【Ⅰサムエル記15:17~16:11】(2022/10/09)


【15:17~19】
『サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるため戦え。』あなたはなぜ、主の御前に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」』
 サウルは自分の存在を小さく思っていました。確かにサウルの属していた部族および氏族は、イスラエルの中で小さい存在でした(Ⅰサムエル9:21)。これはアフリカにいる黒人の子どもが、「僕は黒人だから大したことがないんだ。」などと自分で自分を見下すのと似ています。しかし、神はサウルのような小さな存在をこそ高きに引き上げられます。それは人間が誰も誇り高ぶらないようにするためなのです。もしサウルが高い存在であれば、恐らく王にまで引き上げられるということはなかったかもしれません。このようにサウルが自分を低く見ていても、彼が王であることに変わりはありません。サウルの自己認識がどうであれ、その認識はサウルが王であるという事実を覆しません。何故なら、神がサウルを王とされたからです。神が王にされたのであれば、その王は王なのです。これは法的な事実です。

 これはあらゆる職位で同じことです。自己認識の低さは立場を消し去りません。その人が自分をどう思うのであれ、その人の立場はそのままに留まり続けます。例えば、総理大臣が自分は総理大臣の器に相応しくないと感じていたとしても、その人が総理大臣であるという事実は揺るぎません。これは社長や牧師や教授でも同様です。それゆえ、高い地位にある人で自信の無い人はよく弁えるべきです。自信が無いのであれば、自分の立場を直視して感情に振り回されないようにすべきでしょう。サウルはこれが出来ておらず、感情に振り回されていました。

 サウルは神から正式に王として立てられたのですから、自分を王に任じた神の命令を遵守すべきでした。しかし、サウルは神に従いませんでした。これでは責め立てられても文句を言えません。どの社会でも大犯罪を行なえば責め立てられることは避けられないでしょう。これと同様でサウルも責め立てられることを免れませんでした。

【15:20~21】
『サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」』
 サウルはサムエルから問い詰められても、自分が神に聞き従ったと言い張ることを止めません。彼は本当に心底から神に服従していたと感じていたのでしょうか?恐らく、サウルは心の奥底で自分が神に聞き従っていなかったと感じていたでしょう。つまり、彼は「自分は神に従ったのだ。」と自分で自分を洗脳していたはずです。それというのも、すぐ後ほどこの愚かな王は、自分が神に従っていなかったことを認めたからです(Ⅰサムエル15:24)。ここでサウルは自分の不敬虔を他人に帰そうとします。サウルは自分が民に動かされただけなのだから、もし非があるとしてもその非は民に帰せられるべきだ、と言うのです。人間は往々にして責められると責任を他人に押しつけようとするものです。それは自分がとても可愛いからなのです。つまり、大切な自分が有罪となり不幸になることを避けたいのです。こういった責任逃れを私たちは日頃からよく見たり聞いたりしています。最初の人間であるアダムとエバもこのようでした。すなわち、アダムは自分の罪をエバのせいにし、エバは自分の罪を蛇のせいにしました(創世記3章)。このように問い詰められた際は、ただただ非を認めて遜るのが望ましいでしょう。そうしなければ問い詰めている者が怒りを爆発させかねないからです。しかし遜るのであれば憐れみを引き出せることも場合によっては十分にあり得ます。

【15:22】
『するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』
 サムエルは、サウルが何を言っても全く動かされませんでした。サムエルはサウルが有罪であることを既に神から聞き知っていたからです。このためサウルが何を言っても無駄なことでした。

