【Ⅰサムエル記18:25~20:23】(2022/10/30)


【18:25】
『それでサウルは言った。「ダビデにこう言うがよい。王は花嫁料を望んではいない。ただ王の敵に復讐するため、ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいる、と。」サウルは、ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた。』
 サウルはどうしてもミカルを娶らせてダビデが死ぬようにしたかったので、別にダビデが王の婿となるからといって花嫁料は必要とならない、と言うことで不安を除こうとします。サウルは花嫁料の代わりに、ペリシテ人に復讐して『陽の皮百』だけを持って来れば構わない、とダビデに伝えさせます。サウルにとってペリシテ人の皮などはそこまで重要でありませんでした。確かにそれは復讐の証拠としてサウルの欲する戦利品でしたが、少なくともこの時には重要でありませんでした。とにかくサウルはダビデをペリシテ人と戦わせ死なせたかったからです。サウルにとってダビデの死は『陽の皮百』より重要で価値がありました。サウルは何と邪悪だったことでしょうか。このように悪い者は、自分の悪い目的を遂げるため、正しい目的の陰にその悪い目的を隠そうとします。何故なら、もし真の目的を知らせてしまえば大変で悲惨なことになるからです。こういうわけで悪い者は、仮面を被るのが好きで、偽善者とならずにはいられないのです。

【18:26~27】
『サウルの家来たちが、このことばをダビデに告げると、ダビデは、王の婿になるために、それはちょうどよいと思った。そこで、期限が過ぎる前に、ダビデは立って、彼と部下とで、出て行き、ペリシテ人二百を打ち殺し、その陽の皮を持ち帰り、王の婿になるためのことを、王に果たした。そこでサウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。』
 ただペリシテ人から戦利品を獲得し、花嫁料は要らないということだったので、ダビデは調度良いと思いました。ペリシテ人から『陽の皮百』を奪い取るぐらいであれば容易いことだと思えたからです。ダビデはまさかサウルの言葉に裏があるなどと思いもしませんでした。サドが何度も言った通り、善良な人は相手を良く考えるので、まさか相手が悪いことを企んでいるなどとは思いもしません。純粋に善良であればあるほど隠された悪巧みも読み取れなくなります。ダビデはまだ若かったので尚のこと、このような傾向がありました。若い人ほど汚れを知らずピュアな傾向があります。この時のダビデはまだ30歳にもなっていませんでした。こうしてダビデはペリシテ人を打ち殺し、サウルが求めた通りにしました。神がダビデと共におられたので、この時もダビデはペリシテ人を打ち倒すことができました。しかも、サウルが100の皮を求めただけなのに、ダビデはその2倍もの皮をサウルに持って行きました。このことだけを考えてもダビデがどれほど優秀だったかよく分かります。それは神が与えられた優秀さでした。

【18:28~29】
『こうして、サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また、知った。それでサウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった。』
 サウルの策略は見事に失敗しました。一方、ダビデの歩みは良く、神がダビデと共におられました。またミカルはダビデを愛していました。それに比べ、サウルはダビデを憎んでおり、サウルだけダビデに対する態度が他者と違うのは明らかでした。このためサウルはますますダビデを恐れるようになります。こうしてサウルはいつまでもダビデに敵対し続けました。これはまずサウルが主を憎んでいたからです。主は、御自分の聖徒を憎む者についてこう言っておられます。『もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。』(ヨハネ15章18節)サウルが致命的な背きの罪を神に犯したことからも分かる通り、サウルはまず主を憎み主に敵対していたので、その主に仕える主の僕なるダビデをも憎みダビデに敵対していたのです。根を憎むのであればその枝をも憎むようになるのは自然です。

【18:30】
『ペリシテ人の首長たちが出て来るときは、そのたびごとに、ダビデはサウルの家来たちのすべてにまさる戦果をあげた。それで彼の名は非常に尊ばれた。』
 サウルの生きている間はずっとペリシテ人との戦いがありました(Ⅰサムエル14:52)。ダビデは千人隊長でしたから戦いに動員されましたが、『そのたびごとに、ダビデはサウルの家来たちのすべてにまさる戦果をあげた』ので、『彼の名は非常に尊ばれ』ました。神がもしダビデと共におられなければ、ダビデはこのようになっていなかったでしょう。神がダビデと共におられるのは明らかでした。そのような者は神に恵まれ高められるのです。これは神から捨てられたサウルが没落し悲惨に陥ったのと対極的です。

