【Ⅰサムエル記13:5~14:22】(2022/09/25)


【13:5】
『ペリシテ人もイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民であった。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。』
 イスラエル人が戦闘の準備をしているのを見て、ペリシテ人もイスラエル人と戦うため戦闘の準備をします。ペリシテ人の陣営には実に多くの兵士が集まりました。『戦車三万、騎兵六千』というのは凄まじい数です。戦車と騎兵以外の戦力は『海辺の砂のように多い民』でしたが、『海辺の砂』というのは数が多いことを示す象徴表現です。

【13:6~7】
『イスラエルの人々は、民がひどく圧迫されて、自分たちが危険なのを見た。そこで、ほら穴や、奥まった所、岩間、地下室、水ための中に隠れた。またあるヘブル人はヨルダン川を渡って、ガドとギルアデの地へ行った。サウルはなおギルガルにとどまり、民はみな、震えながら彼に従っていた。』
 ペリシテ人の勢力が非常に多く強かったので、イスラエル人は大変な危険を感じました。無理もありませんでした。ペリシテ人は実に多くの戦力を備えて攻め込んで来たのですから。彼らは容赦するつもりがありませんでした。これは、ちょうど蜂の大群が一挙に襲い掛かって来るようなものでした。このためイスラエル人は自分の身を守るため、『ほら穴や、奥まった所、岩間、地下室、水ための中に隠れ』ました。民の中には『ヨルダン川を渡って、ガドとギルアデの地へ行った』者もいましたが、これはかなり安全な逃避方法でした。何故なら、ペリシテ人はいちいちヨルダン川を渡ることなしに、このイスラエル人を襲うことが出来なかったからです。サウルと共にいたイスラエル人は『ギルガルにとどま』っていましたが、心には大きな恐れと心配があり、勇士のごとき力強さを持つことは出来ていませんでした。

【13:8~9】
『サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした。そこでサウルは、「全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい。」と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた。』
 サウルは以前、ギルガルに行ったならばサムエルが来るまでそこで7日間待機しているようサムエルから命じられていました(Ⅰサムエル10:8)。これはサウルの忍耐を試し、鍛えるためでした。「7」日という日数は、充分な期間であることを意味しています。しかし、サムエルは7日経ってもギルガルに来ませんでした。時間通りに来ないと人は諦めてしまいがちです。このため民はサウルから離れ去ろうとしました。サムエルが来ない以上、サウルと一緒にいても意味はないからです。サウルと一緒にいるぐらいであれば、サウルから離れてペリシテ人に襲われないよう逃げたほうが利口でした。サウルは自分から民が離れてしまうことに耐えられませんでした。そこでサウルは『全焼のいけにえと和解のいけにえ』を民の前で捧げました。このようにすれば民を自分のもとに引き止めておけるだろうからです。確かにこうすれば民はサウルのもとに留まったでしょう。しかし、サウルがこのようにしたのは御心に適いませんでした。何故なら、イスラエルにおいて生贄を捧げるのは祭司の役割だからです。サウルは勝手に生贄を捧げたことで自分の愚かさを公の場で曝け出しました。「不適切」とは正にこのことでした。

【13:10~12】
『ちょうど彼が全焼のいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た。サウルは彼を迎えに出てあいさつした。サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」』
 サウルが生贄を捧げ終わった時、何とサムエルがギルガルに到着しました。サムエルがギルガルに来ていないわけではありませんでした。ただ到着が期日ギリギリになっただけでした。ですから、サウルはもうしばらく忍耐して待つべきだったことになります。ところが彼は焦ってしまいました。ここにサウルの愚かさがありました。当然ながらサムエルはサウルの自分勝手な行為を問い正しますが、サウルは見苦しい弁明をします。サウルは何とか自分の振る舞いを正当化しようとしています。彼は自分の非を認め、告白し、謝罪することがありませんでした。ここにもサウルの愚かさが現われています。この時にサウルがした行為は致命的な不適切さを持っていました。よって、サウルが王として相応しくないことは明らかでした。倫理的・素質的に王の器ではなかったのです。