 この箇所でサムエルは大変重要なことを言っています。サムエルが言う通り、従順は生贄に優っています。何故なら、人間は神に従うために創造された被造物だからです。もし人間が神に従わないのであれば、何のために人間が創造されたのか分からなくなってしまいます。そのようになれば人間から本質が消え去ってしまいます。実に、人間が神に服従しなかったからこそ、生贄を神に捧げる必要が出たのです。もし人間が神に従い続けていたとすれば、人間には罪がないわけですから、贖罪のため生贄を捧げる必要もありませんでした。しかし、従順が生贄に優るからといって、生贄を否定していいというわけでもありません。生贄を捧げるのは律法が命じていることです。ですから、古代ユダヤ人は律法に書かれている通り、しっかり生贄を捧げなければいけませんでした。もし全く生贄を否定する古代ユダヤ人がいたとすれば、そのような者を神の民と呼ぶことは出来なかったでしょう。しかしながら、サウルのように生贄を捧げるため服従しないというのはいけません。そのようにするぐらいならば生贄を捧げなくてもいいから服従したほうが優っている、とサムエルはここで言っているのです。生贄を捧げるために罪を犯すというのは本末転倒なのです。このようなわけでローマ・カトリックはおかしいと言わねばならないのです。この捨てられた群れは、行為という犠牲を多く捧げているものの、儀式ばかりして御言葉によく耳を傾けるということは疎かにしているからです。一方、プロテスタントは礼拝を見ても分かる通り、行為の前にまず御言葉をよく聞こうとする姿勢が重視されています。豊かに御言葉を聞いてしっかり理解しなければサウルのような過ちを犯しかねないからです。カトリックとプロテスタントのどちらが正しくしているかは明らかです。

 サウルは生贄という善のため不正を犯すべきでなかった、とここで言われています。これはあらゆる事柄で同様のことが言えます。何であれ善のため悪を犯すべきではないのです。善は良くあっても、その善を実現させるやり方が悪ければ正しくないからです。善はそのやり方からして正しく実現されねばなりません。善のためであれば悪も許される、と思っている人がいるはずです。私たちはこのような思い違いをしないようにすべきです。例えば、少子化が解決されるため強姦や不倫を多くすべきだ、と言うことは許されません。少子化の解決は望ましくても、それを性的な悪によって実現させるべきではないからです。鼠小僧の場合も同様です。貧しい人が助かるというのは確かに良いこと、望ましいこと、神も喜ばれることです。しかし、鼠小僧がその善を盗むという悪により実現させたのは間違っていました。サウルの場合もそうです。生贄を捧げるのは良いことですが、サウルが聖絶すべき動物で生贄を捧げようとしたのは間違いでした。

【15:23】
『まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。』
 ここでもサムエルは非常に重要なことを言っています。サムエルは『そむくことは占いの罪』だと言います。サウルは占いの罪に陥っていたのでしょうか?ここまでの箇所を見る限り、サウルが占いをしていたと読み取ることは難しいでしょう。サムエルはここで一般的なことを言っています。すなわち、神に対する背きの罪はどれも占いの罪も同然だと言っているのです。何故なら、神に背いて従わないという罪は、占いの結果に従うことで神の御心を行なわないという罪と、本質的に一致しているからです。またサムエルは『従わないことは偶像礼拝の罪』とも言っています。これもサウルが偶像礼拝をしていたというわけではないでしょう。これは神への不従順は、偶像礼拝をして神の御心を行なわないことと本質的に同じだという意味です。偶像礼拝とは非常に大きな罪です。ですから、偶像礼拝と同一視されている全ての背きは、偶像礼拝と同じでどれも非常に大きな罪なのです。神の御前に不従順という大きな罪を犯すという点で、偶像礼拝とあらゆる背きの罪は全く同一です。この御言葉は非常に重要ですから、心に留めておくに値します。私たちは、背きの罪がどれも占いや偶像礼拝と本質的に一緒の罪だということを知るべきです。

『あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」』
 サウルは明白に『主の言葉を退け』ました。ですから、神もサウルを王位から退けました。これは神が人の行ないをその人に返される御方だからです。『あなたがしたようにあなたにもされる。』とオバデヤ書に書かれている通りです。サウルが王位から退けられたのは全く自業自得でした。このためサウルは文句を言うことが出来ませんでした。もしサウルが主の言葉を退けていなければ、サウルも王位から退けられてはいなかったでしょう。神の使命を退ける者は、サウルのように神から退けられてしまうでしょう。私たちは気を付けねばなりません。神の使命を退ければ実に大きな不幸を齎すからです。

【15:24】
『サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。』
 サウルは遂に自分が罪を犯したと認めました。やはり、サウルは多かれ少なかれ罪の意識を持っていたのです。もし少しも罪の意識を持っていなければ、サムエルから何を言われても無罪を主張していたでしょう。罪を認めたサウルは、民に突き動かされて罪に陥ったと告白します。民に動かされたので罪を犯したのだとしても、サウルが罪を犯したことに変わりはありませんでした。ちょうど殺人を依頼されたので殺人を代行した者が、ただ依頼通りにしただけであるというので、殺人の罪を免れることは出来ないのと同じです。

【15:25~26】
『どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」すると、サムエルはサウルに言った。「私はあなたといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」』
 サウルは罪を認めたので、罪の赦しを願い求めます。罪を認めたならばすべきことはただ一つ、悔い改めることだけだからです。サウルはこのことを知っていました。サウルは、サムエルが罪を赦して自分と一緒に帰ってくれるよう願い求めます。どうして一緒に帰ることを求めたかと言えば、それは大祭司であるサムエルが神の使いだったからです。もし神がサウルを見捨てられなければ、神に遣わされた大祭司と一緒に帰ることが出来たでしょう。しかし見捨てられたならば、大祭司と共にいることも出来ませんでした。サウルは神から捨てられたくありませんでした。だからこそ、サウルは何としてもサムエルから離れたくないと思ったのです。神はこの大祭司と共におられ、この大祭司を通してイスラエルに働きかけられるのです。

 しかし、サムエルはサウルに取り合おうとしません。サムエルはただサウルを断罪するのみです。もしサウルを赦したならば、サムエルは神の有罪判決を自分で覆すことになってしまうからです。聖書も示す通り、サムエルは『神の人』でした。ですから、サムエルはサウルのために神の判決を否定しようと決してしませんでした。詰まる所、サウルは致命的な罪を犯していたのです。サウルが犯したのはやり直しの効かない罪でした。だからこそ、サムエルはサウルが何を言っても取り合わなかったのです。もしサウルの罪が致命的でなかったとすれば、ダビデのように『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。』(Ⅱサムエル12章13節)と言われ赦免されていたでしょう。

【15:27~28】
『サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルはサムエルの上着のすそをつかんだので、それが裂けた。サムエルは彼に言った。「主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの共に与えられました。』
 サウルは何としてもサムエルに置いて行かれたくありませんでした。神から見放され王位を取り上げられるのは実に大きな悲劇だからです。「もしサムエルから置き去りにされたとすれば一体これから私はどうなるというのか…。」サウルがこのように感じていたことは間違いないはずです。このため、サウルはサムエルを何とか留まらせるため、サムエルを掴もうとします。サムエルは歩いて進んでいたのでサウルが掴んだのは『上着のすそ』でした。この裾が、物理学的な言い方をすれば、サムエルが進んでいる力とサウルが引っ張る力との反作用により裂けてしまいました。この裂けた裾は、サウルからイスラエル王国が引き裂かれることを象徴していました。そのことについてサムエルはサウルに宣告します。この時にサウルはどれほど絶望したでしょうか。サムエルは神がイスラエル王国の支配権をサウルから『あなたの友』であるダビデに移されたと言います。ダビデがサウルの友と言われたのは、これからダビデがサウルにとって友でもあるかのような近い関係を持つからです。サウルは他の者に支配権が移されることなど望まなかったかもしれません。しかし、そうなってしまうのはサウルの罪に対する神からの裁きゆえでした。このダビデはサムエルが言う通り、サウルよりも優れていました。つまり、ダビデはサウルよりも遥かに豊かな恵みを受けていた人でした。

