【Ⅰサムエル記20:24~22:23】(2022/11/06)


【20:24~26】
『こうしてダビデは野に隠れた。新月祭になって、王は食事の席に着いた。王は、いつものように壁寄りの席の自分の席に着いた。ヨナタンはその向かい側、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの場所はあいていた。その日、サウルは何も言わなかった。「あれに思わぬ事が起こって身を汚したのだろう。きっと汚れているためだろう。」と思ったからである。』
 こうして新月祭の日となりました。これは月毎に行なわれる祭りです。ダビデはヨナタンと決めた通り、野に逃げて隠れます。ダビデの居場所を知っているのはダビデとヨナタンだけでした。神がダビデを守っておられたので、ダビデは隠れるところを誰にも見つからずにすみました。サウルが『壁よりの席』を自分の席としていたのは、意味があるはずです。これは暗殺の危険を少なくするためだったはずです。警戒する方向が少なければ少ないほど、暗殺のため危険となる方向も少なくなるからです。また、これはサウルの小心が現われているというのもあるかもしれません。今でも、あまり気が大きくない人は隅の席を好んで選ぶものです。これとは逆に自信や勇気のある人は、前の席や目立つ場所を積極的に選ぶのです。アブネルがサウルの横に座ったのは、アブネルとサウルの親しい関係を示しています。アブネルは将軍であってサウルの側近だったからです。ヨナタンがサウルの『向かい側』に座ったのは、サウルと対立していることを示していると考えられます。将棋で戦う時も2人の者が互いに向き合って座るものです。

 1日目は、ダビデが汚れているとサウルから思われたので、何事も起きずに終わりました。汚れた者は汚れを他人に移しかねないので、離れているべきだからです。律法にもある通り、汚れた者が触れる物は汚れてしまいます。これは今で言えば風邪を周囲の人に移すのが嫌がられるようなものです。このため、サウルはダビデが不在でも気にしたりしませんでした。少なくとも1日目は確かに気になりませんでした。

【20:27~29】
『しかし、その翌日、新月祭の第二日にも、ダビデの席があいていたので、サウルは息子のヨナタンに尋ねた。「どうしてエッサイの子は、きのうも、きょうも食事に来ないのか。」ヨナタンはサウルに答えた。「ベツレヘムへ行かせてくれと、ダビデが私にしきりに頼みました。『どうか、私を行かせてください。私たちの氏族はあの町で、いけにえをささげるのですが、私の兄弟が私に来るように命じています。今、お願いします。どうか私を行かせて、兄弟たちに会わせてください。』と言ったのです。それでダビデは王の食卓に連ならないのです。」』
 律法からも分かる通り、多くの場合、汚れは夕方になって水を浴びれば清められます。つまり、汚れの状態は基本的に1日以内で終わります。しかし、ダビデは2日目にも姿を現しませんでした。汚れていたのであれば2日目には来れるはずですから、サウルは一体どういうことなのかとヨナタンに尋ねます。ダビデを殺そうとしていたにせよ殺意がなかったにせよ、サウルがこのように尋ねたのは自然なことでした。これに対しヨナタンは嘘を言って応じました。ヨナタンはダビデが言ってもいないことを『言った』と言いました。ダビデは兄弟からベツレヘムに呼び出されておらず、ただ野原に隠れていただけです。これはサウルがエッサイ家に問い合わせればすぐにもばれることでした。先にも述べた通り、これはダビデに対する隣人愛から出た嘘ですので、罪に定められない類の嘘でした。

【20:30~31】
『サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「このばいたの息子め。おまえがエッサイの子にえこひいきをして、自分をはずかしめ、自分の母親の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も危うくなるのだ。今、人をやって、あれを私のところに連れて来い。あれは殺さなければならない。」』
 サウルは、ヨナタンがダビデの言う通りにしてダビデを遠くへ行かせたので、ヨナタンに対して怒りを燃やします。ダビデが遠くに行けばダビデを殺せなくなるからです。これで、やはりサウルはダビデに対する強い殺意を抱いていることが判明しました。サウルがダビデを殺したいと思っていたのは、もしダビデを生かしておけばヨナタンとその王位が危機に晒されるからでした。というのも、このまま行けば民がダビデを次の王として歓迎するだろうことは明らかだったからです。そうなればヨナタンはサウルの次の王になれません。サウルの王権が友に与えられたという神託も(Ⅰサムエル15:28)、サウルがダビデを殺そうとする強い動機となっていました。この時のサウルは悪夢の中で生きているかのようでした。この時にサウルはヨナタンを『ばいたの息子め。』と呼んでいます。ヨナタンの母が『ばいた』すなわち不倫な女だったということはないでしょう。これはまるで不倫女の子どものように正しくないという単なる罵り言葉に過ぎません。

