【Ⅰサムエル記23:1~24:13】(2022/11/13)


【23:1~2】
『その後、ダビデに次のような知らせがあった。「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています。」そこでダビデは主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」』
 サウル治世の時代にはペリシテ人との戦いがありましたので(Ⅰサムエル14:52)、またペリシテ人がユダヤの地に攻めて来ました。今度は『ケイラ』を略奪しに来ましたが、ここはダビデが避難した『アドラムのほら穴』(Ⅰサムエル22章1節)から10kmほど南に離れています。ペリシテ人は西から攻めて来たと思われます。このような侵攻が起きたのは、サウルの罪をイスラエル国が負っていたからです。律法は、もし罪があれば敵に悩まされると宣告しているからです。神は敵を自分の民に対する懲らしめとして用いられるのです。ダビデは神を求める人でしたから、ペリシテ人の討伐が御心であるかどうか主に伺いを立てます。すると御心だと分かりました。つまりダビデにとって、ペリシテ人を討伐しに行くことが善であり、行かないのは罪でした。

 ダビデがこのように神の御心を求めたのは正しいことでした。何故なら、ダビデは自分の意思より神の御心を重視し優先させようとしていたからです。これこそ聖徒のあるべき姿です。何故なら、聖徒とは御心を行なう存在だからです。それゆえ、私たちも神に伺いを立てるべきです。そうしたら神の御心が必ず示されるでしょう。それから御心を実行するのです。もし伺いを立てず、神の御心よりも自分の意志を優先させるのであれば、世の人とあまり変わらなくなります。

【23:3】
『しかし、ダビデの部下は彼に言った。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ、恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」』
 ダビデがペリシテ人を討伐しに行こうとすると、彼の部下が不安を口にします。ユダの地にいる今でさえ不安なのに、これから戦いに行くというのは難しいのではないか、と言うのです。普通に考えれば確かにこの部下の発言内容は自然だったかもしれません。しかし、ダビデたちは自分たちがどう思うのかではなく、御心にこそ従って歩むべきでした。この出来事からも分かりますが、神の御心に従おうとすると、往々にして何らかの妨げが入るものです。これはサタンが何とかして私たちを神に背かせようとするからです。また、それは神が聖徒たちの神信仰を試すためでもあります。つまり、神はサタンを用いて聖徒たちが堅固な信仰のうちにあるかどうか確かめようとされるのです。キリストにもこのような妨げがありました(マタイ16:21~23)。しかし、主は『下がれ。サタン。』と言われ、その妨げを塵を吹き飛ばすようにして退けてしまわれたのです。

【23:4~5】
『ダビデはもう一度、主に伺った。すると主は答えて言われた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を連れ去り、ペリシテ人を打って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。』
 ダビデが再び神に伺うと、ペリシテ人の討伐が本当に御心であると分かります。主はダビデに『わたしがペリシテ人をあなたの手に渡す』と約束されました。つまり、ダビデは必ずペリシテ人に勝利できるということです。実際、ダビデたちが攻めたところ、ダビデたちはペリシテ人に打ち勝ちました。これは神がダビデと共におられたからです。神が共におられるならば勝てないということは決してありません。私たちも御心が示されたならば、その通りに行なうべきです。それが御心であればダビデのように必ず勝利と成功を得られるからです。しかし御心でなければ敗北と失敗が生じることでしょう。

【23:6】
『アヒメレクの子エブヤタルがケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、彼はエポデを携えていた。』
 エブヤタルが『エポデを携えていた』のは、彼が正式な祭司だったからです。というのもエポデとは祭司が身に着ける祭司専用の装着用具だったからです。つまり、エブヤタルは祭司でなかったものの、それが非常に大事だからというので、父や他の祭司たちが持つエポデを失わせないよう持って逃げて来た、というわけではありませんでした。

