【Ⅰ列王記13:6~25】(2024/02/25)


【13:6】
『そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いをして、私のために祈ってください。そうすれば私の手はもとに戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手はもとに戻り、前と同じようになった。』
 ヤロブアムは自分の手が異常になりましたので、神の働きかけがあったことを悟ります。これで神の働きかけに気付かなければ、ヤロブアムの鈍感さは宇宙一だったでしょう。こうしてヤロブアムは、神の人が神に癒しを願うよう求めます。ヤロブアムは自分自身で神に祈りを捧げませんでした。これは偶像崇拝の罪により、ヤロブアムの心が神から遠く離れていたからです。もしこんな罪を犯していなければ、そもそも子牛を作ることもなかったでしょうから、このように罰せられもしなかったことでしょう。こうして神の人は、王の求め通り、ヤロブアムの手が元通りになるよう願い求めました。すると、『王の手はもとに戻り、前と同じようにな』りました。神は御自分の僕が捧げる願いであれば聞き入れて下さるからです。もしヤロブアムが自分自身で神に祈っても、その祈りは聞き入れられていなかったはずです。ヤロブアムはそのことを分かっていたからこそ、こうして神の人が祈ってくれるように求めたわけです。

【13:7】
『王は神の人に言った。「私といっしょに家に来て、食事をして元気をつけてください。あなたに贈り物をしたい。」』
 手が元通りになったヤロブアムは、神の人をもてなそうとします。このような態度は、少し前に『彼を捕えよ。』などと言っていた態度とは大違いです。ヤロブアムは、印と自分の手に起きた異常事態を通して、神と神の人を大いに恐れたのでしょう。つまり、ヤロブアムは恐れのためここで諂っているわけです。しかし、神の人をもてなそうとしたその態度に偽りは恐らく無かったはずです。ヤロブアムは豪華な『食事』で神の人を元気付けようとした可能性が高いのです。また『贈り物』も十分な分量を贈るつもりだったでしょう。何故なら、また手または他の部位が悲惨になったとすれば大変だからです。ここで『家』と言われているのは、ヤロブアムが住む宮殿のことでしょう。

【13:8~10】
『すると、神の人は王に言った。「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。主の命令によって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。」こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。』
 神の人がヤロブアムのもてなしを受けたかったかどうかは分かりません。是非とも受けたかったかもしれませんし、心が動かされなかった可能性もあります。いずれにせよ、神の人がどのように思ったかはあまり重要でありません。彼がどう思ったにせよ、『主の命令』が彼にはありました。ですから、神の人がヤロブアムの求めに応じることはありませんでした。これは正しいことでした。もし神の人がヤロブアムのもてなしを受けていれば罪となっていました。ここで神の人はたとえヤロブアムが『家の半分を』与えてくれるとしても、決して応じようとしませんでした。何故なら、神の命令は絶対だからです。王であろうとも神の御言葉に優先されることがあってはならないのです。また神の人には『もと来た道を通って帰ってはならない。』という命令も与えられていました。これもやはり神の人は素直に守り行ないました。もし神の人が行きと同じ道を通って帰るならば、それは罪でした。神は神の人に具体的な帰り道を指示しておられませんでした。ですから、神の人は『もと来た道を通って帰』るのでなければ、帰りの道で好きな道を通る自由が与えられていたはずです。しかし、神はどうして『もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられたのでしょうか。聖書はその理由を何も示していません。これは恐らく、神の人が本当に神の命令を守るかどうかテストするためだったのかもしれません。この通り、神の命令とは素直に守り行なわれるべきものです。そうしないので人は悲惨な状態に陥ることとなるのです。というのも、神は御自分の命令に背く者をお怒りになるからです。

【13:11】
『ひとりの年寄りの預言者がベテルに住んでいた。その息子たちが来て、その日、ベテルで神の人がしたことを残らず彼に話した。また、この人が王に告げたことばも父に話した。』
 『ベテルに住んでいた』『ひとりの年寄りの預言者』が、どのような名前だったかは分かりません。この預言者の詳細についても、それはよく分かりません。ここから書かれる出来事では、この預言者というより、この預言者に関わる出来事の内容が注目されるべきです。この時代にはこういった預言者が多く存在していました。この預言者は『ベテルに住んでいた』のですから、恐らくユダ族ではなかった可能性が高いでしょう。