 ダビデはこのように苦難を味わいました。しかも、これはまだまだ序の口でした。これからダビデは何度も苦難を味わい続けます。しかし、ダビデのこのような苦難は、キリストの苦難を示す予表でした。キリストも、ダビデと同様、正しかったのに多くの苦難を味わわれたのです。ですから、ダビデの苦難は深い意味を持っていたことが分かります。もし神にキリストを予表させるという目的がなかったとすれば、ダビデはこのようでなかったかもしれません。その場合、ダビデは苦難を味わっていなかったか、王になっていなかったか、そもそも生まれていなかった可能性さえあります。神は予め調和させつつ仕組んだ上で全てを実現させるのだからです。

【20:32】
『ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、あの人は殺されなければならないのですか。あの人が何をしたというのですか。」』
 ヨナタンはサウルに反抗します。ダビデは殺されるべき理由を何も持っていなかったからです。このようなダビデを殺そうとしていたサウルは異常でした。しかし、サウルにはサウルなりの殺害理由をしっかり持っていました。その理由とは、ダビデを殺さなければヨナタンが王位に就けなくなるということです。彼はヨナタンが王になれなくなるより、ダビデが死ぬことを重視したのです。この2人のうち正しいのはもちろんヨナタンでした。サウルは御心に適わないことを願い行なおうとしていたのですから、『あなたの父と母を敬え。』と戒めで言われているものの、ヨナタンがした反抗は神の御前で罪にならなかったはずです。

【20:33】
『すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて打ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。』
 サウルはヨナタンのためダビデを殺そうとしていたので、ヨナタンがダビデの殺害に反対すると、怒り狂ってヨナタンを殺そうとします。槍で刺し通そうとしたのです。神がヨナタンを守っておられたので、ヨナタンは殺されずに済みました。正しいダビデを殺そうとしただけでなく、ヨナタンをも殺そうとしたサウル。この王が狂気に陥っていたことは間違いありません。実際、サウルは神からの悪い霊により気が狂わされていました。

【20:34】
『ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために心を痛めたからである。』
 サウルがダビデを侮辱したので、ヨナタンは怒り、食事を取らずに退席します。これはヨナタンがダビデに対する侮辱を自分に対する侮辱も同然だと感じたからです。ヨナタンはダビデを自分のように愛したのですから、ダビデに対する言行はヨナタンも自分への言行として捉えるわけです。ヨナタンがこのようにダビデの侮辱を嫌ったのは、ダビデに対する友愛がその背景にありました。もしヨナタンがダビデを愛していなければ、サウルがダビデを侮辱しても怒らなかったかもしれません。その人への愛が大きいほど、その人に対する振る舞いを自分に対する振る舞いとして捉える傾向が強まります。自分が誰かに対する振る舞いを自分にされたことのように考えているか、ある人がある人に対する振る舞いを自分にされたことのように考えているか、チェックしてみるべきです。そうすればそこにどれだけの愛があるか分かるはずです。

【20:35~40】
『朝になると、ヨナタンは小さな子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野原に出て行った。そして子どもに言った。「私が射る矢を見つけておいで。」子どもが走って行くと、ヨナタンは、その子の向こうに矢を放った。子どもがヨナタンの放った矢の所まで行くと、ヨナタンは子どものうしろから叫んで言った。「矢は、おまえより、もっと向こうではないのか。」ヨナタンは子どものうしろから、また叫んだ。「早く。急げ。止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味がわかっていた。ヨナタンは自分の弓矢を子どもに渡し、「さあ、これを町に持って行っておくれ。」と言った。』
 サウルのダビデに対する態度がよく分かったので、ヨナタンは子どもを連れ、野原に行きました。ダビデとヨナタンには『打ち合わせた時刻』がありました。ここでヨナタンは子どもたちの『主人』であったと書かれていますから、先にも述べた通り、この子どもはヨナタンの子どもではありませんでした。この子どもは1人だけだったようです。サウルにダビデを殺す思いがあったので、ヨナタンは放った矢の向こうに子どもを走らせます。子どもはどうしてヨナタンが先に走れと言ったのか理解できませんでした。そして、ヨナタンはその子どもに矢を持たせて町へと帰らせます。もし子どもがダビデとヨナタンの会話を目撃すれば、それをサウルに報告し、大変な事態となっていたかもしれないからです。

