【Ⅰサムエル記2:1~10】(2022/07/31)


【2:1】
『ハンナは祈って言った。』
 ハンナはシロで神の霊により祈り預言しました。それは実に霊的であり、心に留めるべき内容です。

『「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。』
 ハンナは神の『救いを喜ぶ』と言っていますが、この『救い』とは何のことでしょうか。2つが考えれます。一つ目は、ハンナが不妊の悩みと苦しみから神により救われたことです。二つ目は、やがて来たるべきキリストによる聖なる御救いです。この2つのうち、どちらも神の救いであることは間違いありません。ハンナの祈りを見ると(Ⅰサムエル記2:1~10)、どちらにも解することができると分かります。何故なら、ハンナは祈りの中で不妊のことにもキリストのことにも言及しているからです。どちらの意味で捉えても違和感は全くありません。この『救い』は神の救い全般を意味していると解するのが無難かもしれません。いずれにせよ私たちもハンナのように神の救いを喜ぶべきです。神の救いがなければ、私たちには悲惨と呪いと地獄しかないからです。もしキリストの救いがなければ、私たちに救いはありませんでした。であれば、どうして私たちが主の救いを喜ばないでいていいのでしょうか。

 ハンナはこの救いゆえ主を誇っていました。何故なら、ハンナは救い主であられる神とその救いを持っていたからです。自分を誇るのは良くありません。しかし、このハンナのように主を誇るのは問題なく、それは非常に良いことです。『誇る者は主にあって誇れ。』(Ⅰコリント1:31)と書かれている通りです。

 ハンナが言っている『角』とは権威や尊厳を意味します。ハンナは主の救いを受けていたので、自分の角が『高く上がります』と言っています。これは主の救いを受けて贖われた者は、主に高められて王とされるからです(Ⅰペテロ2:9)。ですから、この『角』という言葉は単なる象徴表現に過ぎません。まさか、ハンナの頭かどこかに実際の角が生えていたなどと考える人もいないはずです。

 またハンナは自分の口が敵に向かって大きく開くとも言っています。つまり、敵対する悪魔やその子らに対し、決して臆することなく大胆な態度で向かえるということです。何故なら、主の救いを受けた者は贖われて神から義と認められるからです。至高の主から義と認められた者であれば、狡猾な悪魔でさえその者について主に訴えることができません。『神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。』(ローマ8:33)とパウロが言った通りです。このように贖われた者は主の御前で悪魔からの非難を免れるのですから、堂々と悪魔に対して口を開くことができるのです。ちょうど裁判で無罪を宣告された人が、訴えを起こしたものの敗訴した人に対して悠然と構えることができるのと一緒です。

【2:2】
『主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。』
 ハンナが言うように神は『聖なる方』です。神は聖そのものであられます。セラフィムは『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主』(イザヤ6章3節)と言っています。主は無限に聖であられるので、『その御使いたちにさえ誤りを認められる』(ヨブ4章18節)ほどです。主は聖であられますから塵ほどの悪や汚れや不完全さも持っておられません。もしこれらがほんの少しでもあったとすれば、主を『聖なる方』と呼ぶことはできませんでした。このように『聖なる方』はただ主お一人だけであられます。主とその聖性は他に例がないのです。ですから、ハンナは主に『並ぶ者はない』と言っています。またハンナは神を『岩』と呼んでいます。『岩』とは霊的な拠り所としての存在という意味です。霊的に真の岩なる存在はこの神以外に存在していません。何故なら、パウロも言うように『神は唯一』(Ⅰテモテ2章5節)だからです。この神という岩によってのみ人は霊的に固く立つことができます。この神でない神と呼ばれる存在は全て偽りの存在ですから、そもそも存在しないゆえ岩と呼ぶことができません。異教徒たちは偽りの神々を自分の岩としていますが、彼らは幻影を岩としているに過ぎないのです。こういうわけですから、神が『岩』だと言われているのは物質的な意味というより表現です。この箇所以外でも、聖書の多くの箇所で神は『岩』と言われています。それゆえ、私たちは神を霊的な岩として認識すべきでしょう。

