【Ⅰ列王記18:11~22】(2024/05/26)


【18:11~12】
『今、あなたは『行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言え。』と言われます。私があなたから離れて行っている間に、主の霊はあなたを私の知らない所に連れて行くでしょう。私はアハブに知らせに行きますが、彼があなたを見つけることができないなら、彼は私を殺すでしょう。』
 どうしてオバデヤがエリヤのことでアハブに知らせるのを恐れたか、ここで示されています。オバデヤは、エリヤのことをアハブに告げても、エリヤがどこかへ行ってしまうと思いました。そうなればアハブはオバデヤからエリヤのことを聞いたのに、エリヤを見つけることができなくなります。こうなった場合、アハブは怒るでしょう。アハブが怒ったならば、オバデヤはいい加減なことを言う者と見做されて殺されるはずです。だからこそ、オバデヤはエリヤのことでアハブに伝えるのを恐れたのです。ここでオバデヤはエリヤに対し、『主の霊はあなたを私の知らない所に連れて行く』と言っています。神は御心のままに御自分の僕である預言者を動かされるからです。これについてはキリストも福音書の中で言っていることです。ピリポも、宦官にバプテスマを授けると、すぐ神に導かれて別の場所へと移されたのです。しかし、オバデヤからエリヤのことを聞いたアハブが、オバデヤを殺すことはありませんでした。何故なら、後ほど書かれている通り、エリヤは必ずアハブの前に出るつもりだったからです。つまり、オバデヤは無用な心配を抱いたに過ぎないことが分かります。

【18:12~13】
『しもべは子どものころから主を恐れています。あなたさまには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者を五十人ずつほら穴に隠し、パンと水で彼らを養いました。』
 オバデヤが『子どものころから主を恐れています』と言っているのは、本当のことでしょう。何故なら、聖書が『オバデヤは非常に主を恐れていた。』と述べているからです。神はオバデヤが『子どものころから』御自分への恐れを持つようにさせられました。何故なら、神の御恵みによらなければ誰も神を恐れることはできないからです。オバデヤはそのような主への恐れを示すため、前に行なった善をここで語っています。私たちが先に見た通り、イゼベルが預言者たちを虐殺した際、オバデヤは『百人の預言者を救い出し』たのです。これはオバデヤの持つ神への恐れが、行ないとして現われ出たことでした。もしオバデヤが神を恐れていなければ、寧ろイゼベルのほうを恐れていたでしょうから、預言者を救い出すということはしていなかったでしょう。この通り、神への恐れはその人の言行に現われ出ます。神への恐れが強ければ強いほど、その言行もより神を恐れたものとなります。しかし、神を恐れていなければ、その言行も神を恐れたものとはなりません。主の預言者たちを虐殺したイゼベルが正にこうでした。

【18:14】
『今、あなたは『行って、エリヤがここにいる、とあなたの主人に言え。』と言われます。彼は私を殺すでしょう。」』
 オバデヤは、エリヤの命令通りにするならば、アハブに殺されると思いましたから、かなりの恐れをここで示しています。オバデヤはこれからエリヤがどこかへ行ってしまい、アハブにエリヤのことを知らせても、アハブはエリヤを見つけられないと思っていたのです。しかし、エリヤはアハブにすぐ会うつもりだったことでしょう。ですから、オバデヤは少し行き過ぎた考えを持っていたことが分かります。

【18:15】
『するとエリヤは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。必ず私は、きょう、彼の前に出ましょう。」』
 オバデヤの恐れを知ったエリヤは、その恐れを除き去るべく、『必ず私は、きょう、彼の前に出ましょう。』とオバデヤに対して言いました。エリヤがその日にアハブと会うならば、アハブがオバデヤに怒ることはないでしょうから、オバデヤが殺されることもないはずです。しかも、エリヤはそのことについてここで『私が仕えている万軍の主は生きておられます。』と言って、誓うことさえしています。このようにエリヤが誓うほどであれば、もうオバデヤは恐れる必要が無くなります。エリヤがこのように言ったのは、単にオバデヤを安心させるためだけでなく、神の命令を守るためでもありました。何故なら、先に神は『アハブに会いに行け。』とエリヤに命じておられましたから、どうしてもエリヤはアハブに会わねばならなかったからです。