【20:41】
『子どもが行ってしまうと、ダビデは南側のほうから出て来て、地にひれ伏し、三度礼をした。ふたりは口づけし、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。』
 子どもの姿が見えなくなると、ダビデは隠れていた場所から現われます。子どもが行ってしまうまでに現われることは出来ませんでした。姿を現したダビデは『地にひれ伏し、三度礼をした』のですが、これは王子であるヨナタンに対する敬意と感謝を示すためです。そして、2人は抱き合って再会を喜び、悲惨な悲しみを共有します。2人が悲しんで泣いたのは、サウルがダビデを殺すつもりであることをはっきり知ったからです。もしサウルに殺意がなければ、この時に2人は喜び合っていたでしょう。

【20:42】
『ヨナタンはダビデに言った。「では、安心して行きなさい。私たちふたりは、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です。』と言って、主の御名によって誓ったのです。」こうしてダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。』
 こうしてヨナタンはダビデに安心しつつ逃げるよう命じます。ヨナタンが『安心して行きなさい。』とダビデに言ったのは、2人とその子孫に固い絆が保たれるよう御名を通して誓っていたからです。この誓いのため、これからヨナタンがダビデを裏切る可能性はまったくありませんでした。ですから、ヨナタンは自分のことで心配しないよう『安心して行きなさい。』と言ったわけです。このようにして、2人は別れ異なる場所へ向かいます。もし可能であれば共に帰りたかっただろうことは間違いありません。

【21:1】
『ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」』
 ダビデは祭司の町であるノブに行き、祭司アヒメレクのもとを訪ねます。これはダビデがひもじかったからです。祭司の町であれば飢えた者に食べる物を与えてくれるでしょう。今でも困窮した人が教会に助けを求めて来ることは珍しくありません。しかし、アヒメレクは、ゴリアテを倒したほどの勇士がたった一人で来たため、恐れを抱きます。これは無理もなかったでしょう。ダビデほどの英雄がお供を連れないで来るというのは、ダビデという存在を考えるならば、いくらか不自然な感じがしたからです。これは知事がいきなり一人だけでやって来るようなものです。知事から訪問された人の脳内は「???」という精神状態となり困惑するに違いありません。

【21:2】
『ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない。』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。』
 ダビデは、もしアヒメレクに事情を知られたら良くないと思いました。もし事情を知られたらサウルに伝えられる恐れがあったからです。そうなればダビデは捕まえられ殺されることにもなります。祭司が全てサムエルのように反サウルであるかどうかは分かりません。ですから、ダビデは真の事情について隠しておくこととしました。ダビデは事情が事情なので、アヒメレクに2つの嘘をつきます。それは、ダビデがサウルに遣わされて来たということ、および若い者たちを他の場所に置いて来たということです。この嘘について聖書は何も評価していません。ダビデがもしここで嘘をつかなければ、自殺するのも同然だったうえ、自分に良くしてくれたヨナタンを裏切る結果となってしまいます。ですから、この時の嘘は、ラハブの場合と同様、罪にならない嘘だったはずです。

【21:3~6】
『ところで、今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい。」祭司はダビデに答えて言った。「普通のパンは手もとにありません。ですが、もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります。」ダビデは祭司に言った。「確かにこれまでのように、私が出かけて以来、私たちは女を遠ざけています。それで若い者たちは汚れていません。普通の旅でもそうですから、ましてきょうは確かに汚れていません。」そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、主の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。』
 ダビデはひもじかったので祭司に『五つのパン』か他の何か食べる食物を求めます。この時に求められたパンが『五つ』だったのは、特に象徴的な意味を持たないはずです。これは単に十分なだけ食べれる分量を求めただけなのでしょう。今でも教会には困った人がこのように食物を求めて来るものです。ところが、この時、祭司には平時に食べる俗用のパンが何もありませんでした。もしあれば祭司はダビデに与えていたでしょう。しかし、神に捧げられた供えのパンであればありました。これは神のパンですから普通であれば食べることができません。それでも祭司はダビデが汚れていなければ与えても構わないと言います。確かに聖なるパンを困った人が食べるため与えるのは許されました。何故なら、人間が律法のために造られたのではなく、人間のために律法が定められたのだからです。律法の本質は愛にあります。ですから、律法を守ることで人が死ぬのであれば本末転倒になってしまいます。しかしながら、もしダビデが汚れていればそのパンを与えることは出来ませんでした。もし汚れた者が聖なるパンを食べるならば冒瀆となるからです。その場合、飢え死にする原因は律法になく、汚れを持つその人自身にあります。キリストも福音書の中で、ダビデが聖なるパンを食べることについて問題としておられません。律法の文字的な厳守に拘るパリサイ人であれば、ここでのアヒメレクとダビデを非難したでしょう。

