【Ⅰ列王記2:20~3:1】(2023/07/16)


【2:20】
『そこで、彼女は言った。「あなたに一つの小さなお願いがあります。断らないでください。」王は彼女に言った。「母上。その願い事を聞かせてください。お断りしないでしょうから。」』
 バテ・シェバは何とかアドニヤの願いを叶えてやりたかったので、まず『断らないでください。』と頼んでからアドニヤの願いを告げることにしました。これに対し、ソロモンは『お断りしないでしょうから。』と言って応じます。ソロモンは母が何かおかしなことを願ったりしないだろうと考えていたのでしょう。また母の願いであれば少し難しい内容でも何とか聞き入れるべきだと思っていたので、このように言ったのでしょう。ソロモンがこう言ったのも律法に適っていました。私たちも母から何か願われるのであれば、このような類のことを言うのが望ましいでしょう。

【2:21】
『彼女は言った。「シュネム人の女アビシャグをあなたの兄のアドニヤに妻として与えてやってください。」』
 ソロモンの態度が良さそうでしたので、バテ・シェバはアドニヤの願い通りのことをソロモンに頼みます。この時のバテ・シェバは何かおかしなことを頼んでいるつもりが無かったはずです。ただ単にアドニヤに良くしてあげようとの思いから頼んだに過ぎなかったはずです。もしおかしなことを頼んでいるので聞き入れてもらえるはずがないと思っていたとすれば、どうしてこのように頼んでいたでしょうか。

【2:22】
『ソロモン王は母に答えて言った。「なぜ、あなたはアドニヤのためにシュネム人の女アビシャグを求めるのですか。彼は私の兄ですから、彼のために、王位を求めたほうがよいのではありませんか。彼のためにも祭司エブヤタルやツェルヤの子ヨアブのためにも。」』
 『何が起こるかを知っている者はいない。』と伝道者の書では言われています。この御言葉の通り、アドニヤとバテ・シェバにとって全く思いがけないことが起こりました。ソロモンがバテ・シェバを通じて頼まれたアドニヤの願いを、全く受け付けなかったのです。ソロモンにとってアドニヤの望みは、理解できないものでした。というのは、アドニヤがアビシャグを得てもただ結婚するだけなのに対し、王位を求めればアドニヤだけでなく親アドニヤである『祭司エブヤタルやツェルヤの子ヨアブ』のためにも大きな益が生じるのだからです。また王位を得たとすれば、アドニヤはその王権によりアビシャグをも自分のために得ることが出来たはずです。つまりアドニヤは大よりも小を求めたわけですが、ソロモンにとってそれはとんでもないことだったのです。この通り、知恵のあるソロモンの前に愚かな願いが持ち運ばれました。知恵は愚かさを嫌います。ですから、ソロモンがアドニヤの願いを聞いて憤ったのは当然のことでした。

【2:23~25】
『ソロモン王は主にかけて誓って言った。「アドニヤがこういうことを言って自分のいのちを失わなかったら、神がこの私を幾重にも罰せられるように。私の父ダビデの王座に着かせて、私を堅く立て、お約束どおりに、王朝を建ててくださった主は生きておられる。アドニヤは、きょう、殺されなければなりません。」こうして、ソロモン王は、エホヤダの子ベナヤを遣わしてアドニヤを打ち取らせたので、彼は死んだ。』
 アドニヤの願いは、アドニヤが低級で王に相応しくない人物であることを示していました。彼は自分の低劣さを自ら曝け出したのです。愚かな者は自分の愚かさを自ら周囲に知らせるものなのです。だからこそ愚か者は「愚か者」と言われるわけです。このような愚かさにソロモンの知性は耐えることができませんでした。そのため、ソロモンは何としてもアドニヤを死刑にすると決定します。このようなアドニヤは、ソロモンの王座に対して相応しくない存在だからです。ソロモンはアドニヤを死刑にすると神かけて誓います。ソロモンはもしアドニヤを死刑にしなければ、『神がこの私を幾重にも罰せられるように』とさえ願ったほどです。ここまで強い思いで死刑を下そうとしたのは、ソロモンの憤りが非常に大きかったからでした。こうしてアドニヤは『エホヤダの子ベナヤ』により殺されてしまいました。この死刑の際、ソロモンには何の躊躇もありませんでした。しかし、アドニヤがどのような仕方で殺されたのかは分かりません。ソロモンはかつて、もしアドニヤに悪があれば死ななければならないと言っていたのです。その言葉通りのことがこの時に実行されたわけです。つまり、ソロモンはアドニヤのうちに悪を見出したのです。