 この預言者には『息子たち』がいました。この息子たちが何人いたかまでは分かりません。彼らは『ベテルで神の人がしたこと』および神の人が『王に告げたことば』を、直接的にであれ間接的にであれ知りました。そのことを彼らは預言者である父に報告します。息子たちがこのように報告した意図は何だったか分かりません。

【13:12~14】
『すると父は、「その人はどの道を行ったか。」と彼らに尋ねた。息子たちはユダから来た神の人の帰って行った道を知っていた。父は息子たちに、「ろばに鞍を置いてくれ。」と言った。彼らがろばに鞍を置くと、父はろばに乗り、神の人のあとを追って行った。』
 神の人について報告を受けた預言者は、神の人が帰った道を知ろうとします。それは神の人に会って働きかけるためでした。『息子たちはユダから来た神の人の帰って行った道を知っていた』ので、それを父に知らせます。すると預言者は『ろばに乗り、神の人のあとを追って行』きました。『ろば』は当時における一般的な乗り物です。

【13:14】
『その人が樫の木の下にすわっているのを見つけると、「あなたがユダからおいでになった神の人ですか。」と尋ねた。その人は、「私です。」と答えた。』
 預言者が神の人のいる場所に行くと、この預言者は神の人に話しかけます。まだこの預言者と神の人は一度も会っていませんでした。神は恐らく預言者に神の人の風貌がどのようなのか教えておられなかったはずです。息子たちが神の人の風貌を預言者に知らせていた可能性はかなり高いでしょう。このように初対面でしたから、まず預言者は神の人が本当に神の人か確かめることから話を始めます。神の人が『樫の木の下にすわってい』たのは、神の人における揺るがない堅固さを示しているのでしょう。何故なら、『樫の木』とは揺るがない堅固さを持つものだからです。

【13:15~17】
『彼はその人に、「私といっしょに家に来て、パンを食べてください。」と言った。するとその人は、「私はあなたといっしょに引き返し、あなたといっしょに行くことはできません。この所では、あなたといっしょにパンも食べず、水も飲みません。というのは、私は主の命令によって、『そこではパンを食べてはならない。水も飲んではならない。もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。」』
 神の人に会った預言者は、自分と飲み食いするよう神の人に求めます。預言者は息子たちの報告を通して、神の人が決して飲み食いすべきでないことをよく知っていたはずです。それにもかかわらず、預言者はこのようなことを求めました。これは神の人が本当に忠実な人であるかどうか確かめるためでした。もし神の人が神への忠実さを保つのであれば、決して預言者の求めには応じないでしょう。しかし、背くような神の人であれば預言者に応じるはずなのです。預言者は神の人を憎んでいるからというので、このように試したのではないはずです。ただ確かめるためにこそこうしたはずです。預言者が試した相手はこの通り人間でした。つまり、その相手は神ではありませんでした。これが神であれば預言者は罰されていたでしょう。何故なら、律法では『あなたの神である主を試みてはならない。』と命じられているからです。神の人はこの時も、前の場合と同様、飲み食いすることを拒否しました。彼が拒否したのは正しいことでした。神の人は何度求められても全て断るべきだったのです。もし断らなければ神に対して罪を犯すこととなるからです。この預言者からの求めの場合も、神の人が応じたかったのかどうかは分かりません。個人的には応じたい気持ちがあったかもしれませんし、面倒なので嫌だった可能性もあります。