【21:7】
『―その日、そこにはサウルのしもべのひとりが主の前に引き止められていた。その名はドエグといって、エドム人であり、サウルの牧者たちの中のつわものであった。―』
 ダビデがノブに来た日、サウルの僕であった強者ドエグもそこに来ていました。この日はまだ神がドエグに何もしないよう引き止めておられました。つまり、残虐な行為を何もしないようドエグは神により穏やかにさせられていました。これはまだドエグが残虐行為をする時となっていなかったからです。しかし、これからダビデがノブを離れると、ドエグによる残虐行為の時がやってきます。

【21:8~9】
『ダビデはアヒメレクに言った。「ここに、あなたの手もとに、槍か、剣はありませんんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまり急だったので。」祭司は言った。「あなたがエラの谷で打ち殺したペリシテ人ゴリヤテの剣が、ご覧なさい、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それは何よりです。私に下さい。」』
 ダビデはサウルに命を狙われているのですから、どうしても武器が必要でした。サウルがダビデを殺すため兵士を動員するのは明らかだからです。ダビデは急いでいたので武器を持って来ていませんでした。そこでダビデは嘘を言って、アヒメレクから武器を得ようとします。ダビデが神の守りを信じていたのは間違いなかったものの、それでもダビデは自己防衛のため武器を得ようとしました。これは神の働きかけがあるにしても、人間が為すべき振る舞いや努力を怠っていいということにはならないためです。アヒメレクは『ゴリヤテの剣』ならばあると言ったので、ダビデはその剣を持って行きます。祭司たちは戦いませんでしたから、祭司の町にある武器はこれだけしかありませんでした。これは戦いのために置いてあったというのでなく、ダビデが奉献したか記念のため置かれていただけに過ぎなかったはずです。「ゴリヤテの持っていた剣であれば大き過ぎてダビデには合わなかったのではないか。」と思う人もいるかもしれません。ここでダビデはこの剣を使おうとしていますから、ゴリヤテが持っていた剣は普通のサイズだったか、やや大きめのサイズだったのでしょう。使えないほどの剣であるのに持って行こうとしたほどダビデが愚かだったとは思えません。もしダビデがゴリヤテを倒していなければ、この時に剣を得ることは出来なかったはずです。ですから、この時、ダビデにはゴリヤテを倒した益があったことになります。もっとも、もしダビデがゴリヤテを倒していなければ、そもそもサウルから逃げなければならなくなる必要も生じなかったでしょうが。

【21:10】
『ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。』
 ダビデがこのままノブに居続ければ、やがてサウルに捕えられるのは明らかでした。ダビデはイスラエルの領地にいればどこでも危険があります。ですから、ダビデは『ガテの王アキシュのところへ』行きました。そこであればサウルの手が及ばないからです。この『ガテ』はペリシテ人の地にある場所です。

【21:11】
『するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」』
 ゴリヤテを打ち倒したダビデの名声は周辺諸国に鳴り響いており、ガテの地も例外ではありませんでした。ガテ人たちは、女たちが意図せずサウルを貶めてしまったあの歌についても知らされていました。「あのダビデが何をしに来たというのか。」「ダビデであれば私たちを打ち倒すかもしれない。」このようにガテ人が感じたのは間違いありません。ですから、アキシュの家来たちは、ダビデが来たことについてアキシュに報告します。ちょうどウイルスが侵入して来た時でもあるかのように。ここでガテ人はダビデをイスラエルの『王』として認識しています。この時に実際のイスラエル王だったのはサウルであり、ダビデは法的に王だっただけでした。事実、この時はまだダビデを王とする体制がイスラエルに出来上がっていませんでした。それなのに、どうしてガテ人はダビデを王だと言ったのでしょうか。これはイスラエルの民衆が、ダビデをサウルよりも上に位置付けていたからなのでしょう。というのも、最も上位に位置する者こそ王として相応しいからです。ダビデがサウルより上だと聞いたのであれば、ダビデを王だと考えたとしてもごく自然なことでした。

