【Ⅰ列王記14:13~18】(2024/03/17)


【14:13】
『イスラエルのすべてがその子のためにいたみ悲しんで葬りましょう。ヤロブアムの家の者で、墓に葬られるのは、彼だけでしょう。ヤロブアムの家で、彼は、イスラエルの神、主の御心にかなっていたからです。』
 ヤロブアムの子が死ぬならば、『イスラエルのすべてがその子のためにいたみ悲し』むとアヒヤは言います。何故なら、その子は王の子という重要な存在だからです。一般人における普通の子だというのではありません。イスラエルの国全体が注目する特別的な子なのです。それゆえ、その子が死んだならば国中は悲しみで満ちるわけです。また、その子はヤロブアムの家で『主の御心にかなってい』ました。その子はヤロブアムのように偶像崇拝の罪を犯していなかったのです。その子は偶像崇拝の罪を犯さなかっただけでなく、全体的に敬虔な歩みをしていたことでしょう。でなければ『主の御心にかなっていた』とは言われなかったはずです。つまり、その子だけはヤロブアム家において例外的な存在でした。このため、『ヤロブアムの家の者で、墓に葬られるのは、彼だけ』となります。彼が『主の御心にかなっていた』ので、神もその子に良くして下さるわけです。しかし、ヤロブアムの家の者でこの子以外は、墓に葬られることがありません。何故なら、その子以外は『主の御心にかなってい』ないからです。この通り、死んで葬られることにおいて、しばしばその人に対する神の御恵みもしくは呪いが示されるものなのです。この子のように御心に適っている人であれば、往々にしてしっかり葬られることとなります。しかし、御心に適っていない呪われた人であれば、往々にして呪われた葬られ方をするか葬られることさえなかったりするものです。

【14:14】
『主はご自分のためにイスラエルの上にひとりの王を起こされます。』
 ヤロブアムが犯した罪のため、またヤロブアムが自分の家に犯させた罪のため、神はヤロブアムの家に大きな神罰を下されます。偶像崇拝という重く酷い罪に対しては、大きな神罰が相応しいからです。このため、『主はご自分のためにイスラエルの上にひとりの王を起こされます』。『ひとりの王』とはアッシリヤ王のことです。その王が起こされた時、北王国イスラエルの王はホセアでした。このアッシリヤ王は『イスラエルの上に』起こされます。つまり、アッシリヤ王の下にイスラエルは屈従させられます。【アッシリヤ王>イスラエル】という強さの構図がそこにはあります。このアッシリヤ王は神が『ご自分のために』起こされます。神は北王国イスラエルへ神罰を下すためにこそ、このアッシリヤ王を起こされるのです。ですから、このアッシリヤ王は神の神罰における道具また代行者でした。神はもし御自分のためにというのでなければ、アッシリヤ王をイスラエルの上に起こされていなかったはずです。その場合であれば、そもそも北王国イスラエルは神罰の対象となる偶像崇拝の罪悪に陥っていなかったことでしょう。

『彼は、その日、そしてただちに、ヤロブアムの家を断ち滅ぼします。』
 『彼』すなわちホセア時代のアッシリヤ王は、『ヤロブアムの家を断ち滅ぼします』。このアッシリヤ王により、ヤロブアムの家に属する全ての者が殺されます。何故なら、罪深いヤロブアムの家は神の御前で断ち滅ぼされねばならなかったからです。もし少しでも殺されない者がいれば、ヤロブアムの家が断ち滅ぼされなくなることにもなります。何故なら、殺されずに生き残った者が、ヤロブアムに連なる子孫を生むことが可能だからです。アッシリヤ王がヤロブアムの家を断ち滅ぼすのは『その日』です。『その日』とは、そのアッシリヤ王が王であり王の職務を行なっている期間のことです。しかも、このアッシリヤ王は『ただちに』、『ヤロブアムの家を断ち滅ぼします』。神がこの王にヤロブアムの家を『ただちに』断ち滅ぼすよう働きかけるのです。もうその頃のヤロブアム王家は、長らく罪に罪を重ねていたので、容赦なく断ち滅ぼされるという神罰を受けるべきゾーンに入っていたのです。

【14:15】
『主は、イスラエルを打って、水に揺らぐ葦のようにし、彼らの先祖たちに与えられたこの良い地からイスラエルを引き抜き、ユーフラテス川の向こうに散らされるでしょう。』
 神が『イスラエルを打』たれるのは、このアッシリヤ王を通してのことです。つまり、アッシリヤ王は神が下す死刑を行なう死刑の代行者です。神は、このように人間をしばしば神罰の代行者として動かされます。その代行者が自分は神に仕えていると思わない場合もあるでしょう。しかし、そのように思っても、その人間は神の御心を行なうよう動かされているのです。このアッシリヤ王を通して、北王国イスラエルは『水に揺らぐ葦のように』されます。つまり、水の上にある葦のように全く翻弄されるだけとなります。水はその上に浮かぶ葦を全く支配しています。葦が水を少しでも動かすことは全くできません。そのように、ここでは『水』がアッシリヤに、『葦』が北王国イスラエルに例えられています。こうしてイスラエルは『先祖たちに与えられたこの良い地から』神により『引き抜』かれます。つまり、イスラエル人はイスラエルの地にいられなくなります。ここで『引き抜き』と言われているのは、イスラエルを植物に例えています。神はイスラエル人を神に仕える民としてその地に植えられました。ですから、イスラエル人が神に背いた以上、もうそこに住み続けることはできないのです。そして、イスラエル人は『ユーフラテス川の向こうに散らされる』こととなります。つまり、離散の刑罰をイスラエル人は受けます。律法は、罪を犯すならばこのようになると宣告しています。このようにして散らされたイスラエルの部族が東に向かい、日本人の先祖になったというのが、日ユ同祖論です。確かに、イスラエルが散らされた時期と、日本が建国された時期は、時間的に全く矛盾がありません。しかし、ここでこの考えを取り扱うのは横道に逸れますから、このぐらいにしておくべきでしょう。このように北王国イスラエルが散らされてからも、南王国ユダのほうはしばらく存続し続けます。しかし、ユダのほうも、偶像崇拝に陥っていたので、やがてイスラエルと同じ刑罰を受けることになります。偶像崇拝という大きな罪を犯す者は、この通り大きな悲惨を受けることとなるのです。