【13:13~14】
『サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」』
 サウルは致命的な過ちを犯したので、王権が取り上げられることになりました。その王権はやがてダビデに移されることになります。こうしてイスラエルにサウルの王国は立たなくなりました。もし彼が愚かな振る舞いをしなければ、ずっとイスラエルで王として支配し続けることが出来ていたでしょう。ところで、ダビデも実に大きな驚くべき過ちに陥りました。しかし、ダビデから王権は全く取り上げられませんでした。サウルのほうは大きな過ちゆえ王権が取り上げられました。どちらも大きな過ちを犯したことに変わりはありません。それなのに一方は王権が保たれ、一方は王権が取り上げられました。この違いは一体どういうわけなのでしょうか。この違いは、サウルが自分の職務を歪める過ちに陥ったのに対し、ダビデは単に道徳的な悪徳に陥っただけに過ぎないという点から理解できます。ダビデの場合、サウルとは違い、王としての職務に不正を加えるという過ちは犯しませんでした。すなわちダビデは自分の職務を遂行することにおいて過ちを犯しませんでした。サウルの場合は王としての職務に抵触する悪徳を犯しました。その悪徳とはギルガルで7日待てと神から命じられたのに待たなかったことです。ダビデであれば7日しっかり待ち、自分勝手に生贄を捧げたりしなかったはずです。このため、サウルの場合は大きな悪徳が王職を解任される原因となったのでした。神はサウルがずっとイスラエルの王でいることを望んでおられませんでした。ですから、サウルは自分勝手な振る舞いをすることが許可されたのでした。サウルが自分勝手な振る舞いをすれば王職から退けられることになるからです。至高の主権者であられる神には人に抑制の恵みを与えない自由があります。

【13:15】
『こうしてサムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギブアへ上って行った。』
 サムエルは自分の聖なる職務を奪われるという不正をサウルから行なわれたので、ギルガルで祭儀を行なうことはせず、ギルガルから西に離れた『ベニヤミンのギブア』に行きました。サウルが王として相応しくなくなった以上、サウルのため祭儀をする必要もなくなったからです。サムエルがギルガルで祭儀を行なうと言っていたのは、サウルが王として相応しく歩んでいる限りにおける話でした(Ⅰサムエル10:8)。ですから、サムエルが自分の言葉通りに祭儀をギルガルで行なわなかったからといっても、サムエルが偽りを言ったとか約束を実行しなかったなどと非難されるべきではありませんでした。

【13:15~18】
『サウルが彼とともにいる民を数えると、おおよそ六百人であった。サウルと、その子ヨナタン、および彼らとともにいた民は、ベニヤミンのゲバにとどまった。ペリシテ人はミクマスに陣を敷いていた。ペリシテ人の陣営から、三つの組に分かれて略奪隊が出て来た。一つの組はオフラへの道をとってシュアルの地に向かい、一つの組はベテ・ホロンへの道に向かい、一つの組は荒野のほうツェボイムの谷を見おろす国境への道に向かった。』
 サウルと共にいたイスラエル人は『ベニヤミンのゲバ』に留まっており、そこにいた民は『六百人』でした。先にサウルが集めた民は『三千人』でしたから、2400人もの民がサウルから離れたことが分かります。これほどまで民がサウルから離れていたというのは、サウルに人望が無かったからなのかもしれません。事実、サウルは神にも人にも喜ばれない王でした。それは彼が高身長で美しい見栄えだけの王であって(Ⅰサムエル9:2)、中身は大したことが無かったからなのです。フランシス・ベーコンも「随想録」の中で言った通り、見栄えの優れた者は男であれ女であれ素晴らしい中身を伴っていないものなのです。「美人って性格悪いの多いよな。」などと言われることは珍しくありません。「天は二物を与えず」という諺もあります。アルキビアデスも古代ギリシャにおいて超美形の男として有名でしたが、サウルと同様で、中身は最悪でした。