【18:16~17】
『そこで、オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来た。アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」』
 エリヤは自分で言った通り、しっかりとアハブに会いました。エリヤは、人間的な思いからすれば、アハブと会いたくなかったかもしれません。エリヤと同じ状況を持つ人がいたとして、どこの誰がアハブに会いたいと思うでしょうか。何故なら、それは死を求めるのも同然だからです。しかし、エリヤは人間的な思いがどうであれ、必ずアハブに会わねばなりませんでした。それは神が『アハブに会いに行け。』と命じられたからです。エリヤがアハブに会ったのは、オバデヤを安心させアハブから守る目的もあったでしょう。しかし、それは第二次的な目的に過ぎませんでした。言うまでもなく第一次的な目的は、エリヤがアハブに会うことそのものでした。つまり、オバデヤがどうなるにせよ、とにかくエリヤはアハブに会わねばなりませんでした。この通り、エリヤは自分の言った通りにしました。偽りのない神の御言葉を告げる預言者は、その行ないにおいて偽りがあってはならないのです。つまり、預言者の行ないはどれも純粋かつ誠実でなければなりません。ですから、エリヤはこのように、自分が言った通りアハブに会ったわけです。

 アハブがエリヤに会うと、何の挨拶もしませんでした。挨拶とは親交の始まりです。アハブにとってエリヤは嫌な人物でした。だからこそ、アハブはエリヤに会っても挨拶の言葉を発しなかったのです。それどころかアハブはまずエリヤに『イスラエルを煩わすもの』と言います。エリヤの言葉によりイスラエルは雨が降らなくなりました。このため、アハブはエリヤが雨を降らせなくなったとしか思えませんでした。ですから、アハブはエリヤが『イスラエルを煩わすもの』としか思えなかったのです。神の預言者に会っていきなりこういったことを言うのは、良くないことです。これはアハブが邪悪な者だったからに他なりません。邪悪な者の口は邪悪だからです。邪悪な者の口は呪われているため、その言うことも邪悪となるわけです。

【18:18】
『エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。』
 アハブに『イスラエルを煩わすもの』と言われたエリヤは、その言葉を『私はイスラエルを煩わしません。』と言って打ち消します。確かにエリヤはイスラエルを煩わしていませんでした。何故なら、イスラエルに飢饉が生じた原因はエリヤのうちに無かったからです。もしイスラエルがエリヤ一人しかいない場所だったとすれば、もしくはイスラエルの人々が全てエリヤのような者たちだったとすれば、イスラエルに飢饉は生じていなかったでしょう。もしアハブの言った通りエリヤがイスラエルを煩わしていたとすれば、エリヤだけでなく神もイスラエルを煩わしておられたことになります。何故なら、神はエリヤの言葉を通してイスラエルが飢饉となるようにされたからです。

『あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。』
 ここでエリヤが言っている通り、イスラエルを煩わしているのはエリヤというより寧ろアハブとアハブ『の父の家こそそうで』した。アハブの『父』とはオムリ王のことです。このオムリ王の『家』とは、オムリが支配していたイスラエル国家またイスラエルの人々です。つまり、イスラエルは自分自身で自分を煩わしていたのです。ここでエリヤが『現に』と言っている通り、イスラエル人たちは『主の命令を捨て』ていました。このような不服従がイスラエルに対する神からの呪いを引き起こしていたのです。何故なら、神は背きに対して報いられる御方だからです。ですから、イスラエル人たちはその罪により自らを煩わしていました。一方、エリヤは『主の命令を捨て』ていませんでした。ですから、エリヤはイスラエルに煩いを齎す原因となっていません。またアハブは『バアルのあとについていま』した。国家の代表者として神の御前に立つ王が偶像であるバアルを拝むというのは、致命的な状態でした。王が偶像崇拝をするならば国民にも偶像崇拝は広がるでしょうから、国全体が呪われるべき状態となります。このようにしてイスラエルには飢饉という呪いが齎されたのです。エリヤは『バアルのあとについてい』ませんでした。ですから、エリヤによりイスラエルが飢饉の災いを受けたのではありませんでした。

