【Ⅰサムエル記17:37~18:24】(2022/10/23)


【17:37~39】
『サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、』
 ダビデが神の助けについて語ったので、サウルはダビデをゴリヤテへの対戦相手として正式に決定しました。もしダビデが神により必ず助けられると言ったのを否定すれば、それは神に対する不信仰となるからです。サウルはイスラエルに属する一員でしたから、とてもじゃないが不信仰の罪を犯すわけにはいきませんでした。こうしてダビデにイスラエルの命運が委ねられることとなりました。サウルはダビデが万全な状態で勝負できるようにと、ダビデに『自分のよろいかぶとを着させ』ました。しかしダビデは装備品に慣れていなかったので脱いでしまいます。これは仕方がなかったためですから、サウルという権威者の意向にダビデが従わなかったとしても罪とはなりませんでした。この時のダビデは「野原の戦士」だったのであり、まだ「戦場の戦士」ではありませんでした。

 古代イスラエルのような社会であれば、この時のサウルもそうでしたが、社会全体の霊的な物分かりが大変良いので、霊的な事柄ではすんなりと話が進みます。サウルは愚かな王でしたが、このサウルでさえダビデが神について語ると、すぐに自分の意志を封じダビデが望むままとさせました。今の教会もこのようであってほしいものです。

【17:40】
『自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。』
 ダビデは、いつものやり方、自分のやり方で戦いの準備をしました。そのほうがダビデにとっては望ましいのです。しっかりとした装備がなくても結果的に勝てば問題はありません。もしサウルの装備を身に着けていたままであれば、勝つどころか、身動きさえままなりませんでした。ダビデはゴリヤテを倒すため、いつも猛獣を倒すためにしているのと同様、『川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ』ました。この日はゴリヤテをいつもの猛獣に見立てて石で殺すわけです。この石はキリストの象徴であると見ることもできます。聖書において石はキリストを示しているからです。こうしてダビデは大怪物に近づきましたが、これは生死をかけた戦いであり、イスラエルの命運が決まる決戦でした。

【17:41~43】
『そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神神によってダビデをのろった。』
 ペリシテの大妖怪が近づいて来るダビデを見たところ、ダビデは『若くて、紅顔の美少年』であり、戦士の防具など少しも着けておらず、武器も杖ぐらいしか持っていないように見えたので、ダビデから見下されているかのように感じました。実際、ダビデはこの妖怪を見下していました。しかし、ダビデから見下されたとしてもゴリヤテは文句を言えませんでした。何故なら、キリストも言われたように人間は『人を量る量りで、自分も量り返してもらうから』(ルカ6章38節)です。ゴリヤテはユダヤ人を見下していたので自分もユダヤ人から見下されたのです。この大妖怪はダビデが気に入らなかったので、『自分の神神によってダビデをのろ』いました。この呪いは全く無効でした。何故なら、ゴリヤテが呪うために使った神神は偽りの神神であって存在しないからです。その呪いはむしろゴリヤテの上に返って来ました。というのも神の民を呪うのは神を呪うことであって、神は御自分に対する呪いをその呪った者自身に返されるからです。このようにしてゴリヤテの上に呪いが返って来たので、ゴリヤテはこれから殺されることになったわけです。

【17:44】
『ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」』
 邪悪な怪物は、ダビデに容易く勝てると思っていました。何故なら、ダビデは自分に比べて小さく、まともな装備を着けておらず、おまけにまだ若かったからです。公園で遊んでいる子どもが大人に立ち向かったとしたらどうでしょうか。大人は容易くその子どもを負かせると思うでしょう。大怪物もダビデに対しそう思ったのです。ゴリヤテはダビデの死体を『空の鳥や野の獣にくれてや』るつもりでいました。憎悪と軽蔑を現わすためにこうするのです。これは律法から見れば呪われた死体の取り扱われ方です。ダビデがこのような呪いを受けるはずは決してありませんでした。何故なら、ダビデは呪われていなかったからです。このようになるべきなのはむしろゴリヤテのほうでした。