【23:7~8】
『一方、ダビデがケイラに行ったことがサウルに知らされると、サウルは、「神は彼を私の手に渡された。ダビデはとびらとかんぬきのある町にはいって、自分自身を閉じ込めてしまったからだ。」と言った。そこでサウルは民をみな呼び集め、ケイラへ下って行き、ダビデとその部下を攻めて封じ込めようとした。』
 サウルは、ダビデがケイラに行ったので、神からダビデが自分に渡されたと感じます。というのもケイラという町には『とびらとかんぬき』があったからです。サウルの権力をもってすれば、ケイラにダビデを閉じ込め捕えることなど容易いことだったでしょう。ですから、サウルがダビデに対する勝利を予感したのは自然なことでした。しかし、神がダビデをサウルに渡されたと感じたのは全く間違いでした。これはサウルが勝手にこう思い込んでいただけです。この時にサウルが『神は彼を私の手に渡された。』と言ったのには驚かされます。何故なら、サウルは既に神から見捨てられている状態であるのにもかかわらず、あたかもまだ神が味方しておられるかのように言っているからです。いつの時代でも、神から見捨てられているのに、神が自分と共におられるかのような発言をしたりそのように思う人は珍しくありません。例えば、今や反キリストとなっているユダヤ教徒は、神の御子を否認しているにもかかわらず、自分たちこそ神に贖われた唯一の民だと思い込んで疑うことをしません。異端者たちであるエホバの証人も、自分たちが天国に入れると堅く思い続けています。東方正教会の教会員も、神が自分たちを嘉せられていると勘違いし続けています。カトリックも16世紀から今に至るまでずっと自分たちこそ真理の番人であると思い込んでいます。アウグスティヌスの時代でも、正統派に敵対していたドナトゥス派の信徒は、自分たちにだけ真なる教会があると誤って確信し続けていました。「神が共におられる。」と思って間違っていないのは、ただプロテスタントだけです。これが真実であることは、これまでプロテスタントの文化圏がどれだけ祝福され繁栄して来たのか示せば十分でしょう。プロテスタントのキリスト者が大半を占める国で、栄えていない国、先進国でない国は一つもありません。プロテスタントの国であるアメリカも同様であり、アメリカは世界最強国としての地位を今でも保っています。神がアメリカを喜ばれたのでなければ一体どうしてアメリカはここまで強大になれたでしょうか。それゆえ、プロテスタント以外で「神が我々と共におられるのだ。」などとサウルのような発言がされるのを聞いたならば、私たちはその発言が真実でないと分かります。もしその発言が真実であれば、その発言者は正しい信仰を持っていたでしょうから。

【23:9~11】
『ダビデはサウルが自分に害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」そしてダビデは言った。「イスラエルの神、主よ。あなたのしもべは、サウルがケイラに来て、私のことで、この町を破壊しようとしていることを確かに聞きました。ケイラの者たちは私を彼の手に引き渡すでしょうか。サウルは、あなたのしもべが聞いたとおり下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ。どうか、あなたのしもべにお告げください。」主は仰せられた。「彼は下って来る。」』
 ダビデはエブヤタルにエポデを持って来させますが、これはエポデをもって神に伺うためです。この時代のユダヤ人は、エポデにより伺いを立てていました。それは古代ユダヤ人がまだ霊的に幼く未熟だったためです。そのような彼らにはエポデをはじめとした象徴的な補助手段が必要だったのです。今の聖徒たちはもう霊的に大人であり成熟しています。よって、私たちはこのような祭儀用具により伺いを立てる必要がありません。今でもロザリオを用いて祈っているカトリックは、他の面でもそうなのですが、何も分かっておらず、未だに幼児期にあった古代の聖徒たちでもあるかのようです。祈る際にロザリオは必要ありません。なお、サウルも祭司にエポデを持って来させていました(Ⅰサムエル14:18)。このことからも、ロザリオを持って来させるのは古代において普通のことだったと分かります。

 ダビデは、サウルがケイラに襲撃しようとしている知らせを聞きました。しかし、主の御心でなければ何一つ起こりはしません。ですから、ダビデは本当にサウルが襲って来るのか神に伺いを立てます。すると神はサウルが襲撃に来ると答えられました。これでサウルがダビデを捕えにやって来ることは決定しました。何故なら、神は決して偽ることも誤ることもない御方だからです。