 ペリシテ人の勢力は、陣を敷いていたミクマスから『略奪隊』を3方向に向かわせます。この3つの略奪隊の数はそれぞれ何人で構成されていたか分かりませんが、ペリシテ人の総勢力は実に多かったので(Ⅰサムエル13:5)、この略奪隊もそれぞれ非常に多かった可能性が高いとしていいでしょう。『オフラ』はサウルたちのいたゲバの北10kmほどの場所にあり、『ベテ・ホロン』はゲバから西に20kmほど離れています。

【13:19~22】
『イスラエルの地のどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブル人が剣や槍を作るといけないから、とペリシテ人が言っていたからである。それでイスラエルはみな、鋤や、くわや、斧や、かまをとぐために、ペリシテ人のところへ下って行っていた。鋤や、くわや、三又のほこや、斧や、突き棒を直すのに、その料金は一ピムであった。戦いの日に、サウルやヨナタンといっしょにいた民のうちだれの手にも、剣や槍が見あたらなかった。ただサウルとその子ヨナタンだけが持っていた。』
 これまでイスラエルを支配していたペリシテ人がイスラエルに『鍛冶屋』を禁止したので、『イスラエルの地のどこにも鍛冶屋がい』ませんでした。これはペリシテ人がイスラエル人の反逆を防止しようとしたためでした。もし鍛冶屋を始めるイスラエル人がいれば、ペリシテ人から処罰されていたはずです。「非合法の鍛冶屋であれば少しぐらいはいたのではないか。」と思う人がいるかもしれません。このように考える必要はありません。何故なら、聖書は『イスラエルの地のどこにも』鍛冶屋がいなかったと述べているからです。私たちはただイスラエルの地に鍛冶屋が見られなかったということだけ考えれば、それで十分です。イスラエル人がペリシテ人から鍛冶屋を禁止されていたということは、両者の上下関係を如実に示しています。イスラエルがペリシテ人からこのように支配されていたのは、イスラエルの罪に対する裁きでした。敵にコントロールされるというのは確かに裁きに他なりません。律法の中で示されている通りです。

 イスラエルに鍛冶屋がなかったので、イスラエル人は自分たちで『鋤や、くわや、斧や、かま』といった生活に必要な用具さえ砥ぐことができませんでした。しかし、これらの用具を砥げないというのは生きていく上で問題です。ですから、イスラエル人は用具を砥ぐため『ペリシテ人のところへ下って行って』いました。すなわち、ペリシテの地にあるペリシテ人の鍛冶屋を利用していました。生活に必要な用具の整備や改善でさえ敵である汚れた異邦人の助けを借りなければならない。これほど屈辱的で惨めなことがあるでしょうか。しかも、国内に鍛冶屋が全く無いというのは、不思議なことであり不幸なことです。このような状況も神の裁きにより齎されていたのです。

 イスラエルがこのような状況だったので、ペリシテ人との『戦いの日に』なったというのに、イスラエル人の中で剣や槍を持つ者は『サウルとその子ヨナタンだけ』しかいませんでした。戦争がこれから行なわれるというのに民が武器を持っていないというのは、悲惨極まりない事態でした。このような事態でしたから、多くのイスラエル人が思い思いのままにペリシテ人を避けて逃げたのは自然なことだったかもしれません(Ⅰサムエル13:6~7)。

【13:23】
『ペリシテ人の先陣はミクマスの渡しに出た。』
 これはペリシテ人が本格的な攻撃に出始めたということです。まず先陣が勇を振るって出て行き、その先陣に後続部隊が続くものだからです。