【17:45~47】
『ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」』
 ダビデは、傲慢な怪物に対して自分が勝利すると予告します。ダビデは神により勝利を確信していたので、このように堂々と言うことができました。ダビデはこれからゴリヤテがどうなるか具体的に示しています。実際にゴリヤテはその通りになりました。それは神の裁きによりました。ゴリヤテは『投げ槍』(Ⅰサムエル17:6)だけでなく、普通の『槍』および『剣』も所持していました。一方、ダビデの武器は『イスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名』でした。ダビデの武器のほうがゴリヤテの武器より遥かに優っていました。神はあらゆる武器に優って強い御方だからです。『御名』とは神の表示名です。

 ダビデはゴリヤテと異なり、剣や槍といった普通の武器を何も所持していませんでした。しかし、それでも主はダビデに勝利を得させて下さいました。先の箇所でヨナタンは、主が勝利させて下さるのであれば数は関係ない、と述べていました(Ⅰサムエル14:6)。これは正に「アーメン。」です。これと同様に、主が勝利させて下さるならば武器の内容は関係ない要素となります。確かなところ、人数や武器が勝利の第一要因というのではありません。主が相手を渡して下さるかどうか。これこそ正に勝利の第一要因です。

 ダビデがゴリヤテを打ち倒すのは奇跡だと思われたでしょう。小人が大巨人を負かすのですから。実際、これは神がダビデに働きかけた大いなる奇跡でした。ゴリヤテを倒したダビデに神が働きかけておられたのは誰の目にも明らかでした。それゆえ、ダビデはこの戦いにより『すべての国は、イスラエルに神がおられることを知る』と言っています。このようにして神は諸国に御自分の名声を鳴り響き渡らせました。当時の国々は、この話を聞いて、神のことで驚いたり恐れたり称えたりしたのでしょう。ところで、ダビデの頃とは違い、現在のイスラエルにはもう神がおられません。何故なら、今のイスラエルは御子を否認しているからです。御子を退けている者たちにどうして神がおられるでしょうか。決しておられません。彼らは何も知らないので、今でもイスラエルには神がおられると思い違いをしています。何とでも思わせておきましょう。エホバの証人も自分たちには神がおられると思っているのです。しかし、神は彼らのうちにおられないのです。今のイスラエルも同じことです。

【17:48~51】
『そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。』
 こうしてダビデとゴリヤテの決戦が始まりました。イスラエルが奴隷になるのか、それともペリシテ人が奴隷になるのか。これは両者の命運を左右する重大な戦いでしたから、どちらの陣営に属する者も固唾を飲んで見守っていたはずです。もっとも、あまりの重圧感と緊張に耐えられず戦いを見ていられなかった人もいた可能性は十分あります。これはマイク・タイソンとモハメド・アリの戦いが小さく思えてしまうほどに重大な戦いでした。

 神がダビデと共におられたので、ダビデは邪悪なモンスターを瞬殺しました。神はダビデのいつも通りのやり方がこのモンスターにも通用するようにされました。ですから、ダビデは5つ用意した石のうちたった一つの石だけで敵を打ち倒すことができました。もし神がダビデと共におられず、ダビデに勝利が定められていなければ、5つの石を投げても全て外れたり、当たっても全て致命傷とはならなかったでしょう。何故なら、神が勝利させて下さらないのにどうして敵を倒せるのでしょうか。ダビデは石の命中により倒れたゴリヤテにまたがり、ゴリヤテの剣を奪って死に至らせました。恐らくゴリアテは倒れてからもまだ意識があったのでしょう。しかし、ゴリアテは倒れた時点で既に重傷だったはずです。もしそうでなければまたがって来たダビデを攻撃することもできていただろうからです。『石は額に食い込み』ましたから、間違いなくゴリアテの頭蓋骨は骨折し、脳内出血が生じていたでしょう。

