【Ⅰサムエル記25:30~26:18】(2022/11/27)


【25:30~31】
『主が、あなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人さまに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。』
 アビガイルは、これからダビデが王になることを確信していました。アビガイル以外のユダヤ人もこのことを確信していたでしょう。何故なら、ダビデが王になるというサムエルの宣言はイスラエル全体で知られていたはずだからです(Ⅰサムエル15:26、28)。この宣言についてはもう確認済みです。実際、これからダビデは正式に王となりました。ダビデは自分自身から王になったわけではありません。神がダビデを王として立てられました。パウロも言う通り、『神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたもの』(ローマ13章1節)だからです。

 アビガイルは、ダビデが王になった時のことを心から心配していました。ダビデが王になった際、ナバルに対する復讐がダビデの良心を悩ませるのではないか、と案じたのです。ダビデが神から王として立てられるのは幸いなことです。それは幸いなのですから、幸いとして味わわれるべきです。ですから、アビガイルは復讐罪がその幸いを妨げてしまわないよう案じたわけです。アビガイルは神と神に王として立てられるダビデとそのダビデに治められるイスラエルのことを重視していました。だからこそ、彼女はあのように復讐を阻止しようとし、ここでこのようにダビデのことを思って発言しているのです。彼女は本当に敬虔な女性でした。

 この箇所からも分かる通り、復讐の罪は正しい者を精神的に悩ませてしまいます。私は「正しい者」と言いました。正しければ正しいほど、良心の咎めも大きくなります。何故なら、ダビデのような正しい者にとって、罪とは毒を持つ棘のようだからです。このため、善良な人で罪の悩みに苦しめられ自殺してしまう人がいるわけです。日本人もこのような傾向を強く持っています。これとは逆に、悪い者はこのようでありません。その人が悪ければ悪いほど罪は毒の棘として心を突き刺さなくなります。何故なら、悪い人の倫理観は衰えていたり倒錯していたりするからです。倫理観が正常でないからこそ「悪い者」であるわけです。これの極みがサタンなのです。サタンは倫理的に全く倒錯した存在であって、善を悪とし、悪を善とします。ダビデはこのサタンのようでなかったため、もしナバルに復讐するという罪を犯していたとすれば、王になった際に悩まされていたはずですが、アビガイルはそれを何としても阻止したかったのです。

【25:31】
『主がご主人さまをしあわせにされたなら、このはしためを思い出してください。」』
 アビガイルは、ダビデが王になったならば、恩恵を賜わってほしいと願い求めます。アビガイルはダビデを復讐の罪という大罪から免れさせました。ですから、ダビデから恵みを受ける権利があったのは確かでした。アビガイルはダビデが王となる以前にこういった恵みを願うことも出来ました。しかし、アビガイルはダビデが王になってから恵みをくれるよう願いました。これは王になってからのほうが恩恵を与えるのに相応しいからです。ダビデはナバルに善を行なったのでその報いをナバルから求めました。これと同様、アビガイルもダビデに善を行なったので、その善に対する報いをダビデから求めました。ダビデがナバルに報いを求めたのと、アビガイルがダビデに報いを求めたのは、どちらも本質的に同じです。ですから、ダビデはアビガイルの求めを拒絶することが出来ませんでした。もし拒絶すればダビデは善に対して悪を報いることとなりかねません。そうすれば今度はダビデがナバルのようになってしまいます。ダビデはそのような愚に陥りませんでした。

【25:32】
『ダビデはアビガイルに言った。「きょう、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエルの神、主がほめたたえられますように。』
 ダビデは、アビガイルが神に用いられたことをよく悟っていました。偶然によりアビガイルが現われたのではありません。アビガイルはダビデに対する神の道具でした。神はダビデに良くしようと決めておられたので、このようにアビガイルを用いられたのでした。ダビデもこのことを知っていたため、アビガイルの言葉を素直に受け入れました。もしダビデがこのことを知らなければ、アビガイルに「ナバルの妻であるくせに何を生意気そうに…」などと言って敵視していたかもしれません。そして、アビガイルはナバルの一員として殺されていたかもしれません。このようにならなかったのはただ神の御恵みによりました。良い導きを与えてくれたり罪を阻止してくれる人が現われた場合、それは神が送られた人だと考えるべきでしょう。神が私たちに良くしようとされたのです。だからこそ、良くするために誰かが起こされ遣わされるのです。

