【Ⅰ列王記4:27~5:6】(2023/08/13)


【4:27】
『守護たちは、それぞれ自分の当番月にソロモン王、およびソロモン王の食事の席に連なるすべての者たちのために、食糧を納め、不足させなかった。』
 先に見た『十二人の守護』(Ⅰ列王記4:7)たちには、それぞれソロモン王家に食糧を納める当番月が割り当てられていました。ある守護が自分の当番月になると、1か月の間、王家に食糧を納め続けるわけです。これは小学校で、1か月ごとに特定の班が給食係を担当するのとどこか似ています。この守護たちが食糧を『不足させなかった』のは、彼らの忠実さを示しています。忠実でなければ不遜ないい加減さが生じてしまいかねません。忠実であれば悪くならないよう気を付けるのです。守護が納めていた『一日分の食糧』であれば、先の箇所でもう既に見た通りです。その箇所に基づき、1か月分(30日分)の食糧を計算すると、「小麦粉900コル」「大麦粉1800コル」「肥えた牛300頭」「放牧の牛600頭」「羊3000頭」となります。ソロモンが12人の守護たちにそれぞれ当番月を割り振っていたのは、恐らく負担軽減のためだったかもしれません。1年に1度だけ1か月分の食糧を納めるというのであれば、しっかり納められるでしょうし、準備も十分に行なえるでしょう。毎月毎月であれば疲れてしまったり慣れによるマンネリさなどが生じていたかもしれません。ソロモンのことですから、良き知恵の意図をもって、このような月の割り振りとしたのでしょう。

【4:28】
『彼らはまた、引き馬や早馬のために、それぞれ割り当てに従って、馬のいる所に大麦とわらを持って来た。』
 12人の守護たちは、国家の馬が養われるためにも、家畜用の食糧を持って来ました。『引き馬』とは『戦車用の馬』(Ⅰ列王記4章26節)であり、『早馬』とは高速連絡用の馬であり、現代で言えばヘリコプターがこれに相当するかもしれません。これらの食糧も、12人の守護たちが、それぞれ当番月に担当者として持って来たかもしれません。しかし、こちらのほうは王家用の食糧とは異なり、違った納め方がされていた可能性もあります。また、これらの馬に与える食料がどれぐらいだったか私たちには分かりません。ただその総量が非常に多かっただろうことは間違いありません。この『馬のいる所』とは『馬屋』(Ⅰ列王記4章26節)だったでしょう。

【4:29~31】
『神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。それでソロモンの知恵は、東のすべての人々の知恵と、エジプト人のすべての知恵とにまさっていた。彼は、すべての人、すなわち、エズラフ人エタンや、ヘマンや、カルコルや、マホルの子ダルダよりも知恵があった。それで、彼の名声は周辺のすべての国々に広がった。』
 神は、ソロモンに『非常に豊かな知恵と英知』とを、御恵みにより与えられました。これはソロモンが多くの民衆を正しく統治できるよう神に願い求めたからです。というのも、知恵があれば、その知恵により自ずとどう統治すればいいか分かるからです。また知恵があれば人々はその人に自然と従うものだからです。それはその人が自分より賢い判断をするに違いないだろうと認めているからなのです。ここで書かれている『知恵と英知』とは、それぞれ少し異なった意味であると考えられます。『知恵』とは賢く考える精神の能力を全体的に意味する言葉であり、『英知』とは効果や実効性に重きを置いた意味の知恵であると思われます。ソロモンに与えられたのは『神の知恵』(Ⅰ列王記3:28)でした。それゆえ、ソロモンは最も知恵ある者とされました。『東のすべての人々』と書かれているのは、バビロンやインドの地方、また中国も含んでいるはずです。ソロモンの知恵は『エジプト人のすべての知恵』を合わせても敵いませんでした。31節目で書かれているのは、当時の有名な知者たちのことでしょう。ソロモンの知恵がどれほどだったかは、彼の書いた「箴言」「伝道者の書」「雅歌」を読めば分かります。ソロモンの知恵は神の知恵でしたから、プラトンや釈迦やアインシュタインが持っていた知恵よりも優っています。

 ソロモンは神の知恵を受けたので、『彼の名声は周辺のすべての国々に広がった』のです。他では見られない知性を持っており、しかも大国の王がそのような知性を持っているのですから、その知恵が噂にならないことは不可能でした。その名声は今の時代に至るまで鳴り響いているほどです。これからもソロモンの名声が途絶えることはないでしょう。というのも、ソロモンの名声は『神の知恵』に基づくのだからです。

