【Ⅰサムエル記24:14~25:29】(2022/11/20)


【24:14】
『イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。』
 ダビデは自分がサウルに対して何も危険でないことを示すため、自分を『死んだ犬』また『一匹の蚤』に例えました。『死んだ犬』とは、ダビデが死んだ犬でもあるかのように吠えたり威嚇したりしないということです。『一匹の蚤』とは、サウルにとってダビデは一匹の蚤でもあるかのように害を及ぼさないということです。ダビデが動物や昆虫だったというのではありませんけども、これは実に分かりやすい例えです。ダビデはこのように言うことで、サウルがいかに虚しい行為をしているか分からせようとします。実際、サウルがダビデをつけ狙っていたのは虚しいことでした。ダビデはサウルに対して全く敵意や憎しみを持っていませんでした。ですから、サウルは敵でもないダビデを敵として見做し勝手に狙っていただけなのです。

【24:15】
『どうか主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」』
 ダビデは、サウルの件を全く神とその裁きに任せます。ダビデには良心の咎めが少しもありませんでした。ダビデは自分が不当につけ狙われていることをよく理解していました。ですから、ダビデは堂々と神を裁き主として求めることが出来たのです。そういうわけでダビデは神が自分を救って下さるよう願い求めます。神は正しい者が誰か知っておられ、その正しい者を見放すことは決してなさらない御方だからです。

【24:16~19】
『ダビデがこのようにサウルに語り終えたとき、サウルは、「これはあなたの声なのか。わが子ダビデよ。」と言った。サウルは声をあげて泣いた。そしてダビデに言った。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。』
 ダビデの言葉を聞いたサウルは、夢から目覚めた人でもあるかのように、事の善悪をはっきりと認識しました。サウルはダビデの言葉を聞いて、自分が悪くてダビデは正しかったことを悟ったのです。それはダビデが誠に正しいことを言い、サウルも健全な理解力を欠くほど気が狂ってはいなかったからです。サウルが『声をあげて泣いた』のは、真に痛悔したことを示しています。ここでサウルがダビデに『わが子ダビデよ。』と言っているのは、ダビデが婿だったからなのでしょう。つまり、これはダビデがⅠサムエル24:11の箇所でサウルに『わが父よ。』と言ったのと対応しています。この時に、サウルがそれまで抱いていた間違いだらけのダビデ認識は、全く改められ正しくなりました。もうサウルが思い込んでいたダビデはサウルの脳内に存在しません。『これはあなたの声なのか。』というサウルの言葉はこのことを示しています。

【24:19~20】
『あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。』
 サウルは、ダビデが自分に良くしてくれたのをまざまざと見ました。もしダビデが良くしてくれなければ、サウルはダビデに殺されていたでしょう。サウルは礼節を欠くほどに狂っていたのでありませんでした。ですから、サウルはこれからダビデがその行為に対する報いを神から受けるよう願います。サウルがこう願った通り、確かにこれから神はダビデに幸いを与えられました。これから続く箇所を読めば分かる通りです。このようにダビデは敵からも幸いを願われるほどでした。サウルでさえこう願ったとすれば、普通のユダヤ人は尚のこと、ダビデの幸いを願っていたはずです。もう流れがダビデの時代に向かって勢いよく進んでいました。

 この時の出来事により、サウルはダビデがこれから王になり、このダビデにより神がイスラエル王国を確立される、ということをはっきり悟りました。というのも神がダビデに強く働きかけておられるのは明らかだったからです。サウルはかつてダビデに王権が移されるとサムエルを通して宣告されていました。その宣告がこの時の驚くべき出来事により裏付けられました。このためサウルはもうダビデにおける神の御心を疑うことが決して出来なくなりました。実際、これから神はダビデを王とされ、このダビデによりイスラエル王国を確立されました。

