【Ⅰ列王記3:2~13】(2023/07/23)


【3:2】
『当時はまだ、主の名のための宮が建てられていなかったので、民はただ、高き所でいけにえをささげていた。』
 このⅠ列王記の記者が生きている時代では、もうかなり昔に神殿が建てられていましたが、この時はまだ建てられていませんでした。この時の神の御住まいはまだ天幕だったのです。新たな神の御住まいである神殿は、間もなくソロモンにより建設されることとなります。ソロモンの時代に至るまで神殿が建てられていなかったのは、決してユダヤ人の怠慢ではありませんでした。神殿がまだ建てられていなかったことについて、ユダヤ人は悪くありませんでしたし、ユダヤ人以外でも誰も悪くありませんでした。何故なら、ソロモンの時代になるまで、まだ神殿が建てられる時ではなかったからです。伝道者の書では何事にも『時』があると言われています。神の神殿が建てられるべき『時』もあったのです。その神殿が建てられる以前、『民はただ、高き所でいけにえをささげてい』ました。『高き所』とは文字通り高い場所を意味します。『いけにえをささげ』るとは神に対する礼拝行為です。イスラエル人が『高き所』で生贄を神に捧げていたのは合理的な理由からでした。すなわち、神はいと高き天におられますから、その神に対する礼拝場所は高い所が相応しかったのです。そこで捧げられていた『いけにえ』は、イエス・キリストという真の犠牲を示していました。ですから、古代のユダヤ人はキリストの贖いを神から受けていたのです。まだ名前こそキリスト者とは呼ばれていませんでしたが、彼らも私たちと同じくキリストに属する神の子らだったのです。なお、この『高き所』はイスラエルの各地にありました。しかし、全ての礼拝場所が同じ重要性を持っているわけではありませんでした。Ⅰ列王記3:4の箇所から分かる通り、高き所はその場所により重要性の差異があったのです。

【3:3】
『ソロモンは主を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいたが、ただし、彼は高き所でいけにえをささげ、香をたいていた。』
 ソロモンは王になってから『主を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいた』のですが、まだこの時は良い状態でした。ソロモンが『主を愛し』ていたというのは、つまり神の命令に聞き従っていたということです。何故なら、使徒ヨハネが第一の手紙の5章で言った通り、『神を愛するとは神の命令を守ること』だからです。『父ダビデのおきてに歩んでいた』というのも、同じくソロモンが命令に聞き従っていたことを示しています。既に私たちが見た通り、ダビデはソロモンに『おきて』として神に聞き従うよう命じておいたからです。私たちもこのソロモンのようにすべきです。全ての聖徒は神に聞き従って歩むべきだからです。しかしながら、まだ神殿が建てられていなかったので、ソロモンは『高き所でいけにえをささげ、香をたいてい』ました。ここでこう言われているのは、まだ神礼拝が次のステージに進んでいなかったからです。次のステージとは神殿における礼拝のことであり、それは前のステージである高き所による礼拝よりも優っていました。高き所での礼拝が何か悪かったと言われているのではありません。何故なら、それはあくまでも神に対する正式な礼拝だったからです。もしもう神殿が建てられていたならば、ソロモンは迷わず神殿での礼拝を選んでいたでしょう。ところが、この時には神殿で礼拝したくても決して出来ない状態でした。

【3:4】
『王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこは最も重要な高き所であったからである。ソロモンはそこの祭壇の上に一千頭の全焼のいけにえをささげた。』
 先に述べた通り、高き所は場所ごとに重要性の違いがあり、そのうち『ギブオン』に『最も重要な高き所』がありました。この『ギブオン』はベニヤミンの相続地にあり、エルサレムから20kmほど北東に離れています。このギブオンにソロモンは、恐らくエルサレムからでしょうが、礼拝のために向かいました。王が最も重要な礼拝場所に向かうというのは相応しいことだったからです。その場所で、ソロモンは『一千頭の全焼のいけにえをささげ』ます。その生贄が牛だったのか羊だったのかは分からないものの、これは非常に多くの数です。これは完全数10の三乗ですから、ソロモンの捧げた生贄が徹底的に完全だったことを示しています。また、これほどまで生贄を捧げられたのは、財力の豊かさを示しています。貧しければどうしてこんなにも多く犠牲を捧げられるでしょうか。

