【Ⅰ列王記4:7~26】(2023/08/06)


【4:7】
『ソロモンは、イスラエルの全土に十二人の守護を置いた。彼らは王とその一族に食糧を納めていた。すなわち、一年に一か月間、おのおの食料を納めていた。』
 ソロモンは『イスラエルの全土に十二人の守護を置いた』のですが、これは今の日本で言えば都道府県の知事に相当すると思われます。この『守護』の数が『十二』だったのは、彼らが「選ばれていた」ことを示しています。選ばれた民であるイスラエルも「12」部族でしたし、キリストが選ばれた使徒たちも「12」人でした。このような守護を置いたのは、イスラエルの王制においてソロモンが初めてだったのでしょうか。恐らくこれはソロモンが初めてだったかもしれません。聖書においてサウルとダビデがこのような守護を置いたとは書かれていません。この守護たちは『王とその一族に食糧を納めていた』のであり、これが王族の食物となっていました。この『食糧』はそれぞれの地域において民衆から集めていた可能性があります。つまり、税金の徴収と似たような仕方によってです。守護たちはそれぞれが『一年に一か月間』、ソロモンに食糧を納めていました。つまり、各々の守護が1か月単位で食糧をソロモンに納めていたということでしょう。しかし、その納め方や食糧の詳細についてはよく分かりません。

【4:8】
『彼らの名は次のとおり。』
 ここから守護たちの名が挙げられています。Ⅰ列王記の記者が生きている時代まで、ソロモン時代にいた守護たちの記録が、しっかり残されていたのです。記者はその記録を参照しつつここで守護たちの名を書き記したわけです。

【4:8~19】
『エフライムの山地にはフルの子。マカツ、シャアルビム、ベテ・シェメシュ、エロン・ベテ・ハナンにはゲテルの子。アルボテにはヘセデの子。―彼にはソコとヘフェルの全地が任せられていた。―ドルの全高地にはアビナダブの子。―ソロモンの娘タファテが彼の妻であった。―タナク、メギド、それに、イズレエルの下ツァレタンのそばのベテ・シェアンの全土、ベテ・シェアンからアベル・メホラ、ヨクモアムの向こうまでの地には、アヒルデの子バアナ。ラモテ・ギルアデにはゲベルの子。―彼にはギルアデのマナセの子ヤイルの村々と、バシャンにあるアルゴブの地域で、城壁と青銅のかんぬきを備えた六十の大きな町々が任せられた。―マハナイムにはイドの子アヒナタブ。ナフタリにはアヒマアツ。―彼もまた、ソロモンの娘バセマテをめとっていた。―アシェルとベアロテにはフシャイの子バアナ。イッサカルにはパルアハの子ヨシャパテ。ベニヤミンにはエラの子シムイ。エモリ人の王シホンと、バシャンの王オグの領地であったギルアデの地にはウリの子ゲベル。その地にはもうひとりの守備隊長がいた。』
 『フルの子』に任された『エフライムの山地』は、ベニヤミンの地の北にありました。『フルの子』の実名は分かりません。『ゲテルの子』に任されていた『マカツ、シャアルビム、ベテ・シェメシュ、エロン・ベテ・ハナン』は、エルサレムの西に位置しています。この『ゲテルの子』も実名が分かりません。『ヘセデの子』が任されていた地域は、エルサレムの南西に位置する場所でした。この『ヘセデの子』も実名は分かりません。『アビナダブの子』に任されていた『ドルの全高地』は、イスラエルのかなり北西にあり、海岸線沿いにあります。彼も実名は分かりません。この『アビナダブの子』は『ソロモンの娘タファテ』を妻として娶っていました。ソロモンの娘を娶ってから高官に任じられたのか、高官に任じられてから娶ったのかは分かりません。いずれにせよ、ソロモンにとってこの『アビナダブの子』は都合が良かったはずです。何故なら、王の娘が妻なので、何かと働きかけ易いだろうからです。『アヒルデの子バアナ』に任されていた場所は、イスラエルの北部に位置しています。彼については実名が示されています。『ゲベルの子』に任されていた『ラモテ・ギルアデ』は、ギルアデの北東に位置しています。彼にはギルアデの北部にあるバシャンの地域も委ねられていました。『イドの子アヒナタブ』が任されていた『マハナイム』は、ギルアデの中央部分にあります。『アヒマアツ』に委ねられていた『ナフタリ』の地は、イスラエルの最も北に位置する場所です。先に見た『アビナダブの子』と同じく、この『アヒマアツ』もソロモンの娘を娶っていました。ソロモンにとってアヒマアツは取り扱い易かったと思われます。アヒマアツにしても王の娘が妻ですから、かなり顔が利いた可能性もあります。『バアナ』に任されていた場所は、イスラエルの最も北西にあり、先に見た『ドルの全高地』の北側に位置しています。『パルアハの子ヨシャパテ』の場所は、イスラエルの北にあり、ギルアデの北西に位置していました。『エラの子シムイ』はベニヤミンの地を任されていましたが、そこはユダの地のすぐ北であり、エルサレムに面しています。『ウリの子ゲベル』はバシャンの地域を任されていましたが、そこはイスラエルの最も北東部分になります。このバシャンには彼以外にも『もうひとりの守備隊長がいた』のですが、これはどのような存在なのでしょうか。この『もうひとりの守備隊長』とは、恐らく副守護か守護の代理役だったと考えられます。何故なら、これが正式な守護だったとすれば全部でイスラエルの守護は「十三人」いたことになりますが、先の箇所では守護の数が『十二人』(Ⅰ列王記4:7)だったと書かれていたからです。バシャンの地は非常に広いので、副大臣のような役職が特別に設けられた可能性もあるでしょう。