【24:21~22】
『さあ、主にかけて私に誓ってくれ。私のあとの私の子孫を断たず、私の名を私の父の家から根絶やしにしないことを。」ダビデはこれをサウルに誓った。サウルは自分の家へ帰り、ダビデとその部下は要害へ上って行った。』
 サウルは、これからダビデが王になれば、ダビデの意志でほとんど全てが決まるようになるのを良く知っていました。当然ながらダビデは、自分に酷い仕打ちをしたサウルへの報復として、サウルの子孫を断ったり、サウルの家名を滅ぼすこともできます。サウルがダビデにしたことを考えれば、ダビデが報復としてこうしても不思議なことはありません。王は王になったら自分の敵また自分に敵対的だった者たちを粛正するものなのです。ですが、サウルはダビデが王になってからそういったことをしないでくれと頼み、ダビデが誓うよう求めます。『誓ってくれ。』とサウルが言ったのは、安心できるためです。ダビデのような聖徒が誓ったならば、その誓いは決して破られないだろうからです。これは子孫と家名において命乞いをすることでした。このサウルがした求めについておこがましいと思う人もいるかもしれません。何故なら、サウルはダビデに悪を行なったのですから、ダビデが王になってから報復されたとしても当然だと感じられるからです。ですから、もしダビデが報復するつもりでいたなら、そのことを知ったサウルは最終的に「仕方なし」と思って諦めるしかなかったでしょう。ところが、ダビデはサウルの求め通りに誓いました。自分を殺そうとしていた敵であるにもかかわらず、やがて報復できるようになってからも報復しないと誓う。ここにダビデの敬虔さと隣人愛があります。ダビデはこのことを『誓った』のですから、もう決してサウルの子孫と家名を害せなくなりました。もし害したとすれば誓いに違反するので神から裁かれてしまいますが、ダビデはそういった罪に陥るような愚か者ではありませんでした。

 こうして2人は別れ、サウルは自分の住まいに、ダビデは要害に帰りました。2人の関係はもう修復されたかのようにも見えますが、共に帰り、再び一緒に生活することはありませんでした。何故なら、一方は神から既に見放されており、一方には神が共におられたからです。パウロも言った通り、『正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう』(Ⅱコリント6章14節)か。どんな繋がりもありません。ですから、ダビデとサウルがこれから再び共に歩むことはありませんでした。

【25:1】
『サムエルが死んだとき、』
 サムエルは『神の人』であったものの、原罪を持つ罪人でしたから、当然の運命として遂に死にました。サムエルほどの敬虔な人物でも、このように死にました。もし罪を持たなければ死なずに済みましたが、サムエルも罪を持っていました。彼の死因は分かりません。ただ祝福された死に方だった可能性はかなり高い。何故なら、サムエルは神から愛され恵まれていたからです。サムエルが死んだことについては、Ⅰサムエル28:3の箇所でも書かれています。

『イスラエル人はみな集まって、彼のためにいたみ悲しみ、ラマにある彼の屋敷に葬った。ダビデはそこを立ってパランの荒野に下って行った。』
 サムエルはイスラエルの偉大な祭司であり尊ばれていました。一般に名が高ければ高いほど亡くなった時、多くの人から悲しまれます。ですから、サムエルの死をイスラエル人の多くが嘆きました。『みな』という言葉はイスラエルの全体を意味しています。ここまで亡くなった際に大きな悲しみが生じるのは、イスラエル中で他にサウルとダビデぐらいしかいなかったと思われます。イスラエル人は遺体をサムエルが住んでいた『ラマ』に葬ります。彼らがこうしたのは適切でした。なお、サムエルが何歳で死んだのかは聖書に書かれていないため分かりません。

 ダビデもラマで行なわれたサムエルの葬儀に行きました。ダビデとサムエルは疎遠関係にありませんでしたから、ダビデがラマに行ったのは自然なことでした。しかし、サムエルと疎遠になっていたサウルはラマまで行きませんでした。あの時以降、サムエルとサウルはもう二度と会わないようになったからです(Ⅰサムエル15:35)。ですから、ダビデがラマでサウルと再び会うことはありませんでした。ダビデはそこから南に下り、『パランの荒野に』行きましたが、これはかなり遠くにある場所であって、移動にはそれなりの時間を要したはずです。ここまで遠くにダビデが行ったのは、いかにダビデがサウルから離れたかったのかよく示しています。

