【Ⅰサムエル記26:19~28:8】(2022/12/04)


【26:19】
『王さま。どうか今、このしもべの言うことを聞いてください。もし私にはむかうようにあなたに誘いかけられたのが主であれば、主はあなたのささげ物を受け入れられるでしょう。しかし、それが人によるのであれば、主の前で彼らがのろわれますように。彼らはきょう、私を追い払って、主のゆずりの地にあずからせず、行ってほかの神々に仕えよ、と言っているからです。』
 もしサウルが神の働きかけによりダビデを迫害していたとすれば、何も問題はありませんでした。何故なら、誰が神の為されることに異を唱えていいでしょうか。神は宇宙の主権者であられます。こうであればダビデもサウルによる迫害を仕方なしと諦めて我慢していたでしょう。ダビデは神を愛する敬虔な聖徒だったのですから。この場合、主はサウルの『ささげ物を受け入れられ』 ます。サウルがダビデを付け狙っていても罪は犯されていないからです。『悪者のいけにえは主に忌みきらわれる』(箴言15章8節)のですが、正しい者の生贄は主に喜ばれます。しかし、サウルは神によってでなく『人』によって働きかけられていました。しかも、サウルに誘いかけたのは個人でなく『彼ら』すなわち複数人でした。彼らはダビデを忌まわしい者として憎んでいました。ですから、彼らはダビデを追放し、イスラエルの地に住ませず、偶像の神々にダビデが仕えるよう望んでいました。このため彼らはサウルがダビデを殺すよう誘いかけていたのです。ダビデのような正しい者を神から引き離そうとするのは重罪です。それゆえ、ダビデは『主の前で彼らがのろわれますように。』と言っています。このような罪は律法で死罪に定められています(申命記13章)。このような者がどれだけいたかは分かりません。かなりの数がいたものと思われます。

 このように聖徒を神から離そうとするのは、あまりにも大きな罪です。そのような罪を犯す者は死に値します。キリストも、聖徒に躓きを齎すような者は海の中で溺れ死んだほうがましだと言っておられます(ルカ17:2)。しかし、神は敵がダビデにこうするのを許可されました。それはダビデがますます神信仰において堅固な者となるためでした。敵がダビデを神から引き離そうとすれば、ダビデはますます神を求めるようになるからです。

【26:20】
『どうか今、私が主の前から去って、この血を地面に流すことがありませんように。イスラエルの王が、山で、しゃこを追うように、一匹の蚤をねらって出て来られたからです。」』
 ダビデは、自分が主に背いてサウルの血を流したりしないよう願っています。そのようにするのは神とその命令を捨てることだからです。ダビデは神を愛する敬虔な聖徒でした。ですから、そのようなことは決して出来ませんでした。『どうか今、私が主の前から去って、この血を地面に流すことがありませんように。』という部分はやや難しい。これは私が今書いた通りに理解すべきでしょう。ダビデはこのように言って、サウルに何の殺意も持っていないことを示しています。また、ダビデはサウルに狙われる自分を『一匹の蚤』に例えています。1匹の蚤は人間に対して大したことがありません。ダビデもそのような蚤と同様、サウルに対して脅威ではありませんでした。ですから、サウルが蚤も同然のダビデを一生懸命に殺そうとするのは荒唐無稽でした。このように言うことでダビデは自分がサウルに無害な存在だと示そうとしています。

【26:21】
『サウルは言った。「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。きょう、私のいのちがおまえによって助けられたからだ。ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」』
 サウルはダビデの行ないと言葉により自分が間違っていたと認めます。ダビデの言葉はサウルを殺さないという行為により大きな説得力があったので、サウルは自分が誤っていたと認めざるを得ませんでした。このため、サウルはもう殺そうとしないから自分のところへ帰るように求めます。しかし、サウルは口で非を認めたものの、ダビデをまだ殺そうとしており、殺すためこのように戻るよう求めたはずです。ダビデを殺すというサウルの計画は変わっていませんでした。自分が罪深くてもサウルはダビデを殺したかったのです。サウルの計画が変わっていなかったのは、これからもサウルが引き続きダビデを殺すため捜そうとしたことから分かります。もし本当にもうダビデを殺そうとしなくなったのであれば、もう追いかけることをきっぱり止めていたはずなのです。

【26:22】
『ダビデは答えて言った。「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者のひとりをよこしてください。』
 ダビデは、サウルが罪を認めたからといって、サウルに近付こうとしません。警戒していたのです。ダビデはもしサウルに近付けばいつ殺されてもおかしくないと感じていました。この警戒は間違っていませんでした。サウルのダビデに対する殺意はこれからも衰えることが無かったからです。しかし、ダビデはサウルの槍をサウルに返さねばなりません。何故なら、ダビデは槍を盗むために盗んだのではなく、ただ殺意がない証拠とするために盗んだだけだったからです。もう既に槍を見せることで殺意がないことは証明されました。ですから、ダビデはサウルに槍を返すのです。しかし、ダビデは槍をサウルの家来である若者が取りに来るよう求めます。サウルが取りに来ることは許しませんでした。これはダビデがサウルを信頼していなかったからです。もし信頼していればサウルが取りに来ることを許していたかもしれません。

