【Ⅰ列王記13:26~14:3】(2024/03/03)


【13:26】
『その人を途中から連れ帰ったあの預言者は、それを聞いて言った。「それは、主のことばにそむいた神の人だ。主が彼に告げたことばどおりに、主が彼を獅子に渡し、獅子が彼を裂いて殺したのだ。」』
 人々から報告を受けた預言者は、何が起きたのか全て悟ります。何故なら、預言者はこの出来事に強く関わる当事者だったからです。ここで預言者が言っている通り、神の人は背いたために獅子から殺されたのでした。神が獅子に御自身の神罰を代行させたわけです。もし神の人が背いていなければ、このように獅子から殺されることもなかったでしょう。神の人が獅子による神罰を避けることは決してできませんでした。神の定めを変えることはできない話だからです。こうして神の人は神の人であるものの永遠の見せしめにされました。ですから、私たちはこの神の人に関する出来事をよく心に留めておくべきでしょう。

【13:27~28】
『そして息子たちに、「ろばに鞍を置いてくれ。」と言ったので、彼らは鞍を置いた。彼は出かけて行って、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っているろばと獅子とを見つけた。獅子はその死体を食べず、ろばを裂き殺してもいなかった。』
 報告を受けた預言者は、前と同じように息子たちに準備をさせ、神の人のもとに向かいました。以前は生きていた神の人のもとへ向かいましたが、今度は死体のもとに向かうのでした。神の人は南のほうへ帰っていたでしょうから、預言者も南のほうに進んだはずです。預言者が死体のもとに行くまでどれぐらいかかったかは分かりません。預言者が死体のもとに着くと、自分が言った通りのことをしっかり確認しました(Ⅰ列王記13:26)。預言者がそこに行った際、死体はそのままの状態であり、獅子は死体と驢馬を食べておらず、驢馬もそこに立ったままでいました。これは正に神が働いておられた状況でした。このような状況を神が生じさせられたのは、この通り預言者に起きた出来事を確認させる目的もあったのでしょう。

【13:29~30】
『そこで、預言者は、神の人の死体を取り上げ、それをろばに乗せてこの年寄りの預言者の町に持ち帰り、いたみ悲しんで、葬った。彼がなきがらを自分の墓に納めると、』
 神の人の死体のもとに着いた預言者は、『神の人の死体を取り上げ』ます。預言者は死体を取り上げることができました。つまり、獅子か驢馬またはその両方が取り上げるのを邪魔することはありませんでした。これは神が取り上げることを許されたからです。もし許しておられなければ、取り上げることはできていなかったでしょう。その場合、神は獅子か驢馬に預言者を邪魔させていたかもしれません。預言者は死体に触れたのですから、汚れをその身に持ちました。『どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。』と民数記19:11で書かれている通りです。神の人の死体であれ触れるならば汚れるということは、預言者もよく分かっていたでしょう。しかし、預言者はこうするしかありませんでした。何故なら、神の人の死体が放置されたままにしておくということを、どうして預言者ができたでしょうか。また神の人の死体を取り上げるのに預言者ほど相応しい人が他にいたでしょうか。預言者ほどこの役目に相応しい人がいなかったのは確かです。この死体を預言者は『ろばに乗せて』自宅へと持ち帰りました。この際も、獅子か驢馬が預言者を邪魔することはありませんでした。神が持ち帰ることを良しとされたからです。預言者がこのように死体を持ち帰ったのは、その死体を葬るためでした。預言者は神の人の『なきがらを自分の墓に納め』ました。預言者がこうしたのは、神が神の人に対して『あなたのなきがらは、あなたの先祖の墓には、はいらない。』(Ⅰ列王記13:22)と宣告しておられたからです。死体を墓に納める時、預言者は『いたみ悲しんで』いました。何故なら、神の人が神の人であるにもかかわらず背いて裁き殺されたというのは、実に嘆くべきことだからです。これは小カトーが窃盗罪を犯して死刑になることより嘆かわしい出来事です。普通の人ではない『神の人』がこのような死に方をしたのです。ですから、預言者の悲しみは非常に大きかったはずです。

【13:30】
『みなはその人のために、「ああ、わが兄弟。」と言って、いたみ悲しんだ。』
 神の人が死んだ出来事は大きなニュースとなったでしょうから、その死体を納める際は、多くの人々がやって来たことでしょう。正式な葬儀が行われたかどうかは分かりません。正式に葬儀が行なわれたかもしれませんし、葬儀はせずただ死体を葬るだけだったかもしれません。いずれにせよ、死体が納められる時は多くの人々に見られたはずです。それを見た人々が実際にどれぐらいいたかまでは分かりません。神の人の死体が墓に納められる際、人々は『いたみ悲し』みました。何故なら、人々は神の人の死因についてよく知っていたからです。先に人々が報告した際、預言者は神の人の死因について話していました(Ⅰ列王記13:26)。この話がユダヤ人の間に知れ渡ったのは間違いありません。ですから、神の人の死因について知っていた人々は、具体的な悲しみの理由を持っていたことになります。神の人が神に背くというのは、あってはならないことです。そのような背きに対する罰として神の人が死んだというのは、実に重大な出来事です。ですから、こういったことを知っていた人々は嘆かずにいられませんでした。この人々は神の人に対して『ああ、わが兄弟。』と言っています。『兄弟』とは神の民である我が同胞という意味です。このように人々は、神の人が神に背いたにもかかわらず、神の人を神から見捨てられた者として見做していません。聖書も神の人をあくまでも神の人として取り扱い続けています。聖書は、背いて裁き殺された神の人を『神の人』(Ⅰ列王記13:29)と言い続けています。先に述べた通り、この神の人は単に罰されただけであり、神から見捨てられたというわけではなかったのでしょう。

