【Ⅰ列王記18:32~42】(2024/06/09)


【18:32~35】
『その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と命じた。ついで「それを二度せよ。」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ。」と言ったので、彼らは三度そうした。水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。』
 エリヤが準備を整えています。まずエリヤは、祭壇の回りに溝を掘りました。それは『二セアの種を入れるほどのみぞ』でしたが、一セアは7.6リットルですから、15.2リットルになります。この溝が彫られたのは、そこに水が注がれるためです。それからエリヤは『たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ』ましたが、これは神に火を付けていただくためです。この並べられた『たきぎ』がどれぐらいの量だったかは書かれていません。エリヤが『切り裂』いた『一頭の雄牛』は、バアル崇拝者たちが選ばなかったほうの残りです。この雄牛は当然ながらキリストを指し示しています。そしてエリヤは『四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。』とバアル崇拝者たちに命じます。すると、『水は祭壇の回りに流れ出し』、『みぞにも水』が満たされました。エリヤはこの注ぎをバアル崇拝者たちに行なわせました。それは本来であればイスラエル人が行なうべきだったことを、行なわずにいたからです。このように水が注がれたのは、清めのためです。律法では水が清めのために指定されているからです。『四つのかめ』に水が満たされたのも意味があります。これは全体を示す「4」ですから、つまり祭壇が全体的に水で清められることを意味します。意味なく「四つのかめ」に水を満たせと命じられたのではありません。エリヤは「4」が示す意味を知っていたはずなのです。

 この時にエリヤは、まず注ぎを『二度せよ。』と言ってから、また『三度せよ。』とも言いました。エリヤはどうしてこのように言ったのでしょうか。これは清めを強調するためだったはずです。これを2たす3=「5回」として考えるべきではありません。これは「2回」と「3回」としてのみ考えるべきです。つまり、エリヤはまず2回の注ぎにより注ぎを強調し、更に3回の注ぎをすることでまた注ぎが強調されるようにしたのです。これにより祭壇は完全に清められたことが示されるわけです。

【18:36】
『ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。』
 エリヤが『進み出て言った』のは、神に火を求めるためでした。何も言わないことには神からの火が注がれることもないからです。エリヤが『進み出て言った』のは、『ささげ物をささげるころ』でした。祭壇の準備をしてから、このように言うまで、どのぐらいが経ったかは分かりません。しかし、『ささげ物をささげるころ』が進み出て言うべき<時>でした。何故なら、火が付けられるのは『ささげ物をささげるころ』こそ最もちょうど良いからです。この箇所ではエリヤが『預言者エリヤ』と言われています。つまり、単に「エリヤ」ではなく『預言者エリヤ』と言われています。これまでの箇所ではエリヤが単に「エリヤ」と言われているだけでした。この箇所で『預言者エリヤ』と言われているのは、この時に神から火を求めるエリヤは預言者として非常に輝いていたからです。

『「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。』
 エリヤはまず神の御名を呼び求めます。何故なら、エリヤが火を求める対象は他でもない神だからです。ここでエリヤは『アブラハム、イサク、イスラエルの神』と言い、はっきりどの神であるか明らかにしています。エリヤがこう言ったのは、つまり他の神を呼び求めているのではないということです。エリヤはここで自分の神と偽りの神々を区別しています。当然ながらバアルやアシェラといった糞どももそうです。この『アブラハム、イサク、イスラエルの神』こそが唯一真の神であられます。それ以外の神はどれも全て偽りの存在に過ぎません。またエリヤはここでヤコブを『イスラエル』と言っています。これはエリヤがここでイスラエル人を民族として強く意識しているからです。この箇所で『主』と訳されているのは原文で『ヤハウェ』ですから、エリヤが実際に言ったのは『主よ』でなく『ヤハウェよ』です。これは原文が勝手に変更されてしまっています。カルヴァンは御名を原文のまま訳しましたが、そうしたほうが正しいでしょう。

『あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。』
 エリヤはここで神から火を求める理由として3つの事柄を挙げています。意味なく火を神から求めたわけではないのです。まずエリヤは神が『イスラエルにおいて神であ』ることを『明らかに』して下さるよう求めています。何故なら、バアルは火を注げませんでしたが、神であれば注いで下さるからです。実際に火を注げるのが真の神であることは言うまでもありません。次にエリヤは自分が神の『しもべ』であることを『明らかに』して下さるよう求めています。神がその求めに応じて火を注いで下さるのであれば、そのように求める者が神の『しもべ』であることは明らかです。何故なら、『しもべ』でもない者が、どうして神から火の求めを聞き入れてもらえるでしょうか。そしてエリヤは神の『みことばによって私がこれらのすべての事を行なったということ』も『明らかに』して下さるよう求めています。もしエリヤが神の御言葉により火を求めるのでなければ、火は注がれなかったかもしれません。何故なら、神は御自分の御言葉において大いなることを成し遂げて下さるからです。エリヤはこのような事柄を『きょう』に明らかとして下さるよう願っています。明日とかそれ以降であれば少し遅いのです。もし『きょう』でなければ、エリヤの求めにより火が注がれるまでの間、バアル崇拝者たちには侮りの心が生じることにもなりかねません。ですから、『きょう』に願いが聞かれることこそ相応しかったのです。何にでも適切な時というものがあります。ソロモンが伝道者の書で『すべての営みには時がある。』と言っている通りです。このようなことを神に求めたエリヤは、真に命懸けだったはずです。後の箇所から分かる通り、この戦いでは命がかかっていたからです。このため戦いに負けたバアルの預言者たちは殺されてしまったわけです。しかし、この時のエリヤは神信仰において必ず勝利できる確信を持っていたことでしょう。

【18:37】
『私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」』
 エリヤは何としても神に願いを聞いていただきたいと思ったことでしょう。この戦いでは命がかかっていますから、エリヤはたとえ死んでも願いを聞いてもらいたいと思ったかもしれません。ですから、エリヤはここで『私に答えてください。』と二度もお願いしています。これはエリヤの切なる思いと強い心を示しています。また、エリヤはこの祈りの中で『ヤハウェよ』と3度も繰り返して言っています。これも神に対するエリヤの強い思いを示しています。こうしてエリヤは、イスラエルの『民』が、ヤハウェこそ真の神であることを『知るように』求めました。バアルが火を注げないのに、ヤハウェは注がれるというのであれば、どちらが真の神であるかは誰の目にも明らかだからです。これでは間違っても真の神を判断し誤ることができません。またエリヤは神がイスラエル人たちの『心を翻してくださることを知るように』とも求めました。これまでイスラエル人たちの心はバアルに夢中であり、真の神から離れた状態でした。しかし、イスラエル人たちが奉じていたバアルは火を注げず、ヤハウェは注がれるのです。ここにおいてイスラエル人のバアルに対する幻想は打ち砕かれ、その心が翻されることになるのです。

【18:38】
『すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。』
 エリヤの切なる求め通り、『主の火が降って来』ました。神がエリヤに答えて下さったのです。この主からの火における大きさとか色とかいった詳細はここで書かれていません。私たちは、この火が主により生じさせられた火であると弁えていればそれで問題ありません。この火は、祭壇と祭壇に関わる全ての物を包み込みました。すなわち、主からの火は『全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしま』いました。これこそヤハウェが真の神であられる紛れもない証拠でした。神は御自分こそ真の神であられると、火の注ぎを通してまざまざと示されたのです。この箇所で、火が焼き尽くす対象となった物は「5」つ挙げられています。聖書で「5」に象徴的な意味はありませんから、これは単に5つの物が焼き尽くされたというだけのことです。

 この通り、エリヤは戦いの勝利者となりました。イスラエル人たちが拝んでいたバアルは火を注げないのに、エリヤの仕えていたヤハウェは注がれたからです。エリヤが火を注いだというのではなく、注がれたのは全く神であられます。ですから、神がこの時、エリヤに勝利を与えて下さったのです。このように神を信じる正しい聖徒であれば必ず勝利することができます。しかし、偽りの神々を拝む邪悪な偶像崇拝者たちは敗北して悲惨になります。

【18:39】
『民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。』
 神が注がれた火により、エリヤの仕えていた神こそが真の神であると明らかになりました。この状況にあって、まだヤハウェを神と認めない者がいたとすれば、そのような者はギネス級の馬鹿者だったと言えましょう。何故なら、それは太陽を見ながら太陽について認めないようなものだからです。しかし、この時にこのような愚か者はいなかったはずです。このため、イスラエル人は『みな、これを見て、ひれ伏し』ました。これまでイスラエル人はずっとバアルに対してひれ伏し続けていました。しかし、ヤハウェに対してこうすることこと彼らが本来的にすべきことでした。もし主からの火を見ながらこうしなかったとすれば、イスラエル人はどうなっていたでしょうか。こうしてイスラエル人は『主こそ神です。主こそ神です。』と言います。彼らが2回このように言ったのは、神に対する恐れのためでした。人はあまりの恐れに揺るがされると、懇願や告白などを繰り返すものだからです。例えば、非常な危機に陥った人であれば「どうか助けて下さい。助けて下さい。」などと繰り返すものです。