【14:1】
『ある日のこと、サウルの子ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣のところへ渡って行こう。」ヨナタンは、このことを父に知らせなかった。』
 ある時になると、サウルの子ヨナタンは道具持ちの若者を連れて、イスラエルの陣営とは独立した動きに出ようとします。自分たちだけで『ペリシテ人の先陣のところへ』切り込もうというのです。これは無謀だと思う人もいたはずである凄まじい勇敢さです。ヨナタンはどうしてこのような勇気を持つことが出来たのでしょうか。それは神が味方であればどれだけの数であろうとも必ず敵に対して勝利を得られると信じていたからでした(Ⅰサムエル14:6)。このようにヨナタンは神が味方して下されば数は関係ないと考えていたものの、それでも道具持ちの若者を連れていくことは差し控えませんでした。別にヨナタン1人でも問題ありませんでしたが、2人で行くことにしたのです。これは2人であれば何かとメリットが大きいからです。神も伝道者の書で2人であることによる益を示しておられます。また、『ヨナタンは、このことを父に知らせなかった』のですが、どうして知らせなかったのでしょうか。これは恐らくサウルが大きな過ちを犯したので、王権を取り上げられることになったからなのでしょう。このような者にこれから行なおうとしている計画を知らせれば、何か愚かなことを言われ、決意と勇敢さを挫かれてしまうことにもなりかねません。サウルが愚かな者であることは明らかでした。ソロモンも言うように『愚かな者と共に歩む者は害を受ける』(箴言)のです。ですから、ヨナタンがサウルに計画を知らせなかったのは正解だったことになります。

【14:2~3】
『サウルはギブアのはずれの、ミグロンにある、ざくろの木の下にとどまっていた。彼とともにいた民は、約六百人であった。シロで主の祭司であったエリの子ピネハスの子イ・カボテの兄弟アヒトブの子であるアヒヤが、エポデを持っていた。』
 2節目ではサウルの陣営に関して記されています。サウルと共に『六百人』しか民がいなかったと再び示されています。何も武器を持たない600人の民しかいなかったのですから、ペリシテ人が大いなる脅威だったことは間違いありません。ペリシテ人は騎兵だけでも『六千』(Ⅰサムエル13:5)いました。もうこれだけでもサウルたちにとって大きな脅威です。ところが、ペリシテ人には他にも莫大な戦力がありました。ですから、普通に考えるならば、サウルたちが敗北するだろうということは誰でも容易に予測できました。なお、サウルと共にいた民が『600』人だったというのは、数字的な象徴性を持たないはずです。

 エポデを持っていた『エリの子ピネハスの子イ・カボテの兄弟アヒトブの子であるアヒヤ』とは、つまり「エリの孫における兄弟の子」すなわち「エリの曾孫」です。『エポデ』とは祭司の正装です。それをエリの曾孫が持っていたというのは、つまりまだこの時にはエリの子孫が祭司の職務に就いていたということです。何故なら、『持っていた』というのは単に持っていたというだけではなかったはずだからです。『持っていた』のであれば当然ながら着るのです。しかし、大祭司はこのアヒヤでなくサムエルだったはずです。ここまで読み進めて来た読者であれば分かると思いますが、イスラエルにおいて大祭司は1人だけであり、この大祭司の下に位置付けられる祭司は多くいました。

【14:3】
『民はヨナタンが出て行ったことを知らなかった。』
 陣営にいた民の中でヨナタンの動きを知る者は誰もいませんでした。もしいたとすればサウルに伝えられ、ヨナタンの出鼻は挫かれていたかもしれません。しかし、ヨナタンは誰にもバレないよう上手にやれました。神がヨナタンの思惑を嘉せられ、他の者が気付かないようにされたからです。このように神の御心に適えば上手く事が進められるものなのです。

【14:4~5】
『ヨナタンがペリシテ人の先陣に渡って行こうとする渡し場の両側には、こちら側にも、向かい側にも、切り立った岩があり、片側の名はボツェツ、他の側の名はセネであった。片側の切り立った岩はミクマスに面して北側に、他の側の切り立った岩はゲバに面して南側にそそり立っていた。』
 これからヨナタンがペリシテ人の先陣に切り込むためには、そそり立つ高い場所に登らなければなりませんでした(Ⅰサムエル14:13)。つまり、ヨナタンが切り込もうとしていた場所は、かなり難易度の高い場所でした。すんなりと入れる場所ではないのです。この時、ヨナタンは東のギルガルから西にある敵の陣営に向かって進んでいました。

