやゼパニヤと同時代の人でした。このヨシヤから数えて4代目になると、ユダはバビロンに捕囚されることとなります。ヨシヤの時代にもう北王国イスラエルは存在していません。この『ヨシヤ』は、不敬虔なユダヤ諸王の中にあって、例外的に敬虔な王として歩みました。ヤロブアムの時代に、まだこのヨシヤは生まれてさえいませんでした。彼が生まれるのは、ヤロブアムの頃から約300年後となります。しかし、神はこのヨシヤについてここで預言しておられます。神は全てを御計画されたのであり、このため起こることの全てを予め知っておられるからです。神は、このヨシヤがヤロブアムの上に勝手な祭司たちを生贄として捧げると預言しておられます。何故なら、ヨシヤ王は非常に敬虔な王だったからです。これは実際にやがて実現することとなります。このことについて、ここでは『見よ。』と言われています。ヤロブアムの時代で、この預言が実現しているのを見ることは誰にもできません。しかし、それでもここでは『見よ。』と言われています。これはつまりヤロブアムがやがて受ける悲惨に精神的な目を強く向けよ、という意味です。

 ヤロブアムにやがてこういった出来事が起こるのは、ヤロブアムの罪に対する刑罰でした。ヤロブアムは悪に陥ったので罰を受けねばなりません。しかも、自分が罪を犯した場所で自分も罰されることになります。これは罪と罪に対する刑罰が対応しているべきだからです。もし刑罰が罪と対応していなければ、その刑罰が何に対する刑罰なのか分かりにくくなります。こうであれば適切さがありません。神は不適切なことはなさらない御方です。このようにしてヤロブアムはやがて悲惨となります。しかし、ソロモンの場合と同じで、ヤロブアムはこの刑罰を直接的に感じることがありません。その刑罰が下されるのは、ヤロブアムが死んでから約300年後のことだからです。しかし、そうであっても、このような刑罰の宣告はヤロブアムに多かれ少なかれ精神的なダメージを与えたはずです。何故なら、王とは自分が名声のうちに死後も保たれることを望むものだからです。もし死後は名声など別にどうでもいいと思う王がいたとすれば、そのような王は小物なのです。そういった小物の王は、死んでからだけでなく生きている時さえも自分の名声をそこまで重視しないでしょう。

【13:3】
『その日、彼は次のように言って一つのしるしを与えた。「これが、主の与えられたしるしである。』
 神がヤロブアムに対して告げられた預言は、ヤロブアムの治世から約300年後に起こることです。ですから、先にも述べた通り、ヤロブアムは自分に対する呪いを直接的に感じることが決してありません。しかし、神はこのようなヤロブアムに『しるしを与え』られました。ヤロブアムは呪いを直に感じなくても、こういった『しるし』が示されたならば、預言が真実であるとせずにはいられないからです。もしこういった『しるし』が与えられなければ、愚かなヤロブアムのことですから、神とその預言を軽んじていたかもしれません。ここで『しるし』が『一つ』だと言われているのは、それが1種類だけだという意味です。もしその『しるし』が2種類かそれ以上であれば、聖書はそのようにして書いていたはずです。

【13:3~5】
『見よ。祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして、「彼を捕えよ。」と言った。すると、彼に向けて伸ばした手はしなび、戻すことができなくなった。神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。』
 預言における印は、『祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る』というものでした。それは『その日』、『神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり』、実現しました。神の人が預言を語ってから、それは「すぐ」に起きたのです。そのように印が示されない場合、ヤロブアムはこの預言を侮っていたかもしれないからです。ヤロブアムの偶像崇拝は、神の御心に適いませんでした。ですから、ヤロブアムの造った『祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る』のです。こうして祭壇は惨めとなります。そこにあった『灰はこぼれ出る』ことになりました。ここで『見よ』と言われているのは、物理的にも精神的にも注目せよという意味です。この箇所で言われている印は重要だからです。

 神の人は預言をしている際、叫んでいました。これは預言が非常に重大だったからです。キリストも重大な事柄を言われる際は、しばしば叫ばれました。このため、神の人が語っている預言をヤロブアムは気付きました。というより、気付かせるため、神の人は預言を叫びつつ語っていたのです。神はこの預言を通して、ヤロブアムに思い知らせようとしておられたからです。しかし、ヤロブアムはこのような神の人を捕えようとします。ヤロブアムからすれば、この神の人は単なる邪魔者に過ぎなかったのかもしれません。このようにして伸ばされたヤロブアムの手は、『しなび、戻すことができなくな』りました。これは忌まわしい祭壇に向けられていた手で、神の人を捕えるようヤロブアムが命じたからです。こういった罪深い手であれば、このようになったとしても文句は全く言えないでしょう。