【23:12】
『ダビデは言った。「ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。」主は仰せられた。「彼らは引き渡す。」』
 ダビデがケイラの人々は自分たちをサウルに引き渡すかと伺うと、神はそうだと答えられます。神はケイラの人々の心をよく知っておられました。ケイラ人は、サウルを怒らせるもののダビデを死なせないということより、ダビデの犠牲により自分たちがサウルから怒られないということを優先する人たちでした。もし彼らがサムエルやヨナタンのようだったとすれば、決してダビデを引き渡そうとはしなかったでしょう。

【23:13~14】
『そこでダビデとその部下およそ六百人はすぐに、ケイラから出て行き、そこここと、さまよった。ダビデがケイラからのがれたことがサウルに告げられると、サウルは討伐をやめた。ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。』
 ダビデはケイラにいれば危険だと分かったので、『すぐに』ケイラから去って逃げます。神がダビデをケイラから去らせて下さいました。こうしてサウルはダビデをケイラで捕えることが出来なくなります。こうなったのは、神がサウルを嫌われ、ダビデを好んでおられたからです。そしてダビデは『そこここと』動き回ることになります。キリストも敵から遠ざかり御自分をよく隠されました。ダビデは、このキリストを自分自身で前もって示さなければいけませんでした。

 ダビデがアドラムにいた時には『約四百人』(Ⅰサムエル22章2節)だった仲間たちが、ここまでの短期間で200人も増えて『およそ六百人』となりました。この増加分は、ダビデがケイラを救った際、ダビデのため服従するようになったケイラ人だったのでしょう(Ⅰサムエル23:5)。このように考える以外はないはずです。このことからも分かる通り、神はダビデの時代に流れを進めておられました。ダビデは段々と多くの人を支配することで、上に立つことをよく学んでいったでしょう。このように神は御自分の僕を植物のようにゆっくり成長させられます。しかし、サウルのような者は徐々に枯れて衰えさせられます。神の恵みという養分が徐々に注がれなくなるからです。

 こうしてダビデは逃げ回る歩みをするようになりました。ダビデは同じ場所にずっと留まっていませんでした。それはサウルに捕まらないためです。もしずっと同じ場所にいれば、サウルに捕えられやすくなります。虫を捕る際も、虫がじっとしていれば容易く捕まえられるのに対し、動き回っていれば捕まえにくくなるものです。神は決して逃げ回るダビデをサウルに渡されませんでしたが、これは神が共におられたからです。一方、サウルには神が共におられませんでしたから、ダビデを捕まえることは決して出来ませんでした。

【23:15】
『ダビデは、サウルが自分のいのちをねらって出て来たので恐れていた。』
 ダビデはサウルのことで大いに恐れ戦いていました。サウルが何とかしてダビデを殺そうとしているからです。ダビデは相手が相手だけに反撃したり手を出したりできませんでした。ダビデが何を言ってもサウルの殺意が消えることはありませんでした。またサウルは多くの兵士たちを従わせています。ですから、ダビデがサウルを恐れたのは自然なことでした。勿論、ダビデが神の助けと守りを忘れているのではありませんでした。詩篇を見ても分かる通り、ダビデは神に信頼していました。しかし、それにもかかわらずダビデはサウルに恐れを抱いたのです。これは、つまり霊においては神を求め、肉においてはサウルを恐れた、ということです。ダビデは霊において神を求め信頼していましたから、肉においてサウルを恐れていても、完全に絶望することはありませんでした。もしダビデがただ肉でサウルを恐れるだけならば、ダビデはサウルに降伏したり生存を諦めて自殺していた可能性もあります。

【23:15~18】
『そのときダビデはジフの荒野のホレシュにいた。サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。彼はダビデに言った。「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」こうして、ふたりは主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家へ帰った。』
 ダビデは『ジフの荒野のホレシュにいた』のですが、ここはケイラから20~30kmほど南東に離れています。ダビデがジフにまで逃げたのは多くの仲間たちと一緒にでした。