【26:23~24】
『主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」』
 『主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。』という部分は非常に重要です。これは私たちに大きな関わりを持つことだからです。神は、人の行ないと心を全てご覧になっておられます。誰かが偽善により良い行ないをしても、他人はそれを良い行ないだと思い込みます。人間は誰かの心を見ることが出来ないからです。しかし、偽善とは悪に他なりません。ですから、善という見せかけの下に覆われた悪を、善だと思い込まされていることになります。このため人間社会では、ずる賢い者が得をし易く、純粋な者が損をし易いのです。紀元1世紀のユダヤ社会でもそうでした。その時代では、偽善者であるパリサイ人が偽善のゆえ大きな敬意を受けており、疑うことを知らない民衆はパリサイ人の欺瞞に騙され続けていたのです。神はこのような偽善を憎まれます。しかし、本当の正しい行ないは神に喜ばれます。神は人の行ないをその背景にある心情と共に見られるからです。そのような行ないをする者は、神から祝福の報いを受けます。神は真実で正しくあられるので、『正しさと真実』を嘉せられるからです。その正しさと真実がより確かであればあるほど、神もそれだけ喜ばれます。

 ダビデがここで言っている通り、神はサウルをダビデの手に渡されましたから、ダビデはサウルを殺すことも可能でした。しかし、ダビデはサウルの殺害を望みませんでした。主に立てられた主権者を殺せば裁きが下されることは明らかだったからです。ダビデがサウルを殺さなかったのは正解でした。何故なら、神がサウルをダビデの手に渡されたのは、ダビデが殺害の悪を行なうかどうか試すためだったからです。先に述べた通り、神は人の正しさに報いられる御方なので、ダビデは自分がサウルを尊重して害さなかったので、自分も神から尊重され助けられると断言します。神は正しさに報いられままでいられないからです。実際、ダビデにはサウルを殺さなかった報いが与えられました。彼は生涯の最後まで敵から害されるということが無かったのです。もしダビデがサウルを殺していたとすれば、神がダビデに報いられたので、ダビデもやがて自分が殺したようにして誰かから殺されることになっていたでしょう。ですから、ダビデがサウルを殺さなかったのはダビデ自身のためになりました。ダビデは神と人を愛したことで死なずに済んだのです。

 ダビデは、神の報いをいつも自分の目の前に置いていました。すなわち、何をするにしてもダビデは神の報いを強く意識していました。これは正しいことでした。実際に神は報いられる御方だからです。ダビデはこのことを神から教えられてよく知っていました。私たちもこのことについて聖書から教えられよく知っています。神の報いを実際にまざまざと感じさせられたという人もいるはずです。私たちもダビデと同様、神の報いを自分の前に置いて歩むべきです。何事であれ「これをすれば神の報いがどのように注がれるだろうか。」などと常に考えるよう努力するのです。そうすればダビデのように善を行なうことができ、多くの害を避けられるでしょう。神の報いを無視したり考慮しなければ容易く悪に陥ります。無神論者が危険な傾向を持つというのは真実なのです。マルキ・ド・サド。

【26:25】
『サウルはダビデに言った。「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功しよう。」こうしてダビデは自分の旅を続け、サウルは自分の家へ帰って行った。』
 サウルは先に『帰って来なさい。』(Ⅰサムエル26章21節)と言いましたが、ダビデは帰って来そうにもありませんでした。ダビデは何を言われても変わりそうにありませんでした。それは小さいブラックホールを掴もうとして自分のほうへ引き寄せるのと同じでした。つまり全く不可能だということです。サウルはダビデが自分を警戒しているとよく分かっていたでしょう。ですから、サウルはダビデに対して『祝福があるように。』と言うことしかできませんでした。サウルはこの時もダビデの死を願っていました。それにもかかわらずダビデの祝福を願ったのです。この矛盾は何なのでしょうか。これはサウルが狂っていたか、上辺で祝福を願ったか、その両者どちらでもあるか、です。またサウルはダビデが『多くのことをするだろうが、それはきっと成功しよう。』とも言っています。これは神がダビデと共におられたからです。実際、サウルが言った通り、ダビデは多くのことをして成功しました。神が共におられるのであれば、いつも最終的な成功へと導かれます。『その人は、何をしても栄える。』(詩篇1:1)と正しい者について言われている通りです。

 こうしてダビデとサウルは再び共に歩むこともなく別れ去りました。ダビデは逃亡の旅を続け、サウルは帰宅します。ダビデは殺されなかったので一先ずホッとしたかもしれませんが、サウルは獲物をまた仕留められなかったので不満に感じていたと推測されます。逃げ続けるダビデをサウルが追い続けるというこの状況は、もう暫くだけ続きました。

