【Ⅰ列王記17:5~20】(2024/05/12)


【17:5~6】
『それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉を運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。』
 烏に養われるからというのでその通りにするのは、しっかりした信仰が必要です。エリヤには堅固な信仰がありました。ですから、『彼は行って、主のことばのとおりにした』のです。エリヤはサマリヤから離れて後、東に向かい、ヨルダン川を越えました。エリヤがサマリヤに行ったのと同じ道を逆戻りしたかどうかは分かりません。

 エリヤが『ケリテ川のほとりに行って住』むと、『烏』がエリヤを養いました。その烏は『幾羽』でしたが、実際の数までは分かりません。ただ1羽だけでなかったと知っておけば、それで十分です。この烏たちは『朝』と『夕方』に『パンと肉とを運んで来』ました。烏がどのようにしてパンと肉を運んで来たのかは、ここで詳しく示されていません。神は無からパンと肉を生じさせ、烏に運ばせることもできました。神が誰か慈悲深い人に働きかけ、パンと肉を烏に与えさせた可能性もあります。いずれにせよ烏が運んで来た詳細はここで示されていませんから、これは分からないままでいていいのです。このようにして神は御自分の御言葉の真実性をまざまざと示されました。神が言われたことは全てその通りになるのです。神は全能であられますから、御自分の言われた通りにすることができるのです。飲料についてはエリヤが『その川から水を飲んだ』と書かれている通りです。井戸からの水ではなく、汚染された水からでもありませんでした。『ケリテ川』の『水』を飲むというのが主の御心だったのです。

【17:7】
『しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。』
 エリヤがケリテ川のほとりに行って住んでから、『しばらくすると、その川がかれ』ました。それは『その地方に雨が降らなかったから』でした。この地方に雨が降らなくなるというのは、前にエリヤが言っていたことです(Ⅰ列王記17:1)。ここで『しばらくすると』言われている期間が、どれぐらいだったかまでは分かりません。こうしてエリヤがケリテ川にいる歩みはなくなりました。烏が運んで来るパンと肉はあっても、水が飲めなければ、エリヤは悲惨な状態になってしまうからです。神が烏に水も運んで来させるようにされたならば、話はまた別だったでしょう。しかし、神は烏が水を運ぶようにはされませんでした。

【17:8~10】
『すると、彼に次のような主のことばがあった。「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」彼はツァレファテへ出て行った。』
 もはやエリヤがケリテ川にいるステージは過ぎ、次のステージに行くべきでしたから、神はエリヤに語りかけられました。それは以前と同様、実際的に語られたはずです。神はエリヤがこれから『シドンのツァレファテに行き、そこに住』むようにと命じられます。この『ツァレファテ』は、イスラエルを北に越えた場所であり、そこはフェニキア人の国また地域です。エリヤのいたケリテ川からこの『ツァレファテ』までは、北西にかなりの距離があります。エリヤはそこまで移動することを求められました。エリヤが次に行くこのツァレファテの場所でも、神はエリヤを養われます。前は烏で養われましたが、今度は『ひとりのやもめ』により養われるのです。

 富んだ財産家からであればともかく、『ひとりのやもめ』から養われることを受け入れるためには、しっかりした信仰が必要となります。エリヤにはしっかりした信仰がありましたから、この件でも神の命令通りにしました。すなわち、『彼はツァレファテへ出て行った』のです。もしエリヤが不信仰な者であれば、やもめに養われると聞いても信じることはできなかったでしょう。そのため、長い時間をかけてツァレファテにまで行くことも決してできなかったはずです。

【17:10~11】
『その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで行った。「一口のパンも持って来てください。」』
 エリヤが神の御言葉通りに行くと、ツァレファテの門に『たきぎを拾い集めているひとりのやもめがい』ました。この女こそ神が言っておられた女でした。『門』の内側に普通であれば町があります。ですから、この女は恐らくエリヤがこの町で初めて会った女だったはずです。神はエリヤがこの女を見つけるため、女が門で『たきぎを拾い集めている』ようにされたのです。彼女が薪を拾い集めていた理由は後ほど書かれることになります。