【19:1】
『サウルは、ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた。』
 サウルがダビデ殺害のことを『息子ヨナタンや家来の全部に告げた』のは、何故だったのでしょうか。誰にも知らせず自分だけ知ったままでの状態でダビデを死なせたほうが、サウルにとって良かったのではないでしょうか。サウルがダビデを殺そうとしていることについて聞いた息子および家来たちは驚いたはずです。万人から愛されているスターとでも呼ぶべきダビデが殺されるというのですから。サウルは隠していてもやがてバレるのだから自分から先駆けて知らせたのでしょうか。それともダビデを殺すために、ダビデが死なねばならないという空気をサウルの支配体制において醸成させようとしたのでしょうか。そうでなければサドもよく言ったように「悪人は必ず何らかのドジをやらかす。」ということなのでしょうか。どのような思いからサウルがこの邪悪な策略を告げ知らせたかは分かりません。いずれにせよ、神はこの策略をサウルが自分自身の口で知れ渡るようにさせられました。そうなるのが神の御心だったのです。

【19:1~3】
『しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。それでヨナタンはダビデに告げて言った。「私の父サウルは、あなたを殺そうとしています。それで、あしたの朝は、注意して、隠れ場にとどまり、身を隠していてください。私はあなたのいる野原に出て行って、父のそばに立ち、あなたのことについて父に話しましょう。何かわかったら、あなたに知らせましょう。」』
 ヨナタンはダビデを愛していたので、サウルが何とかしてダビデを死なせようとしていたのに対し、何とかしてダビデを救おうとします。ヨナタンは何か分かったら伝えるので一先ず隠れて危機を免れるべきだとダビデに求めます。もしヨナタンのしたことが父にバレたら、ヨナタンは殺される恐れがありました。サウルは息子でも容赦なく殺そうとする人でしたから(Ⅰサムエル14:39、44)。それにもかかわらずヨナタンはダビデを救おうとしました。自分のように他人を愛するとはこういうことです。もしヨナタンがダビデを愛していなければ、このようにしていなかった可能性があります。

 正しい者はこのダビデのように神から守られます。聖書も言っている通り、『正しい者は何の災害にも会わない。』(箴言12章21節)からです。正しい者は神の命令を守るので災いから免れます。『命令を守る者はわざわいを知らない。』(伝道者の書8章5節)と書かれている通りです。しかし、サウルのような『悪者はつまずいて滅びる』(箴言24章16節)のです。ダビデにしても正しい者でなければ悲惨を免れることが出来ていなかったかもしれません。

【19:4~6】
『ヨナタンは父サウルにダビデの良いことを話し、父に言った。「王よ。あなたのしもべダビデについて罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。かえって、彼のしたことは、あなたにとっては非常な益となっています。彼が自分のいのちをかけて、ペリシテ人を打ったので、主は大勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て、喜ばれました。なぜ何の理由もなくダビデを殺し、罪のない者の血を流して、罪を犯そうとされるのですか。」サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」』
 ヨナタンはダビデを救うため、サウルにダビデのことで説得しようとします。ここでヨナタンが言っている通り、サウルは罪を犯そうとしていたのに対し、ダビデはこれまでサウルに何の罪も犯していませんでした。悪いのはもう徹底的にサウルでした。ダビデに非は全くありませんでした。ここでヨナタンのした説得の内容には非の打ち所がありません。ヨナタンがサウルの息子だったからこそ、このように相手が王であるのに大胆な言い方で言えたのかもしれません。これが普通の臣下であれば怖気づいて何も言えなかったかもしれません。

 流石にサウルもイスラエル共同体に属するイスラエル人でしたので、血の罪を犯すのかと言われたことで、ダビデを殺害する思いを変えました。実の息子に正しいことを言われたのでハッとさせられたのです。サウルはもうダビデを殺したりしないと誓うことさえしました。『主は生きておられる。』という言葉は、「もし私の言ったことが破られたらそれを聞いておられた生ける神から幾重に罰せられても構わない。」という意味の誓いです。こうしてダビデはヨナタンのため助かることになりました。もしヨナタンがこうしていなければダビデは大変なことになっていたかもしれません。

【19:7~8】
『それで、ヨナタンはダビデを呼んで、このことのすべてを告げた。ヨナタンがダビデをサウルのところに連れて行ったので、ダビデは以前のようにサウルに仕えることになった。それからまた、戦いが起こったが、ダビデは出て行って、ペリシテ人と戦い、彼らを打って大損害を与えた。それで、彼らはダビデの前から逃げた。』
 ヨナタンはもうダビデが殺されたりしないと確信したので、そのことをダビデに知らせ、ダビデは再び以前のような状態となりました。すなわち、サウルの道具持ちという側近として働くようになりました。誓いがあったのでもうサウルは決してダビデを殺せませんでした。もし殺すならば誓いを破ることになるので、サウルは誓いの違反者として神から罰せられてしまうからです。