 自分に良くして下さった神の御名の栄光をダビデはここで求めています。『イスラエルの神、主がほめたたえられますように。』神がダビデに大きな罪を免れさせて下さったのです。良くして下さった神の栄光を求めるのは敬虔な聖徒にとって当然のことなのです。

【25:33】
『あなたの判断が、ほめたたえられるように。また、きょう、私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉れがあるように。』
 ダビデは、アビガイルとその判断を称揚しています。彼女は、ダビデが後々になってから苦しまないよう働きかけたからです。アビガイルは非常に良い行ないをしました。しかも、ダビデという重要な人物にそうしました。ですから、アビガイルとその判断は高く評価されるべきでした。これは人間崇拝に当たりません。ダビデはただアビガイルを褒めているだけだからです。このアビガイルはエバと全く逆の女性でした。エバは男に罪を犯させましたが、アビガイルはその逆のことをしたからです。これこそ女という性に相応しいことでした。神は男の助けとして女を創造されたからです。このような女性は恵まれており珍しい存在です。

【25:34】
『私をとどめて、あなたに害を加えさせられなかったイスラエルの神、主は生きておられる。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、確かに、明け方までにナバルには小わっぱひとりも残らなかったであろう。」』
 もし神がアビガイルを遣わさなければ、ダビデは間違いなくナバル一家を全滅させていました。アビガイルが来なければダビデの怒りは激しく燃え上がり続けていたからです。しかし、アビガイルが水として怒りの炎を消火しました。神がこの水をダビデのために運んで来られたのです。このように神が止められなければ暴走を止めなかったほどの復讐心でした。このことから、ダビデがどれだけ怒りに燃えていたかよく分かります。ダビデはアビガイルが来なければナバルたちは全滅していたということを、神において誓いつつ断言します。つまり、もしアビガイルが来なければナバルの群れは∞%滅んでいたということです。

【25:35】
『ダビデはアビガイルの手から彼女が持って来た物を受け取り、彼女に言った。「安心して、あなたの家へ上って行きなさい。ご覧なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。」』
 ダビデはアビガイルの懇願を聞き入れ、彼女が持って来た飲食物を受領しました。神がダビデにアビガイルの言葉を受け入れるよう働きかけられました。もしダビデがアビガイルに反発していたら、彼女は間違いなく殺されていたでしょう。またダビデたちはアビガイルの持って来た飲食物を受け取る正当な権利がありました。ここにおいてダビデたちのした護衛が正しく報いられました。こうしてダビデはアビガイルに安心して帰るがよいと命じます。これはもうアビガイルおよびナバル一家に復讐されることが無くなったからです。

【25:36】
『アビガイルがナバルのところに帰って来ると、ちょうどナバルは自分の家で、王の宴会のような宴会を開いていた。ナバルが上きげんで、ひどく酔っていたので、アビガイルは明け方まで、何一つ彼に話さなかった。』
 アビガイルが家に帰ったところ、ナバルは『羊の毛の刈り取りの祝い』(Ⅰサムエル25章2節)をまだ行なっており、しかも泥酔していたので、アビガイルは件の報告を明日まで延期します。何事にも『時』があるからです。もしアビガイルが家に帰ってすぐ報告したとすれば、酔ったナバルは聞かなかったり愚弄したり怒ったりしたかもしれません。泥酔した人は何をするか分かりません。ですから、アビガイルは明日になってナバルの酔いが醒めてから報告しようとしたわけです。この判断にも彼女の聡明さが現われています。もしアビガイルが愚かだったとすれば、帰ってから僅かもしない間に報告していたかもしれません。愚かさとは『時』を弁えないことです。