【25:2~3】
『マオンにひとりの人がいた。彼はカルメルで事業をしており、非常に裕福であった。彼は羊三千頭、やぎ一千頭を持っていた。そのころ、彼はカルメルで羊の毛の刈り取りの祝いをしていた。この人の名はナバルといい、彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。』
 ダビデが隠れていたエン・ゲディの要害から西に離れている『マオン』。そこにナバルという富んだ事業家がおり、彼は『羊三千頭、やぎ一千頭』を所有していました。ヨブには敵いませんでしたが(ヨブ1:3)、それでもかなりの財産を彼は持っていました。このナバルは『カレブ人』でしたから、カレブから生まれた子孫の一人であるユダヤ人でした。「ナバル」という名前は<愚か>という意味です。古代ユダヤ人は、子どもが生まれた時における親の状態や所感からしばしば命名していました。ラケルも激しい苦しみにおいてベニヤミンを産もうとしていたので、ベニヤミンを『ベン・オニ』すなわち「私の苦しみの子」と名付けようとしました。ですから、このナバルと名付けられた金持ちの親は愚かだったか、愚かな状態でナバルを産んだのかもしれません。名前はしばしばその実質を現わしています。そのため、このナバルという名前の者は『頑迷で行状が悪かった』のでした。彼が愚かだったのは、金持ちだったからなのでしょう。ソロモンも言うように、『富む者は自分を知恵のある者と思い込む。』からです。自分が知的であると思って高ぶると、高みを求める姿勢が失われ、自分の欠点を直視したり改善したりすることも難しくなります。このようにしてとんでもない愚か者となるのです。このナバルは自分が所有していた数多い羊たちの毛を刈り取り祝っていました。彼にとっては喜ばしい一時だったはずです。しかし、もう間もなく降りかかって来る不幸を彼はまだ知りませんでした。その不幸をもう知っていたら、祝って喜んでいることなど決して出来なかったはずです。

 一方、妻の『アビガイル』は『聡明で美人であった』のですが、これは正に美女と野獣の組み合わせです。アビガイルという名前の女性は今でも見られますが、このアビガイルから命名された女性も多くいるはずです。この箇所からも分かる通り、聖書は女の美しさ自体を否定していません。何故なら、それは神から与えられた賜物だからです。これを他の何かに例えるならば、花や海の美しさを首肯することです。しかし、「美しいもののどうしようもない女」についてであれば、聖書はその「美しさ」をでなく「女そのもの」を批判しています。外面的に美しくても内面が豚のようであれば、本質的には豚のようだからです(箴言11:22)。

【25:4~8】
『ダビデはナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。それで、ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。「カルメルへ上って行って、ナバルのところに行き、私の名で彼に安否を尋ね、こうあいさつしなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。私は今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちといっしょにいましたが、私たちは彼らに恥ずかしい思いをさせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何もなくなりませんでした。あなたの若者に尋ねてみてください。きっと、そう言うでしょう。ですから、この若者たちに親切にしてやってください。私たちは祝いの日に来たのですから。どうか、このしもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。』」』
 ダビデは、ナバルが羊の毛を刈っていることについて荒野で知りました。ダビデとその仲間たちは、どうしても食物と飲物が必要でした。ダビデは、この時にナバルからそれらを恵んでもらえれば調度良いと考えました。このため、ダビデは10人の家来をナバルに遣わし、必要な食物や飲物を恵んでくれるよう願い求めました。かつてダビデたちは、ナバルの羊飼いと所有物を守っていたことがありました。ナバルがこの善い行為に報いるべきだったのは言うまでもありません。ダビデは自分たちのした善に対する報いを求めただけです。ですから、ダビデたちがしたのは乞食のような求めと違いました。ダビデは、貸し主が借り主から貸した物を返してもらうかのようにして求めたのです。もしナバルがしっかりダビデの恩に報いていれば、両者の関係はますます深まり、これからも相互に益を与え合う仲となっていたことでしょう。こういうわけですから、ダビデはこの時に何か不遜なことをしたというわけではありませんでした。この時にダビデが『十人の若者』を遣わしたのは、彼らによりダビデたちの群れ全体を示すためです。聖書において「10」は完全であることを示す数字だからです。

 ダビデは、家来たちを通してナバルに平安があるよう願っています。ナバルに、ナバルの家に、ナバルの所有する全ての物に、です(6節)。ダビデが3度も平安を願ったのは、ナバルに属する全てが平安で満ちるよう願っていたことを強調するためです。キリストも、弟子たちを迎えてくれる家に入る際は、まず『平安を祈るあいさつをしなさい。』(マタイ10章12節)と命じられました。パウロも聖徒たちに送った手紙の冒頭でまず平安があるよう願っています。今でもユダヤ人は誰かと会ったら最初に相手の平安を願っています。こうするのは良いことです。何故なら、何事であれ最初が肝心だからです。