【2:3】
『高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに主は、すべてを知る神。』
 高ぶると人間は多くを語りがちな傾向となります。自分が優れていると思うので、何を語っても正しいだろうから問題ない、もしくは許されるだろう、と感じるからです。ですから高ぶりは多弁の友です。しかし、ハンナは『高ぶって、多くを語ってはなりません』と言います。何故なら、多くを語っても虚しいだけだからです。『多く語れば、それだけむなしさを増す』(伝道者の書6章11節)と書かれている通りです。また多弁は愚か者の特徴です。『愚か者はよくしゃべる。』(伝道者の書10章14節)と言われている通りです。ハンナは『横柄なことば』も口から出すべきでないと言います。これは横柄な言葉が罪であり神の御心に適わないからです。多くを語るならば、それだけ横柄な言葉も多くなりがちです。ハンナが言うように『主は、すべてを知る神』ですから、私たち人間が何かを話す前から既に私たちの心のことを全て知っておられます。つまり、神は私たちが何も言わなくても全て私たちについて御存知であられます。それゆえ、私たちは主の御前で言葉数を少なくすべきなのです。『ことばを少なくせよ。』(伝道者の書5章2節)と書かれている通りに。高慢な者はパリサイ人のように長々しく御前で祈りを捧げるものなのです。

『そのみわざは確かです。』
 ハンナは主の『みわざは確か』だと言っていますが、これは主の働きかけが常に確実で曖昧でないという意味です。神は神であられますから、人間のように失敗したり曖昧な仕方で行なわれるということがありません。たとえ私たちから見れば確かでないと思えても、神の御業による働きは確実に進められています。これは植物が良い例です。私たちが植物を見ても成長の動きがあるようには感じられませんが、気付くといつの間にか大きくなったり実を結んだりしています。これは神が徐々にその御業の働きを木に対し行なっておられたからです。ハンナは、祈りが聞かれたのでサムエルを産んだことにより、この神の御業をまざまざと感じていました。何故なら、ハンナにとってサムエルの出産は神からの働きかけとしか考えられなかったからです。実際、神がその御業において働きかけられたからこそ、ハンナは身籠りサムエルを産んだのでした。

【2:4~5】
『勇士の弓が砕かれ、弱い者が力を帯び、食べ飽いた者がパンのために雇われ、飢えていた者が働きをやめ、不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます。』
 ここでハンナは主の御業を6つ挙げています。まず神は『勇士の弓が砕かれ』るように働きかけられます。弓が砕かれるというのはあまり聞かれません。『弓が砕かれ』るというのは表現だと思われます。つまり、神は勇士の勇気を挫いてその頼みとする弓が全く使えないようにさせる、ということです。また神は『弱い者が力を帯び』るようにされます。これの良い例はカナン侵攻時のイスラエル人です。その時、イスラエル人は弱く、カナン人は強い民族たちでした。ところが、神によりユダヤ人は『力を帯び』たので、自分たちより強く数も多いカナン人を滅ぼすことが出来たのでした。また神は、『食べ飽いた者』である富む者が『パンのために雇われ』なければいけなくなるほどの貧困状態に引き下げられます。これは地位のある金持ちや有名人が、突如として戦争や事件や不祥事などにより悲惨となり、奴隷も同然の状態になってしまうのがそれです。これとは逆に、神は『飢えていた者が働きをやめ』るようにもされます。これは日々の生活にも困っていた浮浪者が、突如として人気を獲得したので、かつてのような労苦をせず悠々と生きられるようになるのがそれです。また神はその御業により、『不妊の女が七人の子を産』むようになさいます。この『七人』とは実際の人数というより多くの数を示す象徴数として解するべきでしょう。不妊の女が豊かに子を産むというのは、奈落の苦悩から大いに引き上げられることです。ハンナは自分を念頭に置いてこう言っていたのかもしれません。何故なら、ハンナは『不妊の女』でしたし、遂に産まれたサムエルは『七人の子』であるも等しい念願の子だったからです。これとは逆に、神は『多くの子を持つ女』を『しおれ』させてしまわれます。つまり、子沢山ゆえ幸福であった女が、幸福を失い不幸にさせられるということです。これは複数の子を持っていたペニンナが念頭に置かれているのかもしれません。もしそうだとすれば、ペニンナはハンナを虐めた罪のため神から裁かれて不幸になったことになります。その不幸が『しおれてしまいます。』と言い表されていると。

