【Ⅰ列王記18:23~32】(2024/06/02)


【18:23~24】
『彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。』
 エリヤは、自分が仕える神とイスラエル人の拝むバアルのどちらが真の神であるか明らかにするため、ある方法を提案します。その方法は非常に分かり易い内容のものでした。まずエリヤはバアル崇拝者たちに『二頭の雄牛を用意せよ』と命じます。その雄牛に傷や欠陥があってはなりませんでした。何故なら、この雄牛は神に捧げられる生贄だからです。そして、バアル崇拝者たちは『自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せ』なければなりません。こうして準備が整います。しかし、通常の場合と違い、この時に『火をつけてはな』りませんでした。エリヤも残ったほうの『雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでお』くようにします。エリヤもこうして準備をします。こうであればエリヤとバアルの預言者は対等な条件また立場となります。こうしたなら、まずバアルの預言者は『自分たちの神の名を呼』ばねばなりません。すなわち、腐ったバアルの名をです。律法においてユダヤ人が偽りの神々の名を呼ぶことは禁じられています。エリヤもそのぐらいのことはよく知っていたはずです。しかし、エリヤは目の前にいたユダヤ人がバアルの名を呼ぶよう命じました。このような禁じられたことをエリヤが命じたのは、どうしてもそのようにすることが必要な状況だったからです。つまり、エリヤがここでユダヤ人に罪を犯すよう命じたと考えることはできません。そうしたならエリヤも『主の名を呼』ぶことになります。本来であればユダヤ人はみな主の名を呼ぶべきでした。しかし、エリヤの前にいたユダヤ人は全てバアル崇拝をしている者だけでした。ですから、この時に主の名を呼ぶのはエリヤただ一人だけでした。このような状況にあって、本当の神であれば、御名を呼ばれた際は『火をもって答える』でしょう。誰も火を付けていないのに生贄が火で焼かれるのならば、そのようにした存在が真の神であることは明らかです。このようにしてエリヤの仕える神とバアルのどちらが真の神であるか明らかとなります。これは実に分かり易く結果も容易く確認できましたから、イスラエル人はエリヤの提案に納得して『それがよい。』と言いました。こうして霊的な戦いが始まることになったのです。

【18:25】
『エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたがたで一頭の雄牛を選び、あなたがたのほうからまず始めよ。人数が多いのだから。あなたがたの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」』
 戦いの始めにおいて、まずエリヤはバアルの預言者たちが『一頭の雄牛を選』ぶように命じます。エリヤはバアルの預言者たちが選ばなかったほうの雄牛を使うのです。どうしてバアルの預言者たちが先だったかと言えば、それは『人数が多いのだから』です。多数派のほうが先に行なうというのは、よくあることです。エリヤはまずバアル崇拝者たちからバアルの『神の名を呼べ』と言っていますが、それはエリヤにとって忌まわしいことであり、出来るならばイスラエル人に止めさせたいことでした。しかし、それでもエリヤはイスラエル人がバアルを呼ぶようにと命じるのです。これは必要あってのことであり、決してエリヤがイスラエル人を罪に導いているのではありません。バアル崇拝者たちがバアルの名を呼んでも、『火をつけてはな』りませんでした。小学生でも分かるでしょうが、このような状況の時に火を付けたらなら、全てが無意味となるからです。人が火を付けないからこそ、この時に真の神がどちらなのか明らかとなるわけです。

【18:26】
『そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」』
 バアルの預言者たちは、エリヤに命じられた通り、生贄の準備を整え、自分たちの神であるバアルの名を呼びました。神の民である者たちが『バアルよ。私たちに答えてください。』などと言うのは、何という酷さ、何という醜い光景でしょうか。これは最悪のことです。しかし、これが当時のイスラエルにおける現実でした。これが現実となるほどまでイスラエルは堕落していたわけです。この時にバアルの預言者たちがバアルの名を呼んだのは、つまり彼らがバアルであれば応じてくれると期待していたからに他なりません。すなわち、バアルであれば火をもって答えてくれるだろうと。もしこういった期待を僅かでさえも持っていなければ、彼らもバアルの名を呼ぶことはしなかったでしょう。何故なら、全く応じることがないと分かっている対象に、どこの誰が応じられることを求めて呼ぶのでしょうか。しかし、彼らには期待がありましたからバアルを呼んだのです。ここに彼らの忌まわしいバアル信仰がありました。

『しかし、何の声もなく、答える者もなかった。』
 バアルの預言者たちがバアルを呼んだものの、『何の声もなく、答える者も』ありませんでした。これはバアルが偽りの神であって、人間が勝手に考え出した実際は存在しない存在だからです。何もない空間に向かって誰かが呼んだとすれば、その空間は果たして答えてくれるでしょうか。あり得ないことです。これと同じでバアルの預言者たちがバアルを呼んだのは、無に向かって呼ぶのも同然でした。もしバアルが本当の神であれば、バアルはイスラエル人たちの呼ぶ声に応じていたでしょうから、バアルの声や答えが必ずあったことでしょう。

『そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。』
 バアルの預言者たちは、心からの誠実さでバアルを呼んでいたはずです。しかし、そのような声にバアルは全く答えませんでした。バアルとは無の存在でしかないからです。ですから、バアルの預言者たちは全く虚しいことをしていました。もし本当にバアルが神ならば、必ずバアルの預言者たちに答えていたことでしょう。バアル崇拝者たちが呼んでも反応はありませんでしたから、彼らは自分たちの求めがまだまだ足りないと判断したはずです。このため、彼らは『自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った』のです。こうすればバアルに答えてもらえると思ったからです。すなわち、こうすればバアルは祭壇の生贄に火を付けてくれるだろうと。神の民であるイスラエル人たちが、こういった忌まわしい行為をするのは何と不気味だったでしょうか。これほどに耐え難い光景が他にあったでしょうか。しかし、この時のイスラエル人は平気でこういったことを行ないました。それほどまでにイスラエル人は堕落していたわけです。このようにしてバアル崇拝をしていたイスラエル人たちの醜態が、聖書で永遠に記録されることとなりました。彼らは聖書においていつまでも恥辱を受け続けるのです。これは彼らに対する神からの正当な報いだったのでしょう。

【18:27】
『真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」』
 バアル崇拝者たちが『朝から真昼までバアルの名を呼んで』も反応はなく、それから踊り始めたものですから、それを見たエリヤは『彼らをあざけ』りました。エリヤが嘲ったのは、バアル崇拝者たちの振る舞いがあまりにも馬鹿げていたからです。この時にエリヤは『もっと大きな声で呼んでみよ。』と言います。何故なら、バアルは『神なのだから』です。つまり、もしバアルが本当に神であれば『大きな声で呼んでみ』ることにより答えてもらえるだろうと言うのです。しかし、エリヤはどれだけ大きな声で呼んでも決して応じてもらえないことをよく知っていました。このようなバアルをここでエリヤは大いにからかっています。まずエリヤはバアルが『何かに没頭しているか』もしれないと言います。つまり、大きな声で呼べば『何かに没頭している』バアルも気付いてくれるだろうというわけです。次にエリヤはバアルが『席をはずしているか』もしれないと言います。これもバアルを馬鹿にしているのです。そしてエリヤはバアルが『旅に出ているの』かもしれないとも言います。自分に対する崇拝者たちを無視して旅行するというのは、何という神でしょうか。更にエリヤはバアルが『寝ているかもしれない』とも言います。このような時に寝ているバアルは、何といい加減な神でしょうか。エリヤはバアルが存在していないことを知っていましたから、このように大胆な嘲りをすることができたのでした。

 この通り、エリヤは偽りの神であるバアルを容赦なく嘲りました。聖書もやはり多くの箇所で偽りの神を容赦なく嘲っています。これは偽りの神々が存在しておらず、しかも真の神から栄光を奪い取る忌まわしい存在だからなのです。神にとって偽りの神々は目障りな存在です。ですから、神が聖書で偽りの神々を非難しておられるのは当然なのです。教会も、エリヤのように偽りの神々を非難すべきです。偽りの神々とは神に敵する邪悪な存在なのですから、神を愛する聖徒たちはその偽りの神々を否定せねばなりません。他宗教における偽りの神々を尊重する聖徒は、真の神を愛していないのです。しかしながら、人々は偽りの神々を神として平気で崇めています。これは大変に惨めな状態です。それゆえ、教会は彼らが偽りの神々から離れるようになるのを望まねばなりません。

【18:28】
『彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。』
 エリヤがバアルを大いに嘲りましたから、バアルの預言者たちはますます熱心になりました。スポーツを考えても分かる通り、敵対する相手から嘲りを受けた場合、選手やサポーターなどは奮い立つものです。それは、奮い立つことで相手を打ち負かし、嘲りを覆してやろうと思うからです。こうしてバアルの預言者たちは『ますます大きな声で呼ばわり』ました。彼らは、エリヤが言った通り、本当にバアルが『何かに没頭してい』たり『席をはずしてい』たり『旅に出てい』たり『寝ているのかもしれない』と思ったのかもしれません。つまり、『ますます大きな声で呼ばわ』るならば、このようなバアルも自分たちの声に気付いてくれるだろうと。彼らはバアルに幻想を抱いていたわけです。更に彼らは『剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけ』ることさえしました。こうすればバアルも応答してくれるだろうと思ったからでしょう。このようにするのは『彼らのならわし』でした。つまり、このようにするのはこの時だけでなく、これまでも行なわれていることでした。この通り、バアル崇拝者たちはバアルに翻弄されていました。サタンがバアルを通してイスラエル人を狂わせていたのです。というのも、偶像とはサタンと悪霊どもがその中に自分たちを現わしている存在だからです。サタンは、そのようにして人間を偶像で狂わせて喜ぶのです。人身御供もこの類に属する行為の一つです。サタンの現われである偶像を拝む者たちは、このようにして自らの罪悪に対する当然の報いを受けるのです。