【25:9~12】
『ダビデの若者たちは行って、言われたとおりのことをダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」それでダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。』
 ダビデはナバルから良い返事を受けられると思っていたはずです。何故なら、もし良い返事を受けられると思っていなければ、ナバルに恵みを求めはしなかっただろうからです。ダビデはここでナバルに悪いことをしていませんでした。ダビデは礼節を弁える人でしたから、全て正しく行なっていました。ところがナバルはダビデに対し良くない返事を返します。ナバルは愚かにもダビデなど知らないと言ったのです。知らないゆえ知らない者には恵みを与えられない、と。ナバルがダビデのした護衛について知らなかったということはないでしょう。それにもかかわらず、ナバルは愚かでしかも酔っていたため、ダビデに対し不遜な態度を取ってしまいました。このナバルの応答を家来たちはダビデに知らせます。ナバルのこの罪は実に致命的でした。この罪によりナバルは死ぬこととなったのです。彼は次の御言葉を知りませんでした。『死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。』(箴言18章21節)

【25:13】
『ダビデが部下に「めいめい自分の剣を身につけよ。」と命じたので、みな剣を身につけた。ダビデも剣を身につけた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。』
 ナバルの返答は、ダビデが期待していた返答と全く逆の思いがけない返答でした。ナバルの発言は許しがたい内容でした。これは一生懸命に奉仕して尽くしたのに、その尽くした相手から拳で殴られるのと一緒です。これは意味が分かりません。ダビデはこのような返答に復讐すべく、400人の家来に剣を持たせ、皆で復讐しに行こうとします。400人も動員されたのは、ナバルだけでなくナバルの家に属する全ての者を滅ぼすためです。600人いた部下たちのうち他の200人は荷物番をするため行きませんでした。

【25:14~17】
『そのとき、ナバルの妻アビガイルに、若者のひとりが告げて言った。「ダビデが私たちの主人にあいさつをするために、荒野から使者たちを送ったのに、ご主人は彼らをののしりました。あの人たちは私たちにたいへん良くしてくれたのです。私たちは恥ずかしい思いをさせられたこともなく、私たちが彼らと野でいっしょにいて行動を共にしていた間中、何もなくしませんでした。私たちが彼らといっしょに羊を飼っている間は、昼も夜も、あの人たちは私たちのために城壁となってくれました。今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。わざわいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです。」』
 ダビデが復讐しに来ると知ったナバル家の僕は、間もなくナバル家に襲いかかろうとしている危険をナバルの妻アビガイルへと知らせます。正に危機一髪でした。あと少しでナバル家が皆殺しにされようとしていました。例えるならば核ミサイルの発射ボタンを金正恩が人差し指で今にも押そうとしているようなものでした。

 この僕は、ナバルにでなく妻のアビガイルに報告し、どうしたらいいか決めてくれと言っています。これはナバルが『よこしまな者』であり『だれも話したがらない』からでした。もしナバルに報告しても、ナバルがその邪悪さを現わし、文句を言われたり呟かれたりするので報告した意味がなくなります。こういった野生化した犬のように取り扱いにくい人が、いつの時代にも、どこの場所にも、いるものです。彼らに話しても痛い目を見るだけなので話すだけ無駄となります。

【25:18~20】
『そこでアビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。私はあなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。彼女がろばに乗って山陰を下って来ると、ちょうど、ダビデとその部下が彼女のほうに降りて来るのに出会った。』
 間もなく降りかかろうとしていた悲惨を悟ったアビガイルは、急いで対策を講じます。ダビデの求めに応じるため、ダビデが求めていた飲食物を用意したのです。その飲食物は量的に十分なだけ用意されました。18節目を見て下さい。これだけあればダビデも満足するに違いありません。このアビガイルは『聡明』(Ⅰサムエル25章3節)でしたから、ダビデの求めに応じれば、悲劇を回避できると分かったのです。というのも、ダビデが復讐をする原因は、ナバルがふざけた態度でダビデの求めを退けたことにあったからです。もしアビガイルが愚かな女だったとすれば、このような行ないをしていたかどうか分かりません。彼女が用意した飲食物は大量でしたから、それを載せる『ろば』も多く連れて来られたはずです。アビガイルはこの行ないをナバルに何も知らせませんでした。何故なら、ナバルがこのことを知ったら怒り反発しただろうからです。そうなればアビガイルはしようとしていることが出来なくなります。このように彼女はこの時にリスクを負っていました。それでもアビガイルは何とかしてダビデに飲食物を送らねばなりませんでした。そうしなければナバルの家は滅ぼされてしまうからです。アビガイルはまず先に運搬用のロバを進ませ、その後ろに付いて行くと言います。これはダビデがまず贈り物に心を向けることで、アビガイルの一行が急激な襲撃を受けないようにするためです。ダビデがまず飲食物を見れば、「これは何だ。」などと思って、動きや精神を一時停止させるだろうからです。こうしてアビガイルたちとダビデたちが山陰の場所で出会いました(20節)。これは神が仕組まれた出会いでした。