 ダビデが道具持ちの職務に戻ってからも、ダビデはペリシテ人との戦いに動員され、大勝利をイスラエルに齎し続けました。ダビデが自分自身で勝利を得たのではありません。神がダビデに勝利を与えておられたのです。というのも人は自分の力で勝利することができないからです。『まことに、人は己の力によっては勝てません。』と言われている通りです。

【19:9】
『ときに主からの悪い霊がサウルに臨んだ。』
 サウルは神から恒久的な裁きに定められていましたから、再び神からの悪い霊に悩まされました。サウルはこの災いを免れることが出来ませんでした。何故なら、彼は本当に致命的な罪を犯したからです。真に悔い改めるならば話は違っていたかもしれません。しかし、サウルはもう悔い改めることができませんでした。彼は嘆いたものの、もう悔い改められない状態に陥っていたのです。エサウも悔い改められない段階に至りましたし(ヘブル12:17)、裏切り者ユダもそうでした。ちょうど捕えられて牢獄に入れられたので、もうどうにもなくなるようなものです。

【19:9~10】
『サウルは自分の家にすわっており、その手には槍を持っていた。ダビデは琴を手にしてひいていた。サウルが槍でダビデを壁に突き刺そうとしたとき、ダビデはサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難をのがれた。』
 サウルはまた悪い霊によりおかしくなったので、前と同じようにダビデを槍で刺し殺そうとしますが、ダビデには神が共におられたので守られました。もし神が守っておられなければ一体ダビデはどうなっていたでしょうか。サウルが槍を投げようとするのに気付かないで刺し殺されていたか、よけようとしたもののよけきれずに貫かれていたかもしれません。ダビデにこのような事態が起きたのは災いではありませんでした。何故なら、正しい者に神は災いを下されないからです。これはダビデを鍛えるために起きた試練でした。

【19:11~12】
『サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝になって彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げて言った。「今夜、あなたのいのちを救わなければ、あすは、あなたは殺されてしまいます。」こうしてミカルはダビデを窓から降ろしたので、彼は逃げて行き、難をのがれた。』
 サウルから逃げたダビデは自分の家に行きましたが、サウルは使者たちをダビデの家に遣わし、翌朝になってから殺すよう見張らせました。しかし、ダビデを愛する妻のミカルがダビデを窓から逃がしたので、ダビデは再び難を逃れることになります。神がミカルによりダビデを救われたのです。ダビデがミカルと結婚したのは、神がミカルを通してダビデを救うためでもありました。神は先の先まで見通した上で全てを実現させるのだからです。

【19:13~17】
『ミカルはテラフィムを取って、それを寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを枕のところに置き、それを着物でおおった。サウルがダビデを捕えようと使者たちを遣わしたとき、ミカルは、「あの人は病気です。」と言った。サウルはダビデを見ようとして、「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ。」と言って使者たちを遣わした。使者たちがはいって見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが枕のところにあった。サウルはミカルに言った。「なぜ、このようにして私を欺き、私の敵を逃がし、のがれさせたのか。」ミカルはサウルに言った。「あの人は、『私を逃がしてくれ。私がどうしておまえを殺せよう。』と私に言ったのです。」』
 ミカルはダビデを逃してから、2つの隠蔽工作をしました。まずミカルはダビデを捕えようとやって来た使者たちに『あの人は病気です。』と言いました。このように言えば情けをかけてもらえるかもしれなかったからです。またダビデの様子が見られそうになった時のため、ミカルはテラフィムをダビデに仕立てました。これは本当にダビデが病気で寝ていると何とかして思わせるためでした。ところが、これは間に合わせの隠蔽工作でしたから簡単に突破されてしまいました。もし時間に余裕があればもっとましな隠蔽を行なえていたでしょう。娘に欺かれたのを知ったサウルは、ミカルを問い詰めますが、ミカルはもし逃がさなければダビデに殺されていたかもしれないと言って弁明します。この弁明は嘘です。ダビデはこんなことを言っていません。寧ろ、ミカルが自分自身から愛するダビデを逃がそうとしたのです(Ⅰサムエル19:11)。ミカルがこのような嘘をついたのは、サウルから咎められないためでした。もしダビデを逃がさなければ殺されていたというのであれば、サウルも仕方がないと思うしかないからです。この嘘によりミカルの身は安全となりました。しかし、ダビデの危険はますます増し加わったはずです。何故なら、サウルの脳内ではダビデがミカルを殺そうとしたことになったわけですから、どうしてそのような者を更に憎むようにならないでしょうか。ミカルがこのように欺いても罪ではありませんでした。ミカルは隣人愛からこのように欺いたのだからです。彼女は「自分のように自分の隣人を愛せよ。」という戒めを守っていました。確かに文字的に考えればミカルは『欺いてはならない。』という戒めに違反しました。しかし、戒めの本質であり目的である愛は実践していたのですから、罪はその欺きにありませんでした。ラハブが隣人愛のため嘘をついたのも、これと同じで罪ではありませんでした。このラハブの嘘については既に見た通りです。