【4:20】
『ユダとイスラエルの人口は、海辺の砂のように多くなり、彼らは飲み食いして楽しんでいた。』
 ソロモン時代のイスラエルは『海辺の砂のように多くな』っていました。この『海辺の砂』というのは、その数多さを示すために聖書でよく使われる表現です。つまり、この時代のイスラエルの人口は、数えるのが難しい『海辺の砂』のように沢山だったということです。ですから、この時代のイスラエル人が実際にどれぐらいいたかは分かりません。当時の世界において最も人口が多かった可能性もあります。今の時代で言えば中国やインドのような感じだったかもしれません。イスラエル人がこのように増えていた理由は何でしょうか。それは彼らが『生めよ。ふえよ。地を満たせ。』という神の命令を知っていたからです。彼らはこの命令を実行していたのです。また彼らが増えていた理由は、彼らが神に祝福された民だったからでもあります。イスラエルは神の祝福により増え広がっていたのです。神の祝福がなければ増えることは難しかったでしょう。今の時代のイスラエル人はこのような祝福を失っており、もはや神の子らでさえなくなっています。実際、現代においてイスラエル人と呼ばれている人々の大半はハザール人を先祖とする人々であって、本物のイスラエル人は少ないのです。ロックフェラーもそうですが彼らの外観はハザール国があった地方の白人と類似しており、中東系の有色人種だったイスラエル人の外観とは違うのです。現代のイスラエル国家にいる人々も、その9割はハザール系のイスラエル人なのです。こういうわけでソロモン時代のイスラエル人はもう今の時代に少なくなっています。

