【Ⅰ列王記17:21~18:10】(2024/05/19)


【17:21】
『そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」』
 エリヤは何としても息子が生き返ってほしいと願いました。もし生き返らなければ、女はエリヤを悪く思ったままでいたはずだからです。その場合、エリヤだけでなく、神の栄光も蔑ろにされることとなりかねません。何故なら、エリヤは神の御命令に従って彼女のもとへ来たのだからです。ですから、子が死んだままでいれば、エリヤと神の不名誉となりました。このため、エリヤは子を生き返らせていただくよう神に願おうとします。エリヤが子どもを生き返らすことはできません。しかし、神であれば子どもを生き返らせることができます。エリヤはまず、横たわらせた『子の上に身を伏せ』ます。このようにしたエリヤは、あたかも自分の命を子どもに与えようとしているかのようです。この行為には、子を生き返らせてほしいというエリヤの強い願いが現われています。エリヤはそれを一度だけでなく『三度』も行ないました。これはエリヤが何としても子を神に生き返らせていただきたかったからでした。このようにして後、エリヤは神に子が生き返るよう願い求めます。『三度、その子の上に身を伏せて』から祈ったというのがポイントです。このような行為をしてから祈るのと、このような行為をしないで祈るのは、明らかに違いがあるからです。キリストもゲッセマネの園において、血のような汗を流しながら、3度も父なる神に対し祈られました。このような祈りには、キリストの心における強い思いがまざまざと示されていたのです。

【17:22】
『主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。』
 エリヤは『神の人』であり、神により歩む者でした。ですから、『主はエリヤの願いを聞かれ』ました。正しい者の願いは神に聞かれるのです。しかし、罪深い者の願いは退けられてしまいます。こうして『子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返』りました。この子どもは病気のために死にました。しかし、子どもはその病気が癒された状態で生き返ったはずです。何故なら、もし神が病気を持ったままの状態で生き返らせたとすれば、生き返らせてもまたすぐに病気で死んでしまうでしょうから、生き返らせた意味はあまりなくなるからです。この子どもが死んでどれぐらいしてから生き返らされたかということは、分からなくても問題にはなりません。ただ神により子どもが死から生き返らされたということを知っていれば、確かにそうです。

【17:23】
『そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡した。そして、エリヤは言った。「ご覧、あなたの息子は生きている。」』
 エリヤは子を生き返らせるため受け取ったのですから、子どもが生き返った今や、もうその子を母親に返すことになりました。すなわち、エリヤは『その子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡した』のです。この時にエリヤは女に『ご覧、あなたの息子は生きている。』と言い、子どもが生き返ったことを女に悟らせようとしました。この時、子どもを受け取った女には大きな喜びがあったことでしょう。エリヤも喜んでいたはずです。神も喜んでおられたに違いありません。

【17:24】
『その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」』
 生き返った子を受け取った女は、エリヤが子を生き返らせたのですから、というより神がエリヤにおいて子を生き返らせて下さいましたから、2つの事柄を『知りました』。まず一つ目は、エリヤが『神の人であ』ることです。子どもが死んでから、女はエリヤが子を死なせるために来たように感じられました。このため、女はエリヤが本当に神の人なのか多かれ少なかれ疑問を持ったはずです。何故なら、もし本当に神の人であれば、どうして子を死なすために来ることがあるでしょうか。しかし、既に見た通り、エリヤはその死んだ子を生き返らせました。ですから、女はやはりエリヤが神の人であることを知ったのです。というのも、もし神の人でなければ、死んだ子を生き返らせることはできないはずだからです。二つ目は、エリヤ『の口にある主のことばが真実であること』でした。何故なら、これまでエリヤを通して語られた『主のことば』はどれも実現していたからです。子が生き返ったことにより、女はこのことを再認識させられました。このため、女はエリヤが語った御言葉の真実性を強く悟ったのです。