『彼らがアシェラ像を造って主の怒りを引き起こしたからです。』
 ヤロブアムの家に神罰が注がれるのは、『彼らがアシェラ像を造って主の怒りを引き起こしたから』でした。これは十戒の第一番目と第二番目に対する違反であり、極めて重い罪でした。ですから、その罪ゆえイスラエルは神から神罰を受けねばなりませんでした。この『アシェラ』というのは偽りの神々の一人です。イスラエル人は真の神を捨て去り、この偽の神を選び取り、そうして真の神を裏切ったのです。ここに彼らの大きな罪悪がありました。この通り、悪しき実例が聖書で私たちの前に示されています。ですから、私たちはヤロブアムの家と同じにならないよう注意せねばなりません。もし私たちがヤロブアムの家のようになったとすれば、私たちも悲惨な状態へと陥ることでしょう。

【14:16】
『ヤロブアムが自分で犯した罪と、彼がイスラエルに犯させた罪のために、主はイスラエルを捨てられるのです。」』
 神が『イスラエルを捨てられるの』は、『ヤロブアムが自分で犯した罪と、彼がイスラエルに犯させた罪』に対する刑罰でした。その『罪』とは偶像崇拝の罪です。偶像崇拝の罪でない罪が原因なのではありません。ただこの偶像崇拝の罪によりイスラエルは神から捨てられるのです。このことから、偶像崇拝の罪がいかに御前で大きい罪なのかよく分かります。確かに神は北王国イスラエルを『捨てられ』ます。しかし、神はイスラエルに次のようにも言っておられました。『わたしはあなたを決して見捨てず、決して見放さない。』確かに神は御自分の聖徒たちを見放すことがありません。しかし、ここでは主が御自分の聖徒である『イスラエルを捨てられる』と言われています。これはどのように解決すればいいでしょうか。これの解決は難しくありません。神が聖徒たちを見放されないと言われたのは、つまり御自分から進んで見放されないということです。北王国イスラエルのように、聖徒が自ら進んで神に背くのであれば話は別となります。その場合であれば、イスラエル人は自分で積極的に神から離れるのですから、自分自身で自分を御前において捨てさせているのです。こうであれば、イスラエル人は自分から勝手に捨てられたのと同じ状態になっているのですから、そのようなイスラエル人を神が『捨てられ』たとしても当然のことなのです。

【14:17~18】
『ヤロブアムの妻は立ち去って、ティルツァに着いた。彼女が家の敷居に来たとき、その子どもは死んだ。人々はその子を葬り、全イスラエルは彼のためにいたみ悲しんだ。』
 こうしてヤロブアムの妻は家にまで帰ります。帰宅中の彼女はどのような精神状態だったでしょうか。最悪に落ち込んでいた可能性が高いでしょう。何故なら、彼女は子どもを死なすため帰宅していたのも同然だったからです。このような容赦のなさに運命の辛さがあります。彼女が帰宅したのは『ティルツァ』という場所でした。預言者アヒヤは『シロ』に住んでいました。ティルツァはこのシロから30kmほど北に離れています。ですから、ヤロブアムの妻はアヒヤの家から北に向かい帰ったのです。そういうことであれば、彼女は北から南下してアヒヤのもとまで行ったのでしょう。そして『彼女が家の敷居に来たとき、その子どもは死んだ』のでした。その時に子が死ぬよう神が定めておられました。ですから、そうなるしかありませんでした。彼女が家の敷居に行くのは、言わば死のスイッチでした。彼女はそのスイッチを自分で押したのです。

 ヤロブアムの子が死ぬと、『人々はその子を葬り』ました。先にも見た通り、ヤロブアム家で墓に葬られるのはこの子だけでした。その子は確かに死にました。しかし、死んでから葬られることには御恵みがありました。これはその子が神の御心に適っていたからです。その子は王子であって国中の人々に知られていましたから、『全イスラエルは彼のためにいたみ悲し』みました。この通り、よく知られた有名な人間が長寿を全うせずに死ねば、往々にして人々は非常な悲しみに満たされるものです。その死んだ人間が正しい者であればあるほど、人々の悲しみも大きいものとなります。この子は神の御心に適っていたのですから、人々の悲しみも恐らく実に大きかったと思われます。

【14:18】
『主がそのしもべ、預言者アヒヤによって語られたことばのとおりであった。』
 子どもが死んだのは、全て『主がそのしもべ、預言者アヒヤによって語られたことばのとおりで』した。神は御自分の語られたことを成し遂げられる御方だからです。神は、予め一切のことを定めておられます。ですから、神が定められたことについて語られるならば、それは必ず実現するのです。神がこのように御自分の言われたことを成し遂げられるのは、御自分について示すためです。神の語られた事柄がその通りに実現したならば、神の真実性と素晴らしさがまざまざと分かることでしょう。そうなれば、そこにおいて神の栄光が現われるようになります。神は御自分の栄光を現わすために全てを造られたのですから、このように御自分の語られたことをその通りに実現されます。