【13:18】
『彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」こうしてその人をだました。』
 求めを断られた預言者でしたが、預言者はまだまだ良しとはしませんでした。預言者は神の人が真に神に従う人なのかどうか更によく知ろうとします。そのため、この預言者は驚くべき事柄を言うことさえ厭いませんでした。預言者は神と御使いさえ、神の人を試すために利用したのです。すなわち、預言者は神が御使いを通して一緒に飲み食いするよう命じられた、などと神の人に話したのです。これは預言者の勝手な作り話だったはずです。何故なら、神がそれまでに言っておられた内容と真逆の事柄を神の人に告げられることは考えられないからです。それというのも、神とは真実で正しい御方なのであり、決して偽りを言われることのない存在だからです。預言者が自分でこのように言っただけだということです。そのようにしか考えられないのです。しかし、神はそのように預言者が偽ることを許されました。神がそうするのを許されたのは、神も神の人が本当に忠実さを貫き通すか知ろうとしておられたからなのでしょう。この箇所では、このような預言者に対して『だました』と言われています。これは預言者を批判しているのだと思われます。何故なら、神が言われたのでもないことをあたかも神が言われたかのように言って偽るのは、どう考えても批判に値することだからです。

【13:19】
『そこで、その人は彼といっしょに帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。』
 こうして神の人は、預言者の言葉に騙されてしまいました。それは預言者が神からの命令を告げたと思ったからです。しかし、預言者の言ったことは偽りでした。それが偽りであったにしても、とにかくここにおいて神の人の不忠実さがまざまざと現われ出ることになったのは確かでした。神の人も、確かなところ、預言者の言ったことが偽りであると感じたはずです。何故なら、神がそれまでに言われた内容と異なる逆の事柄を言われるというのは考えられないからです。というのも、神とは真実で正しい御方だからです。神の人は恐らく分かっていながら神の命令に背き、預言者の偽りに従ったのですから、弁解の余地は全くありませんでした。この時に犯された罪は致命的な罪悪性を持っていました。というのも、それは弱さや愚かさからでない全く意図的な反逆の行為だったからです。この時に神の人が飲み食いした飲食の内容は別にどうでもいいことです。ここで重要なことは、飲食の内容というより、神の人が神に対して背いたことです。

【13:20~22】
『彼らが食卓についていたとき、その人を連れ戻した預言者に、主のことばがあったので、彼はユダから来た神の人に叫んで言った。「主はこう仰せられる。『あなたは主のことばにそむき、あなたの神、主が命じられた命令を守らず、主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならない、と命じられた場所に引き返して、そこであなたはパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは、あなたの先祖の墓には、はいらない。』」』
 こうして神の人は背くような人だったことがまざまざと示されました。預言者が神の人を試した方法は問題だった可能性もかなりあります。何故なら、神とその御名を偽りのために利用するのはどう考えても律法違反だからです。預言者は明らかにそういうことをしています。しかし、預言者のやり方が問題だったにしても、結果的に神の人が背く人だったということは明らかになったのです。神も預言者もそのことをしっかり確認しました。神はこのような反逆の振る舞いを問題視されました。ですから、神は預言者を通して、この神の人を厳しく断罪されました。神はここで神の人が背きの罪を犯したとはっきり非難しておられます。この非難に対し神の人は何も弁明することができませんでした。これはちょうど警察に現行犯逮捕されるようなものだったからです。このような罪を犯した神の人に、神は罰として神の人が決して先祖と同じ墓に納められないと宣告されました。これは神の人にとって辛いことだったはずです。辛いからこそ罰の効果があるのだからです。しかも、神がこのように宣告されたのは、神の人がこれからすぐに裁き殺されることを意味していました。神はここで殺されることについてはっきり語っておられませんが、これは何らかの理由があったためであると思われます。このような宣告を、預言者は神の人に『叫んで』告げ知らせました。預言者が叫んだのは、この時に起きた出来事が極めて重大だったからでしょう。

【13:23】
『彼はパンを食べ、水を飲んで後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。』
 神の人は預言者を通して神から宣告されても、飲み食いを続けていたのでしょう。その宣告を聞いた神の人が、どのように思い、またどのように反応したかは、分かりません。非常に動揺したのかもしれませんし、平静を装っていた可能性もあります。いずれにせよ、神の人がこの時に口にしたのは、パンと水というより、「罪」と言ったほうが正しいと思われます。こうして預言者は神の人『のために、ろばに鞍を置』きました。預言者は神の人が帰るため準備をしたのです。しかし、このような準備は死への送迎でした。何故なら、これからすぐ神の人は裁き殺されることになるからです。