 この時代のイスラエル人たちは『飲み食いして楽しんでい』ました。これは当時のイスラエルにおける繁栄と平和を示しています。聖書は飲食の楽しみを通して、国家の栄えと安らかさを示しています。何故なら、国家が栄えており平和でなければ、その全体が『飲み食いして楽し』むというのは難しいからです。つまり、これはイスラエル人が怠けていたとか遊んでばかりいたなどという意味ではありません。もしこういう意味でこう言われているとすれば、神は御自分の与えられた幸いを御自分で非難しておられることになるのです。ですから、『彼らは飲み食いして楽しんでいた。』という部分は肯定的に捉えるべきです。当時のイスラエル人が怠惰だったとは聖書で示されていません。これは逆の場合、すなわち繁栄と平和のない国を考えれば、よく分かります。例えば、北朝鮮であれば『彼らは飲み食いして楽しんでいた。』などとは決して言えないでしょう。何故なら、北朝鮮は栄えておらず平和でもありませんから、多くの人々が真に安らぎつつ飲み食いして楽しく過ごすというのは難しいからです。ソロモン時代のイスラエルはこの北朝鮮のようではありませんでした。

 この箇所ではイスラエル国家が『ユダとイスラエル』と呼ばれています。『ユダ』とはユダ族だけのことであり、『イスラエル』とはユダ族を除いた全てのイスラエル部族のことです。このようにユダ族だけ特別に区別されているのは、このユダ族からメシアが出られるのだからです。メシアがユダ族であるということを考えれば、このようにユダ族が特別視されているのは何も不思議に感じられません。寧ろ、ユダ族がこのような取り扱いを受けるのは相応しいことなのです。

【4:21】
『ソロモンは、大河からペリシテ人の地、さらには、エジプトの国境に至るすべての王国を支配した。これらの王国は、ソロモンの一生の間みつぎものを持って来て、彼に仕えた。』
 神はダビデの支配力をソロモンに継がせ、その支配力はますます強まったので、『ソロモンは、大河からペリシテ人の地、さらには、エジプトの国境に至るすべての王国を支配し』ました。『大河』とはユーフラテス川のことです。地図を見ても分かりますが、このような支配の範囲は実に広い領域でした。これはイスラエル国の歴史上、支配した最大の領域でした。このことからソロモンは実に強大な権力を持っていたことが分かります。神がそのような権力をソロモンに与えられたのです。ソロモンの支配は、『大河』より北には及んでいませんでした。そこは古代で有名だったスキタイ人の地域です。またその支配は『エジプトの国境』を越えることもありませんでした。何故なら、エジプトはパロに支配されていたからです。しかし、『ペリシテ人の地』はソロモンの支配下にありました。神がペリシテ人たちをイスラエルに渡されたからです。このようなソロモンの支配力は当然ながら神の御恵みによりました。もし神が恵まれなければ、ソロモンはここまで多くの国を支配していなかったでしょう。

 ソロモンが支配していたこれらの国は、『ソロモンの一生の間みつぎものを持って来て、彼に仕えた』のです。つまり、ダビデと同じくソロモンは王を支配する王、すなわち「大王」でした。ソロモンは支配していた全ての国から『みつぎもの』を求めたはずです。しかし、その『みつぎもの』がどのような内容だったかは詳しく分かりません。『仕えた』と書かれているのは、その王国が宗主国であるイスラエルの益を求め、イスラエルの意向に沿って僕のごとく歩んだという意味です。このようなソロモンの時代は、イスラエルの歴史上、最強の時代でした。ダビデ時代でさえもこのソロモン時代には及びませんでした。

 このようにして、多くの領域を与えるとアブラハムに対して言われた神の約束は成就しました。それは神がアブラハムに約束されてから、およそ800年後のことでした。アブラハムの時代では、まだその約束が成就されませんでした。アブラハムにはとてつもなく大きな約束が与えられたのです。ところがアブラハムはそのような神の約束を、まだ成就されていないのに固く信じました。だからこそ、アブラハムは真の信仰者なのです。真の信仰者は幸いな人です。こういうわけで、ルカの福音書ではこう言われているわけです。『主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、なんと幸いでしょう。』