 ミカルは、2つの欺きで失敗し、1つの欺きで成功しました。それらはどれも愛を目的とした欺きでしたから罪となりませんが、しかし欺きであることに変わりはありませんでした。このことからも、やはり女は欺く傾向を持っていることが分かります。女は外面からして既に欺いています。化粧とは欺くことでなくて何でしょうか。化粧をしている時とすっぴんの時があまりにも違うので、ショックを受ける男は珍しくありません。まったく別人と化すほどの化粧をしている女性もいます。ミカルやラハブのように愛を目的とする欺きであれば善であり、化粧も過度にならなければ許されますが、悪のために欺くのだけはよくありません。エバが悪のために欺いたので、アダムは騙され、その結果、人類の全体が堕落するに至ったのです。私たちはこの原初の堕罪について忘れないようにすべきです。

【19:18】
『ダビデは逃げ、のがれて、ラマのサムエルのところに行き、サウルが自分にしたこといっさいをサムエルに話した。そしてサムエルと、ナヨテに行って住んだ。』
 サウルから逃れたダビデはサムエルのいるラマに行き、それからサムエルと同じ場所で住むようにしました。これはダビデがサムエルに信頼を置いていたからです。サムエルほどに信頼のおける人物が他にいたでしょうか。いなかったはずです。このサムエルは『神の人』と聖書で呼ばれるほどの人物だったのですから。ダビデは親族よりもサムエルという親族でない人のもとへ行きました。ダビデの子ソロモンはこう言っています。『あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。』(箴言27章10節)ダビデが『兄弟』のもとへ行けば色々と五月蠅く言われて落ち着かなかったでしょう。しかし、サムエルという『隣人』であれば平和に歩むことができました。私たちもダビデのようにすべきです。すなわち、悲惨が起きたならば兄弟より親しい隣人を求めるべきです。この時にダビデはサムエルにサウルからされた仕打ちをことごとく話して聞かせました。サムエルは既にサウルの不敬虔と邪悪を知っていましたから、ダビデから話を聞かされてもそれほど驚きはしなかったと推測されます。

【19:19~21】
『ところが、「ダビデは、なんと、ラマのナヨテにいます。」とサウルに告げる者がいた。そこでサウルはダビデを捕えようと使者たちを遣わした。彼らは、預言者の一団が預言しており、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。そのとき、神の霊がサウルの使者たちに臨み、彼らもまた、預言した。サウルにこのことが知らされたとき、彼はほかの使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。サウルはさらに三度目の使者たちを送ったが、彼らもまた、預言した。』
 サムエルには、神により預言する一団を監督する職務も与えられていました。サムエル自身が自分から監督するというのではありません。神がサムエルを通じて預言者たちを監督されるのです。神がサムエルを預言者たちの監督に立てられたのは、複数いる預言者たちの預言が秩序付けられるためでした。預言が無秩序に語られることでカオス状態となるべきではありません。もし預言がカオス状態となれば、神は混乱の神だということになってしまいます。しかし神は秩序の神であられます。この『預言者の一団』がどれぐらいの数だったかは分かりません。彼らが預言をしていたのは、未来に起こる事柄を民が知るためでした。つまり、神は彼らに意味なく預言をさせておられたわけではありません。神は無意味に何かをされることがないからです。19節目から分かる通り、サムエルとダビデのいる『ナヨテ』とはラマにある一つの地域でした。

 隠れたままでいる事柄はありませんので、ダビデがラマにいるということはサウルに知られました。それでサウルはダビデを捕えるため使者たちをラマに遣わします。これがダビデを捕えて和解するためだったとすれば問題はなかったかもしれません。しかし、サウルは捕えて墓送りにするためこうしたのです。これは何と悪魔的でしょうか。サウルが悪魔に喜ばれることをしていたのは間違いありません。その使者たちがサムエルの率いる預言者たちを見たところ、一緒になって神の預言を語ることとなりました。サウルの使者たちも未来のことを預言したのです。このため、この使者たちは預言をしており、ダビデを捕らえることも、サウルのもとへ帰ることもできませんでした。こうして神はサウルの忌まわしい策略を挫かれました。サウルが続いて遣わした2度目と3度目の使者たちも、やはり1度目と同じようになりました。神はサウルの思惑を喜ばれなかったのです。

