【Ⅰ列王記18:42~19:4】(2024/06/16)


【18:42】
『地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。』
 カルメル山の頂上に登ったエリヤは、『地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめ』ました。エリヤはどうしてこのようにしたのでしょうか。意味なくこのようにしたことはないはずです。エリヤはバアルの預言者たちを多く殺しましたが、身体的にかなり疲れていたのでしょうか。つまり、エリヤはここで休んだのでしょうか。エリヤに身体的な疲れはあったでしょうが、これは精神的また霊的な疲れによると思われます。エリヤ時代のイスラエル人はバアルばかり拝んでおり、エリヤはバアルの預言者たちを全て殺さねばなりませんでした。もしこうしなくてよければ、エリヤはどれだけ楽だったでしょうか。すなわち、イスラエル人がそもそもバアル崇拝に陥っていないか、陥っていても処刑をせずに済んだのであれば、エリヤは精神的また霊的にそれほど疲れなかったかもしれません。しかし、この2つがどちらもありました。ですから、エリヤは精神的・霊的な苦しみにより、膝の間に顔をうずめたのだと思われます。この時にエリヤは祈っていたと考える人もいるかもしれません。なるほど、確かにエリヤがこのような姿勢で祈っていたというのはありそうなことです。しかし、聖書はここでエリヤが祈っていたなどと示していません。ですから、エリヤがこのようにして祈っていたとは、あくまでも可能性としか言えません。

【18:43】
『それから、彼は若い者に言った。』
 この時のエリヤには『若い者』がいました。この『若い者』の名前や性格などといった詳細はここで何も示されていません。この者は、エリヤを助ける補佐的な存在だったと考えれば間違っていないでしょう。神の僕には、しばしばこのような協力者が備えられるものです。モーセにはアロンがいましたし、ヨナタンにも道具持ちの若者がいました。これはその協力者により、神の僕がより良く神の御前で歩めるためなのでしょう。

『「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」』
 若い者に、エリヤは『海のほうを』確かめさせます。『海』とはカルメル山の西にある地中海です。カルメル山は地中海のすぐ近くに位置する山です。エリヤがこのように海のほうを確かめさせたのは、雨を降らせる雲が海のほうで見えるかどうか知るためでした。その確認をエリヤは自分でなく若い者に行なわせました。何故なら、エリヤにとって若い者はこういったことをさせるための存在だったからです。

【18:43~44】
『若い者は上って、見て来て、「何もありません。」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています。」と言った。』
 エリヤに命じられた通り、若い者はカルメル山の場所で、西に位置する地中海を確認しました。しかし、最初に確認した際はまだ何も見られませんでした。ですから、若い者は『何もありません。』と言ってエリヤに報告します。この時はまだ雨を降らせる雲が近付いていなかったのです。すると、エリヤは若い者に確認を『七たび繰り返し』て行なうよう命じます。これは「7」ですから、実際の回数であるものの、象徴性があります。エリヤが『七たび』の確認を命じたのは、つまり確認の完全性を意味しています。この時には神が強く働きかけておられましたから、確認も象徴的になるのが相応しかったのです。そうして若い者が7回の確認を行なったところ、『七度目』に『人の手のひらほどの小さな雲が海から上ってい』るのを確認できました。神がこの雲に強く働きかけておられましたから、『七度目』に雲を見ることとなったわけです。勿論、あらゆる事柄は神の働きかけにより生じます。しかし、この時における雲は、特に神が強く働きかけておられたのです。この雲を見たのは『七度目』だったという点がポイントです。何故なら、神は若い者が7度目の確認により雲を見ることとなるため、雲に働きかけ全てを調整しておられたからです。それというのも、エリヤのような神の人に関する事柄で、神は極めて強く働きかけるのだからです。ですから、もしエリヤが10度の確認を命じていたとすれば、神は若い者が10度目の確認時に雲を見るよう調整しておられたことでしょう。

『それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」』
 バアルの預言者たちは殺されましたが、アハブは生かされ続けていました。殺されないのであれば生き続けるべきなのです。であればアハブはもうカルメル山から離れるべきでした。もしこのままカルメル山にいれば大雨により悲惨な状態となりかねないからです。このため、エリヤはアハブが『大雨に閉じ込められないうちに』カルメル山から出るよう命じます。『閉じ込められ』るとは、非常な大雨により身動きが取れなくなることです。これまでずっと降らなかった雨が一挙に降るわけです。ですから、その大雨は極めて激しいものだったことでしょう。エリヤが『車を整えて』行くように命じたのは、つまり速やかにカルメル山から離れよということです。もたもたしていれば大雨に妨げられることとなりかねません。アハブは車によりカルメル山まで来ていたのでしょう。アハブは王でしたから車に乗るのは自然なことです。

【18:45】
『しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。』
 エリヤが言った言葉の通り、空の状態を見れば、もう大雨になることは明らかでした。『空は濃い雲と風で暗くな』ったのです。久々に雨が降るのですから、その雲と風はどれだけ濃く強かったでしょうか。それから『激しい大雨』となりました。それは極めて激しい大雨だったはずです。こうして『アハブは車に乗ってイズレエルへ行』きました。『イズレエル』とはカルメル山の東に位置しており、イズレエル平原の場所です。そこは王宮のあった首都サマリヤから北に離れています。この時にもうバアルの預言者は死んでいましたから、アハブと共にバアルの預言者はいませんでした。恐らく、この車にはアハブの臣下や僕たちが共に乗っていたと考えられます。

【18:46】
『主の手がエリヤの上に下ったので、彼は腰をからげてイズレエルの入口までアハブの前を走って行った。』
 アハブは自分たちだけで行ったのでありませんでした。エリヤもアハブと共に行きました。しかも、エリヤはアハブの前を進んで行きました。どういうことかと言えば、『主の手がエリヤの上に下った』のです。神の御力がエリヤに注がれました。それゆえ、エリヤは車の前を走ることができたのです。この時のエリヤはどれだけスピードを出していたでしょうか。車の前を走ったのですから、かなりの速度だったことは間違いないはずです。神はエリヤにこのようことさえ行なわせられました。これは神の奇跡ですから、エリヤ自身の力によるのではありません。ですから、エリヤがいつもこのように走れたというわけではないでしょう。勿論、神がいつも働きかけるならば、いつもエリヤはこのように走れたことでしょうが。この時のエリヤが『アハブの前』を進んだのは、つまりエリヤがアハブに対する主導権を握っていたということです。アハブはエリヤとの戦いに完敗したのですから、エリヤの言われる通りにせねばならないからです。今でもそうである通り、敗けた者は王であっても勝者の支配下に置かれるのが常なのです。

【19:1】
『アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。』
 アハブはイズレエルに行ってから、エリヤのことを全て妻であるイゼベルに告げました。アハブはエリヤのことをイゼベルに知らせないでいることもできたはずです。もしアハブが本当に神を恐れていたとすれば、エリヤのことを隠したままでいたかもしれません。何故なら、イゼベルにエリヤとその行なった事柄を告げるのは、エリヤにとって危険となるからです。イゼベルは神を嫌っていましたが、その神に仕えていたのがこのエリヤだったからです。しかし、アハブはエリヤのことをイゼベルに告げました。たとえアハブがエリヤのことを隠したとしても、やがてはイゼベルに知られていたかもしれません。ですから、「どうせやがて知られるならば。」という思いでアハブがイゼベルに告げた可能性もあります。いずれにせよ、エリヤの事柄がイゼベルに告げられたのは最悪でした。そもそもアハブがこのような偶像崇拝者を娶ったことからして駄目だったのです。ここで『エリヤがしたすべての事』と言われているのは、エリヤとバアルの預言者たちにおける戦いのことでしょう。『預言者たちを剣で皆殺しにしたこと』とは、その戦いに続いて起きた大量処刑の出来事です。アハブが『残らず』告げたと言われているのは、つまり<アハブに思い出せる限りのことを全て>という意味です。