【13:24】
『その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。』
 神の人が預言者の家から出ると、神の人は獅子により殺されました。彼が家を出てから裁き殺されるまで、どれぐらいの時間が経ったかは分かりません。それは当日中だったはずであり、恐らく家を出てからあまり経っていなかったと考えられます。神は神の人が死ぬため獅子を使われました。神の人が偶然により獅子から殺されたのではありません。神が獅子を使われたのは、御自分の御怒りを示すためだったはずです。獅子が怒るかのように神は神の人に対して怒っておられたのです。神は人間により神の人を殺させることもおできになりました。しかし、御自分の御怒りを示すためには、獅子を用いるのが御心だったのです。

 この通り、神は神の人でさえ背くならば容赦されません。これは神に属する個人だけでなく民族全体すなわち古代ユダヤ人でも同じでした。古代ユダヤ人という神の民も、神に対する背きを止めませんでしたから、やはり罰されて悲惨な状態に陥ることとなったのです。これは神が正義そのものであられる御方だからです。神と親しければ親しいほど、神から容赦されない傾向も強まると言えるかもしれません。何故なら、神と親しいほど責任も大きくなるからです。責任が大きければ大きいほど背いた際は、容赦されない度合いも他の人々に比べて強まるわけです。責任が大きいほど悲惨も大きくなるというのは、一般社会でも全く同様のことが言えます。

『死体は道に投げ出され、ろばはそのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。』
 裁き殺された神の人の『死体は道に投げ出され』ていました。これは神への反逆がどういう悲惨を齎すか、まざまざと示すためだったはずです。この死体を見るならば、人々は神に反逆するならば死ぬということが分かるのです。つまり、死体が放置されたのは見せしめのためでした。神の人を殺した獅子は『死体のそばに立っていた』のですが、つまり死体を食べていませんでした。どうして獅子は死体を食べなかったのでしょうか。これは死体が『神の人』だったからでしょう。つまり、神の人はただ背きの罪が死により罰されただけであり、神の人自体は神から見放されていなかったということです。もし彼が見放されていたとすれば、神は獅子にその死体を食べさせておられたかもしれません。この獅子は『立っていた』のであり、座っていたのではありません。死体と獅子の近くには神の人が乗っていた『ろば』もいました。この驢馬はそこから逃げることをせず、また獅子に裂き殺されることもされませんでした(Ⅰ列王記13:28)。驢馬が獅子に裂き殺されなかったのは、神の御怒りがただ神の人だけに向けられていたことを示しているのでしょう。この驢馬も座っておらず『立ってい』ました。

【13:25】
『そこを、人々が通りがかり、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っている獅子を見た。』
 神の人は見せしめにされていましたから、人々から死体が隠されることはありませんでした。人々が見なければ見せしめの効果は出なくなるからです。こうして人々は死体となった神の人を見ました。人々は『その死体のそばに立っている獅子を』も見ました。ここでは書かれていませんが、人々はそこにいた『ろば』も見たはずです。この時に死体を見た人々がどれぐらいいたかは分かりません。恐らく、かなりの人が見たと思われます。またこの死体についてはユダおよびイスラエルの両国で大きなニュースとなった可能性が非常に高いでしょう。何故なら、これは非常に重大な出来事だからです。これが重大な出来事だったので、聖書もそのことを詳しく記録しているわけです。

『彼らはあの年寄りの預言者の住んでいる町に行って、このことを話した。』
 死体となった神の人を見た人々は、そのことを預言者に報告しました。人々がこういった事柄を預言者に報告する法的な義務は恐らく無かったはずです。律法も、何かあれば預言者に報告せねばならないなどと命じてはいません。しかし、この出来事は霊的に重要な意味を持つことでした。ですから、たとえ法的な義務はなくても、預言者に報告しておくのが望ましいことでした。何故なら、預言者とは霊の人であって神に用いられる強力な器だからです。このような人こそ霊的に重要な事柄をよく知っておくべきであることは言うまでもありません。