 私たちは神が実現させたこの大きな出来事を心に留めるべきです。何故なら、神が働きかけて下さるならば、誰でもこのような勝利を得られるからです。神の御心であれば確かにそうなるでしょう。御心であればそのような勝利も得られると知れば、私たちには自信が生じることにもなります。そうして自信が生じれば、パウロのようにこう言えるようにもなりましょう。『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』(ピリピ4章13節)このように言える人は何と幸いでしょうか。その人は信仰の猛者です。

【17:51~53】
『ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。』
 頭(かしら)が死ねば身体も自然と死にます。頭が生きているからこそ身体も生きているのだからです。頭が生きているのに身体は死んでいるとか、身体が生きているのに頭は死んでいるとか、こういうことは起こりません。ゴリヤテというペリシテ人の頭が倒れたので、ペリシテ人たちの敗北は決まりました。人間の集団はこうなるものなのです。ナチス・ドイツも、その頭であるヒトラーが死ぬと、すぐにその身体が滅んでしまいました。ペリシテ人たちは頭が倒れたので、それを見て逃げました。最強のペリシテ人ゴリヤテでさえ打ち負かされたのであれば、尚のこと他のペリシテ人は打ち負かされるに違いないからです。最強の頭が消えたのにどうして身体も滅びないでいられるでしょうか。このようにした逃げたペリシテ人たちを、イスラエル人は追撃します。追撃しても反撃されないと見たか、たとえ反撃されても追撃の勢いを留めることはできないと見たのでしょう。イスラエル人が追いかけた『ガテ』は主戦場となった場所から20~30kmほど南西に離れており、『エクロン』は北西に30kmほど離れています。イスラエル人は、追撃したペリシテ人たちを奴隷にするというより滅ぼしました。ゴリヤテは負けたほうが勝ったほうの奴隷になると言っていました(Ⅰサムエル17:9)。こうしてペリシテ人たちはゴリヤテの邪悪な嬲りに対する当然の報いを受けました。それからイスラエル人は、主戦場に築かれていたペリシテ人の陣営に戻り、そこで勝利者に対する報酬の行為である略奪を行ないました。これは戦争で見られることを常とする一般的な出来事でした。敗者の財物は合法的に勝者の財物となります。

【17:54】
『ダビデは、あのペリシテ人の首を取って、エルサレムに持ち帰った。武具は彼の天幕に置いた。』
 ダビデは自分で打ち殺した『ペリシテ人の首を取って、エルサレムに持ち帰った』のですが、これはエルサレムにダビデの天幕があったからなのでしょう。ゴリヤテの装備はダビデの天幕に持ち込まれました。この2つはダビデが勝利したことを示す証拠品でした。このようにしてゴリヤテの身体はダビデが予告した通りになりました(Ⅰサムエル17:46)。頭はダビデが持ち帰りましたが、身体は戦場かどこか別の場所に放置されたはずです。その身体はダビデが言った通りに『空の鳥、地の獣に与え』られたはずです。