【19:2】
『すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」』
 アハブから報告を受けたイゼベルは、エリヤのことで悪く思いました。それはイゼベルからすれば当然のことでした。何故なら、エリヤはイゼベルが拝んでいたバアルの預言者たちを皆殺しにしたからです。もしこうされてもイゼベルがエリヤのことを悪く思わなかったとすれば、イゼベルはそもそもバアルを心から拝んでいなかったことになります。ですから、イゼベルはエリヤという存在に耐えられなかったはずです。このためでしょう、イゼベルはこのエリヤを『あすの今ごろまでに』必ず殺すと宣告します。『あすの今ごろ』とはつまりすぐにもということですが、このことからイゼベルがエリヤをどれだけ嫌っていたかよく分かります。イゼベルがエリヤに激しい怒りを燃やしていたのは間違いありません。しかも、イゼベルは自分が崇めていた『神々』において、このことを誓いました。『神々がこの私を幾重にも罰せられるように。』とは、つまり神々を証人として呼び出した誓いです。イゼベルはもしエリヤを殺せなければ、神々から命を取られても構わないとさえ思っていたことでしょう。単なる表面的な脅迫としてイゼベルがこのように言ったのではないはずです。しかし、たとえイゼベルがエリヤを殺せなくても、イゼベルは『神々』から『幾重にも罰せられ』たりしませんでした。何故なら、イゼベルが拝んでいた『神々』とは実際的に存在しない存在だからです。もしイゼベルがエリヤを殺していたならば、寧ろイゼベルのほうこそ真の神から幾重にも罰せられていたでしょう。何故なら、神の人であるエリヤを殺すというのは、とんでもなく忌まわしいことだからです。

【19:3】
『彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。』
 イゼベルがエリヤを殺すと宣告したのは、間違いなく本気だったはずです。イゼベルにはエリヤを殺したいと願う大きな理由があったからです。イゼベルは、もしエリヤが自分の近くにいれば、即座にでも殺したいと思ったことでしょう。こういうわけで、エリヤは『恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去』りました。立ち去らない限り、自分の命を救うことは難しいと思えたからです。エリヤが助かるためには、そこから逃げ去らねばなりませんでした。この時のエリヤは恐らく非常に急いだことでしょう。もたもたすればイゼベルに捕まり殺されかねないからです。この時にエリヤが抱いた恐れは、非常に大きいものだったはずです。何故なら、イゼベルにはエリヤを殺したいと思う彼女からすれば正当なファクターがあったからです。エリヤも、イゼベルが自分のことで極めて大きな不快感を抱くことぐらい、よく分かっていたはずです。しかし、エリヤはこの時に『恐れて』よかったのかという疑問があります。というのも、聖書は神を恐れるべきであって人を恐れるなと述べているからです。確かに聖書は神をこそ恐れよと教えていますが、ここでエリヤがイゼベルを恐れた件について聖書は何も詳しく取り扱っていません。

『ユダのベエル・シェバに来たとき、』
 エリヤはイズレエルから『ユダのベエル・シェバに』まで行きました。この『ベエル・シェバ』はイズレエルから南にかなり遠く離れていますから、エリヤは南に向かいかなりの移動をしたことが分かります。その距離は決して短いと言えません。エリヤがこれほどの距離を逃げたのは、イゼベルに対する恐れがどれだけ大きかったかよく示しています。エリヤはここまで長い距離を移動しなければ、イゼベルの手を逃れることは難しいと思ったのでしょう。確かにかなりの距離を移動して逃げない限り、遅かれ早かれイゼベルに捕まり、エリヤは殺されていたかもしれません。ですから、エリヤが南に向かいここまで長く移動したのは正解でした。神はこのようにしてエリヤをイゼベルの罪深い手から守って下さいました。

