【Ⅰ列王記14:4~12】(2024/03/10)


【14:4】
『ヤロブアムの妻は言われたとおりにして、シロへ出かけ、アヒヤの家に行ったが、アヒヤは年をとって目がこわばり、見ることができなかった。』
 ヤロブアムの妻はヤロブアムに言われた通り、変装して自分が誰なのか分からないようにし、シロにある『アヒヤの家』へ行きました。バレないよう変装することは何も問題なかったことでしょう。この妻がベテルから出かけたのであれば北に向かったのです。この時の『アヒヤは年をとって目がこわばり、見ることができな』い状態でした。これはヤロブアムとその妻にとって都合が良いことでした。何故なら、アヒヤの目が見えないため、ヤロブアムの妻が自分を胡麻化せる可能性は格段に高まるからです。この時のアヒヤが実際に何歳だったかまでは分かりません。この時代にはまだ眼鏡もコンタクトレンズもありませんでしたから、アヒヤは何かを見ることができない状態だったのです。今であれば眼鏡かコンタクトレンズにより何とか見ることができていたかもしれません。

【14:5】
『しかし、主はアヒヤに言われた。「今、ヤロブアムの妻が子どものことで、あなたに尋ねるために来ている。その子が病気だからだ。あなたはこれこれのことを彼女に告げなければならない。はいって来るときには、彼女は、ほかの女のようなふりをしている。」』
 アヒヤは目が見えなくなっていたのですから、ヤロブアムとその妻にとっては騙し易かったのですが、騙すことはできませんでした。神がアヒヤにヤロブアムの妻のことで語られたからです。神はヤロブアムの妻についてアヒヤに説明されました。ですから、アヒヤはもうヤロブアムの妻が来るより前から、ヤロブアムの妻が来ることを知っていました。こうしてヤロブアムの思惑は主により打ち砕かれたのです。神はアヒヤがヤロブアムの妻に『これこれのことを』告げるよう命じておられます。『これこれのこと』は続く箇所で書かれている通りのことです。

【14:6~7】
『アヒヤは戸口にはいって来る彼女の足音を聞いて言った。「おはいりなさい。ヤロブアムの奥さん。なぜ、ほかの女のようなふりをしているのですか。私はあなたにきびしいことを伝えなければなりません。帰って行ってヤロブアムにこう言いなさい。イスラエルの神、主は、こう仰せられます。』
 人間が死ぬ時にまで残り易い器官は「耳」であるといいます。アヒヤもやはり目は見えませんでしたが、耳のほうはまだ健在でした。ですから、アヒヤは『戸口にはいって来る彼女の足音を聞』くことができました。その足音を聞いたアヒヤは、まだヤロブアムの妻が戸口に入る前から『おはいりなさい。』と語りかけています。そのうえ、アヒヤはヤロブアムの妻が『ほかの女のようなふりをしている』ことも知っていました。まだ戸口に入る前からこのように言われた彼女は、非常に驚いたと思われます。アヒヤは尋ねて来た彼女に『きびしいことを伝えなければなりません。』と言います。ヤロブアムの妻はその『きびしいことを』ヤロブアムに知らせねばなりません。ヤロブアムとその妻にとっては不幸なことが知らされるのです。ここでアヒヤは『イスラエルの神、主』と言っています。これは神こそがイスラエルにおける唯一の神であるということです。つまり、これはヤロブアムの造った偽りの神々がイスラエルの神であることを否定しているのです。

【14:7~8】
『『わたしは民の中からあなたを高くあげ、わたしの民イスラエルを治める君主とし、ダビデの家から王国を引き裂いてあなたに与えた。』
 神は、ヤロブアムを『民の中から』『高くあげ』られました。それまでヤロブアムは民衆の一人に過ぎませんでした。しかし、神がヤロブアムだけを選んで上げられたので、ヤロブアムだけは『高くあげ』られました。これはダビデが民衆の中から高められたのと同じです。サウルもそのようにして高くされました。神がヤロブアムを選ばれたのは、ただ御心のままにヤロブアムを選ばれたのです。神はヤロブアムが王になってから堕落することを予め知っておられました。それでも神はヤロブアムを王として選ばれたのです。これはヤロブアムが王であることにより、神の御計画が成し遂げられるためなのです。これはユダが裏切ることを知っておられながら、主がユダを使徒の一人として選ばれたのとよく似ています。ヤロブアムはこのように『高くあげ』られましたから、『民イスラエルを治める君主と』されました。つまり、ヤロブアムにはイスラエルに対する支配力と権威が神から与えられました。ヤロブアムが自分自身から王になったのではありません。神がヤロブアムを王として立てられたのです。もしそうでなければ、ヤロブアムは王になれていなかったことでしょう。このヤロブアムが治めるのはイスラエルであり、ユダ部族はヤロブアムの支配下に置かれませんでした。神はユダ部族をヤロブアムに与えられなかったからです。神がイスラエルをヤロブアムに与えられたのは、『ダビデの家から王国を引き裂いて』でした。ヤロブアムに与えられたイスラエルの部族は、もともと『ダビデの家』が支配する部族でした。しかし、既にもう見た通り、ソロモンの罪により、それらの部族は『ダビデの家』から取り上げられることとなったのです。その取り上げられた部族がヤロブアムに渡されたのです。ですから、もしソロモンが堕落に陥っていなければ、『ダビデの家』はずっとイスラエルをもユダと同じく支配しており、ヤロブアムにイスラエルが与えられることはなかったはずです。