【3:5】
『その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」』
 ソロモンが生贄を捧げたのは、神の御心に適っていました。ソロモンは偽りの心からでなく、本当に敬虔な思いから生贄を捧げたはずだからです。ソロモンが捧げた生贄に、傷や病気を持った個体もいなかったはずです。何故なら、先に見た通りソロモンは『主を愛し』(Ⅰ列王記3章3節)ていたからです。神は律法で、傷や病気持ちの個体を捧げるなと言っておられます。ソロモンがこのような生贄を捧げたので、神はソロモンの願いを叶えることにされました。ソロモンは神の望み通りのことをしました。ですから、神もソロモンの望み通りのことをして下さるのです。というのも、神とは私たちに対し報いられる御方だからです。預言者の書に『あなたがしたようにあなたにもされる。』と書かれている通りです。私たちもソロモンのように御心を行なうべきでしょう。そうすれば私たちにも神は望み通りにして下さいます。何故なら、もし私たちが御心通りのことをしているのであれば、私たちは決して神の御心に適わないことを願わないでしょうから、私たちの望みは叶えられることになるわけです。ですから、主はこう言われたのです。『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』(ヨハネ15章7節)ソロモンの願いを聞かれる際、神は『夜』に『ギブオンで』『夢のうちに』現われて下さいました。『ギブオン』で現われたのは、そこでソロモンが生贄を捧げたからです。生贄を捧げた日の『夜』に現われたのは、事柄における流れの適切さのためだったはずです。『夢のうちに』現われたのは、神は古代時代にこのようなやり方をしておられたからです。創世記は、アブラハムの時代でも神がこのようにされたことを書き記しています。

【3:6】
『ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心をもって、あなたの御前を歩んだからです。』
 願いを言うように命じられたソロモンは、まずダビデに与えられた神の大きな御恵みを語ります。ソロモンが言っている通り、神はダビデに『大いなる恵みを施されました』。このような御恵みゆえ、ダビデは高められ、守られ、導かれ、栄えることができたのです。もし神の御恵みがなければ、ダビデはずっと平民のままであり、普通の歩みをしていただけだったかもしれません。このような御恵みを施されたダビデは、神に喜ばれていました。それはダビデが『誠実と正義と真心をもって』御前に歩んでいたからです。もしこのようにダビデが歩んでいなければ、神はダビデに御恵みを施しておられなかったかもしれません。何故なら、正しい態度と心を持たずに歩む者は、神に喜ばれることができないからです。神はこの『誠実と正義と真心』を喜ばれ、非常に重視しておられます。良い行ないがあっても、良い心が無ければ、神の御前に意味はありません。パリサイ人たちは行ないがあっても心は無かったので、キリストから大いに非難されたのです。ですから、私たちはこのことをよく弁えるべきです。100の善行があっても0%の心であるならば、1の善行しかなくても100%の心はあるほうが遥かに優っています。もし0%の心で100の善行をするぐらいならば、善行などしないほうがましです。0%の心しかない善行は善行だと言い難いからです。最も望ましいのは、言うまでもなく100の善行を100%の心で行なうことです。

【3:6~7】
『あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。』
 神はダビデに大いなる御恵みを与えられましたが、その子ソロモンを次のイスラエル王とされました。これは神がその『恵みを彼のために取ってお』かれたからです。神はダビデに与えられた御恵みを、ダビデだけに限定されませんでした。つまり、その御恵みはダビデからソロモンに引き継がれたのです。それゆえ、もしダビデに御恵みが無ければ、その子ソロモンも王となれていなかったでしょう。その場合、ダビデの子でない誰か別の者が、次の王となっていたはずです。ソロモンとはダビデへの御恵みによる王だったのです。このようにソロモンは神がその御心により王となるよう定めておられました。他の者では無かったのです。この通り、神の定められた者こそがその国における王となります。これは今の時代でもそうです。今の時代に見られる支配者は、誰でも神に支配者として立てられた存在なのです。このため、聖書は支配者を呪うなと命じているわけです。また支配者を尊ぶべきだとも命じているわけです。ソロモンは自ら王位を望み求めていなかったでしょう。それを望み求めたのはアドニヤでした。しかし、アドニヤは王位を求めたのに得られませんでした。それを求めていなかったであろうソロモンが王となったのです。求めている者でなく求めていない者が支配者や力ある有名人にまで高められる。神はしばしばこのようになさいます。ダビデもそうでしたし、ルターも間違いなくそうでしたし、アブラハムそうだったと言えるでしょう。