【21:12~15】
『ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。それでダビデは彼らの前で気違いを装い、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気違いだ。なぜ、私のところに連れて来たのか。私が気違いでもほしいというのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来たのか。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」』
 家来たちがダビデのことでアキシュに話したので、ダビデは非常に恐れます。アキシュに殺されでもしないかと思ったのでしょう。ダビデがアキシュにリクルートされるのを恐れたということはありません。何故なら、後ほどダビデはアキシュに僕として仕えるからです。ダビデは恐れのため、狂人になりきり、死の危険を何とか免れました。神に召されたダビデほどの聖徒が、このように無様な振る舞いをすることは許されるのでしょうか。聖書はこの振る舞いにおける善悪を何も評価していません。もしダビデが狂人を装わなければ、神の召しとヨナタンとの友情を全う出来なくなりますから、この振る舞いは恐らく罪でなかったと思われます。

 このダビデを見ても分かる通り、ユダヤ人は振る舞うことが非常に得意です。今でもユダヤ人は移住した国の民族と全く同じようになりきることができます。これは振る舞うことが最善の歩みに繋がるということを知っているからです。これはアシュケナージ系のユダヤ人も同じことです。ハザール人もユダヤ人と同じで振る舞うことの得意な民族でした。

【22:1~2】
『ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。彼の兄弟たちや、彼の父の家のみなの者が、これを聞いて、そのダビデのところに下って来た。また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。』
 ダビデはアキシュ王からも逃れます。彼が逃げられたのは神の御恵みによりました。ダビデは逃げて後、ガテから20~30kmほど東に離れた『アドラムのほら穴に避難し』ました。この苦難も、やはりキリストの苦難を前もって予表しています。ダビデにはキリストを指し示す役割があったので、どうしてもこのような苦しみを味わわなければいけませんでした。

 ダビデがアドラムに隠れていると知れ渡ってから、ダビデの家族および問題や怒りを抱いた者たちが集まって来たので、ダビデは彼らのリーダーとなります。これはダビデがこれから実際に王になる原型として捉えたらいいでしょう。この時に集まった『四百』(人)という数字は何も象徴的な意味を持っていないはずです。この出来事でも、やはりダビデにおいてキリストが示されています。キリストの御許にも多くの者たちが集まり、キリストから指導されたり教えられたりしたからです。福音書に書かれている通りです。

【22:3~4】
『ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどんなことをされるかわかるまで、どうか、私の父と母とを出て来させ、あなたがたといっしょにおらせてください。」こうしてダビデが両親をモアブの王の前に連れて来たので、両親は、ダビデが要害にいる間、王のもとに住んだ。』
 ダビデは、自分の両親を『モアブのミツパ』にいる『モアブの王』のもとへ連れて行き、神の御心が分かるまで預かってほしいと求めます。このミツパはヨルダン川を東に越えた場所にあり、ダビデの隠れ場所があったアドラムから非常に遠く離れています。ダビデはどうして、わざわざモアブの王に父と母を預けたのでしょうか。理由は2つ考えられます。一つ目は、両親をサウルの危険から遠ざけるためです。モアブの王に保護されるのであれば両親はかなり安全となるでしょう。つまり親孝行です。この場合、ダビデは『あなたの父と母を敬え。』という戒めを守っていたことになります。二つ目は、ダビデの尊厳がリーダーとして相応しく保たれるためです。400人の上に立つリーダーであるというのに、両親からあれやこれやと指示・評価されていたとすれば、リーダーとしての尊厳に関わりかねません。母について言えば、マリヤはキリストに対してでさえ色々と言ったぐらいなのです。母は子どもに何か言わずにいられないのです。このどちらの理由でもあった可能性もないわけではありません。神はモアブの王がダビデの求めを受け入れるように働きかけられました。これはダビデとその父母に対する神の御恵みでした。