【14:6】
『ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」』
 ヨナタンはペリシテ人を『割礼を受けていない者ども』と言って低く取り扱っています。ダビデも同じように言ってペリシテ人を低く見ていました(Ⅰサムエル17:26)。タルムードを見ても分かる通り、ユダヤ人にとっての民族的な序列は「ユダヤ人」>「異邦人」です。これはユダヤ人が割礼を受けた神の民であるのに対し、異邦人は割礼を受けていない非選民だったからです。このため、ローマに支配されていた頃のユダヤ人は、異邦人であるローマ人による支配が気に入らないので、ローマ人に対して逆らってばかりいたのでした。要するにこれは「選民主義」です。これは啓示に基づいた主義でしたから間違っていると言えませんでした。もっとも、だからといって神の鞭として与えられた支配者である異邦人に反逆するということが正当化されるわけではありません。

 ヨナタンはここで、『たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう』と言っています。ヨナタンは「絶対に」と言いませんでした。『たぶん』という言葉は「もしかしたら期待通りにならない可能性もある。」という意味を持っています。どうしてヨナタンは『たぶん』と言い、「絶対に」と言わなかったのでしょうか。これは恐らく、まだこの時にはこの戦いにおける神の御心が判明していなかったからだと思われます。しかし、ヨナタンはきっと主が味方して下さるに違いないと思っていました。もし主が味方して下さるならば、『大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もな』くなります。何故なら、主の御心は必ず成るからです。もし主が勝利させて下さるならば、人数がどれだけであっても、勝利する以外にはありません。ですから、勝利が御心であれば、数は問題でないことになります。しかしながら、これとは逆の場合もまた然りです。すなわち、もし神の御心でなければ、人数が多かろうが少なかろうが、必ず敗北してしまいます。神の御心でなければ、数がどれだけであっても、敗北する以外にはないからです。たとえ1億人の兵力があっても敗北する以外にはありません。

 「勝利のために最重要なのは数だ。」このように思う人がいるでしょうか。確かに数の多さにより勝利を得たというケースは幾らでもあります。ですから、勝利のために必要なのは何よりも数だと考えてしまうのは、不思議なことだと言えないかもしれません。しかし、ヨナタンの言葉から分かる通り、勝利のために最重要な要素を数に置くのは誤っています。「数」は実のところ大した要素ではありません。最重要な要素は『主がわれわれに味方してくださる』ということに尽きます。何故なら、もし主が味方して下さるならば数の多さ少なさに関係なく必ず勝利するからです。ですから、勝利のため数に信頼する傾向を持っているならば、その傾向を捨て去るべきでしょう。神が勝利させて下さるのであれば、私たちはたとえ1人であったとしても必ず勝利するのです。

【14:7】
『すると道具持ちが言った。「何でも、あなたのお心のままにしてください。さあ、お進みください。私もいっしょにまいります。お心のままに。」』
 道具持ちは従順な人だったので、ヨナタンの計画に全て同意しました。神がヨナタンに反発しない意志をこの道具持ちに与えて下さったのです。もしそうでなければ、彼はヨナタンの計画に反発していたかもしれません。つまり、神がこの道具持ちをヨナタンに従わせたのでした。神がこのようにされたのは、神がヨナタンの勇敢な思惑を良しとされたからです。

【14:8~10】
『ヨナタンは言った。「今われわれは、あの者どものところに渡って行って、彼らの前に身を現わすのだ。もしも彼らが、『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ。』と言ったら、われわれはその場に立ちとどまり、彼らのところに上って行くまい。もし彼らが、『おれたちのところに上って来い。』と言えば、われわれは上って行こう。主が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これがわれわれへのしるしである。」』
 ヨナタンは自分たちがペリシテ人の前に身を現わした際、ペリシテ人の対応により、神の御心がどうであるか知ろうとしました。すなわち、もしペリシテ人が上って来るようヨナタンに命じたのであれば神はイスラエルの勝利を定めておられるのであり、じっと待機していろと命じたのであればイスラエルの勝利が御心なのではありません。何だかヨナタンはここで自分の意志の下に神を服させているかのようにも見えます。しかし、ヨナタンがペリシテ人の対応により御心を悟れるよう祈り求めていたことは間違いありません。ですから、ヨナタンはここで何か勝手なことを言ったわけではありません。まだ、この時には神の御心がどうであるかヨナタンに知らされていませんでした。もしかしたらペリシテ人がイスラエル人の手に渡されない可能性もありました。だからこそ、先にヨナタンは『たぶん』(Ⅰサムエル14:6)主が味方して勝利を得させて下さるであろうと言ったのでした。