【25:37~38】
『朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、妻がこれらの出来事を彼に告げると、彼は気を失って石のようになった。十日ほどたって、主がナバルを打たれたので、彼は死んだ。』
 アビガイルは思慮深かったので、ナバルの酔いが醒める朝になってから、ダビデの件を報告しました。この報告の具体的な内容は聖書に書かれていませんから分かりません。しかし、聡明なアビガイルのことですから、適切で効果的な報告をしたに違いありません。この報告を聞いたナバルは『気を失って石のようにな』りました。恐らく、何らかの生活習慣病が発症したと思われます。報告を聞いたことで血圧が急激に上がったのかもしれません。これは生活習慣病だったでしょうが、しかし神の裁きでもありました。神はこの男が前から傲慢であるのを見ておられ、やがてダビデに侮辱するという形で傲慢の実が結ばれることを知っておられました。このような実が結ばれた際に裁きが調度良く下されるため、神はこの時に生活習慣病が発症するよう働きかけておられたのです。ですから、これは単なる生活習慣病というわけではありませんでした。神はこのように病気を裁きとして用いられるのです。もしナバルに裁きが定められていなければ、彼は傲慢な人で無かったでしょうし、ダビデを侮辱するということもなく、この時に生活習慣病を発症することもなかったでしょう。

 それから『十日ほどたって』、ナバルは絶命しました。気絶してから死ぬまでの10日間は危篤状態だったかもしれません。今の時代でも倒れて数日経過してから死ぬというケースがよく見られます。これは裁きとして下された病気の死でした。死ぬまでの期間が「10」日だったのは何か意味を持っていそうです。聖書で「10」は完全数ですから、これはナバルに下された裁きが完全だったことを意味しているのでしょう。もしこうだったとすれば、7日間でもその意味は同じだったことになります。このようにしてナバルには神の裁きが下されました。彼が死んだのは自業自得でした。もし彼がダビデを侮辱していなければこうして死ぬことも無かったでしょうに。

 このように神の使いである聖徒を酷く取り扱う者は裁かれて死んでしまいます。これは間違いないことです。キリストを迫害したパリサイ人たちも裁かれて滅びました。エリシャを馬鹿にした子どもたちも殺されました。モーセに逆らったコラたちも恐るべき死を味わいました。裁かれたくなければ私たちは神の使いを酷く取り扱わないようにすべきです。酷く取り扱えばナバルと同じ運命になっても文句は言えません。まさか、私たちはナバルのようになりたいと思ったりしないはずです。

【25:39】
『ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。「私がナバルの手から受けたそしりに報復し、このしもべが悪を行なうのを引き止めてくださった主が、ほめたたえられますように。』
 ナバルが死んだのを知ったダビデは、報復のことで神を賛美します。これは神がダビデを悪から守り、ダビデのためナバルを正しく裁いて下さったからです。もしダビデが自分で報復していれば、ダビデはこのように神を賛美することが出来ませんでした。何故なら、その場合、ダビデは神の復讐を神から奪ったのだからです。復讐という神の専有物を奪う者がどうして神に対して賛美できるのでしょうか。もし自分で復讐したならば寧ろ聖徒の良心は悩まされるはずなのです。私たちも神を賛美したければ自分で復讐しないようにすべきです。

『主はナバルの悪を、その頭上に返された。」』
 このようにして神はナバルの悪を裁かれました。ナバルがダビデに行なった悪は、ブーメランのごとく自己へと返って来ました。世には神の裁きがありますから、悪を行なうならばその悪に対する報いが降りかかって来ます。アドニ・ベゼク王も、自分の行なった悪に対する報いを受けました(士師記1章)。ですから、人が行なう悪は自分を害することです。悪を行なっている者は自分を自分で攻撃しているのも同然なのです。善の場合はこれと逆です。善を行なえばその善がブーメランのごとく祝福として自分に返って来ます。それゆえ、善を行なう者は自分に幸せを願っているのも同然なのです。この2つのうち、どちらが望ましいかはいちいち語るまでもないでしょう。