【2:6】
『主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。』
 私たちの神は、『殺し』て後、『生かし』て下さる御方です。これはエジプトにいたユダヤ人が良い例です。彼らは400年間もエジプト人から虐げることで苦しんでいましたので、言わば殺されていた状態にありました。しかし、神が彼らを贖い出されたので、救われ、言わば生きるようにされました。ハンナの場合もそうでした。ハンナは不妊の苦しみで殺されているも同然でした。しかし神がハンナにサムエルを身籠らせて下さったので、殺されているかのような苦しみから解放され、生きるようにされました。キリストの場合は実際に『殺し、また生かし』という言葉の通りになりました。すなわち、キリストはユダヤ人の策略により十字架刑を通して殺されました。しかし、神はこのキリストを蘇らせ再び生きるようになさいました。この『主は殺し、また生かし』という御言葉は、申命記32:39の箇所でも言われていました。主はあらゆる存在に対し至高の権威をお持ちですから、どのような存在に対しても殺したり生かしたりする合法的な権利を持っておられます。もしそうでなければ主は至高の権威者でないことになってしまいます。

 また主は『よみ』すなわち地獄に『下し』、そうして後にそこから『上げる』御方です。地獄に下された者が上げられるということはありません。ですから、『よみに下し、また上げる』というのは表現だと解せられます。つまり、これは地獄に下されるかのような苦しみに陥らせて後、その苦悩から解放されるという意味です。ハンナも不妊とペニンナの齎す苦痛で正に黄泉にいるかのようでしたが、サムエルの出産によりその苦悩から上げられました。しかし、キリストの場合は本当に『よみに下し、また上げる』という言葉の通りになりました。すなわち、主は十字架で死なれてから地獄に下られました。しかし、死後三日目に神がキリストを蘇らせたので、主は地獄から上がられました。正に『よみに下し、また上げる』という御言葉の通りです。

【2:7】
『主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。』
 主は、まず『貧しくし』、そうしてから『富ませ』ることをされる御方です。今の時代でも、貧乏だった人が突如として富裕になるというケースはそれほど珍しくありません。例えば、貧しかった経営者が事業を大成功させたので突如として大金持ちになったり、無名だったのにブレイクして大スターとなるアーティストがそうです。貧しかったのに富裕状態へと転じるというのは神の御業でなくて何でしょうか。神は、人を御心のままに貧しくし富ませられます。ですから、貧困も富裕も全て神の御心にかかっていることが分かります。

 このように主は『低くし、また高くする』御方です。どうして主は低くされたり高くされたりされるのでしょうか。それは御自分の裁き、教育性また父性、恵みを示すためです。悪人がその悪のため低められるならば神の裁きが示されますし、聖徒たちが低められるならば聖徒たちの忍耐により神の教育性また父性が示されます。ある人が低みから高められるのであれば、その上昇において神の恵みが示されます。神は御自分がどのような御方であるかお示しになるためこの世界を創造されましたから、このように低くしたり高くしたりされるのです。

【2:8】
『主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。』
 主は、『弱い者』や『貧しい人』を引き上げられる御方です。引き上げられるのは『ちり』や『あくた』(灰捨て場)からです。これは貧困や抑圧や苦悩といった惨めな状態のことです。主は、彼らを引き上げて『高貴な者とともに、すわらせ』、『栄光の位を継がせ』られます。これは救われて天国に至ることです。『高貴な者』とはキリストのことでしょう。つまり、救われて引き上げられた者は、天国でキリストと共に栄光の座に座るのです。こうして彼らは『栄光の位を継』ぎます。何故なら、天国にいる者は『永遠に王』(黙示録22章5節)だからです。主はこのように惨めな者をこそ選ばれ引き上げられます。それはパウロがこう言った通りです。『この世のとるに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。』(Ⅰコリント1章28節)しかし、主が惨めな者を引き上げられるというのは傾向であって、惨めでない者が全く引き上げられないというわけではありません。主は惨めでない者も時には引き上げられます。例えば、金持ちであったアリマタヤのヨセフやパリサイ派の最強エリートであったパウロがそうです。では、どうして神は惨めな者をこそ引き上げられるのでしょうか。それは神の栄光が現われるためです。もし強い者や富む者が引き上げられたら、その者たちは引き上げられたことを誇り、その救いを自分の功績に基づかせようとするでしょう。これでは神の栄光となりませんから、何のために救い引き上げるのか分からなくなってしまいます。パウロが言っている通り、惨めな者が引き上げられるのは『神の御前でだれをも誇らせないため』(Ⅰコリント1章29節)です。『弱い者』や『貧しい人』といった惨めな者であれば、引き上げられるような要素を持っていませんから、引き上げられても自分を誇るということがないのです。