【3:7】
『しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。』
 ソロモンは自分が神から王に召されたことをよく知っており、またその召しを受け入れていました。モーセの場合は神から与えられた召しに抵抗してしまいました。しかし、まだこの頃のソロモンは『小さい子ども』でした。このため、ソロモンは『出入りするすべを知りません』でした。これは、まだ経験が足りないので世間で巧みに生きる思慮に乏しいという意味です。知恵があっても経験がまだ足りなければ、どうにもならない場合も多くあるのです。ソロモンは知恵がありましたから、このように自分がどのような状態であるかはっきり認識していました。というのも、知恵とは事物をありのまま正確に把捉する精神の力だからです。愚か者であれば自分をよく把捉せず高ぶって誇るのです。箴言でも言われている通り、愚か者は自信過剰だからです。

【3:8】
『そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。』
 ソロモンは無数の民衆を相手にする立場でした。1人の支配者に対してほとんど無限とも思える数の民衆が向き合っているのです。これがソロモンと民衆における関係図でした。その民衆の数はあまりにも多かったので、とても数えることは出来ないと思えたほどです。ですから、私たちは当時のイスラエル人が実際にどれぐらいいたか具体的な数を知ることが出来ません。当時の王であったソロモンでさえ『数えることも調べることもできないほど』の民がいたと言っているわけですから、どうして後世の人間である私たちがその数を知れるでしょうか。

【3:9】
『善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」』
 無数の民を前にして、ソロモンは上手く統治できると思えませんでした。当時の政治形態が現代日本のようであれば、あまり問題は無かったかもしれません。現在の天皇は日本の最高権威者ですが、しかし統治の力は行使しない状態であり、政治にもほとんど関与せず、象徴的な存在に留まっています。しかし、この時代のイスラエルにおいて王は統治せねばならなかったのであり、王は政治そのものでした。このようなソロモン王が政治をしないわけにはいきません。ソロモンが、政治をしないで遊んでばかりいたサルダナパロスやヘリオガバルスのようになるのは許されませんでした。ですから、ソロモンは神に『善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心』を願い求めます。このような心が与えられれば無数の民衆を上手く統治できるからです。神がこのような心を与えて下さるならば、どうして巧みに統治できないはずがあるでしょうか。ソロモンがこのように願ったのは、まだソロモンがこのような心を与えられていなかったからです。つまり、ソロモンの統治力は神から与えられた恵みだったことが分かります。

【3:10】
『この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。』
 ソロモンの願いは全く御心に適いました。何故なら、ソロモンは王として召されたからです。王の本質また存在意義とは「統治」です。その統治のためソロモンは幸いな心を求めたのですから、どうして神の御心に適わないということがあったでしょうか。ソロモンはつまり「神の召しを忠実に遂行させて下さい。」と願い求めたのだからです。ソロモンは前から統治のことで悩んでいたはずです。神はその悩みをご覧になっておられたでしょう。ですから、神はその悩みからこのような願いを引き出されたのです。というのも、神は正しい悩みを持つ者に顧みて下さるからです。また神は正しい者に対して情け深い御方だからです。私たちも正しい悩みに基づく正しい願いを持つべきでしょう。そうすれば私たちの祈りは聞かれると期待してよいのです。正しい悩みに基づかない正しくない願いであれば、祈りが聞かれることは無いでしょう。何故なら、神は正しくない者を喜ばれないからです。ヨハネ福音書で盲目だった者も言った通り、『神は罪人の言うことは聞かれない』のです。

【3:11~12】
『神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。』
 ソロモンは、『長寿』や『富』や『敵のいのち』を求めたりしませんでした。『長寿』は多くの人が欲するものです。『富』も願い求める人は少なくありません。『敵のいのち』が失われたらと希望する人はどれだけ多いことでしょうか。しかし、ソロモンはそのような事柄を求めず、むしろ『自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めた』のです。これは『長寿』や『富』や『敵のいのち』を求めるより真面目な求めでした。その求めには私利私欲が無かったからです。ソロモンはただ自分を召して下さった神と民衆すなわち隣人のためにこそ、こう求めたのです。これは神と人とを愛せよと命じている律法に適っていました。このため、神はソロモンの願いを喜ばれ、彼に『知恵の心と判断する心』を与えられました。『知恵の心』とは事物を正しく把握し読み取る理性の力です。『判断する心』とは捉えた事柄において、悪を退け善を選び取る力です。このような心が神の御恵みにより与えられたのです。それはソロモン自身から出たものではありませんでした。私たちから良いものは何も出ないからです。それはバプテスマのヨハネが、『人は天から与えられるのでなければ何も受けることはできません。』と言った通りです。