【17:55~58】
『サウルは、ダビデがあのペリシテ人に立ち向かって出て行くのを見たとき、将軍アブネルに言った。「アブネル。あの若者はだれの子だ。」アブネルは言った。「王さま。私はあなたに誓います。私は存じません。」すると王は命じた。「あなたは、あの少年がだれの子か尋ねなさい。」ダビデが、あのペリシテ人を打って帰って来たとき、アブネルは彼をサウルの前に連れて行った。ダビデはペリシテ人の首を手にしていた。サウルはダビデに言った。「若者。あなたはだれの子か。」ダビデは言った。「私は、あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの子です。」』
 この箇所では、サウルがゴリヤテに立ち向かったダビデを見た時のことについて書かれています。サウルがゴリヤテに立ち向かうダビデを見た際、彼はアブネルにあたかもダビデが誰であるか知らないかのような質問をしました。サウルが既にダビデとその父を知っていたのは間違いありません。先にサウルはエッサイのもとへ使いを遣わし、その子ダビデを召し出していたからです(Ⅰサムエル16:19、22)。では、どうしてサウルはダビデを知らないかのように振る舞ったのでしょうか。ダビデとゴリヤテの戦っている場所が遠すぎてよく見えなかったのでしょうか、それともサウルの視力が悪かったのでしょうか、そうでなければ神からの悪い霊により頭がおかしくなっていたのでしょうか。このようであったとは思われません。サウルにとって、ダビデがゴリヤテを倒そうとするなどとは信じ難いことでした。サウルは自分が何か夢でも見ているように感じていたはずです。ですから、あまりの驚きにより、信じ難いという思いの現われとして、サウルはこのように言ったのでした。サウルからゴリヤテに立ち向かうのは誰かと聞かれたアブネルも、それが誰なのか分からないと言い、しかも誓うことさえしました。本当にアブネルはダビデのことを知らなかったのでしょうか。将軍という王に近い立場のアブネルが、サウルの道具持ちとされたダビデのことを知らなかったとは到底思えません。では、アブネルはどうしてダビデについて知らないふりをしたのでしょうか。アブネルがダビデを知らないと言ったのは、ゴリヤテに立ち向かうようなダビデのことだったのでしょう。アブネルの脳内におけるダビデは、ゴリヤテに立ち向かうような勇者ではありませんでした。ダビデがゴリヤテの首を手にして帰って来た時、サウルはダビデに誰の子であるか尋ねましたが、ダビデはその質問に答えました。こうしてゴリヤテを倒したのはダビデだったということが本当に分かりました。サウルとアブネルは夢を見ていたのではありませんでした。この箇所に書かれている出来事は、ダビデの勇敢さと勝利が本当に驚異的だったということをよく示しています。

【18:1~4】
『ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。』
 サウルの子ヨナタンは、ダビデがゴリヤテに立ち向かう様子をその目で見ていました。そして、ダビデが怪物退治をしたことも見ていました。その偉業を成し遂げたダビデが、自分の王であり父であるサウルから驚嘆されていました。このためヨナタンの心はダビデに結びつきます。そして、『ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛し』ました。この愛ゆえ、ヨナタンは『ダビデと契約を結』びます。これは運命を共にするという友愛の契約です。ヨナタンは契約を結ぶほどにダビデを愛したので、その着ていた服や装備品をダビデに与えます。なるほど、自分であるのも同様に愛するというのであれば、確かにこのようにするでしょう。愛し合う夫婦が財物を共有するのとどこか似ています。ヨナタンはもし可能であれば自分の身体をダビデに与えたいと思ったでしょう。しかし、それは出来なかったので、身体に付けていた服や装備品を与えるだけで良しとしたのです。

 ここで書かれているヨナタンの愛をBL的に理解する人はまったく間違っています。実際にそういう人がいるのです。普通であればこの愛をBL的に理解したりしません。BLに興味があるか、よくBLについて考えているからこそ、この箇所で書かれている愛をBL的に捉えてしまうのです。これは冒涜的な理解です。ホモであるエルトン・ジョンも聖書に書かれている愛を同性愛的に捉えていますが、腐りきった理解をしています。ヨナタンの愛は単なる友愛であり、誰でも一般的に抱く人間愛でしかありません。もしこの愛が性愛だったとすれば聖書はそれを非難していたでしょう。聖書は同性愛を禁じているのですから。

 もし心に抱く愛が真に純粋であれば、ヨナタンのように行為が生じます。真に愛しているからこそ良くなってほしいと思うからです。もしその愛が本物であれば何の行為も見られないというのはありえません。もし口先で愛していると言っていても、行為がなければ、その愛は偽りの愛なのです。その相手に何もしないことこそ愛がない証拠だからです。それゆえ、聖徒たちはヨナタンのように行ないをもって愛さなければならないわけです。これは使徒も命じていることです。もし口先だけで愛するのであれば、それは偽善であって、神にも人にも喜ばれないでしょう。