【19:22】
『そこでサウル自身もまたラマへ行った。彼はセクにある大きな井戸まで来たとき、「サムエルとダビデはどこにいるか。」と尋ねた。すると、「今、ラマのナヨテにいます。」と言われた。』
 4度目もまた同様になるのはほとんど確実だったので、サウルは自分自身でラマへ行くことにしました。彼がこうしたのは、ダビデを捕えて移送するためだったのでしょうか、それともその場で刺し殺すためだったのでしょうか。どちらだったのか私たちには分かりません。どちらでもなく、ただ様子を確かめようとしただけである可能性もあります。

【19:23~24】
『サウルはそこからラマのナヨテへ出て行ったが、彼にも神の霊が臨み、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテに着いた。彼もまた着物を脱いで、サムエルの前で預言し、一昼夜の間、裸のまま倒れていた。このために、「サウルもまた、預言者のひとりなのか。」と言われるようになった。』
 サウルがサムエルのいるラマに近付くと、彼もサムエルに監督されている預言者たちと同様、神の霊により預言をしました。神は何としても御自分の民に預言を知らせようとしておられました。神は未来のことを御自分の聖徒に知らせずにおかない御方だからです。ですから、神は不敬虔なサウルの口を通しても預言が語られるようになさったのです。

 サウルは『着物を脱いで』預言し、それから『裸のまま倒れていた』のですが、これはどうしてだったのでしょうか。着物を脱いだのは身体が熱くなったからだと考えられます。私たちも熱心に語る時は身体が熱くなるのを感じますから、どういうことか分からない人は恐らくいないでしょう。地に倒れていたのは、神による預言が人間の限界を超えていた業だったからであると思われます。神が人間の口を通して語られるのですから、人間の精神および身体がそれに耐えられず倒れてしまったとしても不思議なことはありません。ですから、サウルが預言をした際、このようになったのは、不自然だとか異常だとかいうのではありませんでした。神は忌まわしいことを人に一切なさらない御方だからです。

 この時にサウルは『サムエルの前で預言し』たのですが、先の箇所によればサムエルはサウルが神から退けられて以降、もう二度とサウルを見なかったのではないのでしょうか(Ⅰサムエル15:35)。これが矛盾していると感じる人もいるかもしれません。この問題はどう解決すればいいでしょうか。2つのことが考えられます。一つ目。サウルはサムエルの前まで来たのですが、サムエルの視界にサウルは入らなかったのです。視界に入ったとしてもサウルを認識することはありませんでした。実際、ここではサウルが『サムエルの前で預言し』たと書かれているものの、サムエルがサウルを見たとは書かれていません。私たちにしても、目の前にある人が来ているのに、多くの群衆に紛れているのでその人のことを気付けなかった、ということは十分に起こり得ます。その場合、その人は私たちの前に来ているものの、私たちがその人を見ることにはなりません。二つ目。前の箇所でサムエルがサウルを二度と見なかったと言われているのは、通常のサウルだったということです。この時にやって来たサウルは通常の状態ではありませんでした。確かに、通常のサウルについて言えば、サムエルはあの日以降もう二度とサウルを見ることがありませんでした。このうち正しいのはどちらか一つです。一つ目が正しければ二つ目は違っており、二つ目が正しければ一つ目は違っています。恐らく一つ目のほうが正しいと思われます。

 この出来事のため『サウルもまた、預言者のひとりなのか。』と言われるようになりましたが、この諺は前にも言われていました(Ⅰサムエル10:12)。この諺がどのような意味であるかは既に説明済みです。

【20:1】
『ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。「私がどんなことをし、私にどんな咎があり、私があなたの父上に対してどんな罪を犯したというので、父上は私のいのちを求めておられるのでしょうか。」』
 サウルがやって来たので、ダビデはラマから逃げ、今度はヨナタンのもとへ行きます。サムエルに信頼が置けなくなったからというのではありません。ただサムエルのいる場所にサウルが来たので逃げねばならなくなったのです。ダビデはまたも兄弟より親しい隣人を避難場所として選びました。兄弟は駄目でもヨナタンであれば大丈夫だったからです。というのも、ヨナタンはダビデを愛しており、ダビデと自ら契約を結ぶほどだったからです。ダビデにとってこのヨナタンはサムエルの次に信頼の置ける人物だったはずです。ダビデはヨナタンに会うと、サウルの酷い仕打ちを訴えます。しかし、サウルの子ヨナタンに文句を言っているのではありませんでした。ダビデはただサウルのしたことをヨナタンと共に考えようとしているだけです。ここでダビデが言っている通り、ダビデはサウルに対しいかなる罪も犯していませんでした。ヨナタンもダビデはサウルに良いことしかしていないと言っていました(Ⅰサムエル19:4~5)。サウルがただ一方的にダビデを憎み殺そうとしているだけだったのです。