 この通り、アドニヤは自分の口から出た言葉によって滅びました。もしアドニヤがアビシャグの求めを口にしていなければ、ソロモンから殺されることはなかったでしょう。この出来事からも分かる通り、私たちは口から出る言葉に注意すべきです。何故なら、言葉に生きるか死ぬかがかかっているからです。それはソロモンが箴言の中でこう言った通りです。『人の生はその舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。』私たちも常日頃からニュースで何度も見ているではありませんか。愚かなことを口にしたので非難されたり悲惨な状態となった人を。彼らはアドニヤのように口が悪かったのです。

【2:26~27】
『それから、王は祭司エブヤタルに言った。「アナトテの自分の地所に帰りなさい。あなたは死に値する者であるが、きょうは、あなたを殺さない。あなたは私の父ダビデの前で神である主の箱をかつぎ、父といつも苦しみを共にしたからだ。」こうして、ソロモンはエブヤタルを主の祭司の職から罷免した。シロでエリの家族について語られた主のことばはこうして成就した。』
 祭司エブヤタルはアドニヤに組したのですから、本来であれば殺されるべきなのに、殺されることがありませんでした。何故なら、エブヤタルはダビデと深い関係を持っていただけでなく、神の箱を担いだ人物だったからです。このような人物を殺せば、ソロモンは神とダビデを蔑ろにすることとなるのです。アドニヤの場合、彼は単にダビデの息子というだけに過ぎず、しかも神の箱を担ぐ者でもありませんでした。ですから、アドニヤは容赦なく粛清されたわけです。ソロモンがここで『きょうは、あなたを殺さない。』と言っているのは、その日のことだけに限定されません。つまり、これは「今日は殺さないけども後ほど殺されることになる。」という意味ではありません。ソロモンはエブヤタルを『主の祭司の職から罷免』するだけとしました。殺せないので、せめて祭司職を取り上げたのです。このエブヤタルは神から召されて祭司となっていました。しかし、ソロモンも神から召されたのでイスラエルの王となりました。エブヤタルは親アドニヤの立場であり、ソロモンが王になるのを望んでいなかったのですから、神に召された祭司であっても罷免されるのが妥当だったのです。つまり、神がこの時にエブヤタルから祭司の召しを取り上げたのです。ですから、ソロモンがアドニヤを罷免したのは御心でした。こうしてエブヤタルはもう祭司の職務に与かれなくなりました。エブヤタルはもうエルサレムに用がなくなったのです。このため、ソロモンは彼を『アナトテの自分の地所』へと帰らせます。エブヤタルはそこで一般の民衆として生きねばならなかったのでしょう。

 このようにエブヤタルが罷免されたのは、かつて『シロでエリの家族について語られた主のことば』が成就することでした。神はエリとその息子たちに対し怒りを持たれました。ですから、報いとしてこのようにエブヤタルが罷免されねばならなくなったのです。もしエリたちが神を怒らせていなければ、ソロモンはエブヤタルを罷免していなかったでしょう。そもそも罷免されるような状況が生じていなかったのです。何故なら、全ての出来事は神の働きかけにより起こるからです。

【2:28】
『この知らせがヨアブのところに伝わると、―ヨアブはアドニヤについたが、アブシャロムにはつかなかった。―ヨアブは主の天幕に逃げ、祭壇の角をつかんだ。』
 アドニヤとエブヤタルに起きた悲惨は、ヨアブの耳にも届きました。するとヨアブは『主の天幕に逃げ、祭壇の角をつか』みます。これは先に述べたことから分かる通り、殺されず助かるためでした。「次は自分の番だ。」などとヨアブは思ったに違いありません。だからこそ、ヨアブはこのように角を掴んで命乞いしたわけです。このヨアブは平気で人を2人も殺しましたが、平気で人を害する者は、自分が害される番になると決まってびくびくするものです。ここでヨアブが『アドニヤについたが、アブシャロムにはつかなかった。』と書かれているのは、ヨアブがソロモンには敵対する立場だったものの、ダビデには味方していたということです。