【4:22~23】
『ソロモンの一日分の食糧は、小麦粉三十コル、大麦粉六十コル。それに、肥えた牛十頭、放牧の牛二十頭、羊百頭。そのほか、雄鹿、かもしか、のろじかと、肥えた鳥であった。』
 ここで書かれている食糧は、先に見た『十二人の守護』(Ⅰ列王記4章7節)から納められた食糧でしょう。ここでは『ソロモンの一日分の食糧』と書かれていますが、ソロモン一人分の食糧だというのではありません。これはソロモン王家の全体における食糧でしょう。何故なら、これだけの量をソロモン一人が食べるというのは考えられないからです。もしソロモンがこれらを一日で食べたとすれば、ソロモンはヴォルテールの短編小説に出て来る巨人のようだったことになります。ここで書かれている食糧を見ると、かなりソロモン王家の食卓は豪華だったことが分かります。しかし、だからといって王家が贅沢だったと批判的に見ることはできません。何故なら、王家にとっては一般からすれば贅沢に思える食卓が普通だからです。王家の人間は質素または普通程度の食卓にすべきだとあえて言おうとする人がいるのでしょうか。まさか、そのような人はいないでしょう。また、ここで書かれている食糧の内容は全てでなかったでしょう。普通に考えて、ここで書かれているのが一部分だけであるのは明らかです。何故なら、王家の人間はここで書かれている以外にも、例えばフルーツや野菜なども食べたはずだからです。しかし、ここではフルーツや野菜などは何も書かれていません。ですから、ここで書かれているのは全体の部分に過ぎないことが分かります。また、ここで書かれている内容を見れば、ソロモン王家が実に数多かったことは間違いありません。まさかソロモン王家が数少なかったものの、力士のように多く食べる人ばかりだったので、数が少ないにもかかわらず、ここまでの食糧が必要になったということもないはずです。人数の多さゆえ、このように多い食糧であったことは確かです。その人数が実際にどれぐらいいたかは分かりません。しかしソロモン王家の数が多かったのは何も驚くに値しません。というのも、ソロモンは政略結婚を次々と重ねたため多くの妻がいましたから、ソロモンの家族は実に多くいたはずだからです。ですからソロモン時代の王室は、数的に言えば今の皇室よりはサウジアラビアの王室と似ていました。ここで麦の単位として書かれている『コル』とは、1コル=230リットルです。すなわち、『小麦粉三十コル』とは小麦粉6900リットルであり、『大麦粉六十コル』とは大麦粉13800リットルです。1日でこれだけの量ですから、実に多くの人々がソロモンの食糧により養われていたのです。またこれらの麦粉は上質な品種だった可能性が高いでしょう。『肥えた牛』と『肥えた鳥』はソロモン王家が豊かだったことを示しています。『放牧の牛』もやはり豊かさを示しています。栄えている王はその栄えに相応しい物を食べるものです。なお、ここで書かれている食糧は全部で「9」ですから、数字的な象徴性は何もありません。