 これが人間であれば高かったり優れたりする者を選んでいたでしょう。実際、企業家は優秀な人材を求めます。優れたバンドも力量のあるプレイヤーを欲します。スポーツチームもやはり最強の選手を加入させたく願います。人間が『弱い者』や『貧しい人』を求めるという場合はほとんど、もしくはあまりありません。ところが神はそのような者をこそ求め、好まれます。ここが神と人間における大きな違いです。神は人間が求めないような者を求められるのです。これゆえ人間が神を理解するのは非常に難しいわけなのです。

『まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。』
 ハンナは、この世界が神という建築家により建築された家として例えています。『地』とはこの地上世界のことであり、狭く見れば地球の全体、広く見れば地球をも含めた宇宙全体です。この地に備えられた柱は神によります。神は『その上に』『世界を据えられました』。つまり、これはこの地上世界が決して揺るがないということです。何故なら、神は完全であられるので、その建築も完全だからです。それでは「天」はどうなのでしょうか。この地上が神による建築であるのなら、神のおられる天は尚のこと神による建築だと言わねばなりません。また、この地上が神に据えられたゆえ揺るがないのであれば、神のおられる天も揺るがないことは疑えません。詰まる所、地も天も、揺らせば壊れる人間が建築した家のようではないのです。

【2:9】
『主は聖徒たちの足を守られます。』
 主が聖徒たちの足を守られるというのは、どういった意味でしょうか。これは2つのことを言っています。一つ目は倫理的な歩みのことです。つまり、主は聖徒たちの歩む方向が破滅を齎す道筋に決して入り込まないよう守って下さいます。二つ目は実際的な意味です。つまり、主は聖徒たちの足が躓くなどして致命的な障害を負ったりしないよう守って下さいます。主は、御自分の使いである天使たちを通し、このように守って下さいます。こう書かれている通りです。『まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。』(詩篇91:11~12)

『悪者どもは、やみの中に滅びうせます。』
 聖徒たちとは異なり、『悪者どもは、やみの中に滅びうせます』。何故なら、悪者どもの足は聖徒たちのように神から守られないからです。いちいち他人の子の歩みを気にしてばかりいる親がどこかにいるでしょうか。恐らくそんな暇な親はいないはずです。誰でも気にするのは自分の子の歩みです。神の子らでない悪者どももこの通りです。彼らの親は神ではありませんから、聖徒たちのように神から守るよう配慮していただけないのです。このため、悪者どもの歩みは神から守られずに破滅の闇へと向って進みます。こうして『悪者どもは、やみの中に滅びうせ』てしまうのです。実際、悪者どもはこれまで闇の中に突っ込んで滅び失せてきました。傲慢なパロは海に呑み込まれ、闇の中に滅び失せました。不遜なコラは地面に引きずり込まれ、闇の中に滅び失せました。高慢なゴリアテはダビデに打ち破られ、闇の中に滅び失せました。邪悪なユダはキリストを裏切った末に自殺し、闇の中に滅び失せました。狂乱のヒトラーは窮地に追い込まれたので自害し、闇の中に滅び失せました。