【2:29~31】
『ヨアブが主の天幕に逃げて、今、祭壇のかたわらにいる、とソロモン王に知らされたとき、ソロモンは、「行って、彼を打ち取れ。」と命じて、エホヤダの子ベナヤを遣わした。そこで、ベナヤは主の天幕にはいって、彼に言った。「王がこう言われる。『外に出よ。』」彼は、「いやだ。ここで死ぬ。」と言った。ベナヤは王にこのことを報告して言った。「ヨアブはこう言って私に答えました。」王は彼に言った。「では、彼が言ったとおりにして、彼を打ち取って、葬りなさい。』
 ヨアブは助かるため祭壇で角を掴んでいましたが、ソロモンはそんなことなど構わずヨアブを殺させようとします。何故なら、律法には「祭壇の角を掴んだ者は殺されてはならない。」などと命じられていないからです。ソロモンはアドニヤの時と同様、またベナヤを粛清のために遣わしますが(Ⅰ列王記2:25)、まずヨアブを主の天幕の『外』に出させようとします。主の天幕の中で血が流されるのは望ましくなかったからでしょう。しかし、ヨアブは死ぬならば天幕の中で死ぬと言います(30節)。このようなヨアブの言葉がソロモンに伝えられると、ソロモンは天幕の中でヨアブを殺すように命じました。恐らく仕方なかったため天幕の中で殺すようにしたのでしょう。白髪の老人を尊ばなければならないという律法に従い、白髪になっていたヨアブの意思を尊重したという可能性もかなりあります。

【2:31~34】
『こうして、ヨアブが理由もなく流した血を、私と、私の父の家から取り除きなさい。主は、彼が流した血を彼の頭に注ぎ返されるであろう。彼は自分よりも正しく善良なふたりの者に撃ちかかり、剣で彼らを虐殺したからだ。彼は私の父ダビデが知らないうちに、ネルの子、イスラエルの将軍アブネルと、エテルの子、ユダの将軍アマサを虐殺した。ふたりの血は永遠にヨアブの頭と彼の子孫の頭とに注ぎ返されよう。しかし、ダビデとその子孫、およびその家と王座にはとこしえまで、主から平安が下されよう。」エホヤダの子ベナヤは上って行って、彼を打ち取った。彼は荒野にある自分の家に葬られた。』
 こうしてヨアブは殺人罪に対する報いとして死ぬこととなりました。ヨアブが天幕の中で死んだことは確かであるものの、どのような死に方をしたかは分かりません。剣で首を切り落とされたのかもしれませんし、槍で心臓を突き通された可能性もありますし、物凄い力で殴り殺されたということも考えられます。またヨアブがこの時に白髪の老人だったことは間違いないものの、実際に何歳だったかまでは分かりません。このようにヨアブが殺されたのは、人の命を奪ったヨアブに対する、神からの罰でした。神は『人の血を流す者は、人によって血を流される。』と創世記9章で言われたからです。律法の中でも『いのちにいのち』と定められています。また律法では『かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺されなければならない。』とも書かれています。ヨアブは1人だけを殺しただけでも死に値しました。しかし、ヨアブは2人を殺したので、尚のこと死に値したのです。もしヨアブが3人を殺していれば、ますます死に値する度合いが高まりました。4人以上であれば尚のことそうです。この出来事からも分かる通り、ヨアブがあの2人を殺したのは全く間違っていました。何故なら、あの2人はヨアブよりも『正しく善良』だったからです。正しい者を殺すというのは明らかに大きな悪なのです。もし仮にヨアブよりも正しいアブネルとアマサが殺されるべきだとすれば、ヨアブは尚のこと殺されるべきなのです。こうしてヨアブとその子孫には、いつまでも報いが下されることとなりました(33節)。つまり、ヨアブの子孫はいつまでも悲惨な状態でいなければならないということです。33節目では『子孫』と書かれていますから、ヨアブには子孫がいたのでしょう。しかし、その子孫がどれぐらいたかまでは分かりません。34節目で書かれている通り、ヨアブの死体は荒野にあった自宅に葬られました。この『荒野』がどこであったかは分かりません。