【20:2~3】
『ヨナタンは彼に言った。「絶対にそんなことはありません。あなたが殺されるはずはありません。そうです。私の父は、事の大小を問わず、私の耳に入れないでするようなことはありません。どうして父が、このことを私に隠さなければならないでしょうか。そんなことはありません。」ダビデはなおも誓って言った。「あなたの父上は、私があなたのご好意を得ていることを、よくご存じです。それで、ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう、と思っておられるのです。けれども、主とあなたに誓います。私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。」』
 ヨナタンは自分が父サウルから信頼されており、そのためサウルは何かをする際に前もって知らせてくれると確信していたので、ダビデが父から殺されることはないと思っていました。何故なら、ヨナタンは父からダビデ殺害の話を聞かされていなかったからです。ですからサウルがダビデを殺さないと誓った日以来(Ⅰサムエル19:6)、もうヨナタンは父がダビデを殺さないと思っていました。このためヨナタンはダビデに殺されることなど決してないのだと言い聞かせて安心させようとします。ヨナタンは少しの疑いもなくこのように言っていたはずです。

 確かに、サウルが誓ったあの日以降、サウルはヨナタンにダビデ殺害の話をしていませんでした。しかし、ダビデはサウルがヨナタンに配慮しているだけであるということをよく分かっていました。実際、サウルは『ヨナタンが悲しまないように』ダビデ殺害の話を知らせていなかっただけでした。もしサウルが配慮していなければ、ヨナタンにもサウルはダビデを殺すと話していたはずです。ダビデはこのことが真であると誓いにより断言しました。

【20:4】
『するとヨナタンはダビデに言った。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにしましょう。」』
 ダビデが誓うことさえしたので、ヨナタンはダビデの言葉が正しいと認めます。ダビデの言ったことは、よく考えればヨナタンにも確かにそうだと納得できたからです。そしてヨナタンは事の成り行き・決定をダビデに委ねます。これはダビデのほうが事情をよく弁えており、そのためダビデのほうが自分より思慮ある判断と決定を行なえるのは間違いなかったからです。

【20:5~8】
『ダビデはヨナタンに言った。「あすはちょうど新月祭で、私は王といっしょに食事の席に着かなければなりません。私を行かせて、三日目の夕方まで野に隠れさせてください。もし、父上が私のことをとがめられたら、おしゃってください。『ダビデは自分の町ベツレヘムへ急いで行きたいと、しきりに頼みました。あそこで彼の氏族全体のために、年ごとのいけにえをささげることになっているからです。』と。もし、父上が『よし。』とおっしゃれば、このしもべは安全です。もし、激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。どうか、このしもべに真実を尽くしてください。あなたは主に誓って、このしもべと契約を結んでおられるからです。もし、私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして私を父上のところにまで連れ出す必要がありましょう。」』
 ダビデは、サウルが自分に対しどのような態度を持っているか確かめてほしいと要求します。ダビデは、新月祭の始まる日から3日間、サウルの前から姿を隠します。もしこの間にサウルが何も言わなければダビデは安全です。それはサウルがダビデに強い殺意を持っていないことだからです。しかしサウルが怒り狂ったのであれば、ダビデは非常に危険です。何故なら、サウルはダビデを殺そうにも殺せないので、ダビデの不在について怒るのだからです。このようにするのは非常に分かりやすい判別方法でした。ここでダビデはヨナタンに嘘をつくよう求めています。ダビデは『自分の町ベツレヘムへ急いで行きたいと、しきりに頼』んでなどいませんし、『三日目の夕方まで野に隠れ』ているのだからです。ダビデと『死との間には、ただ一歩の隔たりしか』なかったのですから、このような嘘によりサウルの本心を確かめようとしたとしても罪とはならなかったはずです。ダビデが『三日』隠れているのは、サウルの本心をしっかり確かめるためでした。もしサウルが本当に殺意を抱いていれば、3日もダビデが不在であることに耐えらないはずだからです。しかし殺意がないか弱ければ、3日ぐらいそれほど気にしないでいることができたはずです。この『三』(日)という数字(日数)には確認の意味があるのでしょう。何故なら、3日とは1日が3度繰り返されることなのですから。