 この女の場合を考えても分かる通り、人は結果また成果により、その本質や正体をはっきり知るものです。その結果また成果の度合いが大きければ大きいほど、本質や正体を知る度合いもそれだけ大きくなります。これは経験からも分かることです。どこかに「ボクサーが強いのは試合だけであり喧嘩であれば普通程度に決まっている。」などと思っている人がいたとします。この人が実際にボクサーと喧嘩をしたところ、全く歯が立たず打ちのめされてしまいました。この人はこういった結果により、ボクサーの強さが限定的ではないという本質を知ったのです。もしこの人がこのような結果を味わわなかったならば、ずっとボクサーの強さが限定的なものであると思い続けていたでしょう。これと同様、この女も子どもが生き返るという結果を見なければ、エリヤが『神の人』であることをいつまでも悟れないままだったかもしれないのです。こういうわけですから、キリストが言われた通り、私たちは実を見て木を知るべきなのです。何故なら、ある木は特定の実しか結ぶことがないからです。この時にエリヤは子を生き返らせるという実を結びました。ですから、女はその実により、エリヤが聖なる木であることをまざまざと知ったのです。

【18:1~2】
『それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」そこで、エリヤはアハブに会いに出かけた。そのころ、サマリヤではききんがひどかった。』
 これまで『三年』の間、イスラエルでは雨が降りませんでした。その間、エリヤおよび女と女の息子は、尽きることがない粉と油により生きていました。それが尽きなかったのは神の働きかけでしたから、この3人は神から養われていたのです。しかし、その粉と油を調理して食事を作っていたのは女でした。ですから、エリヤは女にも養われていたと言うことができます。もしこの3人に神の御恵みが無かったとすれば、粉も油も無かったでしょうから、非常な悲惨に陥っていたかもしれません。この時になると、もう雨が降らなくなってから『三年目』でしたから、神は雨を降らせるようにされます。エリヤはかつて雨が降らない期間を『ここ二、三年』と言っていたからです。もう神は雨が降っても良い時とされたのです。

 この時になると、神はエリヤに『アハブに会いに行け。』と命じられました。このアハブ王は邪悪で不敬虔な神に喜ばれない王でした。彼は神に敵対していましたから、神の人であるエリヤにも敵対するのです。しかし、それでもエリヤはこのアハブと会わねばなりません。神の人にとって『主のことば』は絶対だからです。もし神の人が御言葉に従わなければ、もはや神の人であるとは言い難くなるでしょう。その場合、神は御自分に従わない神の人に対して怒りを燃やされるでしょう。このエリヤも、もし神の命令通り『アハブに会いに行』かなければ、神の怒りを燃え上がらせていたことでしょう。

 『そのころ、サマリヤではききんがひどかった』のは、イスラエルの偶像崇拝に対する呪いがあったからです。偶然に起きた特に意味を持たない飢饉ではありませんでした。つまり、もしイスラエルが偶像崇拝という邪悪に陥っていなければ、こういった『ききん』はそもそも起きていなかったということです。この『ききん』は、雨が降らないことにより生じたのです。雨が降らなければ作物が枯れてしまい、全く収穫できなくなるからです。虫食いとか病害による『ききん』ではなかったでしょう。この飢饉が3年間も続いたのは、神がイスラエルの偶像崇拝に対し思い知らせるためでした。神に背いて偶像を拝む邪悪さがどれだけ酷く愚かであるか、ということをです。この飢饉は完全にイスラエルの邪悪が原因でしたから、イスラエルが飢饉により苦しみを味わったとしても自業自得で文句は言えませんでした。

【18:3~4】
『アハブは王宮をつかさどるオバデヤを呼び寄せた。―オバデヤは非常に主を恐れていた。イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、オバデヤは百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った。―』
 アハブが『オバデヤを呼び寄せた』のは、後の箇所で見る通り、共に仕事をするためです。この『オバデヤ』は『王宮をつかさどる』人物でしたから、かなりの地位を持つ者だったはずです。彼は、エゼキエルやダニエルと同時代人である預言者オバデヤと違う人物です。名前は一緒ですが、預言者であるオバデヤはずっと後になってから生まれる人です。

 この『オバデヤは非常に主を恐れていた』のですが、これはつまり主を何よりも第一にしていたということです。オバデヤは自分や王よりも主を上に位置付けていました。ですから、神はオバデヤにとって絶対の存在でした。ここでオバデヤが『非常に』主を恐れていたと書かれている通りです。この時代のイスラエルは、上から下まで神を恐れない不敬虔な者ばかりでした。しかし、このオバデヤのように例外的な者も存在していたのです。その時代の状況がどうであれ、聖徒はオバデヤのように神を恐れねばなりません。神を恐れるのは神に喜ばれることです。そのようにする者は神の御心に適うことができるでしょう。