 このダビデを見ても分かる通り、成果と愛は大きな関係があります。成果とは、すなわち力の現われであり力の証拠です。ダビデの場合、彼は神という最強の力を持っていました。だからこそ、ダビデは最強のペリシテ人ゴリヤテに勝利するという成果を挙げられたのでした。人間は傾向として優れた力量を持つ存在に惹かれます。ですから、大きな成果を神により挙げたダビデは、ヨナタンから愛されたのでした。こういうわけで、愛されたければ成果を出せばいいことになります。そうすれば人々はその人を愛さずにいられなくなるでしょう。しかし、そのようになる場合、その成果を妬む者や敵対する者たちから憎悪や攻撃を向けられることにもなってしまいます。これは仕方がないことであり、成果に付き物の反動また摩擦と言っていいでしょう。

 ダビデは偉業を成し遂げた日に帰宅することができず、サウルのもとにずっといなければいけませんでした。これは無理もなかったことでした。ダビデはイスラエルの英雄となったのですから。もしダビデがこの日に引き止められなかったとすれば、ダビデは英雄でなかったのでしょう。ダビデがこの日にしたことの重大さを考えるならば、サウルがダビデを帰らせなくても罪にはならなかったでしょう。この日は誰もがダビデと共にいることを望んだはずですから。

【18:5】
『ダビデは、どこでもサウルが遣わす所に出て行って、勝利を収めたので、サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての民にも、サウルの家来たちにも喜ばれた。』
 大きな成果を挙げたダビデは、戦いが起きた際、サウルに遣わされましたが、その度ごとに勝利を齎しました。このためサウルはダビデを戦士たちの指導者に抜擢します。ダビデは軍隊の長となってからも大きな成果を出し続けました。これは民の全体にとって望ましいことでした。しかし、ここでそれがサウルにとっても望ましいことだったとは言われていません。ここでは『すべての民にも、サウルの家来たちにも』と書かれているだけであり、「サウルにも」という言葉は含まれていません。これはサウルが大きな成果を出したダビデを妬み、憎悪し、殺そうとしたからです。ですから、確かにダビデの栄達はサウルにとって望ましくありませんでした。

【18:6~9】
『ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。』
 サウルがダビデを伴って凱旋すると、イスラエルの女たちが歌と踊りをもって出迎えます。喜ばしいからこそ歌ったり踊ったりします。古代イスラエル人はこのようにする傾向が特にありました。彼らは非常に象徴性を重んじていたからです。ダビデも喜ばしい時に『主の前ではねたり踊ったり』(Ⅱサムエル6章16節)しました。神がイスラエル人に勝利を与えられた時も、やはり女たちが踊りと歌をもって喜びました(出エジプト15:20~21)。この時の歓喜はどれほどだったでしょうか。はち切れんばかりの喜びがイスラエル人にあったのは間違いありません。今のイスラエル人は、この古代イスラエル人に比べて、象徴性を重んじる傾向が弱くなったと思われます。それは中世において異邦人であるハザール人の血が数多く純粋なイスラエル人の中に混入したからなのでしょう。「血」は民族の本質を根本的に規定付ける要素だからです。この時に女たちは『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と繰り返して歌いました。この『千』や『万』といった数字は実際的に捉えるより象徴として捉えるべきです。つまり、これはダビデのほうがサウルよりも遥かに大きな成果を挙げたという意味となります。ダビデが実際に万を打ったとか、サウルが実際に千を打ったとか、そういうことは実際にどうだったか分かりません。サウルもこの数字が単なる表現に過ぎないことを認めています(8節)。ですから、私たちはこの数字をただ感覚的に捉えればいいでしょう。