【18:19】
『さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」』
 この時のイスラエルは実に忌まわしい状態でした。何故なら、神の民である者たちが神を捨てて偶像に帰依していたからです。こんなにも忌まわしい事態が他にあるでしょうか。このような状況にあって、エリヤはイスラエルの偶像崇拝に戦いを挑もうとします。それは肉的な戦いでなく霊的な戦いでした。エリヤが戦おうとしたのは、エリヤの仕える神とイスラエルの拝む偶像のどちらが真の神であるか明らかにする目的があったからです。エリヤは『四百五十人のバアルの預言者』を集めるようアハブに求めます。当時のイスラエルにはこれほど多くバアルの預言者がいました。この「450」という数字に象徴性はないでしょう。この預言者たちは『イゼベルの食卓につ』いていましたが、これはつまりイゼベルに養われていたことです。バアルの預言者たちは身も心もイゼベルに支配されていたはずです。またエリヤは『四百人のアシェラの預言者』も集めるようアハブに指示します。アシェラの預言者もこれほど多く存在していました。この「400」という数字にも象徴性はないでしょう。このようにイスラエルには合計で950人も偶像の預言者がいました。預言者だけでこれほどいたとすれば、この預言者たちに耳を傾ける一般の偶像崇拝者はどれだけ多くいたことでしょうか。イスラエルの全体がバアルおよびアシェラ崇拝に満ちていたことは間違いありません。この「950」という合計数にも象徴性はないはずです。このように戦いは1人対950人となりました。人間的に考えれば、これはエリヤが不利となる戦いであると感じられたでしょう。しかし、これは神の戦いでした。エリヤには至高の神が共におられました。ですから、エリヤは950人を相手にしても臆することがありませんでした。エリヤがこの戦いの場所として選んだのは『カルメル山』でした。この山はイスラエルの北西部にあり、アシェル族の相続地に位置していました。この山を北に行けばフェニキア人の国となります。エリヤが山を戦いの場所として選んだのは、山は神のおられる天と近似的な場所だからです。このため、主もよく山で父なる神に祈られたのです。

【18:20】
『そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。』
 アハブは、エリヤの求めを拒むこともできました。しかし、アハブは全くエリヤの求め通りにしました。アハブは神を蔑ろにしていたので、エリヤに必ず勝てると思ったのでしょうか。1人対950人であれば勝利できる可能性が高いと予想したのでしょうか。それとも、もし拒んだらエリヤから自信が無いと思われるのを心配したため、弱みを見せぬようエリヤが求めた通りにしたのでしょうか。ここでアハブがどういった思いからエリヤの求めに応じたかは書かれていません。いずれにせよ、アハブがエリヤに応じたのは、神がアハブの心に応じるよう働きかけたからでした。何故なら、ソロモンが箴言で言っている通り、『王の心は主の御手のうちにあって水の流れのようだ』からです。「主は御心のままにその向きを変えられる」のです。ですから、アハブの心はエリヤに応じるよう神から動かされたことが分かるのです。こうしてアハブは『イスラエルのすべての人に使いをやり』ました。これはエリヤが『全イスラエル』を集めるよう指示したからです。当時の偶像崇拝は全イスラエルにとって重大な関わりがある問題でした。ですから、神とバアルのどちらが真の神か明らかにされる際は、全イスラエルがその場に集うべきだったのです。またアハブは偶像に仕える『預言者たちをカルメル山に集め』ました。これもエリヤに指示された通りのことです。このようにして真の神を明らかにする非常に重要な戦いが行なわれることとなったのです。こういった霊的な戦いは、神が望まれたことでした。