【25:39~40】
『その後、ダビデは人をやって、アビガイルに自分の妻になるよう申し入れた。ダビデのしもべたちがカルメルのアビガイルのところに行ったとき、次のように話した。「ダビデはあなたを妻として迎えるために私たちを遣わしました。」』
 ダビデが家来を通してアビガイルに求婚したのは、彼女が外面も内面も申し分ない女性だったからです。このような女性は世に珍しいのです。ですから、アビガイルは、ダビデのような英雄、しかもこれから王となる者に相応しい女性でした。ダビデとアビガイルが釣り合っていることは疑えません。美女と野獣ではなかったのです。しかし、アビガイルにも1つ欠けた要素がありました。それはアビガイルが王族や貴族といった高貴な名誉を有していなかったことです。この点ではサウルの娘ミカルのほうが優っていました。このアビガイルも示す通り、十全な完璧さというのは世にほとんど無いものなのです。この時にダビデが求婚したのは合法的であり、御心に違反していませんでした。何故なら、もうアビガイルは既に未亡人となっていたからです。聖書は未亡人が再婚することを禁じていません。もしまだナバルが生きている時に求婚していたとすれば、ダビデは罪を犯していました。『あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。』と十戒では命じられているからです。ダビデがこのようにいきなり求婚したことを見て、少し違和感を持つ人がもしかしたらいるかもしれません。今の時代ではこんなにすぐ求婚したりしないものだからです。現代は幾日かでも付き合って様子を見てから結婚する、というのが一般的です。これが今だったならば「ちょっと早過ぎるのでは…」と思われかねません。しかし、古代でこのような求婚はごく一般的だったことを私たちは知るべきです。

【25:41~42】
『彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、そして言った。「まあ。このはしためは、ご主人さまのしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」アビガイルは急いで用意をして、ろばに乗り、彼女の五人の侍女をあとに従え、ダビデの使いたちのあとに従って行った。こうして彼女はダビデの妻となった。』
 アビガイルはダビデの求婚を快く受け入れます。ナバルは愚かでしたがダビデは違いました。アビガイルはナバルの愚かさにこれまでずっと耐えていたはずです(Ⅰサムエル24:25)。しかし、ダビデには知恵と思慮がありました。これからダビデが地位においても財産においてもナバルを凌駕するのは明らかでした。つまり、全ての点でダビデのほうがナバルより優っていました。信仰の面は言うまでもありません。ですから、アビガイルは喜びをもってダビデの求婚を受諾したのです。『まあ。』という短い言葉が彼女の歓喜をよく示しています。アビガイルは愚かなナバルからダビデに夫を変えられたので、せいせいしているかのようです。ここでアビガイルが『女奴隷』になると言っているのは、文字通りの意味ではなかったでしょう。何故なら、アビガイルは妻となるのであって、奴隷になるのではないからです。女奴隷になるというのは妻としての謙遜さを示す表明だったはずです。つまり、アビガイルは妻として奴隷のような服従心をダビデに対して持つ、ということです。これは正しいことでした。神は妻たちに『夫に従いなさい。』(コロサイ3章18節)と聖書で命じておられるからです。アビガイルが『五人の侍女をあとに従え』て行ったのは、当然ながら身の回りの世話をさせるためです。5人もの侍女を連れて行ったのは、ナバル家が大きく金持ちだったことを意味します。普通の家であれば侍女を5人も持てなかっただろうからです。侍女の数が「5」人だったことに象徴的な意味は無いと思われます。これは単に多くの侍女がいたというだけのことでしょう。

【25:43】
『ダビデはイズレエルの出のアヒノアムをめとっていたので、ふたりともダビデの妻となった。』
 ダビデはアビガイルを娶ったので一夫多妻となりました。ダビデは既に『イズレエルの出のアヒノアムをめとっていた』からです。『イズレエル』はユダヤの北のほうにある場所で、そこはイッサカルの相続地でした。この『アヒノアム』という女について詳しいことは分かりません。ダビデがこのように2人も妻を持ったことについて、違和感を持つ人がもしかしたらいるかもしれません。現代は多くの国で一夫多妻が一般的で無くなっているからです。しかし、ダビデの時代において一夫多妻は普通の慣習でした。しかし、確かなところ、今の時代のほうがまともです。何故なら、律法において神は一夫多妻を禁じておられるからです(申命記17:17)。神の御心は、1人の男が1人の女と結び合い、そのままの状態で保たれることです(創世記2:24)。ですから、ダビデは本当であれば1人の妻を持つだけで満足しているべきでした。