 ここで書かれている『イゼベル』は、先に見た通りアハブの妻であり、汚れた異邦人でした。彼女は不敬虔な偶像崇拝者でした。このイゼベルは神に敵対していましたから、神に属する預言者たちにも敵対していました。この時代のユダヤには『主の預言者たち』が多くいました。その数は数百人の単位または数千人の単位でした。つまり、神がこの時代に多くの預言者を立てておられたのです。イゼベルは邪悪な者でしたから、この預言者たちを虐殺しました。神を憎む者は、神に属する者をも憎むからです。このような虐殺は忌まわしいことでした。彼女がサタンに動かされていたことは間違いありません。しかし『オバデヤは非常に主を恐れていた』ので、この虐殺の際、『百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養』いました。オバデヤの持つ神への恐れが、このような行ないにおいて現われ出たのです。このような善は神の御心に適っていました。この時にオバデヤは『百人』の預言者を救い出しましたが、これが殺された預言者に対しどのぐらいの比率だったかまでは書かれていません。この100人の預言者を『五十人ずつ』ほら穴の中にかくまったのは必要からだったでしょうが、2つのほら穴がどこにあったかまでは書かれていません。このようにしてオバデヤが『パンと水で彼らを養った』のは、オバデヤに多くの財産または高い地位があったからでしょう。こういったオバデヤの記録されるべき善は、邪悪なイゼベルに妨げられませんでした。神がオバデヤおよび100人の預言者たちを御恵みにより守られたからです。もし神の御恵みが無ければ、オバデヤと100人の預言者たちもイゼベルの怒りにより虐殺されていたかもしれません。

【18:5~6】
『アハブはオバデヤに言った。「国のうちのすべての水の泉や、すべての川に行ってみよ。たぶん、馬と騾馬とを生かしておく草を見つけて、家畜を殺さないで済むかもしれない。」ふたりはこの国を二分して巡り歩くことにし、アハブはひとりで一つの道を行き、オバデヤはひとりでほかの道を行った。』
 先に述べた通り、アハブがオバデヤを呼び寄せたのは、共にあることをするためでした。この時のイスラエルは飢饉に苦しんでいましたが、もしどこかで草を見つけたならば、アハブの所有する『家畜を殺さないで済むかもしれ』ませんでした。アハブのいた周辺地域では、草が見つからなかったのです。ですから、アハブは何とか草を見つけようとして、オバデヤと共に『国のうちのすべての水の泉や、すべての川に行ってみ』ようとします。家畜を殺さないで済むほうが良いに決まっているからです。この時のイスラエルは、この通り、家畜の食べる草さえ見つからないほどに厳しい飢饉がありました。こうしてアハブとオバデヤは『国を二分して巡り歩くことにし』ました。2人で同じ道を行くより、それぞれ別々の道を行ったほうが効率的だからです。このようにアハブが2人で協同しつつ草を見つけようとしたのは間違っていませんでした。伝道者の書からも分かる通り、2人で何かを協力して行なうのは良いことだからです。

【18:7~8】
『オバデヤがその道にいたところ、そこへ、エリヤが彼に会いに来た。彼にはそれがエリヤだとわかったので、ひれ伏して言った。「あなたは私の主人エリヤではありませんか。」エリヤは彼に答えた。「そうです。』
 オバデヤがアハブから離れて道にいると、『エリヤが彼に会いに来』ました。偶然にこうなったのではありません。このようにして2人が会うことこそ御心だったのです。このオバデヤは、それがエリヤだと分かったので、その前に『ひれ伏し』ます。これは敬意を示すためだったはずです。そこに崇拝性は無かったでしょう。もし崇拝の意味で『ひれ伏し』たとすれば、それは偶像崇拝となりますから、エリヤはオバデヤに注意していたはずです。しかし、これは敬意を示すためでしたから、エリヤは何も注意することがありませんでした。この時にオバデヤはエリヤを『主人』と呼んでいます。オバデヤの地上における肉的な主人は、言うまでもなくアハブ王でした。しかし、霊的な主人はエリヤだったと言うこともできます。何故なら、エリヤという存在の背後には神がおられたからです。これはエリヤが『神の人』と呼ばれる人だったことからも分かります。オバデヤは『非常に主を恐れていた』のですから、真の主人である神ゆえ、神の人であるエリヤを主人も同然の存在として取り扱ったわけです。つまり、オバデヤはエリヤを主人だと「見做した」というわけです。このような呼び方をエリヤは問題視せず、寧ろ『そうです。』と言って答え、自分がその呼び方通りの者であることを認めています。