【22:5】
『そのころ、預言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」そこでダビデは出て、ハレテの森へ行った。』
 ダビデが要害にどれだけいたかは分かりません。ある時になると、預言者ガドが要害からユダの地に帰るよう命じます。預言者とは神の言葉を伝令する者ですから、神がこの預言者を通してダビデに命じられたのです。ダビデがアドラムの要害にずっといれば、サウルに捕えられる危険が増すばかりでした。その要害はいつか必ずサウルに知られるでしょうし、知られたらサウルが何も行動しないということはありえないからです。ダビデはガドの言う通りに要害から離れ、『ハレテの森へ行った』のですが、森を選んだのは可能な限りサウルから見つからないようにするためだったのでしょう。この預言者の名前は『ガド』ですが、これは族長ガドから命名されたはずです。また彼はガド族だったでしょう。この箇所では『預言者』と書かれていますが、この時代において預言者はまだ『予見者』(Ⅰサムエル9章9節)と呼ばれていたことを忘れるべきではありません。

【22:6~8】
『サウルは、ダビデおよび彼とともにいる者たちが見つかった、ということを聞いた。そのとき、サウルはギブアにある高台の柳の木の下で、槍を手にしてすわっていた。彼の家来たちはみな、彼のそばに立っていた。サウルは、そばに立っている家来たちに言った。「聞け。ベニヤミン人。エッサイの子が、おまえたち全部に畑やぶどう畑をくれ、おまえたち全部を千人隊の長、百人隊の長にするであろうか。それなのに、おまえたちはみな、私に謀反を企てている。きょうのように、息子がエッサイの子と契約を結んだことも私の耳に入れず、息子が私のあのしもべを私に、はむかわせるようにしたことも、私の耳に入れず、だれも私のことを思って心を痛めない。」』
 隠れているままの事柄はないので、やはりダビデの居場所がサウルに知られてしまいます。恐らく、あの400人の中に偵察者がいたか、サウルの家来が情報としてダビデの居場所を知ったのでしょう。現われないままでいることはないものなのです。

 神がダビデの時代を起こそうとしておられたので、サウルの体制は緩やかに歪み始めていました。家来たちがダビデの事柄でサウルに告げなくなっていたのです。というのも、サウルが悪くダビデは正しい、というのは誰の目にも明らかだったからです。体制がおかしくなる際は、曖昧としているものの何となく感覚で分かるものです。カエサルの時代も正にそうでした。当時のローマ人たちは、もしカエサルがそのまま独裁官で居続けたならばローマはこれからどうなるのだろうか、と感じていました。そしたら本当に大変な出来事が起きました。サウルの体制が揺らぎ始めていたのもこのようでした。サウルは家来たちが自分に積極的でなくなったので、心に持っていた不満をぶちまけます。サウルが不満がったのは自然でした。しかし、サウルが不満がる状況となったのは、そもそもサウル自身にその原因がありました。サウルは悲劇的な状況を自らの手で招いたのです。7節目で、サウルは自分のほうがダビデより優っていると家来たちにアピールしています。サウルがベニヤミン人に『聞け。』と言ったのは、サウルと同族のベニヤミン人に優遇しようと誘っているのです。

【22:9~10】
『すると、サウルの家来のそばに立っていたエドム人ドエグが答えて言った。「私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。アヒメレクは彼のために主に伺って、彼に食料を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。」』
 先の箇所でも出て来た『ドエグ』は、正しい者ヤコブに敵対したエサウの子孫であるエドム民族でした。血の性質は変わることがありません。ですからドエグは、エサウが正しい者ヤコブを殺そうとしたのと同様、正しい者であったダビデとアヒメレクのことでサウルに告げて死ぬように働きかけました。ドエグは、ノブで見たダビデとアヒメレクのやり取りをサウルに告げ知らせます。これはダビデとアヒメレクを殺すのも同然でした。何故なら、ドエグの報告を聞いたサウルが、この2人を殺そうとするのは目に見えていたからです。ドエグは、他者のことより自分のことしか考えていませんでした。何故なら、ドエグはサウルから良く思われるためダビデとアヒメレクが不幸になると分かっていながら、この2人のことをサウルに暴露したのだからです。正にエサウそっくりです。