 ダビデがジフにいると、ヨナタンがそこまで来てダビデを励まします。サウルに不満がられると分かっていながらヨナタンが来たのは、ダビデに対する友情が本物だったことを示します。命をさえ惜しまないところに真の友情があるというのを誰が疑うでしょうか。もし命を惜しんだとすれば、そこに真の友情はなく、あるのは偽りの友情もしくは弱い友情なのです。ヨナタンはダビデが決してサウルの手に陥らないと言って励まします。何故なら、神がダビデと共におられたのは明らかだったからです。またヨナタンはこれからダビデがイスラエル王になるとも言っています。こういった事柄は、「空気」と言えばいいでしょうか、感覚で何となく分かるものなのです。しかも、その感覚は当たることが多いのです。このように言われたダビデはどれだけ励まされたでしょうか。ダビデが多かれ少なかれ安心したのは間違いありません。

 こうして2人は再び契約を互いに結びますが、これで契約が結ばれたのは3度目です。これは2人が本当に堅固な契約を結んだことを意味します。何故なら、聖書において3度の繰り返しは確認の意味を持つからです。ですから、3回も契約を結んだからといって無意味な繰り返しではありませんでした。それから2人は離れ、再びそれぞれ別の道を歩むようになります。この時も共に帰れたとすればどれだけ2人は喜べたことでしょうか。

【23:19~20】
『さて、ジフ人たちがギブアのサウルのところに上って来て言った。「ダビデは私たちのところに隠れているではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。王さま。今、あなたが下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちは彼を王の手に渡します。」』
 ダビデが隠れていたジフの人々は、サウルにダビデの隠れ場所を告げ知らせました。彼らも、ダビデの命よりサウルに喜ばれることを優先する人たちだったのです。このように正しい者には敵が多くいます。ですから、詩篇では「正しい者には心の悩みが多い。」と言われているのです。ルターもやはりそのようでした。ルターにはカトリックという多くのサウルたちがいたのです。

【23:21~25】
『サウルは言った。「主の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ。さあ、行って、もっと確かめてくれ。彼がよく足を運ぶ場所と、だれがそこで彼を見たかを、よく調べてくれ。彼は非常に悪賢いの評判だから。彼が潜んでいる隠れ場所をみな、よく調べて、確かな知らせを持って、ここに戻って来てくれ。そのとき、私はあなたがたといっしょに行こう。彼がこの地方にいるなら、ユダのすべての分団のうちから彼を捜し出そう。」こうして彼らはサウルに先立ってジフへ行った。ダビデとその部下はエシモンの南のアラバにあるマオンの荒野にいた。サウルとその部下がダビデを捜しに出て来たとき、このことがダビデに知らされたので、彼はマオンの荒野の中で、岩のところに下り、そこにとどまった。サウルはこれを聞き、ダビデを追ってマオンの荒野に来た。』
 ジフ人の報告を聞いたサウルは、その報告を喜び、更にダビデのことを調べて知らせるよう命じます。これは何とかして確実にダビデを葬るためでした。サウルは今度こそダビデを殺せると思って期待したかもしれません。これは実に邪悪です。この時にサウルはダビデのことを『非常に悪賢い』と言いました。これは中傷でした。サウルがこう言ったのは、ジフ人たちにダビデをより悪く思わせるためです。ジフ人がダビデをより嫌悪するようになれば、それだけ熱心にダビデのことを調べ、より詳しくサウルに報告してくれるだろうからです。ダビデは『マオン』にいました。ここはジフから南に10kmほど離れています。ダビデがどこにいるかサウルに知らされると、サウルは部下を連れてダビデを捕まえに向かいます。サウルが来ていると聞かされたダビデは『岩のところ』に留まります。この岩はキリストを示していると捉えることができます。