 サムエルの裾が引き裂かれたのは、実に象徴的な出来事でした。何故なら、その裂かれた裾は、これからサウルとイスラエル王国の関係が裂かれることを示していたからです。偶然このような出来事が起きたのではありません。神が未来の事柄を示すため、このような出来事を摂理により生じさせたのです。

【15:29】
『実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」』
 サムエルは神について2つのことを示しています。一つ目は神が『偽ること』のない御方だということです。神は真実で正しい御方ですから、偽ることは決してありません。もし神が偽ったとすれば、御自分で御自分の存在を否定されることになります。『偽証してはならない。』と人間に命じられた御方は絶対に偽られません。サムエルはこう言って、サウルに宣告された罷免が決して覆らないことを示しています。もし神がサウルの罷免を取り消されたとすれば、神は偽りを言われたと思われかねないからです。神が偽らないということはバラムも言っていました(民数記23:19)。完全なる神は人間のように不完全でないため、偽ることもないのです。というのも不完全だからこそ偽りも生じるのだからです。二つ目は神が『悔いること』のない御方だということです。これは字義的に見れば、前に言われていた内容と矛盾していると感じられます。前の箇所では神が悔いたと書かれていたのに(Ⅰサムエル15:11)、この箇所では神が悔いないと書かれているからです。しかし、これは矛盾していません。先に述べた通り、前の箇所で神が悔いたと書かれていたのは、人間に向けられた分かりやすさのための単なる表現に過ぎません。一方、この箇所で神が『悔いることがない』と書かれているのは、実際の意味です。神は善なる御方なので、「悔い」から無限にかけ離れておられます。何故なら、「悔い」とは善ではない要素だからです。この「悔い」も、やはり不完全であるからこそ生じます。神のように完全であれば、悔いるという行為は決して生じ得ません。こういうわけで、もし誰かが「聖書には矛盾があるじゃないか。」と言ったとすれば、私たちは「聖書に矛盾はない。」と答えることができます。この箇所以外の箇所でも同様ですが、聖書に矛盾があると感じるのは、単によく理解できていないだけなのです。これは相対性理論を理解していない科学の素人が、相対性理論を怪しげに思ってしまうのと似ています。実際にこういう人が世の中にはいます。

 サムエルが言う通り、神は『イスラエルの栄光である方』です。例えば、偉大な王や大統領がいれば、その支配者は国民の誇りとなるでしょう。つまり、その支配者は国民にとっての栄光となります。神がイスラエルの栄光であるのもこれと同じです。何故なら、神は偉大で賛美されるべき御方だからです。このような栄光の神を持つのは古代においてイスラエル人しかいませんでした。

【15:30~31】
『サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」それで、サムエルはサウルについて帰った。こうしてサウルは主を礼拝した。』
 神とサウルから退けられたサウルは、王としての面目を立てるため、何とか自分と一緒に帰ってほしいと切願します。これはイスラエル全体に関わることでしたから、サムエルはサウルの願いを受け入れます。サムエルがサウルの希望を受け入れたのは、サウルのためというよりイスラエルのためだったはずです。せっかく王に立てられたサウルがすぐにも神から退けられたと知れ渡ってしまえば、イスラエルの全体に良からぬ動揺が生じかねないからです。こうしてサウルはサムエルと一緒に帰り神への礼拝を捧げました。しかし、この時の礼拝は以前のような純粋さをもはや持っていなかったはずです。サウルに平安が無かったのは明らかだからです。彼には強烈な良心の咎めがあったでしょうから。

