【Ⅰ列王記19:4~11】(2024/06/23)


【19:4】
『私は先祖たちにまさっていませんから。」』
 エリヤが言っている『先祖たち』とは、イスラエルにおける名高い父祖たちのことでしょう。例えば、モーセやヨシュアがそうでしょう。エフタやサムソンもそうであるはずです。このような偉大な父祖たちにエリヤは自分が『まさっていませんから』と言います。しかし、実際のところ、エリヤは多くの父祖たちより優れており、モーセとさえ並び立つほどの人物でした。キリストが山上で変貌された際、エリヤは預言者の代表としてモーセと共に現われたからです。エリヤは自分自身のことを客観的に見れていなかったのです。このエリヤだけでなく、人は誰でも自分自身のことを他者が見るかのごとくになかなか見れないものです。このようにエリヤは自分が父祖たちより優れていると思っていませんでしたから、すぐ死なせていただきたいと神に願ったのです。父祖たちよりも優れていなければ、そのような者はそこまで値打ちのある存在だと言えないので、ずっと生きているに値する者でもない。エリヤはこのように言いたかったのでしょう。しかし、エリヤは苦難続きの歩みから抜け出したいため、このように言ったのです。もしエリヤの歩みに苦難が全く無いか少ししか無ければ、エリヤがこのように言って死を求めていたかは分かりません。何故なら、エリヤが苦しいゆえこのように言ったのは明らかだからです。

【19:5】
『彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、』
 死を求めたエリヤでしたが、神はその求めを聞き入れられませんでした。もし聞き入れられていたならば、エリヤはすぐにも死んでいたかもしれません。しかし、神はエリヤが生き続けることを望まれました。何故なら、エリヤはまだ神に仕えるべきだったからです。神が死なせて下さらないのであれば、エリヤはどうしようもありません。このため、エリヤは『えにしだの木の下で横になって眠』りました。この時のエリヤは霊も心も身体もかなり疲れていた可能性が高いでしょう。ですから、自殺も出来ない以上、起きていても苦しいだけですから、このように眠るしかなかったのです。

【19:5~6】
『ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。』
 エリヤが眠っていると、『ひとりの御使いが』エリヤに触れました。この『御使い』がどのような名前だったかは何も示されていません。この御使いはエリヤを守護する役目の御使いだった可能性があります。御使いがエリヤ『にさわっ』たのは、エリヤを起こすためでした。この時、神はエリヤに『焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼ』を与えられました。この菓子と壺は、神の奇跡により、エリヤ『の頭のところに』置かれたのでしょう。御使いはこれらをエリヤが食べるため、エリヤに触れて起こしたのです。エリヤはこの御使いが神の指示により遣わされたことを知っていたでしょうから、御使いが『起きて、食べなさい。』と言った通り、自分の近くに置かれたパンと水『を食べ、そして飲』みました。それからエリヤは『また横にな』ります。何故なら、この時に御使いが命じたのは、これらを『食べなさい。』という内容だけであり、他に何かするよう命じられていなかったからです。

【19:7~8】
『それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。』
 先に御使いがエリヤを起こしてから、御使いはエリヤから離れていました。ですから、エリヤは起こされてから一人だけで飲み食いしました。しかし、この御使いは、エリヤが横になってから、また『戻って来』ました。御使いがエリヤからどれぐらいの間、離れていたかは分かりません。

 御使いが戻って来たのは、エリヤにまた飲み食いさせるためでした。エリヤは神から備えられたパン菓子と水をまだ全て飲み食いしていなかったのです。エリヤが既にどれぐらいの量を飲み食いしていたかまでは分かりません。エリヤがパン菓子と水を全て飲み食いすべきだったのは、力を付けるためでした。というのもエリヤはまだ旅を続けねばならないからです。空腹であれば力も失せたままですから、エリヤはしっかりと飲み食いすべきだったのです。このように御使いは言いましたが、このように言ったのは御使いというよりも寧ろ神です。何故なら、神が御使いに命じてエリヤにこう言わせたのだからです。こうして飲み食いしたエリヤは、『歩いて神の山ホレブに着』きました。この『神の山ホレブ』とはモーセが神から十戒を授かった場所であり、シナイ半島の南にあり、ベエル・シェバからかなり南に離れています。ここまでエリヤは荒野を通り歩いて行ったのです。もうこの時に若い者はベエル・シェバに残されていますから、エリヤはただ一人で移動したことが分かります。