 エリヤは神の御言葉を堅く信じていましたから、やもめに養われることを疑いませんでした。この時に出会った女が、神の定められたやもめであるかもしれないとエリヤには思えたはずです。ですから、エリヤはこの女に『ほんの少しの水を』くれるよう求めました。この女が定められた女であれば、必ず水を与えてくれるだろうからです。実際にこの女は定められた女でしたから、エリヤに水を求められると、『取りに行こうと』しました。彼女が水を取りに行こうとしたのであれば、確かに彼女が定められていた可能性はかなりありました。このため、エリヤは水を『彼女が取りに行こうとすると』、『一口のパンも持って来て』くれるようにと求めます。彼女が定められた女であれば、水だけでなく食べ物も与えてくれるはずだからです。初めて会った女に水とパンを求めるというのは、普通であれば、少しおこがましかったかもしれません。しかし、エリヤには神からの御言葉がありましたから、このようにしても別に行き過ぎだということはありませんでした。信仰を持つことの益の一つは、このような大胆さを持てることです。

【17:12】
『彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」』
 やもめ女は、水のほうであれば用意することができました。しかし、パンのほうはどうしても用意できませんでした。何故なら、彼女にはパンを作るほどの材料が無かったからです。彼女には『かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけ』でした。これではパンを作ることができませんでした。彼女は持っていた僅かな材料を『調理し』、『それを食べて』息子と『死のうとしてい』たのです。彼女が『たきぎを集め』ていたのは、このように調理をするためでした。しかしエリヤは彼女の事情を詳しく知らなかったので、水だけでなくパンをも彼女に求めたわけです。彼女が『二、三本』の薪を集めていたのは、数字的な象徴性を持たないはずです。これは単に少しの薪を集めようとしていただけでしょう。

 この時に女が『あなたの神、主は生きておられます。』とエリヤに言ったのは、既に見た通り、誓いの言葉です。つまり、彼女は自分の話している内容に嘘や偽りが全く無いと言っているわけです。もしこのように誓いながら嘘や偽りを言っていたとすれば、神の御名を用いて誓った以上、彼女は神から罰せられていたでしょう。

【17:13】
『エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。』
 女から事情を聞いたエリヤは、女が『言ったように』することを命じます。すなわち、女が薪で調理した食物を食べることです。しかし、エリヤはまず自分のために調理して食物を持って来るよう命じます。そうしてから女と女の子どもが食べるべきだとエリヤは言うのです。女と女の子どもが先なのではありません。エリヤが自分のほうを優先させたのは、神の御言葉があったからです。もし彼女が定められた女であれば、彼女はエリヤを養うわけですから、エリヤが先であっても言われた通りにしたことでしょう。しかし定められていなければ、女はエリヤの求めに反発していたことでしょう。つまり、エリヤはまず自分に与えることを求めることで、この女が本当に定められた女なのかどうか確かめようとしたわけです。こういった求めは通常であれば自己中心と思われたかもしれません。しかし、エリヤの場合は問題がありませんでした。エリヤは御言葉のゆえにこういった求めをしたからです。このような求めであっても、定められた者であれば、必ず御心に適ったことを行なうものなのです。

 ここでエリヤが女に『恐れてはいけません。』と言ったのは、どういう意味でしょうか。すなわち、エリヤは女が何を恐れるなと言ったのでしょうか。これは女が苦しんでいる悲惨な状況とその状況により齎される死のことでしょう。女には食物が僅かしかなかったので、これから息子と共に死のうとしていました。これでは恐れたとしても自然なことだったでしょう。しかし、女は息子と共にもう死ぬ必要がなくなりました。ですから、エリヤは恐れるなと女に命じたわけです。

【17:14】
『イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」』
 女がこれから粉と油を調理するならば、女の手元に食べる物は全く無くなるか塵ほどしか残らなくなったはずです。何故なら、『一握りの粉』と『ほんの少しの油』しか無ければ、すぐにも減ってしまうからです。しかし、神はこういった悲惨な状況の女に対し、次のように言われました。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』女の持っていた『かめ』と『つぼ』に入っていた食材が決して無くならないのは、神の奇跡によりました。神は全能の御方ですから、それらを尽きないようにすることができたのです。このようにして女と女の子どもは、もはや死ぬ必要がなくなりました。こういった理由のためエリヤは『恐れてはいけません。』と女に言ったわけなのです。確かに女はもう恐れるべきではありませんでした。