 神はソロモンに知恵の心だけでなく、『海辺の砂浜のように広い心』をも与えられました。これは砂浜でもあるかのように多くの人々や事物を包括できる心のことです。ソロモンが無数の民衆を巧みに統治するためには、このような『広い心』がどうしても必要でした。心が狭かったのであれば、多くの事柄に対応しにくくなるからです。これは子どもが良い例です。子どもの心はまだ狭いので、少しの対象にしか対応することが出来ません。

【4:32】
『彼は三千の箴言を語り、彼の歌は一千五首もあった。』
 ソロモンは知恵の箴言を『三千』も語りました。この数は概数だった可能性もあります。私たちも厳密な数を考慮せず、だいたいの数で何かを言ったりすることがよくあります。そのような言い方をしても問題視されることはほとんどありません。ですから、ここでの数が概数だったとしても問題視すべきではありません。しかし、この『三千』という数が実際の数だった可能性もあります。この「3000」という数字に何か象徴的な意味はあるでしょうか。もしあるとすれば、これは「1000」かける「3」に分解できるでしょう。つまり、ソロモンは完全な内容の箴言を非常に豊かに語ったということです。その箴言は、聖書の「箴言」の巻で、少しだけ収録されています。私たちはこの箴言に書かれている量だけを見ても、かなりの量だと感じるはずです。しかし、これでも全体からすればほんの少しに過ぎないのです。つまり、神はソロモンの箴言を少しだけ聖書で収録することにされたのです。もちろん、神はその箴言を全て聖書に書くこともおできになりました。しかし、もしそのようにすれば、ソロモンの箴言だけで1000ページぐらいになっていたでしょうから、明らかに聖書のバランスが悪くなってしまうのです。これほどに箴言を語ったソロモンは、箴言の形式を好んでいたものと思われます。知者は短く纏められた言葉を好むものです。というのも、そのような言葉は研ぎ澄まされており無駄がないからです。またソロモンは箴言だけでなく『歌』も多く作りました。これは詩人また琴の奏者であったダビデの子どもらしいと言えましょう。聖書の「雅歌」はその歌の一つです。ソロモンは歌を作ることだけでなく、歌を聴くことも好んでいたようです。このソロモンの作った歌は『一千五首』でしたが、この数に象徴的な意味は含まれていないはずです。この歌もまた神は聖書で全て収録されることをなさいませんでした。もし1005もある歌が全て収録されていたとすれば、聖書のかなりの部分がソロモンの歌で占められていたでしょうから、明らかに聖書のバランスが崩れていたでしょう。しかし、神は秩序の神であられますから、聖書の内容がバランス良くなるようにされました。このため、ソロモンの歌は聖書で「雅歌」だけとなったわけです。

 このようにソロモンは多くを語り歌も多く作りましたが、シリウス・イタリクスが述べた通り、知恵ある者は容易く語るものなのです。ソロモンが多く語ったり歌を多く作ったのは、神の知恵を持つ知者だったからです。というのも、知恵があればどのように語ればいいか語り方が分かるからです。知者はその語り方を駆使することができます。また箴言で言われている通り、知恵ある者は知識の収集を求めます。ですから、知恵ある者は知識を多く持っており、そのため何かを語るネタに困ることはないわけです。もしソロモンが知恵ある者でなければ、ここまで多くを語ることは難しかったはずです。

【4:33】
『彼はレバノンの杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣や鳥やはうものや魚についても語った。』
 ソロモンは箴言を語り歌も作っただけでなく、植物や動物についても語ることをしました。ここで『レバノンの杉の木』また『ヒソプ』と書かれているのは、その語られた植物の一例です。ソロモンは知られている限り全ての植物について語ったのでしょう。また『獣や鳥やはうものや魚』とは、すなわち動物の全体を意味しています。ソロモンは当時に知られている全ての動物を語ったと思われます。このようにソロモンは、学問の領域においても、卓越した知性を発揮していました。ソロモンは社会的な王者であるうえ、知者たちの王者であり、学問の王者でもあったわけです。これでは注目されないほうがおかしかったと言えるでしょう。天はソロモンに二物も三物も与えたのです。受ける者は多くを受けるものなのです。