【19:3~4】
『若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。』
 エリヤがベエル・シェバまで逃げた際は、『若い者』も連れて行きました。もし『若い者』を一緒に連れて行かなければ、若い者にはイゼベルの危険があったのでしょうか。確かにその危険はあったでしょう。イゼベルのことですから、もし『若い者』が逃げないため捕まえられたとすれば、イゼベルは若い者を人質にしていたかもしれません。人質にしなければエリヤの仲間だというので殺していた可能性が高いでしょう。また、この若い者はエリヤにとって何かと役立ったはずです。彼が役立つことは、既に見た箇所からも明らかです。ですから、エリヤはこの若い者を連れて逃げたのでしょう。ソロモンが伝道者の書で教えている通り、1人より2人のほうが良い益を多く得られるからです。しかし、エリヤは『ベエル・シェバに来たとき』、この『若い者をそこに残し』ました。これはベエル・シェバまで来れば、もうイゼベルの危険は少ないもしくはなくなったと判断したからなのでしょう。イゼベルの危険がまだあったのであれば、エリヤは若い者を置き去りにしなかったはずです。エリヤがまさかそんなことをするはずはありません。こうして『若い者をそこに残し』たエリヤは、『荒野へ一日の道のりをはいって行』きました。『荒野』とはベエル・シェバの南に広がる荒廃した場所です。エリヤはイズレエルからベエル・シェバまで南に移動したのですから、更に南へ移動したことが分かります。エリヤがこのように『荒野』へ移動したのは、続く箇所から分かる通り、自分の死を願い求めるためでした。

【19:4】
『彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。』
 エリヤは、ここまでずっと苦難の歩みが続いていました。その苦難がどれほどであったかは想像もできないほどです。何故なら、エリヤのような苦難を私たちは誰も味わったことがないからです。まずエリヤにはアハブの齎す苦難がありました。アハブはエリヤを敵視しており、そこら中でエリヤを探し回りました。つまり、エリヤは指名手配犯のような状態となりました。このため、アハブはエリヤと会った際、『イスラエルを煩わす者』と非難されたわけです。このような取り扱いがエリヤの苦難だったことは間違いありません。またエリヤにはやもめ女の子が死んだことによる苦難もありました。子どもが死んだ際、女からエリヤのせいで死んだかのように責められたからです。神がその子を生き返らせて下さいましたから結果的には問題なかったものの、このように責められるのはエリヤにとり辛かったはずです。そしてバアル崇拝者たちとの戦いによる苦難もありました。自分の同胞であるイスラエル人たちが忌まわしい空想神を崇めており、その預言者たちを処刑せねばならないというのは、エリヤにとって喜ばしくなかったはずです。もしこのようになっていなければエリヤにとってどれだけ良かったでしょうか。更にエリヤはイゼベルの殺害宣告による苦難もありました。エリヤはその宣告を聞いて『恐れた立ち』、イゼベルから逃げ去ったのです。アハブ王の妻からこのように言われたエリヤに平和は無かったことでしょう。こういった数々の苦難が続いたため、エリヤは自分の死を神に願い求めました。生きているのが耐え難くなるほどの苦難がエリヤにはあったからです。今でも人生の苦しみに耐えられなくなった人は、死ぬことを願うのが珍しくありません。ここでエリヤは『もう十分です。』と言っていますが、この言葉が全てを物語っています。エリヤはあまりの苦難に疲れ果てたため、このように言うより他なかったのです。この言葉はエリヤがどれだけ苦しんだかよく示しています。先に見た通り、この時のエリヤは若い者をベエル・シェバに残して来ましたが、エリヤがこのようにしたのは、死ぬのは自分一人だけでよく、若い者に煩いをかけさせたくなかったからなのでしょう。つまり、若い者に対する配慮のため、若い者はベエル・シェバに残されたわけです。エリヤはこういった配慮をする人だったはずです。このようにエリヤは死を神に願いましたが、自ら死ななかったという点は注目すべきでしょう。エリヤは自殺を選ばず、寧ろ神に死なせていただくことを求めました。エリヤでさえこのように自殺を選ばなかったのですから、やはり自殺はすべきでない行為だと言えるのです。