 この時にサウルは、ダビデのことを知らせたジフ人たちに『主の祝福があなたがたにあるように。』と言っています。正しい者を不利に陥らせたジフ人が祝福されるよう願うのは、何と滑稽なことでしょうか。これはおかしいことでした。神が共におられる者を蔑ろにした者に神からの祝福を願うというのは何なのでしょうか。このように悪い者は、正しい者に悪くした者の幸せを願います。しかし、正しい者には呪いの言葉を下すのです。これは何という異常さでしょうか。私たちは悪い者がこのようにするということを忘れないようにすべきです。

【23:26~28】
『サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃げようとしていた。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕えようと迫って来ていたからである。そのとき、ひとりの使者がサウルのもとに来て告げた。「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に突入して来ました。」それでサウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人を迎え撃つために出て行った。こういうわけで、この場所は、「仕切りの岩」と呼ばれた。』
 サウルは山の一方をダビデ討伐のため進み、ダビデは別の側をサウルから逃げるため進んでいました。ダビデは正に危機一髪という状況でした。ダビデと死の距離は1mmほどしか離れていませんでした。実際、ダビデ自身が『私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。』(Ⅰサムエル20章3節)と言っています。キリストもやはりこのような状況の中を歩まれました。福音書に書かれている通り、忌まわしいパリサイ人や律法学者や長老たちから常にその命を狙われていたのです。しかし、キリストが最後に捕えられて死なれたのに対し、ダビデはそのようになりませんでした。これはダビデが単なる罪人だったのに対し、キリストは人類の贖罪を成し遂げる使命を持っておられたからです。

 ダビデは今にも殺されようとしていました。しかし、突如としてペリシテ人の襲撃について報告が入ったので、サウルはダビデの殺害を諦め、ペリシテ人を撃退するため引き返します。ダビデに拘っていたのでペリシテ人の襲撃を放っておけば、イスラエルが大変な状態となるからです。勿論、サウルとしては何としてもダビデを殺したい思いで一杯でした。しかし、少なくともこの時は、ダビデの追跡をどうして諦めねばなりませんでした。もしダビデのほうを優先させれば民から責められ憎まれるのは明らかだったからです。ダビデは非常に危険でしたが、このように助かりました。もしペリシテ人の報告がなければ、恐らくダビデは捕えられていたでしょう。しかし、神はサウルを嫌い、ダビデを生かそうとしておられました。ですから、この時にタイミング良くペリシテ人が攻めて来るよう働きかけたのです。確かなところ、ペリシテ人の襲撃はイスラエルにとって不幸・悲惨でした。しかし、その襲撃が起きたからこそ、ダビデのほうには恵みが注がれました。もしペリシテ人が襲って来なければイスラエルは平和で幸いだったでしょう。しかし、その場合、イスラエルが悲惨でなくなる代わりに、ダビデが大変な不幸を味わってしまいます。ですから、ペリシテ人が襲撃しなければ、それはダビデに対する呪いとなっていました。神は何よりダビデのことを考えておられました。だからこそ、イスラエルの不幸によりダビデを助けて下さったのです。このように神は不幸により御自分の僕を救って下さいます。悲惨により幸いを生じさせる。これは神の英知です。こういうわけで人間にとって神の御業は見極め難いのです。

【23:29】
『ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害に住んだ。』
 ダビデはマオンから去って『エン・ゲディの要害に住んだ』のですが、ここはマオンから30kmほど北東に離れており、死海の西に面しています。このように逃げ続けねばならなかったダビデは悲惨でした。しかし、彼はどうしてもこうなる必要がありました。それは、ダビデが鍛えられるため、またキリストがこのダビデにおいて示されるためです。

【24:1】
『サウルがペリシテ人討伐から帰って来たとき、ダビデが今、エン・ゲディの要害にいるということが知らされた。』
 サウルはペリシテ人の討伐を多かれ少なかれ良い結果で終わらせたと思われます。聖書はこの討伐がどのような内容だったか示していません。ただ『サウルがペリシテ人討伐から帰って来たとき』とだけ聖書では書かれています。しかし、そこまで大きな被害は起きていなかったと考えられます。もし被害が甚大であれば、聖書は恐らくそのことを記していたはずだからです。