【17:15~16】
『彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。』
 エリヤから神の御言葉を聞いた女は、『行って、エリヤのことばのとおりにし』ました。彼女は神の御言葉が真実であると信じたからです。もし信じていなければ、エリヤが言った通しにしてはいなかったことでしょう。信仰は行為において表出されるからです。女はエリヤの言った通りにするよう、神から定めれていました。それは神がこの女にエリヤを養うよう決めておられたからです。それからは神が言われた通り、『かめの粉は尽きず、つぼの油はなくな』らなくなりました。神がどのようにして粉と油を尽きないようにされたかは詳しく書かれていません。取ってからすぐに補充されたのかもしれませんし、かなり取ってから補充された可能性もあります。いずれにせよ、私たちは粉と油を神が尽きないようにされたと知っていればそれで十分です。こうしてエリヤと女および女の家族は、『長い間それを食べ』ました。このようにして女は神が言われた通り、エリヤを養うようにしたのです。女は子どもと共にもう死ぬ状況にまで陥っていました。しかし、女はこの通り、生き、神に用いられたのでした。エリヤたちが粉と油による調理品を食べていたのは、『長い間』でした。これは露と雨が降らなくなってから二、三年間以内です。何故なら、神は先に『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』と言われたからです。エリヤはかつて、露も雨も降らない期間が『ここ二、三年の間』であると言っていたのです。しかし、その年月が実際にどのぐらいだったかまでは分かりません。

【17:17】
『これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。』
 しばらく経つと、エリヤを養っていた女の息子が『病気にな』り、『息を引き取』ります。その病気は致命的な病気でしたが、具体的な病名については分かりません。この子が死んだ年齢についても分かりません。この子は普通の意味で死んだのではありません。後の箇所から分かる通り、その死は、エリヤを通して語られた神の御言葉の真実性が女に知らされるためでした。つまり、息子が死んだのは神による特別な働きかけの死でした。もし女に悟らせるという目的が無ければ、恐らくこの息子は死んでいなかったはずです。

【17:18】
『彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」』
 女は自分の息子が死んだので、エリヤに不満をぶつけます。ここで女が言っていることから分かる通り、女は自分の『罪』により息子が死んだと思っていました。つまり、女の罪により女の息子が罰せられたということです。しかし、女はもしエリヤが来なければ、このような死を息子は味わわずによかったとも感じました。このため、女はエリヤが息子を死なせるために来たとしか思えませんでした。ですから、女はエリヤを非難せずにいられなかったわけです。女はこの時点でまだ息子が死んだ理由を何も知りませんでした。

 女がここでエリヤを『神の人』と呼んでいるのは本当のことでした。モーセも同じように『神の人』であると聖書は書いています。この『神の人』については、もう既に見た通りです。この『神の人』と呼ばれる人は聖書でそこまで多くありません。

【17:19】
『彼は彼女に、「あなたの息子を私によこしなさい。」と言って、その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、その子を自分の寝台の上に横たえた。』
 女から子どもが死んだことで責められたエリヤは、何も言い返すことができませんでした。何故なら、女が言った通り、エリヤは本当に女の息子を死なすために来たかのようだったからです。子どもが死んだのは事実でした。このような状況が起きたのですから、たとえエリヤに何か言い分があったとしても、悲しむ女に対し何か言うべきではなかったでしょう。しかし、エリヤは女から死んだ子を受け取ります。これは神にこの子を生き返らせていただくためでした。女はエリヤに子を渡し、決してそれを拒みませんでした。これは女がエリヤを『神の人』として取り扱っていたからでしょう。もし女がエリヤを神の人として取り扱っていなければ、死んだ子を渡したかどうかは分かりません。

 この箇所から分かる通り、エリヤは建物にある『屋上の部屋』に『泊まってい』ました。この家は女の家だったと考えられます。神はエリヤが住むようにと、この部屋を予め用意しておられました。女にとってエリヤは聖なる客人でしたから、一緒の建物に住んだとしても、部屋は別としたわけです。

【17:20】
『彼は主に祈って言った。「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」』
 女をエリヤ『を世話してくれた』ですから、エリヤはこの女に恩があります。それなのに女の息子が死んでしまったのですから、この時のエリヤは不名誉な状態でした。このままであれば、エリヤは女から悪く思われ続けるかもしれません。何故なら、女はエリヤが来たからというので、子が死んでしまったと感じていたからです(Ⅰ列王記17:18)。このため、エリヤは神が女の息子を生き返らせて下さるように求めることとしました。神は全能ですから、その子を生き返らせることができるからです。エリヤがここで神を批判しているように思う人もいるかもしれません。しかし、これは批判などではありません。エリヤは息子が生き返るため、神の栄光と正義に訴えているのです。ここでエリヤは、息子を失った女が『わざわい』を受けていると言っています。しかし、子どもの死は罪に対する刑罰としての災いというより、神の御心が実現されるための災いでした。子の死を通して、女はこれから霊的な益を受けるからです。もしこういった目的が無ければ、神は子どもの命を失わせていなかったかもしれません。