 ヨアブとその子孫にはとこしえの報いが下されるのに対し、『ダビデとその子孫、およびその家と王座にはとこしえまで、主から平安が下され』ます。これはキリストにおいて成就しています。何故なら、キリストはダビデの王座に永遠の王として就かれたからです。ダビデの子孫であり王であるこのキリストにこそ人の平安があるのです。

 この通り、ソロモンはその治世の初めにおいて、まず悪者を取り除きました。これは王権における支配の礎をしっかり確立させるためでした。ソロモン自身がこう言っています。『王の前から悪者を除け。そうすれば、その王座は義によって堅く据えられる。』(箴言25章5節)これは王の治世だけでなく、何かの組織や集団でも同じことが言えます。特にまだ始まった最初の頃はそうです。何故なら、悪の存在があれば、その悪がこれからの歩みに悪い影響を及ぼさないでしょうか。また悪があれば果たして気持ちいいスタートを切れるでしょうか。賃貸業者も人が出た物件は丸ごとクリーニングしますし、中古品業者も買い取った物を磨いたり直したりするものです。何かの組織や集団において悪が除かれておくべきなのは、物件や買い取った物の場合とよく似ているのです。

【2:35】
『王はエホヤダの子ベナヤを彼の代わりに軍団長とし、王は祭司ツァドクをエブヤタルの代わりとした。』
 こうしてソロモンは、空席となった『軍団長』の座にベナヤを充て、エブヤタルの代わりとしてツァドクを選びました。治世の初期には、こういった国家における主要人物の入れ替えがしばしば起こるものです。ヨアブは殺人罪を犯したので、このような悲惨に陥りました。もしヨアブが誰も殺していなければ、ずっと軍団長の座に就いていられたでしょう。エブヤタルはアドニヤ派となったので、この通り祭司職を取り上げられました。もし彼がソロモンに組していれば、ずっと祭司でいられたでしょう。私たちは、極悪の罪を犯したり御心でない者に組したりしないようにすべきです。つまり、私たちはヨアブやエブヤタルのようになるべきではありません。この2人のようにならないのが幸いであり安全なことだからです。

【2:36~38】
『王は人をやって、シムイを呼び寄せ、彼に言った。「自分のためにエルサレムに家を建てて、そこに住むがよい。だが、そこからどこへも出てはならない。出て、キデロン川を渡ったら、あなたは必ず殺されることを覚悟しておきなさい。あなたの血はあなた自身の頭に帰するのだ。」シムイは王に言った。「よろしゅうごうざいます。しもべは、王さまのおっしゃるとおりにいたします。」このようにして、シムイは長い間エルサレムに住んだ。』
 ソロモンはかつてダビデを激しく呪ったあのシムイに対し、エルサレムから出ないのであればという条件付きで、エルサレムに住むことを許しました。もしシムイがエルサレムから出て『キデロン川を渡ったら』、シムイは殺されることになります。この川がシムイにとって死の境界線なのです。このように言われたシムイは『よろしゅうございます。』と言って応じます。こうしてシムイはエルサレムに住むこととなりました。その期間は『三年』(Ⅰ列王記2:39)という『長い間』でした。ところで先に見た通り、ソロモンはダビデからこのシムイを殺すように命じられていました。ですから、ソロモンはシムイを殺すべきでした。ところが、ここでソロモンはシムイをエルサレムで普通に生かさせています。どうしてソロモンはシムイを生かして殺そうとしなかったのでしょうか。ソロモンはシムイを殺そうとしなかったのでなく、実は殺そうとしていたのです。シムイが権威に対し反逆的な性向を多かれ少なかれ持っているということは、ソロモンの見抜いているところでした。ソロモンはこのような性向を殺すために利用したのです。つまり、ソロモンはシムイであればやがて禁令を破って自ら死ぬようになることを行なうであろう、と読んだわけです。実際、シムイはこれから本当に自ら禁令を破ることとなります。