【14:8】
『あなたは、わたしのしもべダビデのようではなかった。ダビデは、わたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの見る目にかなったことだけを行なった。』
 ダビデは非常に敬虔な恵まれた聖徒でした。このダビデは神の『命令を守り』歩みました。『命令』とは聖なる律法のことです。しかも、ダビデは『心を尽くして』神に『従い』ました。ダビデの態度に偽りや冷めたところはありませんでした。つまり、ダビデは純粋かつ熱心に従いました。このようなダビデは神の『見る目にかなったことだけを行なった』のです。これはダビデの歩み全体についてです。バテ・シェバ事件における罪などは考慮されていません。ここではこのようなダビデの敬虔について3つが言われています。すなわち、『わたしの命令を守り』が一つ目であり、『心を尽くしてわたしに従い』が二つ目であり、『ただ、わたしの見る目にかなったことだけを行なった』が三つ目です。これは本当にダビデが敬虔に歩んだことを示しています。しかし、ヤロブアムはこの『ダビデのようではなかった』のです。ヤロブアムは神の命令を守らず、心を尽くして神に従うこともせず、神の見る目に適ったこともしませんでした。このようなヤロブアムの不敬虔がここでは非難されているのです。

【14:9】
『ところが、あなたはこれまでのだれよりも悪いことをし、行って、自分のためにほかの神々と、鋳物の像を造り、わたしの怒りを引き起こし、わたしをあなたのうしろに捨て去った。』
 不敬虔なヤロブアムは敬虔なダビデと全く逆の歩みをしました。しかも、ヤロブアムは『これまでのだれよりも悪いことをし』ました。つまり、ヤロブアムはこれまでのユダヤ王が誰も行なわなかったような悪を行ないました。ヤロブアムは、サウルやソロモンよりも『悪いことをし』たのです。サウルやソロモンでさえ、かなり悪いことをしたのですが。このヤロブアムが『行って』と言われているのは、自発的に悪を行なったということです。つまり、ヤロブアムは嫌々ながらでなく、自ら積極的に進んで悪を選び取ったのです。このようなヤロブアムは『自分のためにほかの神々』を造りましたが、これは十戒の第一番目に違反しています。ヤロブアムが『ほかの神々』をどれぐらい造ったかは分かりません。ヤロブアムは『鋳物の像を』造ることもしましたが、これは十戒の第二番目に対する違反です。こちらのほうも、実際にどれぐらいの像が造られたかまでは分かりません。このような律法違反により、ヤロブアムは神の『怒りを引き起こし』ました。というのも、『ほかの神々と、鋳物の像』に関する罪は神が最も忌み嫌われる罪の一つだからです。だからこそ、それらの罪は十戒の第一番目と二番目で禁じられているのです。その戒めの順番がその重要性をよく示しています。このようにしてヤロブアムは神を自分の『うしろに捨て去った』のでした。ヤロブアムは意図的に神を捨て去って蔑ろにしました。仕方なしにというわけではなかったのです。ですから、ヤロブアムが神を捨てたのは致命的な罪でした。

【14:10】
『だから、見よ、わたしはヤロブアムの家にわざわいをもたらす。ヤロブアムに属する小わっぱから奴隷や自由の者に至るまで、イスラエルにおいて断ち滅ぼし、糞を残らず焼き去るように、ヤロブアムの家のあとを除き去る。』
 神は、これから『ヤロブアムの家にわざわいをもたらす』ことにされました。災いはヤロブアム王家の全体に注がれます。何故なら、ヤロブアムの罪により、ヤロブアムだけでなく、ヤロブアムに続く王家も罪を犯すこととなったからです。もしヤロブアムが偶像崇拝の罪を犯していなければ、こういった『わざわい』もヤロブアム王家に注がれることはなかったでしょう。その災いを『見よ』とここで言われているのは、表現を強調しているのです。この『見よ』とは、「言われたことをしっかり心に留めよ」という意味に捉えてもいいでしょう。神はその災いにおいて、『ヤロブアムに属する小わっぱから奴隷や自由の者に至るまで、イスラエルにおいて断ち滅ぼし』てしまわれます。『小わっぱ』とはヤロブアム王家における小さい子どもたちのことでしょう。『奴隷』は説明不要の存在ですが、その時代のヤロブアム王家に奴隷がどれぐらいいたかは分かりません。『自由の者』とは市民権を持つ一般的な者たちでしょう。つまり、ここではヤロブアム王家に属する全ての者が示されています。彼らが『イスラエルにおいて』断たれるのです。すなわち、それは「南王国ユダ」においてではありません。南王国ユダのほうは、北王国イスラエルが断ち滅ぼされてからも、しばらく存続しました。神はこの災いを注がれる際、『糞を残らず焼き去るように、ヤロブアムの家のあとを除き去る』ようにされます。つまり、ヤロブアム王家は全く消し去られるということです。神はここで糞の除去に、ヤロブアム王家に対する神罰をなぞらえておられます。このことから、神がどれだけヤロブアム王家を嫌われたかよく分かるというものです。私たちは汚い糞がどこかにあれば、それを見るのも嫌でしょうし、吐き気さえ感じることでしょう。ヤロブアム王家に対する神の態度も、このようだったのです。この災いは紀元前720年において実現しました。それは神がアッシリヤを用いられてのことでした。そうしてヤロブアム王家に対する神の御怒りは全うされたのです。