【4:34】
『ソロモンの知恵を聞くために、すべての国の人々や、彼の知恵のうわさを聞いた国のすべての王たちがやって来た。』
 ソロモンは神の知恵を持っていたゆえ、その名声はあらゆる国に鳴り響いており、そのため王であれ一般人であれ、諸国から人々がソロモンの知恵を聞こうとしてイスラエルのエルサレムにやって来ました。中国からも人が訪問して来たはずです。当時のヨーロッパ地域において、認識的な意味で東の果てはインドでした。ですから、アレクサンドロスも地球全土の支配者となるべくインドまで征服しに行こうとしたわけです。中国は認識の領域を越えた別次元の場所でもあるかのように感じられていました。西洋の古代文書に中国への言及がほとんど見られないのは、このためなのです。しかし、ソロモンの噂はこの中国にまで多かれ少なかれ届いていたはずです。であれば、中国からも訪問者がエルサレムまでやって来たに違いありません。エルサレムに訪問した人々は、ソロモンの噂が事実かどうか確かめようとやって来たのです。何故なら、自分の耳でソロモンの知恵を聞き、実際に語っているソロモンをその目で見るならば、噂が真実だったと確かめられるのだからです。その訪問者の数は実に多かったと思われます。しかし、それが実際にどれほどの数だったかは分かりません。

【5:1】
『さて、ツロの王ヒラムは、ソロモンが油をそそがれ、彼の父に代わって王となったことを聞いて、自分の家来たちをソロモンのところへ遣わした。ヒラムはダビデといつも友情を保っていたからである。』
 『ヒラム』王が支配していた『ツロ』という場所は、イスラエルの最北部、地中海の沿岸沿いに面した場所であり、異邦人の国です。このヒラムも異邦人だったはずです。すなわち、あるユダヤ人がツロ国の王として任命されたというのではなかったはずです。このヒラムは異邦人でしたが、しかし『ダビデといつも友情を保ってい』ました。ダビデとヒラムが仲良しだったというのは、つまりヒラムがヤハウェに敵対的な人物ではなかったということを意味します。何故なら、主を愛していたダビデが主に敵対的な王と仲良くするなどというのは全く有り得ないことだからです。詩篇のある箇所では、「私はあなたを憎む者を憎まないでしょうか。」と記者が主に対して言っているのです。実際、後の箇所から分かる通り、このヒラムという異邦人の王は、異邦人でありながらヤハウェを敵視するような者ではありませんでした(Ⅰ列王的5:7)。このヒラムは、ソロモンが王になったと聞いて、『自分の家来たちをソロモンのところへ遣わし』ました。これはソロモンに対する挨拶および親交のためだったはずです。自分と仲良くしていたダビデの子ソロモンが新しくイスラエルの王になったのです。であれば、どうしてヒラムは何か友情的な働きかけをしないままでいることができたでしょうか。もしヒラムが何もしないままでいたとすれば、ヒラムはダビデとの友情を何も持っていなかったことになるのです。

【5:2】
『そこで、ソロモンはヒラムのもとに人をやって言わせた。』
 ヒラムが家来をソロモンのもとに遣わしたので、ソロモンもヒラムのもとに人を遣わしました。ソロモンの遣わした人がどれだけだったかは分かりません。聖書に詳しく書かれていませんが、ヒラムが家来を遣わしたのは、ソロモンに対する挨拶のためだったはずです。そう考えるのが自然だからです。であれば、ソロモンはヒラムの挨拶に応じる形で人を遣わしたことになるのでしょう。

【5:3】
『「あなたがご存じのように、私の父ダビデは、彼の回りからいつも戦いをいどまれていたため、』
 私たちが既にⅠとⅡのサムエル記で見た通り、ダビデは『彼の回りからいつも戦いをいどまれてい』ました。このような敵の挑戦は、ダビデにとって辛く苦しいことだったはずです。しかし、そのような苦しみは、ダビデに対する裁きとして齎されたのではありませんでした。それは神による試練の苦しみだったのです。つまり、神はダビデが鍛えられて強くなるため、敵の挑戦という試練を与えておられたわけです。ヒラムはダビデと友人同士でしたから、このようなダビデの苦しみを知っていました。しかし、ヒラムがそれをどれぐらい知っていたか私たちには分かりません。かなり詳しく知っていたかもしれませんし、少し知っているだけだったかもしれません。このような敵からの挑戦は、ソロモンの治世になると、もう鎮静化していました。これはソロモンという名が示す通り、ソロモンの時代は平和が訪れるように定められていたからです。