 サウルがペリシテ人討伐から帰って来ると、またもやダビデの居場所がサウルに知らされました。無理もなかったでしょう。ダビデは1人また僅かの仲間だけと一緒にいたわけではありませんから。ダビデは数百人もの仲間を連れて逃げていました。これではサウルに居場所がばれてもおかしなことはありません。

【24:2】
『そこでサウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。』
 ダビデの居場所を知ったサウルは、『三千人の精鋭をえり抜いて』ダビデがいる場所へ向かいます。サウルが兵士たちの質も数も全く疎かにしなかったのは、彼がいかにダビデを殺したかったか良く物語っています。またここまでの戦力が召集されたのは、サウルがダビデを殺害するためには本気で臨まなければならないと考えていたからでもあります。それというのも、サウルは神がダビデと共におられるということを十分過ぎるほどよく知っていたからです。神は最強の武将であられます。ですから、サウルがここまでの戦力をダビデという1人だけのために召集したのは、別に不思議なことだったとは思えません。集められた兵士の数が「3000」(人)だったことに、何か象徴的な意味はないはずです。これは単に数が多いというだけのことでしょう。

【24:3~4】
『彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中にはいった。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。」』
 ダビデが隠れていた洞穴に、サウルが用を足すためやって来ました。これは何と驚くべきことでしょうか。この世であれば「何という偶然が起きただろうか。」と言うかもしれません。偶然にこのような出来事が起きたのではありません。神がこのような出来事を起きるようにされたのです。もし神がそうされなければ、このような出来事は起こらなかったでしょう。キリストも言われた通り、一羽の雀でさえ御心でなければ地に落ちることはないのですから。この時、ダビデとその部下はサウルに気づきましたが、サウルはダビデたちに気がつきませんでした。

 歴史や今の世界や私たちの経験からも分かる通り、このような実にタイミング良く起こる出来事が、いつでもどこでも見られます。アウグスティヌスもいつも通る道でドナトゥス派の信徒が殺そうと待ち伏せするその日に限って、うっかり何故かいつもの道に行くのを忘れて別の道に行きました。アウグスティヌスがいつもの道を間違えることなどそれまでありませんでした。このため、アウグスティヌスは殺されずに済んだのです。これは実に驚くべきことです。このような出来事がこの世界にはいつでも起こっています。神がそのような出来事を起こしておられる、ということを私たちは忘れないようにすべきです。もし神がそうされたのでなければ、そのような驚くべき出来事は起きていなかったはずです。

 ダビデにとって、この時はサウルを殺せる千載一遇のチャンスでした。ダビデがこの時にサウルを殺せる可能性は100%だったとしていいでしょう。ゴリヤテさえ殺したほどのダビデという勇士が、サウルを殺し損ねるということは考えにくいのです。もし殺し損ねるのであれば、そのようなダビデは、そもそもゴリヤテを倒すことなど出来ていなかったでしょう。このような奇跡的なタイミングの良さでサウルが現われたのは、神がダビデの手にサウルを渡されたからであると思われました。ですから、部下は一緒にいたダビデにこう言っています。『今こそ、主があなたに『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの思うようにせよ。』と言われた、その時です。』この部下はダビデがサウルを殺すよう促しているのです。

【24:4~5】
『そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。』
 この機会を捉えて、ダビデはサウルの上着の裾を切り取ります。これはサウルを殺せたのに殺さなかったことの証拠とするためです。ダビデはサウルを殺せたのに殺しませんでした。サウルはダビデがしたことに全く気付きませんでした。

 しかし、ダビデは自分がしたことを悲しみ後悔します。これは、たとえ僅かであったとしても自分の主君に対し良くないことを行なったからです。服とはその人の一部であり、その人の延長です。ですから、服を切り取るのは当人の身体を事実上切り取って害したのも等しいことです。ダビデは正しい人でしたから、サウルの身体を間接的に害したことで嘆きます。それというのも律法では権威者を尊重するよう求められているからです。主君の服を切り取るという行為が、律法の命令に沿っていないのは火を見るよりも明らかです。