【22:11~13】
『そこで王は人をやって、祭司アヒトブの子アヒメレクと、彼の父の家の者全部、すなわち、ノブにいる祭司たちを呼び寄せたので、彼らはみな、王のところに来た。サウルは言った。「聞け。アヒトブの息子。」彼は答えた。「はい、王さま。ここにおります。」サウルは彼に言った。「おまえとエッサイの子は、なぜ私に謀反を企てるのか。おまえは彼にパンと剣を与え、彼がきょうあるように、私に、はむかうために彼のため神に伺ったりしている。」』
 ドエグの報告を聞いたサウルは、ノブからアヒメレクとその関連者を全て呼び寄せ、どうしてダビデに味方したのかと尋問します。ヨナタンの宣告により、サウルはもう王権がダビデに移されることを知っていました(Ⅰサムエル15:28)。しかし、それはサウルに耐え難いことでしたから、可能であればそれを阻止したかったのです。このため、サウルはダビデが殺されないよう逃がしたアヒメレクを断罪したわけです。しかし、悪いのはサウルでありアヒメレクとダビデに悪い点はありませんでした。

【22:14~15】
『アヒメレクは王に答えて言った。「あなたの家来のうち、ダビデほど忠実な者が、ほかにだれかいるでしょうか。ダビデは王の婿であり、あなたの護衛の長であり、あなたの家では尊敬されているではありませんか。私が彼のために神に伺うのは、きょうに始まったことでしょうか。決して、決して。王さま。私や、私の父の家の者全部に汚名を着せないでください。しもべは、この事件については、いっさい知らないのですから。」』
 サウルの不当な尋問に対し、アヒメレクは正当な弁明で応じます。アヒメレクが言っている通り、ダビデは忠実で正しい者でした。ダビデには殺されるべき罪などなく、家来たちからも大いに敬われていました。このダビデのことで神に伺うのは、アヒメレクがこれまで普通にしてきたことでした(15節)。しかも、アヒメレクはダビデの事件について全く知りませんでした。このため、アヒメレクは汚名を着せないでくれとサウルに求めます。この求めは全く正しい求めでした。もし正しい裁判が行なわれたならば、サウルは間違いなくアヒメレクに対し敗訴するでしょう。

【22:16~17】
『しかし王は言った。「アヒメレク。おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全部もだ。」それから、王はそばに立っていた近衛兵たちに言った。「近寄って、主の祭司たちを殺せ。彼らはダビデにくみし、彼が逃げているのを知りながら、それを私の耳に入れなかったからだ。」しかし王の家来たちは、主の祭司たちに手を出して撃ちかかろうとはしなかった。』
 古代において王の命令は絶対的でした。ソロモンはこう言っています。『王は自分の望むままを何でもするから。』(伝道者の書8章3節)立憲君主制の概念がまだ確立していなかった古代において、王は法そのものでした。ですから、王であったサウルはアヒメレクに容赦なく死刑を下します。アヒメレクの罪状は何だったのでしょうか。それはサウルの狂気です。その狂気は神に喜ばれる正しい心の状態だったのでしょうか。とんでもないことです。では、サウルが狂気に陥るのは良くなかったのでしょうか。勿論、その通りです。つまり、サウルの餌食としてアヒメレクが死刑になったのは不当だったということなのでしょうか。正にその通りです。これはヒトラーがユダヤ人やロマや障害者を不当に虐殺したのと似ています。またサウルはアヒメレクだけでなく、アヒメレク以外の祭司たちにも死刑を命じます。つまり「連座」です。サウルは、アヒメレクの悪(もちろんサウルにとっての悪ですが)を、他の祭司たちにも負わせました。何故なら、他の祭司たちもダビデのことをサウルに伝えなかった点で一緒だからです。

 狂気のサウルは、その場にいた祭司たちを皆殺しにせよと命じますが、近衛兵たちはサウルの命令に応じようとしません。サウルの家来たちは、主の使いである祭司たち、しかも神が共におられるだけでなく民からも敬われているダビデを逃がした祭司たちに、決して手を下せませんでした。そんなことをすれば神から裁かれるのは目に見えていたからです。これは今の日本で言えば、天皇の命が守られるようにした勇気ある徳人を殺すようなものです。まともな日本人であれば決してこんなことなどしないでしょう。ですから、この例えにより、私たち日本人も近衛兵たちがこの時にどのような気持ちだったか幾らかでも分かるはずです。

 『近衛兵』とは王の傍にいて王を守る最強の精鋭です。この近衛兵に王の命がかかっています。近衛兵は王の腕であるといっていいでしょう。この近衛兵がサウルの命令に従おうとしませんでした。近衛兵でさえこうであれば、普通に考えて、他のユダヤ人は尚のことサウルに従おうとしなかったはずです。これはサウルの支配体制が崩れ始めていたことをよく示しています。実際、これから間もなくイスラエルはダビデを王とする体制に入ります。人々が従わなくなったら、その体制は没落に近いのです。何故なら、人々が服従するからこそ、その支配体制は保たれるのだからです。ですから、人々の服従は支配体制がどれほど堅固であるか示すバロメーターだと考えて間違いありません。