【3:12】
『あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。』
 このような心を与えられたソロモンのような王は、ソロモン以前に全くおらず、ソロモン以降にも現われることがありません。確かにソロモンから今の時代に至るまで、ソロモンのような王は現われませんでした。これからもそのような王が現われることはありません。これからソロモンのような王が現われる可能性は僅かだけであればあるだろう、などと期待してはなりません。何故なら、神がここで言われたのは真実なことだからです。詩篇でも『みことばのすべてはまことです。』と書かれています。確かにこの事柄は全く真実でした。ソロモン以前の時代を考えると、どうでしょうか。モーセは学識も豊かであり非常に高い知性を持っていたはずです。しかし、モーセは知恵深くても、ソロモンのような王ではなく、また極めて大きな富も持っていなかったでしょう。人類最初の王であるニムロデは、多くの国と地域を支配する王であり、その支配力はとてつもなかったはずです。しかし、このニムロデも知の点ではソロモンに及ばなかったでしょう。ソロモン以降の時代を考えると、どうでしょうか。ダニエルは神の知恵を持つ類稀な知者でした。しかし、ダニエルは知恵深くても、王ではありませんでしたし、莫大な富にも恵まれていなかったと思われます。ローマの初代皇帝であるアウグストゥスは、ローマの支配者でしたから、恐らくソロモンと同等程度の支配力と栄誉を持っていたはずであり、また古代の歴史書から分かる通り、彼は非常に知性の高い人物でした。しかし、このアウグストゥスの持つ知性はソロモンのそれより劣っていたはずです。これは五賢帝の場合でも同じことが言えます。このようにソロモンは知恵と富と栄誉の領域において頂点を極めていました。「天は二物を与えず」と諺にありますが、神はソロモンに三物をも与えられたのです。このような三物に恵まれた王はこれから現われることがありません。

【3:13】
『そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。』
 ソロモンの願いは御心に適い、それは神の喜ばれることでした。ソロモンは神の望み通りのことを望んだからです。このため、ソロモンには卓越した知恵の心だけでなく、それに加えて『富と誉れ』も与えられることとなりました。これは神がソロモンとその願いを喜んでおられたことをよく示しています。つまり、この『富と誉れ』が与えられたのは、神の喜びにおける具体的な印だったのです。ソロモンは非常に正しいことを1つ願ったので、3倍もの恵みに与かることとなりました。もしソロモンが先に『富と誉れ』を願っていたとすれば、神に喜ばれず、何一つ受けていなかったかもしれません。この出来事からも分かる通り、神の御心に適ったことを願うのであれば、それに伴い多くが与えられることとなります。ですから、私たちは最も大事な事柄を切に願うべきなのです。そうすれば『願わなかったもの』さえも与えられるでしょう。このため、キリストは福音書の中でこう言われたのです。『何はともあれ、あなたがたは神の国を追い求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものは与えられます。』

『あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。』
 ソロモンの時代において、ソロモンは最も輝かしい栄誉を持つ王でした。当時においてソロモンより偉大な王はいませんでした。ソロモンと同等程度の偉大さを持つ王もいませんでした。これは神が極めて大きな栄誉をソロモンに与えられたからです。ソロモン以降の時代で言えば、これはローマ皇帝が該当するかもしれません。ローマの皇帝も最高の栄誉を持っており、どのような王でもローマ皇帝には偉大さで劣っていたのです。ソロモンはあまりにも栄誉が大きかったので、その名は今に至るまで鳴り響いているほどです。現代の日本人でさえ「ソロモン」という言葉がタイトル名に使われたゲームなどの作品を作っているほどなのです。このような偉大さはただ神によりました。ソロモンが自分自身から偉大になったのではありません。つまり、神がソロモンに働きかけて下さらなければ、ソロモンは偉大な王になっていなかったのです。たとえ王といえども自分から偉大になることは出来ない話だからです。この箇所の御言葉は、誠に確かであることが、もう既に歴史において実際的に示されています。何故なら、もうソロモンは死んだからです。このように神の御言葉はどれも真実です。この御言葉もそうですが、神の御言葉が地に落ちることは決してありません。