【14:11~13】
『こうして、このふたりはペリシテ人の先陣に身を現わした。するとペリシテ人が言った。「やあ、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちとに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは、道具持ちに言った。「私について上って来なさい。主がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」ヨナタンは手足を使ってよじのぼり、道具持ちもあとに続いた。』
 ヨナタンは道具持ちと共に『穴』に隠れていました。臆病だったから隠れていたのではありません。隙を伺うため、また時間と準備の余裕を持つため、2人は穴に隠れていました。2人を見たペリシテ人が『やあ』と言ったのは、挨拶の言葉でなく、気付いた時に発する感情表現としての言葉です。

 ヨナタンと道具持ちが穴から姿をペリシテ人の前に見せると、ペリシテ人は『上って来い。』と命じましたから、主はイスラエルの勝利を定めておられるということが判明しました。このため、ヨナタンと道具持ちはペリシテ人のいる高い場所へと登って行きます。もし勝利の確信を持っていなければ、ヨナタンがこのように登って行ったかどうか定かではありません。というのも古代の戦争において高い場所に登り敵の陣営に入り込むというのは、最高に危険だったからです。城壁に梯子を立てかけて登ろうとする場合もそうでしたが、上から敵が容赦なく攻撃してくるので、登っている最中に多くの者が殺されてしまうのです。

【14:13~15】
『ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがそのあとから彼らを打ち殺した。ヨナタンと道具持ちが最初に殺したのは約二十人で、それも一くびきの牛が一日で耕す畑のおおよそ半分の場所で行なわれた。こうして陣営にも、野外にも、また民全体のうちにも恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。』
 神が働きかけておられたので、ヨナタンと道具持ちはペリシテ人の先陣にいた者たちを打ち殺し、その殺した数は『約二十人』となりました。この進撃が『一くびきの牛が一日で耕す畑のおおよそ半分の場所で行なわれた』というのは、僅かな面積の場所で20人ものペリシテ人が打ち殺されたということを言っているのでしょう。戦争において兵士は僅かな人的損失にさえ敏感であり、仲間の死亡報告は兵士たちの精神で拡声器のごとく鳴り響きます。このため、ペリシテ人の全陣営は、仲間の『約二十人』が打ち殺されたというので、『非常な恐れ』を持つことになりました。『地は震え』たと書かれているのは、ペリシテ人が極度にざわめいている様子を言い表しています。

【14:16~17】
『ベニヤミンのギブアにいるサウルのために見張りをしていた者たちが見ると、群衆は震えおののいて右往左往していた。サウルは彼とともにいる民に言った。「だれがわれわれのところから出て行ったかを、調べて、見なさい。」そこで彼らが調べると、ヨナタンと道具持ちがそこにいなかった。』
 神がヨナタンを通して引き起こされたペリシテ人のざわつきは凄まじかったので、イスラエルの陣営に知られないままではいませんでした。もしそのざわつきが大したことのないものだったとすれば、イスラエル人たちはペリシテ人のざわつきに気付いていなかったかもしれません。ペリシテ人の騒がしさがイスラエル人の誰かにより齎されたということは、イスラエル人にすぐ分かりました。何故なら、それ以外の理由でペリシテ人が騒いでいることは考えられなかったからです。そこでサウルは誰がイスラエルの陣営からペリシテ人の陣営まで出て行ったか調べさせました。すると『ヨナタンと道具持ちがそこにい』ませんでした。この2人がペリシテ人を恐慌に陥れていたことは誰の目にも明らかでした。