【25:44】
『サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリムの出のライシュの子パルティに与えていた。』
 サウルは、愚かにもダビデの妻となったミカルを、ダビデから引き離して別の男に与えていました。これはダビデへの嫌悪感に基づいています。サウルは自分の娘がダビデと結ばれている状態を不満がっていたのです。しかし、だからといって他人の妻を勝手に引き離していいということはありません。キリストが、『人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。』(マタイ19章6節)と言われた通りです。しかし、サウルはダビデとその妻ミカルを強制的に引き離しました。ここにサウルの愚かさがありました。ミカルが与えられた『パルティ』という男については詳しく分かりません。もしサウルがダビデを敵視していなければ、決してミカルはこのパルティに与えられたりしなかったでしょう。

【26:1~2】
『ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているではありませんか。」そこでサウルはすぐ、三千人のイスラエルの精鋭を率い、ジフの荒野にいるダビデを求めてジフの荒野へ下って行った。』
 またもやダビデの隠れ場所がサウルに報告されてしまいます。ダビデはナバルが住んでいた場所からそう遠く離れていない『ジフ』にいましたから、そこにいるジフ人がサウルのいるギブアまで北上し、ダビデのことを報告したのです。ダビデがまだ隠れていたのは、サウルが相も変わらず自分の命を狙っていると分かっていたからです。この報告を聞いたサウルは、『三千人のイスラエルの精鋭を率い』、ダビデを捜しに向かいました。未だにサウルはダビデを葬ろうとしていたのです。もし葬ることを諦めたのであれば、こうしてダビデを捜しに出たりはしなかったはずです。『すぐ』にサウルが出陣したのは、どれだけダビデを消し去りたかったかよく示しています。このようにダビデは一般人からも王からも苦しめられました。正しい者に敵は決して少なくないのです。

【26:3~4】
『サウルは、エシモンの東にあるハキラの丘で、道のかたわらに陣を敷いた。一方、ダビデは荒野にとどまっていた。ダビデはサウルが自分を追って荒野に来たのを見たので、斥候を送り、サウルが確かに来たことを知った。』
 サウルがダビデの近くまで来たので、その群れを見たダビデは斥候を送り、本当にサウルが来たことをよく確かめさせます。斥候を送ったのは実際に確かめさせるだけでなく、サウルたちの陣営や状態がどのようであるか調べさせるためでもありました。しっかり情報を得ないと良き戦略も立てにくくなるからです。このようにしてダビデはサウルがまだ自分を付け狙っていると再確認させられます。ダビデはサウルのことで大いに恐れていたでしょう。しかし、このようになったのは神がダビデに与えられた試練の一つでした。

【26:5】
『ダビデは、サウルが陣を敷いている場所へ出て行き、サウルと、その将軍ネルの子アブネルとが寝ている場所を見つけた。サウルは幕営の中で寝ており、兵士たちは、その回りに宿営していた。』
 ダビデはサウルから逃げるのでなく寧ろサウルの陣営に近付きました。神に守られるという確信のゆえ、また斥候を通して得た情報のゆえ、ダビデはサウルの陣営に行くことが出来ました。もしこれら2つのうちどちらか、または両方とも欠けていたとすれば、ダビデはサウルの陣営に近付けなかったかもしれません。その場合、近付くのは無謀となり、ダビデが捕えられてしまいかねないからです。信仰と情報があれば勇敢さと安全が生じるようになります。しかし、これらのどちらか、あるいは両方が無ければ、臆病と危険が生じます。ダビデはこのどちらも持っていました。それは神が与えられたのです。もし神が与えられなければダビデはどちらも持っていなかったでしょう。ダビデがサウルの陣営に行くと、サウルとその将軍アブネルは寝ていました。偶然に寝ていたのではありません。神が寝るよう働きかけておられたのです。これは神がダビデの手にサウルを渡されたということです。こうなったのは神がダビデを好んでおられ、サウルを嫌っておられたからです。もし神が働いておられなければこんな出来事は起こらなかったはずです。その場合、ダビデが敵の陣営に乗り込んでいたら悲惨な状態となりかねませんでした。