【18:29】
『このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。』
 バアルの預言者たちはこのように『捧げ物をささげる時まで騒ぎ立てた』のですが、結局は全く意味がありませんでした。『何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった』のです。彼らがどれだけ頑張ってバアルに働きかけても、効果は塵ほどもありませんでした。ここまでやっても無駄だったのですから、これからも無駄であることは変わらないでしょう。バアル崇拝たちもそのことを少しぐらいは感じていたかもしれません。何故なら、これからバアルが応じてくれるとすれば、そもそもバアルは既に応じてくれていたはずだからです。偶像崇拝者たちはこのように無駄な行為をせねばなりませんから、非常に虚しいのです。

【18:30】
『エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい。」と言ったので、民はみな彼に近寄った。』
 バアルの預言者たちがどれだけ頑張ってもバアルから応答を得られませんでしたから、彼らは意味の無い行ないをしただけでした。これから彼らがまた何かをしても、どうせ状況はいつまでも変わらないことでしょう。ですから、今度はエリヤが神を呼ぶ番となりました。すなわち、今度はエリヤが生贄に神から火を付けてもらう儀式となりました。その際、エリヤは『私のそばに近寄りなさい。』と言って『民全体』を自分に近寄らせます。これはこれからエリヤがすることを民によく確認させるためです。エリヤには自信があったはずです。そしてエリヤがこれから行なう儀式は非常に重要な意味を持ちます。だからこそ、エリヤはしっかりバアル崇拝者たちにこれから行なわれる事柄を見せようとしたのです。もし遠く離れていれば、確認できることも確認しにくくなるか、確認できなくなってしまうからです。

『それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。』
 エリヤの時代には『主の祭壇』が『こわれてい』ました。祭壇がこのようになっているのは、致命的に悲惨な状態でした。何故なら、この祭壇において神への犠牲が捧げられるのだからです。その犠牲として捧げられる動物は、真の犠牲であられるイエス・キリストを指し示していたのです。つまり、この時代のイスラエル人は神のことなど本当にどうでもいいと思っていたことが分かります。彼らにとって何よりも重要なのはバアルでした。この『主の祭壇』が置かれていたのはカルメル山です。この山でイスラエル人はかつて神への生贄を捧げていたわけです。しかし今となっては…。エリヤはこの壊れていた祭壇を『建て直し』ました。何故なら、イスラエルにおいて主の祭壇が壊れていたままであるのはとんでもないことだからです。真の聖徒であれば、主の祭壇を建て直すべきでした。もし壊れたまま放置しておくならば、神のことなど気にしていないことになるからです。

【18:31~32】
『エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる。」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。その石で彼は主の名によって一つの祭壇を築き、』
 イスラエル民族とは、ヤコブに血縁的に連なるヤコブの子孫という意味です。『イスラエル』とは、神がヤコブに新しく与えられたヤコブの別名です。しかし、別名だといっても、それはヤコブのもう一つの正式な名でした。ですから、ヤコブはイスラエルであり、イスラエルはヤコブなのです。イスラエル民族とは「ヤコブ族」と言えば分かり易いでしょう。この『イスラエル』という名については、ここまで聖書を読めば分かることです。けれども、聖書は確認のためここでそのことを述べています。この『イスラエル』とは<神と戦う>という意味です。

 イスラエルの部族は『十二』ありました。エリヤはこの部族数に合わせて、『十二の石を取』り、その石で『祭壇を築き』ました。エリヤがどうして12の石を取ったかと言えば、それは祭壇で生贄を捧げる存在がイスラエルすなわち神の民だからです。この祭壇は神がイスラエルに築くよう定めたのですから、イスラエル民族を示す12の石で築かれるのが相応しかったのです。つまり、意味なく12の石で祭壇が築かれたのではありません。エリヤはこの祭壇を『主の名によって』築きました。つまり、自分の名や誰か偉い権力者の名によってではありません。エリヤは主の御前で、主のために、主において祭壇を築きました。ですから、エリヤがこれを築いたのは聖なることでした。築かれた祭壇は『一つ』だけです。2つとか3つとかそれ以上ではありません。何故なら、主の祭壇は『一つ』だけあれば問題なかったからです。