 この通り、偶像崇拝の罪に対しては恐るべき神罰が注がれることとなります。偶像崇拝の罪が小さな罪だと思ってはなりません。それは最大級に邪悪な罪なのです。それが最大級に邪悪だからこそ、偶像崇拝の罪には大きな神罰が下されるわけです。もしそれが小さな罪であれば、ここまで大きな神罰は注がれていなかったはずです。日本も今に至るまで偶像崇拝の罪を犯し続けていますが、日本人はそれをそもそも罪だとさえ感じていません。日本が第二次大戦で悲惨な敗北を喫したのは、間違いなくこの偶像崇拝が原因です。すなわち、日本の偶像崇拝に対し神が神罰を注がれたのです。それなのに日本は今でも全く飽きず偶像崇拝の罪を犯し続けています。もしこのまま日本が偶像崇拝の罪を止めて悔い改めなければ、今度は中国かロシアから侵攻されて悲惨な状態になる可能性も十分あるでしょう。

【14:11】
『ヤロブアムに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。』』
 ヤロブアムの王家が呪われて消し去られる際、『ヤロブアムに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい』ます。これは町に犬が残されていたからです。神はヤロブアムの王家を神罰における直接的な対象としており、犬は罰せられるべき直接の対象ではありません。またヤロブアムの王家で『野で死ぬ者は空の鳥がこれを食ら』います。これもやはり鳥がヤロブアムの王家と共に罰せられるのではないからです。このように死体が犬や鳥に食われるというのは、実に惨めなことです。墓にさえしっかり納めてもらえないのです。しかし、「死体だったらどう取り扱われても別にいいじゃないか。」などと言う人も少しぐらいは存在するでしょう。このように言う人は、自分の死体はどうなっても構わないと思いますが、人間らしさを少し失っているのです。それは「どうせ糞になるのだから食物はどれも一緒だ。」などと言う人に似て、少しいい加減であると言わねばなりません。このようにヤロブアムに属する者の死体が悲惨となるのは、神から呪われた証拠です。もし呪いであるというのでなければ、どうして死体が蔑ろにされたりするでしょうか。

『主がこう仰せられたのです。』
 この通り、預言者アヒヤを通してⅠ列王記14:7~11の箇所で『主がこう仰せられたので』した。人間の言葉であれば偽りや間違いがしばしばです。ダビデが『すべての人は偽り者だ。』と言った通りです。しかし、アヒヤを通して語られたのは神の御言葉でした。ですから、それは必ず成就するのです。『神は決して偽りを言われない。』と聖書で言われている通りです。実際、ここでの御言葉は全て成就されました。もし言われたことを成就されないのであれば、神は何かをすると言われなかったことでしょう。ヒゼキヤ王の場合など例外的なケースを除けば、確かにそうなのです。

【14:12】
『さあ、家へ帰りなさい。あなたの足が町にはいるとき、あの子は死にます。』
 子どもがどうなるか尋ねて来たヤロブアムの妻に対し、アヒヤはもう語るべき事柄を語ったので、『さあ、家へ帰りなさい。』とヤロブアムの妻に命じます。もうヤロブアムの妻がアヒヤのもとに留まる意味はないからです。せっかくアヒヤのもとに行ったのに、このような結果となったヤロブアムの妻でした。この時の彼女は「そんな!」などと思って驚き悲しんだでしょうか、それとも「やっぱり・・・」などと思って悲しみを更に深めたのでしょうか。彼女がどのように思ったかは分かりませんけども、いずれにせよ彼女が最悪だと感じたことは間違いありません。ここでアヒヤが言っている通り、ヤロブアムの妻が足を町に入らせたならば、子どもは死んでしまいます。アヒヤは神から教えられて、子どもがこのようになることを知っていました。ですから、神はアヒヤがここで言った言葉を地に落とされませんでした。実際、本当に『あなたの足が町にはいるとき、あの子は死』んでしまいます。こうして彼女が家に帰る歩みは最悪となりました。