【18:40】
『そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕えよ。ひとりものがすな。」彼らがバアルの預言者たちを捕えると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。』
 決定的な出来事が起きたので、この場においてエリヤは圧倒的な勝利者として君臨していました。この時には誰もエリヤに逆らえる者などいなかったはずです。こうしてバアルの預言者たちは絶望的な状況に陥りました。ここでエリヤは『バアルの預言者たちを捕えよ。ひとりものがすな。』と命じ、『キション川』で彼らを全て殺しました。殺されたのはバアルの預言者たちです。一般のイスラエル人たちは殺されることがありませんでした。一般人はバアルの預言者から教え導かれる従属的な存在に過ぎませんでしたから、預言者たちに比べれば責任が軽かったのです。しかし、バアルの預言者たちは指導また教示しますから、その責任は極めて重かったのです。バアルの預言者たちが『キション川』で殺されたのは何故なのでしょうか。これはカルメル山で血を流すのがあまり相応しくなかったからなのでしょう。というのも、カルメル山には主の祭壇があったからです。

 このようにエリヤがバアルの預言者たちを殺したのは、つまり死刑でした。この死刑は神の御前で全く合法でした。何故なら、律法ではイスラエル人を偽りの神々に誘う者たちが死刑に定められているからです。バアルの預言者たちにおける罪は極めて重く、弁解の余地がありませんでした。ですから、彼らが死刑に処せられたのは当然のことでした。

【18:41】
『それから、エリヤはアハブに言った。』
 この時のアハブはカルメル山でエリヤと共にいました。何故なら、この戦いはイスラエルにとって非常に重要だったからです。それは、その言葉に飢饉がかかっているエリヤと戦うのだからです。ですから、もしアハブがカルメル山に行かなかったとすれば、アハブは王でありながらイスラエルとその民衆を蔑ろにしていたのです。しかし、そこまで間抜け者であるアハブではありませんでした。このアハブもバアルを崇拝していましたが、バアルの預言者たちのように殺されはしませんでした。これはアハブが神に立てられた正式な王だったからなのでしょう。たとえアハブのように不敬虔な王であっても、不敬虔だからというので勝手に殺すことはエリヤでさえ許されませんでした。もしそうするのであれば、エリヤはアハブに王権を付与された神を軽んじることとなるからです。しかし、バアルの預言者であればエリヤは殺すことができました。彼らはイスラエルにおいて死罪を犯していただけでなく、アハブのように王権を与えられていたのでもなかったからです。

『「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」』
 完全なる敗北者となったアハブが、エリヤに対してどのような思いを持っていたか、またその雰囲気がどのようだったかは、何も示されていません。ただアハブはエリヤに対して完全な奴隷状態であるも同然だったはずです。もしかしたらエリヤに対して非常な恐れを抱いていた可能性もあります。何故なら、この時のアハブは殺されても不思議なことがない状態だったからです。このアハブに対しエリヤは『上って行って飲み食いしなさい。』と命じます。上るのはカルメン山をです。エリヤもアハブもカルメル山の頂上にいたのではありませんでした。ですから、2人はまだ山の上に行くことができました。アハブが上るべきなのは『激しい大雨の音がするから』でした。これからはもう雨が降るようになり、飢饉も止み、食糧に悩まされることがなくなります。そのような状態となるのを示すため、エリヤはアハブが『飲み食い』すべきだと命じたのです。つまり、エリヤのこの命令は非常に象徴的でした。

【18:42】
『そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。』
 エリヤの仕えている神こそ真の神であると分かったのですから、アハブはエリヤの言うことに従わざるを得ませんでした。もしエリヤに従わなければ、アハブはどうなっていたか分かりません。逃げたり反発することもできなかったはずです。この時にアハブが何を飲み食いしたかは示されていません。

『エリヤはカルメル山の頂上に登り、』
 こうしてエリヤもカルメル山を上ることとなりました。エリヤもアハブと同じで山の頂上にいるのではなかったからです。このことから、主の祭壇は頂上に築かれたのではなかったことが分かります。