 このアビガイルは女でしたが、女は男のようにじっくりと深く考えることは苦手であるものの、即応的な判断は男よりも優っています。つまり女のほうが臨機応変に適しています。何かが起きたらサッと行えるのです。これは良い意味でも悪い意味でもそうです。良い意味での例を挙げれば、敵が仲間を捕まえに来た際、咄嗟に本当らしい嘘を付いてその場を乗り切ることです。悪い意味での例を挙げれば、騙すため男の反応を一つ一つ巧みな言葉で誘導し、自分の望みを遂げるというのがそうです。このようにしてエバはアダムが禁断の木の実を食べるようにさせたのでした。アビガイルもここでこのような女の技能をよく発揮しています。この時にアビガイルは良い意味でその技能を発揮したのです。

【25:21~22】
『ダビデは、こう言ったばかりであった。「私が荒野で、あの男が持っていた物をみな守ってやったので、その持ち物は何一つなくならなかったが、それは全くむだだった。あの男は善に代えて悪を返した。もし私が、あしたの朝までに、あれのもののうちから小わっぱひとりでも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。」』
 ダビデがアビガイルに会う直前、ダビデはナバル家を必ず殺し尽くすと誓ったばかりでした。しかも、もしそうしなければ神から重い罰を受けても構わないとさえ覚悟しました。これは非常に強い決意です。ダビデはナバル一家を数時間も経たない間に滅ぼしてしまうつもりでいました。ダビデの誓った方法は間違っていませんでした。彼は神において誓っているからです。しかし、誓いの内容が良くありませんでした。何故なら、律法は『復讐してはならない。』と言って復讐を禁じているからです。

 ダビデの誓いは内容的に問題でしたが、何よりも問題だったのは、まずナバルが『善に代えて悪を返した』ことでした。ナバルが無礼を働いたのでダビデは復讐しようとしたのです。ダビデの態度は間違っていたものの、しかしその態度が不自然だったとは言い難いでしょう。今の時代にしても、もしナバルのような仕打ちを受けたとすれば、多くの人がダビデのように復讐しようとするはずであり、無礼に対して復讐しようとするのは自然だからです。ですが自然であっても聖書は復讐を禁じています。ですから、私たちがダビデのようになってはなりません。もし復讐すれば罪を犯すのです。この時のダビデは私たちの見習うべきダビデではありません。ここでのダビデは私たちの前に悪を避けるための教訓として置かれています。また私たちは当然ながらナバルのようにもなるべきではありません。もしナバルのように傲慢な礼儀知らずとなれば、私たちから悪徳を改善できる余地は全く無くなります。それは箴言でこう言われている通りです。『善に代えて悪を返すなら、悪がその家から離れない。』

【25:23~24】
『アビガイルはダビデを見るやいなや、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏した。彼女はダビデの足もとにひれ伏して』
 アビガイルは急いでダビデの前にひれ伏します。これはナバルの行為に対する謝罪を表明するためです。ナバルはその無礼により、ダビデを精神的に傷つけました。ですから、アビガイルがその傷を謝罪により覆わねばならなかったのです。

【25:24】
『言った。「ご主人さま。あの罪は私にあるのです。どうか、このはしためが、あなたにじかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばを聞いてください。』
 アビガイルはナバルの罪を自分に転嫁させます。これはダビデの気を和らげるためであり、発言をしっかり聞いてもらうためです。勿論、アビガイルにダビデを侮辱した罪はありませんでした。それでもアビガイルは『あの罪は私にある』と言っています。これは、つまりナバルの犯した罪をあかたも自分が犯したかのように感じているということです。