【22:18~19】
『それで王はドエグに言った。「おまえが近寄って祭司たちに撃ちかかかれ。」そこでエドム人ドエグが近寄って、祭司たちに撃ちかかった。その日、彼は八十五人を殺した。それぞれ亜麻布のエポデを着ていた人であった。彼は祭司の町ノブを、男も女も、子どもも乳飲み子までも、剣の刃で打った。牛もろばも羊も、剣の刃で打った。』
 ドエグは、ヤコブを殺そうとしたエサウの子孫でしたから、ヤコブの子孫である祭司たちを容易く殺せる人間でした。ですから、サウルがドエグに命じると、ドエグは祭司たちを虐殺し、その祭司たちが住んでいた『町ノブ』を滅ぼしてしまいました。もしドエグがいなければ、サウルは恐らく自分で虐殺を行なっていたかもしれません。殺された祭司の数が「85」(人)だったのは、特に象徴的な意味を持っていないはずです。これはノブに85人の祭司がいたこと、またドエグの殺した祭司の数が非常に多かったこと、この2つを示しているだけでしょう。

 一見すると、この事件は不条理であると思われます。正しい者ダビデを逃がした祭司たちが、正しいことをしたからというので虐殺されたからです。これほど理に適わないことがあるでしょうか。しかし、よく考えると、これは不条理でなかったことが分かります。というのも、エリとその息子たちがかつて罪を犯していたからです。この親子は裁かれるべき大きな罪を犯しました。神は、その罪に対し、やがて裁きを与えると宣告しておられました(Ⅰサムエル2:31~33)。この裁きがこの時に下されたわけです。ですから、この事件は起こるべくして起きたことが分かります。もしエリとその息子が罪を犯さなければ、このような事件も起こらなかったでしょう。『いわれのない呪いはやって来ない。』と聖書が教えている通りです。しかし、だからといってサウルとドエグの行為が正当化されるわけではありません。この2人は悪いことを行ないました。神はその悪を御自分が行なわれる裁きのために用いられたのです。これは第一次ユダヤ戦争でも同じです。あの時にローマ人がユダヤ人の大半を虐殺したのは悪でした。ところが、神はローマ人の悪をユダヤ人が裁かれるために用いられたのでした。

【22:20~23】
『ところが、アヒトブの子アヒメレクの息子のエブヤタルという名の人が、ひとりのがれてダビデのところに逃げて来た。エブヤタルはダビデに、サウルが主の祭司たちを虐殺したことを告げた。ダビデはエブヤタルに言った。「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、あれがきっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全部の死を引き起こしたのだ。私といっしょにいなさい。恐れることはない。私のいのちをねらう者は、あなたのいのちを狙う。しかし私といっしょにいれば、あなたは安全だ。」』
 どのような虐殺でも、文字通り完全虐殺が実現されることは珍しいものです。必ず、虐殺の中にあって生き延びる者がいます。これは虐殺する者たちの能力が完全でなく、虐殺される者たちは逃げることに全ての力を使うからです。このため、いつも虐殺の際は、数匹の魚が網にかからず逃げてしまう漁のようになるのです。この時もやはりそうであり、アヒメレクの息子エブヤタルが殺されず逃げて生き残りました。神が彼を虐殺から逃れさせたのです。それは彼が起きた出来事をダビデに報告するためでした。神はダビデに配慮しておられたので、エブヤタルを生き残して報告するようにされたのです。ダビデはドエグがノブでのやり取りをサウルに報告すると予測していましたが、その通りとなりました。またダビデは自分のせいで祭司たちが虐殺されたと言っていますが、これは確かにそうでした。もしダビデがノブに行かなければ虐殺も起こらなかっただろうからです。ダビデはエブヤタルが自分と共にいれば安全であるといいます。何故なら、神が共におられるダビデと共にいるのであれば、ダビデと共にエブヤタルも守られるはずだからです。しかし、エブヤタルがダビデと共にいなければ、サウルに捕まえられ殺されていたでしょう。ダビデに味方した祭司の子どもをサウルが生かしておくというのは考えられないことだからです。