【24:6~7】
『彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。』
 ダビデはサウルをどうして殺さなかったのか部下に詳しく語ります。ダビデは部下の勧めと違う行ないをしたのですから、その行ないについて説明する必要がありました。説明しなければ部下から「どうしてサウルに手を下さなかったのですか。正に神が渡された時だったではありませんか。」と言われるのは目に見えていたからです。ここでダビデが言う通り、サウルは『主に油そそがれた方』でした。実際、サウルはサムエルを通して主からの油注ぎに与かっています。つまり、サウルは神から立てられたイスラエルの正式な王でした。ダビデはそのようなサウルに手を下すことなど決して出来ませんでした。何故なら、そうするのはサウルに手を下すというより、サウルを王として立てられた神に逆らうことだったからです。ダビデは神を愛し求める聖徒でしたから、神に反逆することを意味するサウルの殺害はどうしても出来なかったのです。私たちも、ダビデに倣い、自分の前にいる権威者を害したりしてはなりません。そうするのは主の御前に大きな罪であり、裁きをその身に招くからです。自ら裁きを求めるのは利口な行為だと言えません。

 このようにダビデはサウル殺害を勧めた部下が説き伏せられるようにしました。部下たちはダビデに何も抗弁できませんでした。何故なら、ダビデが神の使いであることは明らかであり、ダビデは部下たちにとって指導者であり、これこそ最も重要なのですがダビデの説明がまともであり正しかったからです。

【24:7~8】
『サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。その後、ダビデもほら穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ。」と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。』
 サウルが洞穴から出て行くと、ダビデも出て後ろからサウルに呼びかけます。するとサウルが振り向いたので、ダビデは地にひれ伏して礼をします。相手はダビデを殺そうとしていたサウルです。しかし、ダビデはサウルから殺意を抱かれているというので礼節に違反しませんでした。というのも、サウルが殺意を抱いていようとも、ダビデの主君であることに変わりはないからです。もしダビデがその殺意ゆえサウルに対し礼節を欠いたとすれば、それはサウルを蔑ろにするだけでなく、サウルを立てられた神を蔑ろにすることにもなります。ダビデは神を敬っていましたから、そのようなことはしませんでした。

【24:9】
『そしてダビデはサウルに言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている。』と言う人のうわさを信じられるのですか。』
 ダビデがここで言っている通り、サウルには『ダビデがあなたに害を加えようとしている。』という悪くて確かでない噂が伝わっていました。ここまでの箇所でこういった噂があることについて聖書は何も示していませんでした。しかし、それは単に書かれていなかっただけであり、実際はそのような噂があったのです。サウルはこの噂により、ダビデが危険な存在だと思うようになりました。ですから、サウルは何とかしてダビデを葬ろうとしていたわけです。今に至るまで支配者は、臣下の報告や人々の噂をいとも容易く受け入れてしまう傾向が強くあります。これは支配者がその情報が本当に正しいかどうか確かめる術と余裕をほとんど持たないからです。ですから、誰かから本当らしい嘘を聞かされてまんまと騙されてしまう支配者もこれまで珍しくありませんでした。ダビデが噂で言われている通り、サウルに害を加えようとしていることはありませんでした。ダビデはただサウルにしっかり仕えようとしていただけです。「出鱈目」とは正にこのことです。サタンはダビデを何とかして死なそうと企んでいました。ですから、サタンはサウルがダビデを殺すようにするため、出鱈目な噂を人々の間に広げ、その噂がサウルの耳に入るよう働きかけたのです。神はダビデを鍛えるためサタンのこういった企みを許可されました。

【24:10~11】
『実はきょう、いましがた、主があのほら穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったのですが、私は、あなたを思って、『私の主君に手を下すまい。あの方は主に油そそがれた方だから。』と申しました。わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着のすそをよくご覧ください。私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください。私はあなたに罪を犯さなかったのに、あなたは私のいのちを取ろうとつけねらっておられます。』
 ダビデは、神が洞穴でダビデの手にサウルを引き渡されたと言っています。ですから、先ほど部下が言ったことは正しかったのです(Ⅰサムエル24:4)。確かにあの出来事はサウルがダビデの手中に陥ることでした。もしそうでなければあの出来事は何だったというのでしょうか。神がダビデにサウルを渡されたのでなければ、あのように奇跡的な出来事は起きていなかったでしょう。