【5:3~4】
『主が彼らを私の足の裏の下に置かれるまで、彼の神、主の名のために宮を建てることができませんでした。ところが、今、私の神、主は、周囲の者から守って、私に安息を与えてくださり、敵対する者もなく、わざわいを起こす者もありません。』
 ダビデは宮を建てようと願っていましたが、しかし建てることはできませんでした。ダビデはもし宮を建てられたとすれば喜んで建てていたでしょう。しかし、神はダビデに宮を建てさせられませんでした。多くの血を流したダビデが、しかも平和でない時期に、宮を建てようとするのは、望ましくなかったのです。というのも神とは平和の神だからです。何事であれ「それを行なうのに相応しい者」がいます。ダビデは明らかに「宮を建てる者」でありませんでした。それに相応しいのはソロモンだったのです。

 しかし今や、もうイスラエルには平和と安全と繁栄と幸福とが神から与えられていました。かつてイスラエルに敵対していた異邦人たちも、今やソロモンの『足の裏の下に置かれ』ていました。『足の裏の下に置かれる』とは、敵がソロモンの支配のうちに服させられるという意味です。ですから、もう今や時代がすっかり変わったのです。そのため、もう平和となったので、宮を建てるべき時期が来ていたのです。このような時期は神が作り上げられた時期でした。何故なら、全ては神の意図に基づいて起こるのだからです。パウロが『すべてのことが神から発し』ているとローマ書13章の箇所で述べた通りです。近代で戦前と戦後において時代が変化したのも、やはり神の意図に基づいています。すなわち、神の働きかけにより、1945年を境として時代が変わったのです。私たちは聖書的な有神論に堅く立ちましょう。理神論は糞喰らえのゴミ箱行きです。

【5:5】
『今、私は、私の神、主の名のために宮を建てようと思っています。主が私の父ダビデに『わたしが、あなたの代わりに、あなたの王座に着かせるあなたの子、彼がわたしの名のために宮を建てる。』と言われたとおりです。』
 もう宮を建てるべき時期が訪れたので、ソロモンは宮を建てようとしていました。それは計画途中などではありませんでした。ソロモンは、もうすぐにも宮を建てようとしていたのです。しかも、ソロモンは本当に心から主のため宮を建てようとしていたはずです。見せかけとか偽りから建てようとはしなかったはずです。ソロモンが宮を建てるのは、しっかりと根拠がありました。それは神がソロモンの父ダビデに「『わたしが、あなたの代わりに、あなたの王座に着かせるあなたの子、彼がわたしの名のために宮を建てる。』と言われた」からです。ソロモンは自分自身から勝手に宮を建てようとしたのではなかったのです。それゆえ、ソロモンによる神殿建設は御心に適いました。もしソロモンが宮を建てようとしなければ、それこそ神の御心に適わないことでした。

【5:6】
『どうか、私のために、レバノンから杉の木を切り出すように命じてください。私のしもべたちも、あなたのしもべたちといっしょに働きます。私はあなたのしもべたちに、あなたが言われるとおりの賃金を払います。ご存じのように、私たちの中にはシドン人のように木を切ることに熟練した者がいないのです。」』
 神の宮は木材により作られます。宮は鉄骨製ではありませんでした。しかし、イスラエルには『木を切ることに熟練した者がいない』のでした。このため、ソロモンはヒラムが『レバノンから杉の木を切り出すように命じて』くれるよう求めます。木を切り出す際、ソロモンは自分の僕たちを遣わして働かせるつもりでした。またソロモンは木を切るヒラムの僕たちに『賃金を払』うと言っています。つまり、ソロモンはヒラムに協力を要請したのです。このような協力は、ダビデがヒラムと友情を持っていたからこそ、頼めたことだったかもしれません。ここで『レバノン』と言われているのは、ツロの北東にあるレバノン山とその付近のことです。この『レバノン』は力強い杉の木で有名でした。旧約聖書ではこのレバノンについて言及されている箇所が多くあります。またそこにいた『シドン人』は、イスラエル人と異なり、『木を切ることに熟練した者』がいました。人は地域ごとに得意とする分野がそれぞれ異なるものなのです。それゆえ、ソロモンがそうしたように、自分たちの持たない特質を持つ人々に頼るというのは、有益であり、愚かなことではありません。