【25:25】
『ご主人さま。どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの人は、その名のとおりの男ですから。その名はナバルで、そのとおりの愚か者です。』
 アビガイルは、ナバルがその名前通りの愚か者であると示し、自分の夫をこき下ろします。このようにナバルの愚かさを示すことで、ダビデがその復讐を止めるようにしたのです。今の時代でも、精神的に欠陥のある人が犯した罪であれば、往々にして容赦されたりします。人間は、正常な精神から生じた悪意であれば耐えられないものの、機能的に欠陥のある精神から生じた悪意であれば堪え易くなります。何故なら、精神に欠陥があるのですから仕方ないと感じられるからです。つまり、アビガイルはここで「ナバルはどうしようもない奴だからどうにもならなかった。」と言いたいわけです。ここまで自分の夫を引き下げることが出来たのは、もう既にアビガイルが夫への愛を失っていた証拠なのかもしれません。もしまだ愛があれば、夫のために弁明したり誤魔化していたと思われるからです。

『このはしための私は、ご主人さまがお遣わしになった若者たちを見ませんでした。』
 続いてアビガイルは、ダビデの遣わした若者を見なかったと言います。これは弁明であって、若者を見なかったのだから自分は責められるべきでないと言いたいのです。もし見ていたらその若者たちに飲食物を持たせて送り返していただろう、と。アビガイルは助かりたいのでこのような嘘をついたわけではありません。彼女は本当にダビデの若者たちを見なかったのです。もし見なかったのであればアビガイルはどうしてナバルによる罵倒事件を防げたでしょうか。防げませんでした。ですからダビデもアビガイルは責められるべきでないと理解できたはずです。

【25:26】
『今、ご主人さま。あなたが血を流しに行かれるのをとどめ、ご自分の手を下して復讐なさることをとどめられた主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。どうか、あなたの敵、ご主人さまに対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。』
 アビガイルが言っている通り、神はダビデが復讐しようとするのを止められました。神はアビガイルを通してダビデに働きかけました。神の御心はダビデが復讐罪を犯さないことです。それゆえ、もしアビガイルが用いられていなければ、何か別のやり方で神はダビデに働きかけておられたはずです。もしアビガイルによってでも他の方法によってでも、ダビデが妨げられなかったとすれば、ダビデは復讐の道に突き進んでいたでしょう。その場合、神の御心はダビデが復讐することだったのです。このようにダビデは復讐すべく奮い立っていましたが、復讐は実現しませんでした。神の御心でなければ何一つ起こらないのです。しかし、神の御心であれば何でも起こるのです。

 神はダビデを復讐の罪に委ねることも出来ましたが、委ねられませんでした。つまり、神はダビデを罪から守られました。これはダビデへの憐れみによります。このように神は聖徒たちの足を悪から守られます。それは神が聖徒たちにとって父であり憐れみ深い存在だからです。ですから、私たちは父なる神の慈しみ深い守りを期待してもよく、期待すべきなのです。しかし、神は聖徒たちを教育や矯正のため悪に委ねることもなさいます。ダビデもウリヤの件で酷い罪に委ねられました。しかし、これは教育や矯正のためですから、罪へと委ねられるのは結局のところ神の憐れみによります。もしそのようにして悪を経験しなければ、何も分からず成長もせず、やがて更に酷い悪へと陥ることとなるからです。

 アビガイルはもうナバルがこれから裁かれ悲惨になることを確信していました。女の勘とは鋭いものです。確かにナバルは裁かれて当然でした。何故なら、ナバルは神が共におられるダビデを侮辱し酷く取り扱ったからです。実際、これからナバルはこの悪に対する裁きを受けて死んでしまいます。アビガイルは、ダビデに敵する者が、間もなく裁かれるこのナバルのように裁かれるべきだと言います(26節)。神が共におられるダビデを害するのであればナバルのごとく裁かれても自業自得なのです。アビガイルはこのようになるよう神およびダビデにかけて誓いつつ願います。それは彼女が『主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。』と言っているからです。これは「決して死んではいない神とダビデの名にかけて」と言っているのと同じです。アビガイルは何よりも神を重視する敬虔な女性でした。だからこそ、自分の夫であるのに、神が共におられるダビデに酷くしたナバルをここまで厳しく取り扱えたのです。アビガイルの中で序列は「神>ナバル」でしたから。