 女たちの歌は、サウルに対して致命的でした。何故なら、女たちはダビデをサウルよりも上に位置させたからです。これはサウルにとって耐え難く、しかしどうすることも出来なかったので、サウルは激怒し、これ以降、ダビデを憎むようになります。またサウルはダビデを殺そうともするようになります。これはサウルがダビデを妬んだからです。ヨセフの兄弟たちもヨセフを妬んで殺そうとしましたが、「妬み」とは殺意を生み出す母また泉なのです。サウルのような王にとって名誉は何にも優る要素です。全ての財産よりも王にとっては名誉のほうが上です。たとえ、その名誉が偽りに基づいていたとしても、です。これはアルタクセルクセスが良い例です。この王は自分が重要な獲物を打ち取ったわけではないことを知っていましたが、それでも自分がその獲物を打ち取ったと民衆から思われるよう望みました。それは大きな名誉を受けたかったからです。このため、真実を知っている者がアルタクセルクセスから偽りの名誉を取り去るような言葉を口にした際、アルタクセルクセスは容赦なくその者を殺させたのでした。それが偽りの名誉であっても、名誉を奪われることは耐え難いことだったのです。このような例からも分かる通り、王にとって名誉こそが最上です。というのも名誉を取り去られたら王は取るに足らない存在になってしまうからです。

 ダビデは正しい者でしたが、正しい者を憎んだり殺そうとするのは滅びの前兆です。実際、サウルはこれから滅びることになります。紀元1世紀のユダヤ人もキリストを憎んで殺したので、滅ぼされてしまいました。これは正しい者を憎んだり殺したりするのが、その正しい者と共におられる神への攻撃となるからです。神はそのようにする者に報復されるので、その者は裁きとして滅んでしまうわけです。

【18:10~11】
『その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。』
 サウルがダビデを嫌悪するようになった翌日、また神からの悪い霊がサウルに下ったので、サウルは大いに狂い喚きます。サウルは致命的な罪を犯したので、神の呪いに定められており、このため悪い霊による苦しみを免れることができませんでした。もし免れることができたとすれば、サウルは裁かれるべきでなかったのでしょうし、そもそも致命的な罪も犯していなかったのでしょう。神がサウルに悪い霊を『激しく』下したのは、サウルに対する報復です。サウルが重い罪を犯したので、呪いの度合いも大きくされたのです。神は正しい御方ですから、罪の度合いと呪いの度合いには比例関係があります。サウルはダビデを嫌いましたが、しかしまだこの時はダビデと共にいました。ダビデはサウルの道具持ちだったからです。その時、サウルの手にはダビデを殺すための槍があり、ダビデの手にはサウルを落ち着かせるための琴がありました。これは何とも言えないものの、絵画の良き題材となりそうな場面です。サウルはダビデに槍を投げて殺そうとしますが、『ダビデは二度も身をかわした』ので失敗に終わりました。この出来事は、サウルが邪悪だったこと、また神がダビデを守られたこと、この2つをよく示しています。もしサウルが邪悪でなければダビデを殺そうとはしていなかったでしょうし、神が守られなければダビデは槍で刺し通されていたでしょう。

 サウルが狂ったのを精神障害によると理解するのは誤っています。これは不信仰な理解です。ここでは『神からの悪い霊がサウルに激しく下』ったので、サウルが『狂いわめいた』と書かれているからです。勿論、確かにこの狂気は精神障害だったかもしれません。しかし、それは悪い霊が生じさせた精神障害であり、サウルに元から精神障害の兆候があったというのではありません。つまり、もし悪い霊が神から下されなければ、サウルは全く狂っていなかったということです。これは主にノンクリスチャンが持ってしまう理解です。モーセは麻薬の使用により超人的なことを言ったのだ、などと理解するのも同様です。聖徒たちはこのような愚に陥らないよう注意せねばなりません。