【14:18~19】
『サウルはアヒヤに言った。「エポデを持って来なさい。」当時、彼がイスラエルの前にエポデを取ったのである。サウルが祭司とまだ話しているうちに、ペリシテ人の陣営の騒動は、ますます大きくなっていた。そこでサウルは祭司に、「もう手をしまいなさい。」と言った。』
 サウルは神の御心が何であるか知るため、祭司であるアヒヤにエポデを持って来させ、このアヒヤを通して神の御心を求めようとしました。新約時代とは違い、旧約時代で祭司であるのはレビ人の聖職者だけでしたから、サウルのような王であっても祭司において神の御心を求めねばなりませんでした。しかし、『サウルが祭司とまだ話しているうちに、ペリシテ人の陣営の騒動は、ますます大きくなっていった』ので、サウルはアヒヤに手をしまわせました。「手をしまわせる」というのは、アヒヤがしていた祭儀の行為を停止させたということでしょう。

【14:20】
『サウルと、彼とともにいた民がみな、集まって戦場に行くと、そこでは剣をもって同士打ちをしており、非常な大恐慌が起こっていた。』
 サウルたちがペリシテ人の陣営に行って近づくと、ペリシテ人の同士打ちが目に入ってきました。仲間が仲間を敵と誤認して互いに殺し合っているのです。「本当にこのような出来事が起きたのか。」と思う人がいるでしょうか。古代の戦争を経験したことがない現代人にとって、確かにこのような同士打ちは驚くべき信じ難いことかもしれません。しかし古代の歴史書を見ると、古代でこのような同士打ちはそれほど珍しくなかったことが分かります。古典を読み慣れた人であれば、私の言ったことがよく分かるはずです。この同士打ちはイスラエルに対する神の御恵みとして起こりました。神はイスラエルに勝利を与えようとしておられました。ですから、神はペリシテ人が大恐慌に陥るよう働きかけられたのです。

【14:21~22】
『それまでペリシテ人につき、彼らといっしょい陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった。また、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人も、ペリシテ人が逃げたと聞いて、彼らもまた戦いに加わってペリシテ人に追い迫った。』
 イスラエル人であるのにペリシテ人の勢力に組している者たちがいました。人間は自分のため有利になれる勢力に属そうとするものです。ユダヤ人も例外ではありませんでした。このユダヤ人は自国民を特に重視する民族です。彼らでさえこのように敵である異邦人に組するのであれば、他の民族は尚のこと容易く敵の勢力に組せることでしょう。しかし、ペリシテ人に大恐慌が起きているのを知ると、彼らもペリシテ人から離れ、『イスラエル人の側につくようにな』りました。彼らは自分のためペリシテ人に組していたのですから、そのペリシテ人の状態が悪くなると、もう自分のためにならないというのでペリシテ人から離れたわけです。彼らはこれから再びペリシテ人の状態が良くなったとすれば、せっかくイスラエル人の側に戻ったのに、もう一度ペリシテ人の側に付きたいと思ったことでしょう。ペリシテ人が調子を取り戻した以上、イスラエル人の側に属していれば、自分の身が危うくなってしまうからです。こういうのを「日和見主義」と呼ぶのです。このような者は往々にして嫌悪されがちですが、この時にペリシテ人から遠ざかったイスラエル人は非難されるべきだったのでしょうか。聖書は彼らについて何も評価を与えていません。彼らはそもそも最初からペリシテ人の勢力に付くべきではありませんでした。初めからずっとイスラエルの勢力に属したままでいるべきだったのです。何故なら、旧約時代のイスラエルとは神の民であり聖なる勢力だったからです。

 ペリシテ人から逃げて隠れていたイスラエル人たちも(Ⅰサムエル13:6)、ペリシテ人の情勢が悪くなると、出て来てイスラエル人の勢力に加わりました。調子が良いのを見ると味方になって加勢しようとする。人間とはこのようなものです。