【2:39~43】
『それから、三年たったころ、シムイのふたりの奴隷が、ガテの王マアカの子アキシュのところへ逃げた。シムイに、「あなたの奴隷たちが今、ガテにいる。」という知らせがあったので、シムイはすぐ、ろばに鞍をつけ、奴隷たちを捜しにガテのアキシュのところへ行った。シムイは行って、奴隷たちをガテから連れ戻して帰って来た。シムイがエルサレムからガテに行って帰って来たことは、ソロモンに告げられた。すると、王は人をやって、シムイを呼び出して言った。「私はあなたに、主にかけて誓わせ、『あなたが出て、どこかへ行ったなら、あなたは必ず殺されることをよく承知しておくように。』と言って警告しておいたではないか。すると、あなたは私に、『よろしゅうございます。従います。』と言った。それなのに、なぜ、主への誓いと、私があなたに命じた命令を守らなかったのか。」』
 シムイがエルサレムに住んでから『三年たったころ』、シムイは逃げた奴隷を追いかけたのでソロモンの禁令に違反することとなりました。やはりソロモンの思っていた通りになったのです。ダビデを呪った出来事からも分かる通り、シムイは一時の変化に大きく揺り動かされ、一時的な変化を永遠の変化だと思ってしまう、感情的な傾向が強い人物でした。つまり、シムイは目の前で起きた出来事に呑み込まれてしまう質だったのです。ですから、このように奴隷が逃げた際も、その出来事に揺り動かされ、ソロモンの禁令など気に留めることが出来なかったのです。こうしてシムイはソロモンに呼び出されて責められましたが、シムイは禁令を破れば死ぬということに同意していましたから、もう覚悟しなければいけませんでした。シムイはもう後悔しても駄目でした。この通り、シムイは自分の口により呪われ、自分の口により滅びました。このことから、『人の生はその舌に支配される。』という箴言の御言葉がどれだけ真実であるのかよく分かります。日本でよく言われる「口は禍の元」などという諺も聖書的なことなのです。

【2:44~46】
『王はまた、シムイに言った。「あなたは自分の心に、あなたが私の父ダビデに対してなしたすべての悪を知っているはずだ。主はあなたの悪をあなたの頭に返されるが、ソロモン王は祝福され、ダビデの王座は主の前でとこしえまでも堅く立つであろう。」王はエホヤダの子ベナヤに命じた。彼は出て行って、シムイを打ち取った。こうして、王国はソロモンによって確立した。』
 ソロモンがここで言っている通り、シムイはかつて自分が犯したダビデに対する悪を覚えていました。シムイはあんなにも大きな悪事を犯したのです。どれほど忘れっぽい人であっても、ここまでの悪事を忘れることは難しかったでしょう。シムイが犯したその悪は、この時に罰せられることとなりました。つまり、シムイは自業自得である死を報いとして受けねばなりません。このシムイも示す通り、人が行なったことは結局、その人の上に報いとして返って来るのです。ですから、パウロはガラテヤ6章でこう言っています。『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』ソロモンはこのシムイも、『エホヤダの子ベナヤ』に打ち取らせました。このベナヤはソロモンの側近としていつも仕えていたと思われます。シムイがどのような仕方により殺されたのかは分かりません。しかし、即死の殺され方だったことは間違いないと見てよいでしょう。また、この箇所ではシムイに対してだけ悪が返されると書かれており、子孫については何も言われていません。ヨアブの場合は、ヨアブだけでなくヨアブの子孫も報いられると言われていました。これは恐らくシムイに子孫がいなかったからなのかもしれません。何故なら、もしシムイに子孫がいれば、恐らくシムイだけでなくシムイの子孫にも報いが下されると言われていただろうからです。

 このようにシムイには罰が下される一方、『ソロモン王は祝福され、ダビデの王座は主の前でとこしえまでも堅く立つ』ことになります。これはソロモンがイスラエルから悪を取り除いたからです。神はこのようなソロモンの行ないを喜ばれました。ですから、神はソロモンとソロモンが受け継いだダビデの王座に良くして下さるのです。実際、ソロモンが言ったことはその通りになりました。『ソロモン王は祝福され』たので、その治世においてイスラエルは栄華の極みに達したのです。「ソロモンの栄華」という言葉は誰でも一度ぐらいは聞いたことがあるでしょう。祝福されないでは物質的な繁栄に与かることができません。また『ダビデの王座は主の前でとこしえまでも堅く立つ』というのは、キリストにおいて成就しています。というのも、キリストはダビデの王座にとこしえまでも就かれ続けるのだからです。