 ダビデは、ヨナタンが自分と結んだ契約ゆえ、自分に真実を尽くしてくれるよう求めます。ダビデがこのように求めたのは正当なことです。ヨナタンは自分からダビデと契約を結んだのですから、その契約を履行する義務があるからです。『真実を尽くしてください。』というのは、「ダビデのために心から行動することで結ばれた契約が真実であるという証拠を示してほしい。」という意味です。ダビデとヨナタンの契約は双方的な契約ですから、ダビデもその契約に基づき、もし自分に咎があればヨナタンから殺されても構わないと断言します。もしダビデに咎がありながらこういったことを御願いするのであれば、ダビデは不誠実を行なっていることになるからです。しかし、ダビデはサウルに対し咎がありませんでしたから、ヨナタンから殺されたりしませんでした。

【20:9~10】
『ヨナタンは言った。「絶対にそんなことはありません。父があなたに害を加える決心をしていることが確かにわかったら、あなたに知らせないでおくはずはありません。」ダビデはヨナタンに言った。「もし父上が、きびしい返事をなさったら、だれが私に知らせてくれましょう。」』
 ヨナタンは、もしサウルが怒っていた際に伝え知らせないことなど決してないと誓います。このようにするのはヨナタンにとって契約の使命だからです。寧ろ、このようにしなければヨナタンは罪に定められていたでしょう。何故なら、それは契約を蔑ろにすることだからです。ヨナタンはダビデを助けようとすることで、サウルから処罰を受ける恐れがあったものの、それでもダビデの救いを優先させました。というのもサウルがダビデを殺そうとしているのはおかしいことだったからです。サウルの狂気を黙認し、ダビデが死ぬのを黙ったまま見ているだけというのは、決して許されませんでした。

 10節目でダビデが『もし父上が、きびしい返事をなさったら、だれが私に知らせてくれましょう。』と言っているのはどういう意味でしょうか。これは「ヨナタン以外にサウルの返事を知らせてくれる人が誰かいるだろうか?」という意味です。これはヨナタンも含め誰もそのことを知らせてくれる人がいないという意味ではありません。確かにヨナタン以外の者であれば、ダビデとそれほど深い関係を持っていなかったでしょうから、あえて死の危険を冒してまでダビデに知らせようとする人はいなかったはずです。つまり、この10節目でダビデはヨナタンの特別性を際立たせています。

【20:11~13】
『ヨナタンはダビデに言った。「さあ、野原に出ましょう。」こうしてふたりは野原に出た。ヨナタンはイスラエルの神、主に誓ってダビデに言った。「あすかあさってかの今ごろ、私は父の気持ちを探ってみます。ダビデに対して寛大であれば、必ず人をやって、あなたの耳に入れましょう。もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がしてあげなかったなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰せられるように。』
 こうしてヨナタンとダビデは野原に行きます。これは野原で打ち合わせをするためです。もし野の隠れ場所を知らなければヨナタンはダビデに伝えようにも伝えられなかったからです。2人が野に出て行った際、2人は誰にも気づかれないで行けました。神がこの2人を守られたからです。もし神の守りがなければ、中国か北朝鮮のように尾行されたり、野に行く様子を誰かがたまたま見たりしたので、サウルに報告されて大変なことが起きていたかもしれません。

 ヨナタンは『あすかあさってかの今ごろ』、サウルのダビデに対する態度を探ると約束します。そして、サウルがダビデに『寛大』であっても『害を加えようと思っている』のであっても、ダビデにサウルの態度を報告すると誓います。もしサウルが怒っているにもかかわらず報告しなければ神から幾重に罰されても構わないとヨナタンは付け加えます。これはヨナタンに本気の覚悟があったことを示しています。何故なら、主から幾重にも罰されて構わないというのは、つまり裁かれて死んでも構わないということだからです。このような覚悟はダビデへの友愛に基づいていました。

【20:13】
『主が私の父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。』
 ヨナタンは、神がかつてサウルと共におられたように、ダビデとも共におられるよう願います。これは神が聖徒たちにおける救いであり力であり知恵であり幸いだからです。この願いの通り、神はこれからもダビデと共におられました。これから続く聖書の箇所を見れば分かる通りです。この時に神はもうサウルから離れ去っておられました。ヨナタンはそのことをよく知っていました。神がサウルから離れられたからこそ、サウルは神が共におられるダビデを恐れるようになったのです。このため、ヨナタンは『主が私の父とともにおられたように』と過去形で語っています。