【18:12~15】
『サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。それでサウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは民の先に立って行動していた。ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。』
 サウルは神が共におられたダビデを恐れたので、ダビデを自分から離し、千人隊の長に任じました。これは自分から遠ざけるためだけでなく、ダビデが隊長になるのはイスラエル国のため大きな益となるからでもあったはずです。ゴリヤテを打ち倒したダビデが軍の指揮官になれば、イスラエル軍が勝利するだろうことは明らかでした。実際、ダビデは隊長になってから数々の勝利を収め、『すべての民にも、サウルの家来たちにも喜ばれ』(Ⅰサムエル18:5)ました。ダビデが勝利できたのは『主が彼とともにおられた』からです。一方、サウルから主は既に離れておられました。神はサウルを捨ててダビデに味方しておられました。このためサウルは非常にダビデを恐れました。

 サウルの状況はこのように激変しました。もうかつてのような歩みはありません。サウルの人生は悲劇そのものとなりました。これはサウルが神を捨てたので神に捨てられたからです。神はサウルの罪にしっかり報いておられました。もしサウルが神を捨てていなければこのようになることも決して無かったでしょう。自業自得とは正にこのことです。

【18:16】
『イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動していたからである。』
 ダビデは主体性が強くユダヤ人らしい積極性に満ちていたので、民の先頭に立って行動していました。ただ先頭に立っているだけで成果を挙げなければ不満も持たれましょうが、ダビデは先頭に立っているだけでなく成果もしっかり挙げていたので民から愛されました。人は良き指揮官を喜ぶのです。指揮官とはバス運転手のようです。運転手が上手に運転して目的地まで行ったならば、乗客である民衆は喜ぶでしょう。しかし、運転手が下手糞な運転をして目的地まで行かなければ、乗客はその運転手を嫌うのです。ですから、人々に愛されたければダビデのようになるべきです。先頭に立っているだけで成果がないとか、成果はあっても先頭に立っていない、というのではよくありません。この2つがどちらも必要となります。

【18:17~19】
『あるとき、サウルはダビデに言った。「これは、私の上の娘メラブだ。これをあなたの妻として与えよう。ただ、私のために勇敢にふるまい、主の戦いを戦ってくれ。」サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人の手を彼に下そう、と思ったのである。ダビデはサウルに言った。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるなどとは。」ところが、サウルの娘メラブをダビデに与える、という時になって、彼女はメホラ人のアデリエルに妻として与えられた。』
 サウルはダビデを死なせたかったので、自分の長女メラブを妻にすることで罠として使おうとします。もしダビデが妻メラブに夢中となるならば、ダビデは堕落して軟弱になりかねません。そうなればダビデはペリシテ人との戦いの際、ペリシテ人に打ち負かされかねません。欲にかまけている者は戦争で弱い存在となるからです。こうすればペリシテ人がダビデを殺してくれるので、サウルは殺さずに済み、自分の手を汚さないでいられます。これはサウルにとって良い案だと思われました。ダビデのような正しい者をこうして殺そうとするのは悪魔的でした。サウルは神から呪われていたのです。というのも神はサウルを気に入っておられなかったからです。

 しかし、ダビデはサウルの提案に恐縮してしまいます。何故なら、ダビデが王の婿になるといっても、ダビデの氏族はイスラエルで非常に小さく、ダビデは家族の中で最も小さい存在だったからです。「こんな小さな私が王の婿になるとは大それたことだ…。」とダビデは感じたのです。サウルが自分の娘をダビデに与えるのは当然為すべきことでした。かつてサウルはゴリヤテ退治者に自分の娘を報酬として与えると約束していたからです(Ⅰサムエル17:25)。ところが、それにもかかわらずダビデは王の提案に恐縮してしまいます。ここにダビデの謙遜がありました。ダビデがこのように謙遜な者だったのでダビデは神から選ばれたのです。