【26:6~7】
『そこで、ダビデは、ヘテ人アヒメレクと、ヨアブの兄弟で、ツェルヤの子アビシャイとに言った。「だれか私といっしょに陣営のサウルのところへ下って行く者はいないか。」するとアビシャイが答えた。「私があなたといっしょに下って行きます。」ダビデとアビシャイは夜、民のところに行った。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ており、彼の槍が、その枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵士たちも、その回りに眠っていた。』
 ダビデは、サウルの近くに行く際、一緒に行く者を募ります。これはダビデが臆病だったからでなく、複数で行ったほうが望ましいからです。神も伝道者の書で複数の有益さを示しておられます(4:9~12)。であれば、どうして複数で行こうとすることが悪いというのでしょうか。ダビデが募ると『ツェルヤの子アビシャイ』が進み出ました。ダビデがこのアビシャイを連れてサウルの陣営まで行くと、そこにいた者は全て寝ていました。3000人も精鋭がいたので安心しきっていたのでしょうか(Ⅰサムエル26:2)。これが古代のローマ軍であれば幾人かでも見張りの兵士を配置しておいたでしょう。ところが、サウルは恐らく1人も見張りを置いていなかったと思われます。そうだったとすれば、ここにもサウルの愚かさが現われています。サウルのように隙を少しでも作れば、ダビデの事例を見れば分かる通り、その隙から危機がするりと忍び込んで来ます。私たちはそのような隙を作らないよう注意すべきでしょう。

【26:8】
『アビシャイはダビデに言った。「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。二度することはいりません。」』
 サウルの群れが眠りに陥っていたのは、神がダビデにサウルを渡されたことでした。もし神がサウルを渡されたのでなければ、どうしてこのような出来事が起きたでしょうか。アビシャイは、神がサウルをダビデに渡されたのだから復讐として殺してしまうべきだ、とダビデに提言します。私が地面に打ち込まれているサウルの槍で必ずサウルを絶命させて見せましょう、とアビシャイは意気込みます。『二度することはいりません。』という言葉は彼の自信を示しています。この出来事は、以前に起きた出来事と似ています(Ⅰサムエル24章)。前の時も、サウルがダビデに渡されたのでタイミング良く殺すチャンスを得た、という次第になりました。前との違いは、ダビデが殺すのか、それとも家来が殺すのか、ということだけです。今回は前回と違い、家来がダビデに代わって手を下そうとしています。このように前と似た出来事が起きたのは、神がそのようにされたからです。神は同じことを繰り返して実現される御方なのです。こう書かれている通りです。『今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。』(伝道者の書3章15節)

【26:9~11】
『しかしダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」ダビデは言った。「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。』
 ダビデは、先の時と同様の理由から、サウルを殺害すべきでないとアビシャイに言います。そんなことをすればダビデたちは裁かれて悲惨になってしまうからです。ダビデはこのことをよく弁えていましたが、アビシャイは弁えていませんでした。やはりダビデの霊性と神に関する知識は群を抜いていました。神がそれらを賜物としてダビデに与えられたからです。私たちもサウルのような権威者に決して手を下してはなりません。そのようにするのは自分を殺すことも等しい愚行なのです。このことから、カリグラが刺殺されたのは間違いだったと分かります。確かに、カリグラはあまりにも邪悪な皇帝であって裁かれるべきでした。しかし、だからといって勝手に殺されるべきではありませんでした。カエサルが暗殺されたのもそうです。確かにカエサルは傲慢になり過ぎており、その絶大な権力を失わせるのは暗殺によってしか可能でなかったかもしれません。しかし、だからといってブルートゥスたちがカエサルを暗殺して良かったということはなく、彼らはダビデのようにじっとしているべきだったのです。

 ダビデは、これからサウルが必ず神に裁かれると、ここで御名によって誓いつつ断言しています。サウルが神から裁かれることになるのは明らかでした。何故なら、サウルは神に背いており、ダビデという正しい者を憎んで殺そうとしていたからです。例えば、他の虫に食いちぎられて弱々しくなっている虫がいたとすれば、私たちはその虫がもう間もなく死ぬことになると思うでしょう。サウルに神の裁きが注がれるということも、そのように容易く予想できたのです。ダビデは、サウルが2種類のどちらかにより裁かれると言っています。すなわち、病気や事故などで裁き殺されるか、『戦いに下ったときに滅ぼされる』か、です。サウルが裁きの死をこれから受けることは間違いありませんでした。しかし、ダビデはサウルがどのようにして裁き殺されるかまだ知りませんでした。後の箇所から分かる通り、サウルはこのうち後者、すなわち『戦いに下ったときに滅ぼされる』という裁きを受けました。