【13:31】
『彼はその人を葬って後、息子たちに言った。「私が死んだら、あの神の人を葬った墓に私を葬り、あの人の骨のそばに私の骨を納めてくれ。』
 死体の葬りが完了すると、預言者は自分の死体を神の人のもとに葬ってくれと息子たちに命じます。現代と同様、この時代でも墓は複数人により共用されることが多くあったのでしょう。預言者が息子たちにこう命じたのは、これを行なうのに息子たちほど相応しい者たちはいなかったからです。ここで預言者は、神の人の死体のもとに自分が葬られることを良しとしました。これは預言者が神の人を神から見捨てられた者であると見做していなかったからでしょう。もしそのように見做していたとすれば、預言者は決して自分の死体を神の人と一纏めにしようとしなかったはずです。

【13:32】
『あの人が主の命令によって、ベテルにある祭壇と、サマリヤの町々にあるすべての高き所の宮とに向かって呼ばわったことばは、必ず成就するからだ。」』
 ここで預言者が言っている通り、神の人は『主の命令によって』預言をしました。自分自身から預言をしたのではありません。このことから、神の人が正真正銘の神の人であったことが分かります。神の命令によらず自分自身から預言する偽り者もいたのです。この神の人は『ベテルにある祭壇』に対して預言しました。これについては既に見た通りです。『祭壇』とは非生命体であり聞く耳を持っていません。しかし、そのような祭壇に対して預言されたとしても、それは神による預言でした。『サマリヤ』という言葉は聖書で多く書かれていますが、この言葉が書かれるのはここが最初です。これは北王国イスラエルの首都であり、有名な場所でした。そこに住む人々はサマリヤ人と呼ばれます。キリスト時代のサマリヤ人は、自分たちにこそ律法が神から与えられたと考えており、このためユダヤ人とは交わりを持ちませんでした。この『サマリヤの町々』には偶像崇拝を行なう『高き所の宮』がありました。神の人はそこに対しても預言をしました。その高き所が実際にどのぐらいあったかは分かりません。しかし、神の人はその『すべて』に対して預言をしました。預言者は、その預言が『必ず成就する』とここで言っています。何故なら、それは神が神の人を通して語られた預言だからです。神は全てを定めておられ、全てを知っておられますから、神が語られる預言は必ず成就するのです。実際、神が神の人を通して語られた預言はやがて成就することになります。このように神の人の預言が必ず成就するからというので、預言者は神の人のもとに葬られることを望んだのです。この預言者も、神の人と同様、神の預言を告げ知らせる人物の一人でした。ですから、預言者は神の預言がどれだけ重要であるかよく理解していました。預言者がこのように神の人と共に葬られたく願ったのは、預言を大いに重視していたことの現われです。このように願ったのは非常に預言者らしいと言えましょう。

【13:33】
『このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。』
 ヤロブアムは神の人が告げ知らせた預言を聞き、その預言の証拠となる印も見たのですから、自分の振る舞いが悪いことをよく分かっていたはずです。ヤロブアムが偶像崇拝のことで何も良心の咎めを感じていなかったというのは、ありそうもありません。もしそういうことであれば、ヤロブアムは全く腐り切った者だったことになります。しかし、『このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることも』しませんでした。ヤロブアムは悔い改めて偶像崇拝を止めることもできました。その場合、ヤロブアムはキリストにおいて神から憐れみを受けていました。しかし、ヤロブアムはそのようにしませんでした。ですから、聖書はそのことをここで非難しています。ヤロブアムは心を痛めて悔い改めるべきでした。このようにヤロブアムは悔い改めなかったので、自分の欲するままに歩み続けました。これは正にアダムのようです。アダムも神の命令に聞き従わず、自分の思うままにしたのです。こういうわけでヤロブアムは『引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命』していました。律法が祭司に定めるレビ人でない部族から祭司を任命するというのは、たとえ一人であっても罪深いことです。それなのにヤロブアムは繰り返しレビ人以外の部族から祭司を任命し続けていました。ヤロブアムはその際、『だれでも志願する者を任職して』いました。聖書はこのようにせよと全く命じていません。このようなヤロブアムのおふざけはあまりにも限度を越えた罪悪でした。こうしてヤロブアムの罪悪は聖書で永遠に記録されることとなりました。ヤロブアムはこのような記録により恥辱を受け続けるのです。