『まことに人は、おのれの力によっては勝てません。』
 人が勝利するのはただ神によります。すなわち、人は神の御心であれば必ず勝ち、御心でなければ必ず敗けます。勝敗は神にのみかかっているのです。これは重要な理解ですから是非とも覚えておくべきです。この世は勝敗が人間の力にかかっていると考えています。しかし、これは勘違いです。たとえ人が多くの力を持っていたとしても、勝利を得られるのは神によります。ですから、こう言われています。『王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。』(詩篇33:16~17)こういうわけで、神は自分自身に頼る者でなく神にこそ頼る者を喜ばれます。こう書かれている通りです。『神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。』(詩篇147:10~11)人にどれだけ力があっても御心でなければ勝てはしません。しかし、力がなくとも神の御心であれば勝利します。それゆえ、私たちもハンナが言ったようにこう言いましょう。『まことに人は、おのれの力によっては勝てません。』

【2:10】
『主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。』
 主は万物の王・主権者であられ、全てを支配しておられます。ですから、主は御自分に刃向かう不遜な者を許されません。このため、『主は、はむかう者を打ち砕』かれます。ちょうど、王がクーデターを起こした反逆者たちを厳しく処罰するように。実際、これまで主は刃向かう者を打ち砕いて来られました。古代ユダヤ人は主に刃向かってばかりいたので、紀元70年に滅ぼされてしまいました。ローマとその皇帝も長らく主とその民に刃向かっていたので、打ち砕かれてしまいました。ニーチェも主に刃向かってばかいたので打ち砕かれてしまいました。また主は、刃向かう者に『天から雷鳴を響かせられます』。『雷鳴』とは死や裁きの威嚇でしょう。つまり、これは表現です。もちろん実際的な雷鳴により威嚇される者もいるでしょうが、刃向かう者が全て物理現象としての雷鳴による威嚇を受けるということはないはずです。

『主は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。」』
 これは明らかにキリストの預言です。神がハンナの口を通して、やがて来たるべきキリストについて予め示されたのです。古代のユダヤ人はこのようなキリスト預言を聞いて、ますます自分たちの救い主であられるキリストを待望するようになっていたのです。

 『主は地の果て果てまでさばき』をなさいますが、これは世界中に福音の御言葉が告げ知らされることです。福音とは審判であって、それを聞く者を天国か地獄に振り分けるからです。すなわち、福音を信じる者は天国に至り、信じない者は地獄に至ります。ですから、人は福音の御言葉により霊的な審判を受けるのです。これはキリストに遣わされた使徒たちの世界伝道を通して実現されました。しかし、主は今でも『地の果て果てまでさばき』をしておられます。というのは今でも世界中で福音が宣べ伝えられ続けているからです。主はこれからも世界中において裁きをされ続けるでしょう。これからも福音が世界中で宣べ伝えられ続けるのは疑えないことだからです。

 神はキリストに『力を授け』られます。この『力』とは何でしょうか。これは権威および奇跡のことでしょう。キリストに権威という力が授けられたことについては、キリスト御自身がこう言っておられます。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。』(マタイ28章18節)神がキリストに奇跡を行なう力を授けておられたことは福音書から明らかです。ここではキリストが『王』と言われていますが、確かにキリストは王であられます。黙示録1:5の箇所で『地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト』と書かれている通りです。キリストは王を支配される御方なのですから、当然ながらキリスト御自身も王なのです。ここで『王』と言われているのをダビデやソロモンといったイスラエル王国の王だと解すべきではありません。何故なら、ここで言われている『王』は『地の果て果てまでさばき』をなさるからです。世界中に裁きをなされるのはキリスト以外にありません。ダビデやソロモンは世界中で裁きをしませんでした。ソロモンであればかなり多くの国と地域を裁いていましたが、彼が『地の果て果てまでさばき』をしていたとは言えません。

 また神は『主に油そそがれた者』であられるキリストの『角を高く上げられます』。『角』とは先に見たⅠサムエル記2:1の箇所と同じ意味であり、尊厳や権威を示します。実際、神はキリストの角を高く上げられたので、キリストは高められて万物に対する至高の権威をお持ちになられました。こう書かれている通りです。『キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。』(Ⅰペテロ3章22節)先の箇所と同様、この箇所で言われている『角』とは単なる表現であり、キリストに実際の角が生えているというのではありません。