【25:27】
『どうぞ、この女奴隷が、ご主人さまに持ってまいりましたこの贈り物を、ご主人さまにつき従う若者たちにお与えください。』
 アビガイルは持って来た飲食物をダビデたちに送ろうとします。ダビデたちは護衛の報いとして当然ながらこのような飲食物を受け取る権利がありました。キリストも言われた通り、『働く者が報酬を受けるのは当然』だからです。ですから、アビガイルがここで乞食を恵むようにして与えようとしたなどと思ってはなりません。軍隊を当然の義務として養う国民でもあるかのようにアビガイルは与えようとしました。本来であればナバルがこのようにすべきでした。しかし、この愚か者は愚かであったゆえこのようにしませんでした。まともなことが出来ないからこそ「愚か」なのです。なお、アビガイルはここで『贈り物を、ご主人さまにつき従う若者たちにお与えください。』と言っていますが、若者たちだけでなくダビデも贈り物に与かることが出来たのは言うまでもありません。

 ここでアビガイルは自分のことを『女奴隷』と呼んでいます。当然ながらアビガイルが文字通りの意味でダビデの奴隷だったというのではありません。これはダビデに対し奴隷のごとき忠実な感情を抱いているという意志表明です。つまり、アビガイルはダビデに対し反逆的でありませんでした。ナバルのほうは反逆的であり、奴隷とはとても言えない態度をダビデに対して取りました。

【25:28】
『どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。』
 先述の通り、アビガイルに実際的な罪はありませんでしたが、アビガイルはナバルに代わって罪の謝罪をしています。ナバルが自分から謝罪するというのは実現しそうになかったからです。ダビデは悪の攻撃を受けたのですから、その攻撃主から謝罪されるのが道理というものです。しかし、その攻撃主がどうしようもなかったので、アビガイルが謝罪を代行したというわけです。これは何かに例えるならば、悪いことをした幼い子どもが幼くて謝罪できないため、代わって親が被害者に謝罪するようなものです。

『主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。ご主人さまは主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。』
 アビガイルは、神がダビデにおいて『長く続く家』を建てると断言します。『家』とは国を指します。確かに神はこのダビデを通して長く続く国を建てられました。このダビデに連なる国としてイスラエルは数百年もその存在を保ったのです。このような事柄は雰囲気で分かるものなのです。カエサルの時代でもその通りでした。「何か」を感じるのです。神は国以外でも、状態や事象であれ、正しい者において長く続くことを生じさせられます。ルターとカルヴァンを通して長く続いているプロテスタントが生じさせられたのも、その一つでした。

 アビガイルはダビデがこれから必ず災いを免れるとも断言します。何故なら、ダビデは『主の戦いを戦って』いたからです。主の戦いを戦うとは、すなわち神に仕えていることです。神に仕える者は神の命令を守るので、呪われず、災いからも遠ざけられます。聖書では『命令を守る者は災いを知らない。』と言われています。ダビデはその生涯に亘って神の命令を守り続けました。ですから、ダビデは最後の最後まで災いから免れることが出来ました。私たちも災いを避けたければ、神の戦いに仕えるべきです。『正しい者は何の災いにも遭わない』のですから。もし私たちが仕えなければ呪われて災いを受けたとしても自業自得です。

【25:29】
『たとい、人があなたを追って、あなたのいのちをねらおうとしても、ご主人さまのいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれており、主はあなたの敵のいのちを石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。』
 アビガイルは、ダビデの命が神から必ず守られると断言しています。何故なら、ダビデは神から特別な選びを受けた愛されている聖徒だったからです。アビガイルは、ダビデが神から守られることを、神が石を袋の中に入れて持たれるという例えで表現しています。神が持っておられる袋を奪い、その袋から石を取り出せる者は存在しません。そのような者は僅かでも想定することさえ出来ません。つまり、アビガイルはダビデが神から絶対に守られるので全き安全を持つと言っているのです。神がダビデの命という石が入っている袋を開き、その石を投げ捨ててしまわれることもありませんでした。

 またアビガイルは、ダビデを殺そうとする敵は神から裁かれて死んでしまうとも断言しています。そのような敵は忌まわしいので神から嫌われるからです。アビガイルはそのような裁きを、神が石投げ袋に石を入れて投げ放つことに例えています。石投げ袋から投げられてしまう石とは敵の命です。つまり、敵は容赦なく神から捨てられ裁かれるということです。このような石投げ袋と石による例えば、日頃から石投げ袋を使用していたダビデに対し分かりやすくさせるための例えであったはずです。ダビデが石投げ袋を持っていることはイスラエル人の全てに知られていたでしょう。誰でも自分のよく知っている道具に関連付けて語られたら理解しやすくなるのは当然です。