 ダビデの手にはサウルが神から渡されたのですから、ダビデはサウルを殺すことも当然ながら出来ました。しかし、ダビデはサウルを殺せたのに殺しませんでした。ダビデは自分が何の悪意も持っていない証拠品としてサウルに切り取った裾を示します。これは本当にダビデがサウルを害そうとしていない明白な証拠でした。何故なら、もし悪意があればあの時にどうしてサウルを殺していなかったのか、という疑問が生じるからです。ここでダビデが言っているように、ダビデには何の咎もないのに、サウルはそのようなダビデを一方的に殺そうとしていました。ダビデは全く無罪であり、サウルは愚かでした。しかし、サウルは自分こそが正しく、ダビデはとんでもない罪人だと思い込んでいたのです。

 ダビデがここでサウルに『わが父よ。』と言っているのは、実際的な血縁関係のことではなく、敬意を示すための表現です。もしダビデが実際的な意味でサウルを父と言っていたとすれば、気が狂っていたことになります。ダビデは父のように敬うべき存在としてサウルを取り扱っているのです。ダビデがサウルの養子だったということもありません。聖書はそのようなことを示していません。しかし、ダビデにとってサウルは義父でした。このような意味で『わが父よ。』と言ったというのであれば考えられます。私たちも妻の父や母に対し「お父さん」とか「お母さん」などと言うものです。

【24:12~13】
『どうか、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。昔のことざわに、『悪は悪者から出る。』と言っているので、私はあなたを手にかけることはしません。』
 ダビデはサウルを好きなように取り扱えましたが、自分で復讐することはせず、神の裁きに全てを委ねました。これは律法に『復讐してはならない。』と書かれているからです。またダビデは神が『復讐と報いとは、わたしのもの』(申命記32章35節)と言われたのを知っていました。復讐とは神のものであり人間のものではありません。ですから、ダビデは出しゃばった真似をせず、ただ神がサウルを裁かれるに任せたのです。私たちも、ダビデのように、自分で復讐しないようにしましょう。パウロはこう言っています。『愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」』(ローマ12:19)もし自分で復讐するなら私たちは罪を犯すことになります。そうすれば、私たちに神の復讐が下されてしまいます。敵に復讐しようとしたのに自分のほうが復讐されてしまうのです。

 ダビデがここで昔の諺を引用しているのは、その諺が正しかったからです。もし間違った内容の諺であればダビデは引用していなかったでしょう。ここで言われている諺は、神の言葉ではありません。しかし、聖書に書かれていなくても、内容的に真実であることは確かです。このため、ダビデはこの諺の引用を差し控えなかったのです。私たちも、真実な諺があれば、それを根拠として示しつつ語っても問題ありません。「それは御言葉じゃないだろう。」と思う必要はありません。ダビデも御言葉ではない諺を引用しているからです。それどころか使徒たちも諺を根拠として語りました。道理を説明するためであれば、諺を根拠として示すことも許されています。しかし、だからといって、諺を御言葉と同等か同等以上の言葉として取り扱ってはなりません。そうするのは神に喜ばれないことです。ここでダビデが引用した諺の通り、確かに悪は悪者から出ます。キリストも言われた通り、人は木に例えることができるからです。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結んだり、悪い木が良い実を結ぶということはありません。ですから、悪い者がいれば、その者からは悪い言葉や悪い行為が生じます。ダビデは良い木でしたから、悪い実を結ぶべきではありませんでした。ダビデのような良い木は良い実を大いに結ぶべきなのです。このため、ダビデはこの諺に基づき、決してサウルを殺すという悪は行なわないと宣言します。もしそのような悪を行なえば、ダビデは悪い実を生じさせる悪い木だということになるからです。