【15:32】
『その後、サムエルは言った。「アマレク人の王アガグを私のところに連れて来なさい。」アガグはいやいやながら彼のもとに行き、「ああ、死の苦しみは去ろう。」と言った。』
 サムエルは、サウルが愚かにも生き残しておいた『アマレク人の王アガグ』を自分のところに連れて来させます。サウルがアガグに聖絶の死を与えなかったのは、この王の立場ゆえでした。何故なら、サウルは聖絶すべき家畜のうち『良いもの』だけを残しておいたからです。人間のうちで最も価値ある良い立場にいるのは間違いなく王です。アガグは連れて来られると、『ああ、死の苦しみは去ろう。』と言います。彼は自分がその高い立場ゆえ情けをかけてもらえると思っていたのでしょう。ここではアガグが『いやいやながら』連れて来られたと書かれているのは、『喜んで』とも訳せます。アガグは死を免れると思っていたのですから、これは『喜んで』という訳のほうがしっくりきます。それとも『いやいやながら』という訳のほうが正しいのでしょうか。そうだった場合、アガグは死を免れると思っていたものの、単にサムエルのところに行くのを嫌がっていただけだということになるでしょう。

【15:33】
『サムエルは言った。「あなたの剣が、女たちから子を奪ったように、女たちのうちであなたの母は、子を奪われる。」こうしてサムエルは、ギルガルの主の前で、アガグをずたずたに切った。』
 サムエルは、サウルの代わりにアガグ王を自分で殺します。サムエルがこうしたのは正しいことでした。これこそ本来であれば神がサウルに望んでおられた使命の行為だったのですから。サムエルは『ずたずたに切っ』てアガグを殺しました。これは神の御怒りをしっかり現わすためでした。神はアマレク人の暴虐に大変怒っておられたので、アマレク人は激しく聖絶されるべきだったのです。またアガグがこのような死を遂げたのは、アガグがかつて『女たちから子を奪っ』ていたことに対する報いでした。神は報られる御方ですから、アガグが母親から子を奪ったように、彼の母親も子を奪われなければいけませんでした。こうしてアガグが母親たちを苦しめたように、アガグの母親もアガグのことで苦しむことになりました。このことからアガグの死亡時にアガグの母親が生きていたことは明らかです。

 アガグがサムエルのところに来た時、彼は自分が救われると思って安心していたはずです。確かに王たちがその地位ゆえ情けを与えられるというケースはそう珍しくありませんでした。中には厚遇された王さえいるぐらいです。ヴォルテールもそうでしたが、「権威」の好きな人がこの世には少なくないのです。ですから、アガグが救われるだろうと思い描いていたのは、それほどおかしなことでもありませんでした。ところがアガグの想定とは全く逆の出来事がアガグに襲いかかりました。これはキリストの例え話に出て来るあの金持ちと似ています(ルカ12:16~20)。良い未来を思い描いていたのに全く逆の悪い未来が突如として襲い掛かって来るのです。神は、悪者に対し望み通りの未来を与えられないものなのです。それは主が『悪者の願いを突き放す』(箴言10章3節)御方であると教えられている通りです。アガグのような呪われた者の望みがどうして神により叶えられるでしょうか。

【15:34】
『サムエルはラマへ行き、サウルはサウルのギブアにある自分の家へ上って行った。』
 こうして2人はそれぞれ自分の家に帰って行きました。サムエルの家がある『ラマ』とサウルの家がある『ギブア』は10kmほどしか離れていません。しかし、住んでいる場所は近くともサムエルとサウルの関係は無限に隔たってしまいました。

【15:35】
『サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。』
 これ以降、サムエルとサウルは完全な疎遠状態となります。サウルがサムエルの裾を引き裂いた時から、両者の関係が全て断絶したと言ってよいでしょう。これを伝道者の書3章の言い方で言うとすれば、「サムエルとサウルの出会うのに時があり、離れるのに時がある。」となるでしょう。