 このようにしてイスラエルの王制は『ソロモンによって確立した』のです。それはソロモンが国から悪を取り除いたからでした。その悪とは4つです。すなわち、アドニヤという愚か者の悪、エブヤタルという反対者の悪、ヨアブという凶悪殺人者の悪、そして私たちが今見ているシムイという冒涜者の悪です。私たちも群れを確立したければ、ソロモンのように悪者を殺したりすることは出来ませんが、そこにある悪を取り除くのが望ましいでしょう。例えば、群れにとんでもない反抗的人物がいたとすれば除名したりし、犯罪的人物がいたとすれば警察に通報して逮捕してもらったりするのです。「悪」とはその群れにおける錆びや病菌のようなものです。つまり、悪があれば錆びのように群れの歩みを妨げてしまいかねません。また病菌のようにダメージや問題を生じさせかねません。

【3:1】
『ソロモンはエジプトの王パロと互いに縁を結び、パロの娘をめとって、彼女をダビデの町に連れて来て、自分の家と主の宮、および、エルサレムの回りの城壁を建て終わるまで、そこにおらせた。』
 ソロモンが王国を栄えさせるために用いた方法は「政略結婚」でした。それはこのような仕組みとなります。まず他国の王族の女性とソロモンが結婚します。すると、必然的にソロモンは結婚した女性の王族と深い関係を持つこととなります。深い関係を持つならば自然と協力したり援助するなどといった行為が生じます。そのようにして経済が発達することに繋がるのです。現代においても王室の世界や企業の世界を考えると、どうでしょうか。もし他の王室や他の企業と深い縁を持つならば、援助したり相互的な働きかけなどが容易く実現することでしょう。しかし、何の関係また交わりもなければ、どうしてこういったことが起こるでしょうか。ですから、婚姻という手段ほど王室や何らかの組織において益を齎す手法は無いと言って良いでしょう。それというのも、婚姻とは2人の者が一緒になることだからです。そうなれば自分の利益が相手の利益となり、また相手の利益も自分の利益となりますから、自然とその関係者たちも含めて容易く相互的な益を与え合う仲となるわけです。ソロモンは知恵のある王でしたから、このようなことがよく分かっていたのです。何故なら、「知恵」とは益である事柄を求め、見つけ出し、理解し、実行に移すことだからです。この「知恵」が無ければ、そもそも実行にまで至らないか、たとえ実行にまで至ってもやり方が悪いので上手く行かないことになるのです。

 こういうわけで、ソロモンはエジプトの王パロの娘を妻として娶ったのです。それは『エジプトの王パロを互いに縁を結び』たかったからです。その娘を娶るということほど王と真に深い関係が築き上げられる手段はほとんど無いはずです。しかし、ソロモンは娶ったそのパロの娘を、『自分の家と主の宮、および、エルサレムの回りの城壁を建て終わる』までは、『ダビデの町』であるベツレヘムに留まらせておきました。その間中、ソロモンはエルサレムにいたはずです。つまり、ソロモンは建て終わるべき物が建て終わるまでは、パロの娘と一緒にいなかったわけです。これは為すべきことを為すまで、ソロモンが敬虔で清い状態を保ちたかったからなのかもしれません。何故なら、聖なる民の一人であるソロモンが汚れた異邦人と一緒になるならば、霊的に良くないことは明白だったからです。ソロモンがこれまでにも誰か妻を娶っていたかどうかは分かりません。このパロの娘が最初の妻では無かった可能性もあります。しかし、ソロモンがもう既に妻を娶っていた場合、このパロの娘が何人目の妻だったかは不明です。

 このように異邦人の妻を持ったソロモンでしたが、これは実は御心に適わないことでした。後の箇所を見るとソロモンが異邦人と結婚したことについて問題とされています(Ⅰ列王記11章)。ソロモンはユダヤ人でしたから、ユダヤ人を娶るべきだったのです。このような点にソロモンの罪深さが現われています。ソロモンは神から類稀な英知を与えられていましたが、英知があるからといって罪深くないというわけではなかったのです。