【20:14~15】
『もし、私が生きながらえておれば、主の恵みを私に施してください。たとい、私が死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。」』
 ここでヨナタンは2つの事柄をダビデに願い求めています。一つ目は、もしヨナタンが生きていればダビデから神における恵みを受けたいという願いです。ヨナタンは父サウルから殺されるかもしれないと感じていました。何故なら、ヨナタンはサウルが殺そうとしているダビデを生かそうとしているのだからです。しかし、ヨナタンがダビデを生かそうとしても、必ずサウルから殺されるというわけでもありません。もしかしたら神の守りにより殺されない可能性だってあるのです。その場合、ヨナタンはダビデから良くされたいと求めました。契約を結んでいる相手から良くされたいと思うのは自然なことだからです。二つ目は、たとえヨナタンがサウルから殺されたとしても、ヨナタンの『家』すなわち子孫にはダビデが良くしてほしいという願いです。子孫とはその人の分身に他ならないからです。ヨナタンはダビデその人と友愛の契約を結んでいました。その友愛は純粋でしたから、分身である子孫にまで引き継がれるべきだったのです。『主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすとき』とは、主がダビデの王権を確立させる時についてだと思われます。つまり、これはダビデが神の恵みを豊かに受けてからも、決してヨナタンの家を忘れないでほしいという意味でしょう。人は大きな恵みに与かるならば故人の子孫について多かれ少なかれ忘却しがちとなるからです。

【20:16~17】
『こうしてヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われるように。」ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。』
 こうしてヨナタンはダビデの家と契約を結ぶことになりました。これはダビデとヨナタンの友愛を『家』すなわち子々孫々に至るまで継続させるためです。この契約をヨナタンは二度も結びます。ダビデを愛していたからこそ繰り返し結ぶことでよく確認したわけです。『主がダビデの敵に血の責めを問われるように。』とは、つまり「ダビデの血を流そうとする敵は神から復讐されるべし。」という意味です。神が共におられたダビデを殺そうとする敵は許し難い存在だったからです。

【20:18~19】
『ヨナタンはダビデに言った。「あすは新月祭です。あなたの席があくので、あなたのいないのが気づかれるでしょう。あさってになれば、きびしく問いただすでしょうから、あなたは、あの事件の日に隠れたあの場所に行って、エゼルの石のそばにいてください。』
 『あす』に始まる『新月祭』とは、宗教的・国家的・民族的な祭りであり、上も下も全ての民が参加すべきでした。ちょうどクリスチャンが毎週の礼拝に参加すべきであるのと同じです。この祭りにダビデが来ていないと、1日目はまだ大丈夫かもしれません。しかし2日目になればサウルがダビデについて『きびしく問いただす』のは目に見えていました。そうなればサウルが怒り狂ってダビデを殺そうとすることにもなりかねません。ですから、ヨナタンはダビデが野原にある『エゼルの石のそば』でずっと隠れているよう求めます。これは前にもダビデが隠れていた場所でした(Ⅰサムエル19:2)。この『石』はキリストの象徴として見ることもできます。聖書で石はキリストを示すからです。この石に身を避ける者は誰でも守られ救われるのです。

【20:20~23】
『私は的を射るように、三本の矢をそのあたりに放ちます。いいですか。私が子どもをやって、『行って矢を見つけて来い。』と言い、もし私がその子どもに、『それ、矢はおまえのこちら側にある。それを取って来い。』と言ったら、そのとき、あなたは出て来てください。主は生きておられます。あなたは安全で、何事もありませんから。しかし、私が少年に、『それ、矢はおまえの向こう側だ。』と言ったら、あなたは行きなさい。主があなたを去らせるのです。私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたとの間の永遠の証人です。」』
 ヨナタンはダビデがこれからどうすればいいか指示します。サウルの態度を確認したヨナタンはこれからダビデのいる辺りに矢を放ちますが、もし子どもたちに矢を取って来るよう命じられたらダビデは安全であり、子どもたちが向こうに行くよう命じられたらダビデは危険です。これは分かりやすく間違えようのない指示方法です。たとえ誰かがヨナタンのしたことを見ていても、その行為における深い意味を悟ることはできません。ただヨナタンとダビデの2人だけが真の意味を理解できるのです。放たれた矢が『三本』だったのは確認と強調の意味を持つのでしょう。つまり、ヨナタンは自分の確認したことを強い思いでダビデに伝えるのですが、それを示すために「3」本の矢を使うのです。ここで『主は生きておられます。』と言われているのは、それが主の御前で絶対にそうであるという誓いです。ヨナタンがこれから使う子どもたちは単なる僕であり、ヨナタンの子どもではなかったでしょう。

 ヨナタンはこの約束における証人として神を立てます(23節)。これはつまりヨナタンが絶対に自分の言った約束を果たさなければならないということです。もしそうしなければヨナタンは裁かれてしまいます。何故なら、証人として立てられた神は、決して聞き間違うことも裁き損ねることもない御方だからです。