【18:8~9】
『行って、あなたの主人に『エリヤがここにいます。』と言いなさい。」すると、オバデヤが言った。「私がどんな罪を犯したというので、あなたはこのしもべをアハブの手に渡し、私を殺そうとされるのですか。』
 オバデヤに会ったエリヤは、自分のことをアハブに告げ知らせるようオバデヤに命じます。エリヤは『神の人』でしたから、その口から出る命令には、罪を犯すのでもない限り、従うべきでした。何故なら、神の人は神の御心に適ったことをいつも命じるだろうからです。もしふざけたことを命じるなら、『神の人』であるとは言い難くなるでしょう。ですから、オバデヤはエリヤに言われた通り、エリヤのことをアハブに伝えねばなりませんでした。もしオバデヤがそのようにしなければ、オバデヤは神を蔑ろにしたことになるのです。何故なら、エリヤは神の権威を帯びていたからです。先に見た通り、エリヤはオバデヤから『主人』と呼ばれた際、『そうです。』と言って自分がオバデヤの主人であることを認めていました。しかし、エリヤはここでアハブがオバデヤの主人であるとも言っています。エリヤがオバデヤの主人であるのは霊的な意味においてです。アハブがオバデヤの主人であるのは肉的な意味においてです。ですから、エリヤもアハブもオバデヤの主人なのです。しかし、エリヤはオバデヤに対し肉的な主人なのではありません。アハブもオバデヤに対し霊的な主人なのではありません。

 このように言われたオバデヤは、エリヤについてアハブに告げることを恐れます。もし告げるならば、アハブに殺されると思ったからです。アハブがオバデヤを殺すとすれば、それはエリヤのゆえでした。どうしてオバデヤがこのように恐れたのかは、また後ほど語られます。ここでオバデヤは『私がどんな罪を犯したというので』と言っています。これはつまりオバデヤがその罪によりアハブに引き渡されて殺されねばならない、ということです。しかし、オバデヤは死ぬことになるべき罪を犯していなかったはずです。ですから、オバデヤは自分が罪のために殺されるのかと思い、驚きつつ恐れたのでした。

【18:10】
『あなたの神、主は生きておられます。私の主人があなたを捜すために、人をやらなかった民や王国は一つもありません。彼らがあなたはいないと言うと、主人はその王国や民に、あなたが見つからないという誓いをさせるのです。』
 アハブにとってエリヤは憎い者でした。何故なら、エリヤによりイスラエルは雨が降らなくなり、飢饉となったからです。アハブにはエリヤが害悪を齎す悪者としか思えませんでした。しかし、実際はエリヤが飢饉の原因というより、罪を犯し続けていたイスラエルが飢饉の原因でした。アハブはこのようにエリヤを敵視していましたが、このエリヤを知られている限り全ての国で捜しました。これはエリヤの言葉によらなければ雨が降らなかったからです。つまり、雨が降るか降らないかはエリヤにかかっています。ですから、アハブがエリヤを諸国で捜そうとしたのは当然だったと言えます。アハブは本当に全力でエリヤを捜そうとしたでしょう。それはイスラエル人の命と死がかかっていたからです。アハブはエリヤを捜すため、人を遣わした国に誓うことさえさせました。これはエリヤの居場所を知っているのに知らないと言わせないためです。このような誓いを求められた民や王国は、神を恐れていたのでもない限り、アハブの求め通り誓ったことでしょう。もし誓ったのに嘘であることがばれたならば、アハブを怒らせることになるからです。そうすればアハブから何をされるか分かったものではありません。

 これらの話が偽りでないことを知らせるため、オバデヤは『あなたの神、主は生きておられます。』と言って誓っています。つまり、ここでアハブに関して述べた話が偽りであれば、神から偽りを言ったことで罰されても構わないということです。しかし、オバデヤがここで話したことに偽りは全くありませんでした。神を恐れるオバデヤが、『神の人』であるエリヤに偽りを言うというのは、あり得ないことだからです。

 エリヤはこのようにアハブ王から憎まれ捜されていたのですから、かなりの困難と苦しみがあったと思われます。しかし、その困難と苦しみは、エリヤが神に仕えているがゆえでした。神に仕える忠実な僕であれば、こういった困難や苦しみが往々にしてあるものなのです。