 サウルと別れたサムエルは『サウルのことで悲しんだ』のですが、これはサウルが自分に与えられた使命を果たさず、正しい歩みを全う出来なかったからです。イスラエルを愛する者であれば、サウルの件で悲しまずにいることは決して出来ませんでした。サムエルほどイスラエルを愛していた人は恐らくいなかったはずです。『主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた』と書かれているのは、既に説明した通りです。

【16:1】
『主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」』
 サウルの件で悲しんでいたサムエルに対し、神は悲しむことを止めて次の王が立てられるようにせよと命じられます。神の計画は着々と進められるべきであり、人間の都合で妨げられてはならないのです。サウルの不幸な運命は既に決定済みでした。ですから、サムエルは早く次の王を立てに行かねばなりませんでした。神は次の王として『ベツレヘム人エッサイ』の子(ダビデ)を定めておられましたが、まだこの時にダビデの名はサムエルに示されていません。これは、すぐ後の箇所で見る通り、サムエルの予測が覆されるためでした。このエッサイのところへサムエルは早く行くべきでした。神がダビデという『王を見つけた』と言われたのは、ダビデを王になる者として注目しておられるという意味です。ダビデが王になることは、ダビデが生まれた時から、それどころか永遠の昔から既に決定済みでした。ですから、神がこの時になって初めてダビデを王として見出したというわけではありません。神はここで『見つけた』と言って人間的な言い方をしておられます。

 ところで、どうしてサウルに続く王としてダビデが定められていたのでしょうか。神はダビデでない他の誰かを王に定めることも出来ましたが、神が定められたのはダビデでした。これの理由は何だったのでしょうか。その理由はダビデが『血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった』(Ⅰサムエル16:12)からなのでしょう。またダビデは『琴がじょうずで勇士であり、戦士』(Ⅰサムエル16章18節)であり、『ことばには分別があり、体格も良い人』(同)だったからなのでしょう。ダビデは印象といい素質としい王に相応しい器でした。一方、サウルは高身長で美しいだけでした。サウルは王の器として相応しくありませんでした。ダビデとは大違いだったのです。

【16:2~3】
『サムエルは言った。「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」主は仰せられた。「あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、『主にいけにえをささげに行く。』と言え。いけにえをささげるときに、エッサイを招け。あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」』
 サムエルは、次の王を立てようと動いたならば、サウルから殺されてしまうと心配します。サウルは愚かな王でしたから確かにサムエルを殺していたかもしれません。彼がどうして他の王を立てようとすることに耐えられたでしょうか。神もサウルはサムエルを殺さないと言っておられません。つまり、神もサウルがサムエルを殺しかねないと思っておられたことになります。

 サウルを恐れるサムエルに対し、神は祭儀のついでにエッサイを招き寄せるべきだと命じられます。祭儀をするというのであればサウルは不審がらないだろうからです。サムエルがこれまで祭儀を行なっており、そのようにするのがサムエルの職務であることぐらいサウルは当然ながら知っていました。このように神が知恵をサムエルに与えられました。神がこうされたのは次の王がサムエルを通して立てられるべきだったからです。もし神が教え導かれなければ、サムエルはサウルへの恐れで行動に出れないままだったかもしれません。

【16:4~5】
『サムエルは主が告げられたとおりにして、ベツレヘムへ行った。すると町の長老たちは恐れながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」サムエルは答えた。「平和なことです。主にいけにえをささげるために来ました。私がいけにえをささげるとき、あなたがたは身を聖別して私といっしょに来なさい。」こうして、サムエルはエッサイとその子たちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招いた。』
 サムエルがベツレヘムに行くと、その町の長老たちが恐る恐るサムエルを迎えます。無理もありませんでした。神の大祭司が、ベツレヘムという普通の町に、突如としてやって来たのですから。これでは「何か良からぬ要件のために来たのでは…」と疑っても全く不思議ではありません。この長老たちに対し、サムエルはただ生贄を捧げに来たのだと言って安心させようとします。長老たちは「何だ、そのようなことだったのか。」と思って安心したに違いありません。この時にサムエルはエッサイとその子らを祭儀の場へと招きます。もちろん生贄を捧げに来たのも主な訪問の目的でしたが、今回はそれに加えて、新たなる王を任命するという大きな目的もありました。もし後者の目的が無ければ、この時にサムエルがベツレヘムに訪問していたかどうかは分かりません。