【26:11~12】
『さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。」こうしてダビデはサウルの枕もとの槍と水差しとを取り、ふたりは立ち去ったが、だれひとりとしてこれを見た者も、気づいた者も、目をさました者もなかった。主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていたからである。』
 ダビデは、前回と同じように、サウルの所有物を密かに持って行きます。前回は裾を切り取り持って行きましたが、今回は『槍と水差し』を持って行きました。これはダビデがサウルに何の悪意も持っていないことを示す証拠とするためです。何故なら、もし悪意があったならば殺せるのにどうして殺さなかったのか、という疑問が生じるからです。ダビデがこれらを持ち去ったのは、そうするのが適切だったからです。今回はわざわざ裾を切り取る必要がありませんでした。このようにして再び前と同じ出来事が神により起こされました。前回の出来事も今回の出来事も、本質的には全く一緒の出来事です。神はこのように何度も同じことを為さる御方なのです。それは今でも変わりません。原爆が2回落とされたことや、世界大戦が2度起きたことを考えれば、これは分かるはずです。

 サウル陣営にいた者たちは、全て寝ていたので、ダビデたちが来たことも、サウルの所有物を持ち去ったことも、全く気付きませんでした。それは『主が彼らを深い眠りに陥れられた』からです。これは正に奇跡的な出来事です。いや、これは奇跡そのものとして起きた出来事でした。神はダビデを守り、ダビデの潔白がサウルに示されることを望んでおられました。それはサウル陣営にいる全ての者に深い眠りを下せば実現されます。ですから、神はそうなさいました。神がそのようにされなければ、重要な戦の時であるというのに一体どうしてこんなことが起こるでしょうか。普通ではこのようなことなど考えられません。戦いの時に全ての人員が寝ているというのは前代未聞なのです。この時の眠りは、女が創造される時におけるアダムの眠りと一緒だったでしょう(創世記2:21)。これはどのようにしても目覚めることのない眠りでした。神は決して目覚めさせないため彼らを『深い眠りに陥れられた』のだからです。

【26:13~14】
『ダビデは向こう側へ渡って行き、遠く離れた山の頂上に立った。彼らの間には、かなりの隔たりがあった。そしてダビデは、兵士たちとネルの子アブネルに呼びかけて言った。「アブネル。返事をしろ。」アブネルは答えて言った。「王を呼びつけるおまえはだれだ。」』
 サウルの槍と水差しを持ち去ったダビデは、かなり遠くの山まで行き、そこからサウル陣営に呼びかけます。ダビデが遠くまで行ったのは、サウルたちが目覚めた際に安全でいられるためだったのでしょう。しかし、『かなりの隔たりがあった』といってもどのぐらいの距離が離れていたかは私たちに分かりません。ここには書かれていませんが、ダビデはサウルに呼びかけました。またダビデはアブネルにも呼びかけます。その呼びかけに気付いたアブネルは、何だこの野郎とでも言わんばかりに応答します。殺そうとしている敵が自分に呼びかけて来たからです。

【26:15~16】
『ダビデはアブネルに言った。「おまえは男ではないか。イスラエル中で、おまえに並ぶ者があろうか。おまえはなぜ、自分の主君である王を見張っていなかったのだ。兵士のひとりが、おまえの主君である王を殺しにはいり込んだのに。おまえのやったことは良くない。主に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、主に油そそがれた方を見張っていなかったからだ。今、王の枕もとにあった王の槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。」』
 ダビデはここで、アブネルを非常に高く評価しています。ダビデがアブネルを評価していたのはもっともでした。何故なら、アブネルは将軍であり、サウルの右腕であり、イスラエル国のナンバー2だったからです。ネロ治世のローマで言えばセネカと権力において同等だったはずです。ダビデが『イスラエル中で、おまえに並ぶ者があろうか。』と言ったのは、サウルを除いてのことです。言うまでもなくサウルだけはアブネルに並ぶどころかアブネルより優っていました。ここでダビデはアブネルを自分よりも高く見做しています。ダビデは隊長にまでしか引き上げられませんでしたが、アブネルは将軍にまで引き上げられたからです。