 この時にエリヤが移動した期間は『四十日四十夜』でした。これほどの日数を移動するのは人間業だと言えません。しかし、エリヤはそのようにしました。つまり、神がエリヤに長く移動することの出来る驚くべき素晴らしい力をお与えになったのです。もし神から力を受けなければ、エリヤは数日で倒れてしまった可能性もあるでしょう。この期間は「40」ですから、つまりエリヤの移動した期間が十分だったことを示しています。キリストが荒野におられた期間も「40」日間でした。モーセが神の御前にいた期間も同じく「40」日です。この「40」は聖書で<十分な期間また量>であることを意味していますから、忘れないようにすべきです。

【19:9】
『彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。』
 エリヤが行った『ホレブ』山は、写真を見ても分かる通り、起伏に富んでいる形状です。そこには『ほら穴』が幾つもあったことでしょう。エリヤはこのホレブにある『ほら穴にはいり、そこで一夜を過ごし』ました。エリヤはどこか良さそうな穴を見つけて入ったと思われます。エリヤが穴に入ったのは、イスラエル人から逃げ隠れるためです。もうこのホレブ山まで来れば、イスラエル人はエリヤを探し出せないようにも感じられたかもしれません。しかし、それでもエリヤはまだ見つけられることを心配するかのように隠れたのです。これはエリヤに大きな恐怖がまだ続いていたからです。大きな恐怖がずっと続くと、もう安心してもいい状態となってさえ、人は過剰に心配してしまうものなのです。

『すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。』
 エリヤが穴に隠れると、『彼への主のことばがあ』りました。その『ことば』は実際の音声によったはずです。神はエリヤに対して『ここで何をしているのか。』と言われましたが、エリヤが何をしているのか知らなかったのではありません。神は全てを知っておられましたが、このようにエリヤに言われたのです。それはエリヤが自分自身のことを言葉で示すためでした。そのようにして示された言葉を神は確認されるのです。何故なら、神は実際性を重視される御方だからです。それから神はその言葉に応じることで、御自分の思うところを成し遂げられます。これが神のやり方なのです。神はエリヤ以外の聖徒にもこのようにされたことが聖書で書かれています。

【19:10】
『エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。』
 エリヤは神に対して自分が『熱心に仕え』たと言います。これは本当のことでした。何故なら、エリヤは神が何もかも知っておられることを知っていたからです。もし偽りを言っても神にすぐ見抜かれてしまいます。このような神に対して『エリヤは答えた』のです。ですから、エリヤが偽りを言うはずなどありません。エリヤは本当に『万軍の神、主に、熱心に仕え』ていたのです。これはこれまでのエリヤの歩みを見ても分かります。エリヤはアハブに対して大胆に語りました。またエリヤは神の導かれる所にどこでも行きました。ホレブ山まで『四十日四十夜』をかけて行ったのもそうです。バアル崇拝者たちと戦った際も、エリヤは神のために仕えました。これらの奉仕において、その『熱心』さは純粋でした。しかし、エリヤが『熱心に仕え』たのは、エリヤ自身の力というより、神の働きかけによる御恵みでした。何故なら、人は誰でも堕落しており霊的に無能力だからです。もし神の御恵みが注がれなければ、誰であっても神に逆らうことしかできません。エリヤも神の御恵みを受けていなければ、神に『熱心に仕え』ることはできなかったでしょう。しかし、エリヤには神の御恵みがあったので、『熱心に仕え』ることができました。神に熱心に仕えたパウロも同じ類のことを言っています。

 エリヤがこう言ったように全ての聖徒が言えれば、どれだけ良いことでしょうか。何故なら、神は全ての聖徒が熱心に仕えるのを望んでおられるからです。パウロが『勤勉で、怠らず、霊に燃えて主に仕えなさい。』とローマ書で命じた通りです。全ての聖徒がエリヤのごとく熱心になるのは、実現性として可能です。神が全ての聖徒に御恵みを注がれるならば、全ての聖徒は必ずエリヤのごとく熱心になるからです。

『しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。』
 エリヤが『万軍の神、主に、熱心に仕え』たのと異なり、『イスラエルの人々』はエリヤと真逆のことをしました。これほど正反対である事柄も珍しいかもしれません。エリヤがここで『イスラエルの人々』と言っているのは、北王国イスラエルの人々であり、つまり南王国ユダの人々ではありません。このイスラエル人の酷い悪事をエリヤはここで3つ挙げています。まず『イスラエルの人々はあなたの契約を捨て』ていました。『契約』とはモーセを通してイスラエルに神から与えられた聖なる律法のことです。神がイスラエルと結ばれた契約は、この律法により示されます。ですから、神との契約を持つイスラエル人は、契約の言葉である律法を遵守せねばなりませんでした。『あなたがたは契約の言葉を守り、行ないなさい。』と申命記で書かれている通りです。ところが、イスラエル人たちはこの律法を全く捨て去っていました。恐らく彼らの頭には律法のことなど少しも浮かばなかったかもしれません。一部の人々だけが『契約を捨て』ていたのではありません。『イスラエルの人々』の全体が神との契約を捨てていたのです。契約の民が契約を捨てるという、これほど酷く悲惨なことが他にあるでしょうか。またイスラエル人たちは神の『祭壇をこわし』たままでいました。それを回復させることもしていませんでした。『祭壇』とは祭儀の基礎となる物です。その祭壇を壊したままにして平気であるというのは、神のことなど完全にどうでもよくなっていたことを示しています。イスラエル人の心は完全にバアルに傾いていたからです。そしてイスラエル人たちは神の『預言者たちを剣で殺しました』。これはイゼベルの大量虐殺のことを言っているのでしょう。イゼベルの虐殺命令にイスラエル人たちが賛同しつつ従ったので、イスラエル人たちの手で預言者たちは殺されました。このためイゼベルの虐殺は、イスラエル人たちの行なった虐殺でもあったのです。この時のイスラエル人は自分たちの精神内で神を殺していました。ですから、その神に属する預言者たちをも平気で殺せたのです。これら3つは、そのどれか1つだけであっても致命的に悲惨な邪悪でした。しかし、イスラエル人はそれを3つも重ねて犯していたのです。このことから、この時のイスラエル人たちがどれだけ罪深かったのかよく分かります。これほどまでに耐え難い罪深さは他にないとさえ言いたくなるぐらいの酷い堕落があったのです。

『ただ私だけが残りましたが、』
 エリヤはイスラエルの中で『ただ私だけが残りました』と言っていますが、エリヤには確かにこのように思えたのです。少なくともエリヤを中心とする状況範囲だけを見たならば、エリヤの言った通り、イスラエルで堕落せずに残っていたのはエリヤだけだったと言えたでしょう。しかし、後の箇所からも分かるように、イスラエルの全体を見るならばエリヤ以外にも堕落せず残っていた聖徒たちがかなり存在していました。人間が知ることのできる範囲は限られていますから、エリヤは神から知らされるまではまだそのことを知らなかったのです。それゆえ、エリヤが『ただ私だけが残りました』と言っているのは事実と異なるものの、偽りとか嘘だったことになりません。

『彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」』
 エリヤが熱心に神に仕えているのは、神の御前で実に喜ばしいことでした。ですが、このためにエリヤはイスラエル人たちから『いのちを取ろうとねら』われたのです。何故なら、神に熱心なエリヤは、イスラエル人たちが拝むバアルを否認するからです。イスラエル人たちはバアルを崇拝していますから、このような否認に耐えられません。耐えられないのであればエリヤを殺そうとするしかありませんでした。このエリヤもそうですが、神に熱心に仕える者は迫害や困難を受けるものです。それはサタンが強く働くからです。エリヤ以外でも、ダビデやパウロがそうでした。教父たちや宗教改革者たちもそうでした。主もやはりこの通りでした。

【19:11】
『主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」』
 エリヤの言葉を聞かれた神は、エリヤが『外に出』るよう命じます。エリヤは穴の中にいたからです。それからエリヤは『山の上で主の前に立』たねばなりません。これは神が御自分をエリヤに示されるためです。エリヤは神に熱心に仕えていましたから、神はエリヤに御自分を強く示して下さるのです。何故なら、求める者には与えられるものだからです。

『すると、そのとき、主が通り過ぎられ、』
 エリヤが神から命じられた通り山の上に行くと、そこで『主が通り過ぎられ』ました。神は場所を問わずどこにでもおられます。『わたしは、天にも地にも、満ちているではないか。』と神が預言者の書で言っておられる通りです。ですから、神は常にあらゆる場所を通り過ぎておられると言うこともできます。であれば『主が通り過ぎられ』とここで言われているのは、主がその場所で物質的に極めて強い臨在をもって働きかけられたという意味なのでしょう。神は目に見えず、物質を超越した無限の存在であられ、ソロモンも述べた通り天も天の天も神を入れることは決してできません。ですからここで『主が通り過ぎられ』と言われているのを文字通り厳密に物質的に考えるならば、神を有限な物質者として捉えてしまうことにもなりましょう。それゆえ、この『主が通り過ぎられ』という部分は、今ここで述べられた通り、強い臨在をもって為された働きかけという意味に解するのが望ましいでしょう。