【16:6~7】
『彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」』
 サムエルがエッサイの子らを見た時、長男の『エリアブ』こそ新たな王になると感じられました。このエリアブの外観は王として相応しいように思えたからです。第一印象はとてつもない力を持っています。巷でも第一印象の重要性がしばしば語られています。この第一印象は、それ以上に敬虔な人を見つけることが難しかったこのサムエルでさえ動かすほどの力を持っているのです。それゆえ、第一印象の重要性は計り知れないものがあります。これを用いない手はないでしょう。

 しかし、神はエリアブが王となるように定めておられませんでした。サムエルは人間でしたから人間の見方によりエリアブを見ていました。確かに普通に考えれば、誰でもエリアブこそ次の王に違いないと思えたのでしょう。ところが神は神ですので『人が見るようには見ない』御方です。『人はうわべを見るが、主は心を見る』のです。エリアブの『うわべ』は立派に見えました。ですから『うわべを見る』人間のサムエルはエリアブこそ王になると思ってしまいました。このエリアブは外観は王に相応しくても、その心は相応しくありませんでした。外観と共に心も王に適していたのはダビデです。このため『心を見る』神は、エリアブをその心のゆえ、王職を持たないよう退けておられたのでした。

 『人はうわべを見るが、主は心を見る。』という聖句は記憶するに値します。これはいつの時代であってもそうである普遍的な真理だからです。いつの時代であれ、人間は人の『うわべを見る』でしょうが、神は人の『心を見る』のです。人間が神のように見たり、神が人間のように見たりすることは起こりません。何故なら、人間はいつまでも人間であり、神はいつまでも神であられるからです。この神は人の外観よりも心を重視しておられます。ですから、聖徒である者はこの心が神の御前に純粋で正しくなるよう注意せねばなりません。ヤコブも『心を清くしなさい。』(ヤコブ4章8節)と言って心を正しくするよう命じています。『うわべ』は良いのに『心』が悪いというのであれば、神に喜ばれません。パリサイ人が正にこれでした。

【16:8~10】
『エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前に進ませた。サムエルは、「この者もまた、主は選んでおられない。」と言った。エッサイはシャマを進ませたが、サムエルは、「この者もまた、主は選んではおられない。」と言った。こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んではおられない。」』
 次男の『アビナダブ』および三男の『シャマ』も、サムエルは王に相応しくないとしました。この2人は外観からして王に適していなかったのでしょう。神もこの2人を相応しくないとしておられました。何故なら、彼らは王にならないよう退けられていたからです。もし王に選ばれていたとすれば、外観だけでなく心においても王の器を持っていたでしょう。ダビデがそうだったように。

 他の4人の息子たちも、やはり王として選ばれてはいませんでした。つまり、サムエルの前に進んだ『7人』は全て神から退けられていました。これは「7」(人)ですから、ダビデを除くエッサイの子7人がもう全く王として選ばれていなかったことを示しているのでしょう。

【16:11】
『サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」』
 神が新たな王はエッサイの子から出ると示されたのですから(Ⅰサムエル16:1)、エッサイの子らがまだ他にいることは間違いありませんでした。もしもうエッサイの子がいなかったとすれば、神は偽りを言われたことになります。エッサイの子から王が出ないにもかかわらず、エッサイの子から王が出ると言われたのですから。勿論、神が偽りを言っておられるということはありませんでした。実際、エッサイにはこの7人以外にも、やはりもう1人の子がいました。サムエルが他の子はいないかとエッサイに尋ねると、エッサイはもう1人の子がいると答えたのです。