 アブネルは将軍なのですから、サウルという主君を誰よりも注意して見守るべきでした。ところが、アブネルはサウルと一緒に寝て見張りをしていませんでした。これは致命的な罪でした。ですから、ダビデは『おまえのやったことは良くない。』とアブネルを非難します。それは『死に値する』罪でした。古代ローマ軍では、無名かつ一般の兵士が夜番で少しでも寝ているところを発見されたら、容赦なく死刑に処せられました。これはかなり厳しかったものの、夜の見張りを怠れば敵に襲われて軍隊が壊滅しかねないのですから、間違っているとは言えない決まりでした。普通の兵士でさえ寝ていたら死刑になったとすれば、将軍という最も責任の重い職務に就いていたアブネルはどれだけ起きているべきだったでしょうか、またどれだけ死刑を受けるに相応しかったでしょうか。ダビデはアブネルのほか寝ていた兵士たちが全て死に値するということを、御名によって誓いつつ断言します。つまり、アブネルたちは死刑にされても全く文句を言えなかったということです。『おまえは男ではないか。』という言葉は、「男であるというのに自分の主君を守るため見張っていなかったのは一体どういうわけか。」という意味です。「この体たらくめ。男として情けなくないのか。」とダビデは言いたいわけです。

 サウルのような主君を守るため見張らないで眠っているというのは、あまりにも大きな罪です。このような罪を犯すならば死なされたとしても自業自得でしょう。日本でSPが首相の警護を怠っていたとすれば、そのようなSPは処罰されたり非難されたりクビにされたりするでしょう。アブネルはこのような日本のSPよりも酷い罪を犯していました。というのも、将軍は責任の重さにおいてSPを幾倍も上回っているからです。

【26:17】
『サウルはそれがダビデの声だとわかって言った。「わが子ダビデよ。これはおまえの声ではないか。」ダビデは答えた。「私の声です。王さま。」』
 サウルは声の主がダビデであると気付いたので、ダビデに応答します。ダビデはかなり遠くに離れていたので、視覚だけでは誰なのか判断できませんでした。ですから、ダビデは本当に遠くまで離れていたことが分かります。アブネルが『王を呼びつけるおまえはだれだ。』(Ⅰサムエル26章14節)と言ったのも、このためだったのでしょう。ダビデが矢の届かない距離にまで離れていたのは間違いりません。もしそうしなければ、矢を放たれて死んだり重症になったりしかねないからです。サウルがここでダビデに『わが子』と言っているのは、既に説明済みです。サウルにとってダビデは憎き敵でしたが、しかしあくまでも義理の息子であることに変わりはありませんでした。

【26:18】
『そして言った。「なぜ、わが君はこのしもべのあとを追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。』
 ダビデは自分の潔白をサウルに訴えます。既にダビデはサウルの槍と水差しについて話しています(Ⅰサムエル26:16)。ですから、サウルは自分の槍と水差しが取られていたことに気付いていたはずです。ダビデはサウルの命を取らず、サウルの所有物を取っただけでした。これはダビデがサウルに何の殺意も持っていないという十分な証拠となります。それゆえ、この箇所におけるダビデの訴えは大きな説得力がありました。このようにして神はダビデの潔白をサウルにまざまざと示されました。こうなるために、神はサウルの陣営にいた全員を眠らせ、ダビデがサウルの所有物を持ち去るようにされたのです。なお、ダビデがサウルの所有物を持ち去ったのは、『盗んではならない。』という戒めへの違反となりませんでした。何故なら、ダビデは欲望のために持ち去ったのでなく、潔白を示す証拠品として持ち去ったに過ぎないからです。律法が禁じているのは欲望に基づく罪深い盗みです。例えば、国家がある犯罪者から物品を証拠品として勝手に押収しても、国家は盗みの罪を犯すことになりません。ダビデがこの時にサウルの所有物を持ち去ったのも、これと同じで盗みの罪ではありませんでした。