 ところが、いざメラブがダビデと結婚する段階になると、彼女は他の男に妻として与えられました。正しくない者は自分の言った通りにしないものなのです。自分の言った通りにしないからこそ「正しくない者」と呼ばれてしまいます。サウルは以前も自分の言った通りのことを実現させられませんでした(Ⅰサムエル14:44~45)。神はこのようにサウルの言葉を地に落とされました。神がこのサウルを喜んでおられなかったのは明らかです。サウルは神を既に捨てていたのですから。

【18:20~23】
『サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。そのことがサウルに知らされたとき、サウルはそれはちょうどよいと思った。サウルは、「ミカルを彼にやろう。ミカルは彼にとって落とし穴となり、ペリシテ人の手が彼に下るだろう。」と思った。そこでサウルはもう一度ダビデに言った。「きょう、あなたは私の婿になるのだ。」そしてサウルは家来たちに命じた。「ダビデにひそかにこう告げなさい。『聞いてください。王はあなたが気に入り、家来たちもみな、あなたを愛しています。今、王の婿になってください。』」それでサウルの家来たちは、このことばをダビデの耳に入れた。』
 サウルを除く万人から愛されていたダビデは、サウルの娘ミカルに恋慕されていましたが、そのことを知ったサウルは、ミカルを次の罠としてダビデに仕掛けようとします。これもメラブの場合と同様で、もしダビデにミカルが妻として与えられたならば、彼は妻を夢中で愛することにもなります。そうしたらダビデは妻ゆえ神のことを多かれ少なかれ忘れかねません。人は自分の妻を喜ばせようと頑張るものだからです。これはパウロもⅠコリント7章で述べています。もしダビデがこうなれば、ダビデは戦争の際にペリシテ人から斃されてしまいかねません。何故なら、戦いの勝利は神にかかっているからです。神を無視するならば戦いで敗けることにもなりましょう。サウルはこのことを知っていました。だからこそ、サウルはミカルを娶らせるのがグッドアイデアだと思ったのです。これは何と邪悪で忌まわしい案でしょうか。こうしてサウルは家来たちをダビデのもとに遣わし、ダビデが王の婿となるよう求めます。その際、サウルは自分がダビデを気に入っていると伝えさせました(22節)。これは真っ赤な嘘です。サウルはダビデが気に入っていないからこそミカルを娶らせようとしていたのですから。口が正しくないのは正しくない者の常です。そのような人は心において腐敗しているので、口から出る言葉も罪深くなるわけです。さて、女とは男を堕落させ駄目にする存在です。私が自分自身の考えからこう言っていると思ってはなりません。聖書がこう言っているのです。つまり、聖書がそう言っているからこそ、私もそう言うのです。聖書でソロモンはこう言いました。『私は女が死よりも苦々しいことに気がついた。女はわなであり、その心は網、その手はかせである。神に喜ばれる者は女からのがれるが、罪を犯す者は女に捕えられる。』(伝道者の書7:26)このように言ったソロモン自身も女のため酷い堕落へと陥りました(Ⅰ列王記11章)。聖なるアダムも女である妻エバにより堕落しました。アハブもやはり妻のため駄目になりました(Ⅰ列王記21:25)。こういうわけで、サタンやサウルのように正しくない者は、女により男を駄目にし破滅させようとするのです。男はたとえサタンや男には屈せずとも女にならば屈せられてしまいます。男にとって女は最強の力の一つなのです。結婚するのは善です。妻も悪い存在ではありません。しかし、妻に堕ちてはなりません。もし堕ちればアダムのように破滅しかねないのです。

【18:23~24】
『するとダビデは言った。「王の婿になるのがたやすいことだと思っているのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」サウルの家来たちは、ダビデがこのように言っています、と言ってサウルに報告した。』
 ダビデはまたもやサウルの言葉を聞いて恐縮してしまいます。ダビデの自己評価は非常に低かったのです。ダビデにとって自分が王の婿となるのは考えられないことでした。しかし、神はこのようなダビデを蔑んでおられませんでした。神が蔑んでおられたのはサウルのほうです。サウルは神を捨て去るほどに蔑んでいたのですから。