【4:24~25】
『これはソロモンが、大河の西側、ティフサフからガザまでの全土、すなわち、大河の西側のすべての王たちを支配し、周辺のすべての地方に平和があったからである。ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバまで、みな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下で安心して住むことができた。』
 先に見た通りイスラエルが繁栄の喜びを享受できたのは、イスラエルとイスラエルの支配する王国に平和があったからです。というのも平和があってこそ真の喜びもあるのだからです。もし平和でなければ恐れや心配があるので、真に喜ぶことは難しいでしょう。これは私たちの経験も証しすることです。不穏な時、誰が心から喜んで食べたり飲んだりできるでしょうか。このような平和は、神が御恵みにより与えておられました。というのも、神の御恵みなくして平和などあり得ないことだからです。今のロシアとウクライナを見て下さい。彼らは呪われているので恵みを受けていません。ですから、今のロシアとウクライナには平和がないわけです。このようにイスラエルは平和でしたから、ユダヤ人たちは『ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバまで、みな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下で安心して住むことができ』ました。『ダンからベエル・シェバまで』とは、つまりイスラエル全土のことです。『ダン』はイスラエルの最北部にある相続地であり、『ベエル・シェバ』はユダの相続地の南にある場所です。『ソロモンの治世中』と書かれているのは、ソロモンの時代が過ぎると、イスラエルは引き裂かれて平和でなくなるからです。ここで『ぶどうの木の下』と言われているのは、キリストを象徴しているのかもしれません。つまり、ユダヤ人たちはキリストの御救いのうちに保たれていたということです。何故なら、キリストはヨハネ福音書で御自分を『ぶどうの木』だと言われたからです。このような平和がイスラエルに訪れたのは、明らかにソロモンの名前と関連しています。「ソロモン」という名前は<平和>という意味だからです。ソロモンがソロモンという名であるのは、明らかに神の意図でした。神はソロモンの時代に平和が訪れるよう定めておられたので、ダビデの次になる王がソロモンと名付けられるよう働きかけたのでしょう。アダムも土から取られたので「アダム」すなわち<土>という名前でした。名前は実質そのものを示すことが多いのです。このようなソロモン時代における平和は、イスラエルの歴史上、特別に実現された平和でした。イスラエル人が真の平和を享受できたのはソロモンの時代だけだったでしょう。エジプトでの奴隷時代では抑圧されていましたし、荒野の時代もかなり悲惨でした。士師の時代も敵に支配されてばかりいました。ダビデの時代も戦い続きでした。ソロモンの時代に至って、やっと真の平和が長らく訪れるようになったのです。このソロモン以降になると、キリストの時代に至るまで、イスラエル人はずっと悲惨続きでした。特にアッシリヤとバビロンとアンティオコスから滅ぼされた時は最悪でした。神に捨てられて御民としての状態を失ってからも、今までずっとイスラエル人は悲惨続きです。特にヒトラーの時は最悪でした。そればかりでなくイスラエル人はハザール系イスラエル人の混入により、誰が真のイスラエル人であるのか識別することが困難になっており、もはや民族的にカオスな状態となっています。今は肌に色の付いていない白人でさえイスラエル人と見做されるようになったのです。このようなイスラエル人がこれからソロモン時代のような平和を享受することは、もう二度とありません。

【4:26】
『ソロモンは戦車用の馬のための馬屋四万、騎兵一万二千を持っていた。』
 ソロモンは王でしたから当然ながら自分の軍と兵士たちを持っていました。それはソロモンの所有する国軍です。この時代のイスラエルは最強国家でしたから、その兵士たちも非常に強かったはずです。このように軍を持つのは悪くありませんでした。ダビデも軍を持っていたからです。古代において騎兵は最強の兵士でした。通常、古代の王はこの騎兵に囲まれ守られていたのです。ソロモンはこの『騎兵』を『一万二千』も持っていました。このような多くの騎兵は大きな力だったでしょう。この『一万二千』という数字には「12」が含まれています。ですから、この数は騎兵が選び抜かれた精鋭たちだったことを示しているかもしれません。ここで『馬屋』は『四万』あったと書かれていますが、Ⅱ歴代誌9:25の箇所では『四千』と書かれています。馬屋の数が四万でもあり四千でもあったというのは、ありえないことです。四万か四千か、どちらかが正しいのです。正しいのはⅡ歴代誌の『四千』でしょう。というのも馬屋が四万もあったというのは考えにくいからです。恐らく、私たちが今見ているこの箇所の原文は、Ⅱ歴代誌と同じで『四千』だったはずです。しかし、筆写されていく途中で、ある誰かが四千を四万と書き写してしまったのだと思われます。そして、その誤写が真正な原文であるかのように広まったのだと考えられます。Ⅱ歴代誌のほうでは、ソロモンの持つ戦車が4000だったと書かれています。一台の戦車を2頭の馬で牽くとして、騎兵における馬が1万2000でしたから、一つの馬屋に平均して5頭の馬がいたことになります。もし3頭の馬で戦車を牽いていたとすれば、一つの馬屋には平均で6頭の馬がいたことになります。