【18:21】
『エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」』
 エリヤがカルメル山に行ったこと、また民がカルメル山に集まったことの詳細は、ここで省かれています。しかし、彼らがカルメル山にまで集まった歩みは、知らなくても問題ないことです。私たちは、ただ彼らがカルメル山に集まったことだけを知っていればそれで十分です。そのようにして集まった民に対し、エリヤは重要なことを語ります。エリヤが語ったのは、イスラエルが酷い偶像崇拝の罪に陥っていたからです。もし彼らが偶像崇拝の罪を犯していなければ、エリヤもこんなことを言う必要はありませんでした。ここでエリヤは、イスラエル人が『どっちつかずによろめいている』と言っています。イスラエル人は偶像崇拝を行なっていたものの、しかし真の神と神崇拝が全く頭から離れたわけではありませんでした。彼らも神に従わなければならないことぐらい分かっていたはずです。しかし、彼らは偶像を何とかして拝みたかったのです。ですから、イスラエル人の心に霊的な葛藤があったことは間違いありません。その葛藤がここでは『どっちつかずによろめいている』と言われているのでしょう。こういった揺らいだ状態を持つイスラエルに対し、エリヤは『もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。』と言います。エリヤはイスラエル人が神のことで態度をはっきりするよう求めたのです。エリヤがこういったのは当然のことでした。何故なら、神である存在に従うというのは、あまりにも当然のことだからです。

『しかし、民は一言も彼に答えなかった。』
 このようにエリヤから態度をしっかり持つよう命じられたイスラエル人たちは、『一言も彼に答えなかった』のですが、これは彼らの心が揺らいでいたからです。彼らが神の民として神に従うべきであることは明らかでした。しかし、彼らはどうしてもバアルやアシェラといった偶像に従いたかったのです。もし神を神として認め、その神に従うというのであれば、バアルやアシェラなどに従うことはできなくなります。何故なら、真の神は御民が偶像に従うことを決して許されないからです。このため、イスラエル人は一言もエリヤに答えなかったのです。彼らは「答えなかった」と言えるだけでなく、「答えられなかった」と言うこともできるでしょう。葛藤による揺らぎが彼らの口を封じて返答できなくさせていたからです。しかし、当然ながら彼らはエリヤにしっかりと答えるべきでした。すなわち、彼らは「私たちはもうバアル崇拝を止めて神に立ち返ります。」と言うべきだったのです。

【18:22】
『そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。』
 エリヤが態度をはっきりさせるよう求めたものの、イスラエルはその求めに応じませんでしたから、エリヤ『ひとりが主の預言者として残っている』状況が明らかとなりました。後の箇所から分かる通り、実際はエリヤ以外にもバアル崇拝を行なっていないユダヤ人が存在していました。しかし、この時のイスラエルはどこを見てもバアル崇拝をするユダヤ人ばかりでした。現に、エリヤの前に立っている人々は全て偶像崇拝者のユダヤ人でした。ですから、この時にエリヤが『私ひとりが主の預言者として残っている。』と言ったとしても自然なことでした。このように言った時のエリヤはどのような思いを持っていたでしょうか。怒り、悲しみ、嘆き…。こういった感情がエリヤの心にはあったと思われます。

 カルメル山にいた『主の預言者』はただエリヤ『ひとり』だけでしたが、『しかし、バアルの預言者は四百五十人』でした。1人と450人。この数における差はあまりにも明白です。預言者でない一般のバアル崇拝者も含めれば、この時のイスラエルにバアル崇拝をする者はどれだけいたことでしょうか。しかし、神の御前で正しいのは言うまでもなくエリヤのほうでした。コペルニクスの場合を考えても分かる通り、少数派こそが真に正しい立場である場合も珍しくないのです。

 このようにエリヤはイスラエルにおいて真に正しい立場を持つ僅かな者でした。いつの時代もだいたい正しい者は少数派であるものです。ノアの時代でも、神の御前で正しいのはノアだけでした。宗教改革の時代でも、宗教改革者たちは教皇主義者たちに比べれば少数派だったのです。このため、カルヴァンは教皇主義者たちからの迫害を逃れて洞窟で礼拝を持つ状況となったのです。今の日本でも真のキリスト者である聖徒たちはごく僅かだけしかいません。ですから、たとえ少数派だからといって駄目だということにはなりません。寧ろ少数派だからこそ神に喜ばれる場合も多くあるのです。しかし、人間の精神は多数派こそが正しいと思い込む傾向を強く持っています。何故なら、どうしても人間は多くの人が奉じているのであれば正しいに決まっていると感じてしまうからです。ところが、こういった意識は、人間の精神が堕落しているため間違いやすいという真実を全く考慮していないのです。このため、エリヤの時代やコペルニクスの時代のように、多数派が間違っており少数派が正しいという状況になるのは決して珍しくないのです。