【13:34】
『このことによって、ヤロブアムの家が罪を犯すことになり、ついには、地の面から根絶やしにされるようになった。』
 ヤロブアムがこのような偶像崇拝の罪を犯したので、『ヤロブアムの家が罪を犯すことになり』ました。ヤロブアムの罪はヤロブアム個人が犯した罪でした。しかし、その罪はヤロブアム王家の罪へと結び付いたのです。それゆえ、これからヤロブアムに連なるイスラエル王たちは偶像崇拝の罪を犯し続けることとなります。ヤロブアムの犯した罪は、ヤロブアムの家に展開したわけです。このようにヤロブアム家が偶像崇拝に陥ったので、『ついには、地の面から根絶やしにされるようにな』りました。つまり、ヤロブアムの王家は断ち切られ、王の流れが続かなくなります。紀元前720年に北王国イスラエルは陥落し、アッシリヤへの捕囚が起こりました。その際にヤロブアムの家系が『根絶やしにされ』たのです。これはヤロブアムから約200年後のことでした。このようにしてヤロブアムが犯した罪に対する神の呪いと御怒りは全うされたのです。

 この通り、ヤロブアムの偶像崇拝により北王国イスラエルは裁かれ陥落することとなりました。南王国ユダも、やはり偶像崇拝の罪により神罰を受けることとなりました。ユダヤ人が断ち滅ぼしたカナン人も、偶像崇拝を犯していたので呪いによりユダヤ人から断ち滅ぼされることとなったのです。日本も偶像崇拝の罪を犯していたので、連合国軍を通して悲惨な神罰が下ることとなりました。このことから偶像崇拝をするのは致命的に邪悪な罪であることが分かります。偶像崇拝の罪を犯すことは事実上、神罰を求めることです。ですから、私たちは偶像崇拝の邪悪さと恐ろしさをよく覚えておかねばなりません。それは私たちもヤロブアムやその他の者たちのように偶像崇拝の罪を犯して根絶やしにされないためです。

【14:1】
『このころ、ヤロブアムの子アビヤが病気になったので、』
 神の人が死んで葬られた頃、『ヤロブアムの子アビヤが病気にな』りました。ヤロブアムには妻と子がいました。しかし、ヤロブアムに何人の子がいたか、この『アビヤ』が何番目の子なのかまでは分かりません。また、アビヤがなった病気も何だったかは分かりません。後の箇所から分かるのは、それが死に至る病だったということです。つまり、それは致命的な病気でした。アビヤが病気になったのは、ヤロブアムが偶像崇拝を行なったことに対する神からの罰でしょう。何故なら、律法では罪を犯すならば子が呪われると言われているからです。『あなたの産む子も呪われる。』と申命記で書かれている通りです。ヤロブアムのような支配者や権威者の場合、罪を犯した者自身でなく、その下に属する者を神は打たれる場合がしばしばあります。これは罪を犯したその者に思い知らせ、悔い改めを促すためです。というのも、自分自身が打たれるより自分の従属者が打たれるほうが、より精神的な痛みは大きくなるものだからです。

【14:2~3】
『ヤロブアムは妻に言った。「さあ、変装して、ヤロブアムの妻だと悟られないようにしてシロへ行ってくれ。そこには、私がこの民の王となることを私に告げた預言者アヒヤがいる。パン十個と菓子数個、それに、蜜のびんを持って彼のところへ行ってくれ。彼は子どもがどうなるか教えてくれるだろう。」』
 親であれば自分の子がどうなるか心配になるものです。特にこのアビヤのような状態に陥った子であれば尚のことそうです。この時にヤロブアムは『預言者アヒヤ』のことを考えます。アヒヤはかつてヤロブアムがイスラエルの王になることを告げました。この預言者アヒヤであれば、『子どもがどうなるか教えてくれる』と思ったのです。ヤロブアムがこう思ったのは正しいことでした。何故なら、預言者とは神からの御言葉を受ける存在だからです。神はその御言葉により未来のことを語られるのです。しかし、ヤロブアムは自分自身でアヒヤに会うことはできませんでした。偶像崇拝をしているヤロブアムにアヒヤが対応してくれるはずもないからです。罪を悔い改めない限り、アヒヤはヤロブアムに子どものことを教えてくれないでしょう。堕落していたヤロブアムもこのぐらいのことは分かったのです。ですから、ヤロブアムは妻を『変装』させてアヒヤに会わせようとします。これはヤロブアムともヤロブアムの妻とも関わりのない女性だと思われたならば、アヒヤが対応してくれると思ったからでしょう。もし妻だと預言者に知られたら、どうなったのでしょうか。その場合、教えてもらう前に追い払われていたかもしれません。ヤロブアムは妻が預言者のもとに行く際、『パン十個と菓子数個、それに、蜜のびん』を持って行かせました。これは預言者に対する贈り物です。ここでは3つの食べ物が挙げられていますから、これは贈り物として十分だったことを意味しています。このような贈り物を渡せば、預言者から子どものことをしっかり教えてもらえるとヤロブアムは思ったのでしょう。この時に預言者アヒヤは『シロ』にいました。『シロ』とはベテルから20~30kmほど北に離れた場所であり、そこも北王国イスラエルの領地でした。