【27:1~2】
『ダビデは心の中で言った。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」そこでダビデは、いっしょにいた六百人の者を連れて、ガテの王アキシュのところへ渡って行った。』
 ダビデは、このまま行けば、サウルに捕まって滅ぼされると予測していました。これまでの経験に基づいてこのように予測したのです。何せこれまでずっとサウルはダビデを殺そうと努力していたのですから。この予測は間違っていませんでした。何故なら、サウルのダビデに対する敵意と殺意は、ダビデが死なない限り消え去らなかったからです。それほどサウルはダビデが気に入りませんでした。サウルにとってダビデはただの邪魔者に過ぎませんでした。このダビデがいることで自分と自分の子ヨナタンの地位は危なくなるからです。サウルからすればダビデはあまりにも大きな脅威でした。しかし、それは神がサウルの罪に対して与えられた裁きとしての脅威でした。

 ダビデはこのままイスラエルにいれば危険だと考えたので、『ペリシテ人の地にのがれる』という決断をします。ペリシテ人の地は外国ですから、サウルの支配下になく、サウルが好きなように手を伸ばすことも出来ない場所です。ですから、そこに逃げればサウルも『あきらめる』とダビデは思いました。これは間違っていませんでした。サウルがペリシテ人の王と「謀反者引き渡し協定」といった取り決めを結んだとすれば、ダビデがペリシテ人の地に逃げても意味はほとんど無くなってしまいます。しかし、ユダヤ人とペリシテ人は強い敵対関係にあったのですから、サウルがペリシテ人とこのような取り決めを締結することはありませんでした。今でも国内で迫害されたり狙われたりして危険な状態にある者が国外へ逃げるというケースは珍しくありません。NSAの機密情報をリークした有名なアメリカ人スノーデンも、アメリカからロシアへ亡命しました。ロシアからアメリカに亡命したロシア人もこれまで多くいました。彼らのように国外亡命する者は、既に大変危険な状況へと陥っています。だからこそ亡命するという決断をするわけです。亡命とは唯一の助かる最終手段なのです。このようにして神はダビデに助かる道を備えて下さいました。忍耐し続けていれば、いつかやがて救いの扉が開かれるものなのです。

 こうしてダビデは仲間たちと一緒にペリシテ人の地へ行きましたが、『六百人』という仲間の数は前から何も変わっていません(Ⅰサムエル25:13)。これは仲間たちのダビデに対する信頼と尊敬が全く失われていなかったことを意味します。もしダビデに失望したり、サウルを恐れてしまったり、あるいは神に対して不信仰になったりした者が出れば、このように多くの数が保たれていることは無かったはずです。しかし、仲間の数が減らなかったものの増えるということもありませんでした。

【27:3~4】
『ダビデとその部下たちは、それぞれ自分の家族とともに、ガテでアキシュのもとに住みついた。ダビデも、そのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムと、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルといっしょであった。ダビデがガテへ逃げたことが、サウルに知らされると、サウルは二度とダビデを追おうとはしなかった。』
 家来の家族たちもダビデと一緒にペリシテ人の地へ行きました。家族は戦力にならないとか一緒にいれば危ないなどといった理由により、家族だけ置いて行かれることはありませんでした。ダビデたちの群れは契約的に一体でした。このため、家来の家族たちもダビデと一緒に行ったのです。ちょうど頭と一緒に体の全体が動くのと同じです。注意すべきなのは、家来の家族も含めてダビデたちが600人だったというのではなく、600人いた家来の家族たちもダビデおよび家来と一緒に行ったということです。ですから、ダビデの集団には600人の数倍も人員がいたはずです。またダビデも、危険だとか戦力にならないという理由により、妻たちを連れて行かないということはありませんでした。要するに、ダビデたちの群れは非常に大きな大集団だったということです。この大集団は、ダビデが支配するイスラエル王国の原型また前段階だったと捉えてもよいでしょう。ダビデはこのような大集団を率いることで、これから国の王となるため鍛えられ慣れさせられたはずです。

 ダビデの予想通り、ダビデがペリシテ人の地に行くと、サウルはもうダビデの追跡を諦めました。神がダビデを守り、サウルによる苦難から解放して下さったのです。これは神の恵みと憐れみによりました。このダビデの例も示す通り、いつか必ず試練としての苦しみから聖徒は解放されることができます。神は聖徒たちに苦難から脱出する道を備えて下さるのです。ですから、たとえ試練による苦しみがあっても絶望する必要はありません。パウロはこう言っています。『神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(Ⅰコリント10章13節)

【27:5~7】
『ダビデはアキシュに言った。「もし、私の願いをかなえてくださるなら、地方の町の一つの場所を私に与えて、そこに私を住まわせてください。どうして、このしもべが王の都に、あなたといっしょに住めましょう。」それでアキシュは、その日、ツィケラグをダビデに与えた。それゆえ、ツィケラグは今日まで、ユダの王に属している。ダビデがペリシテ人の地に住んだ日数は一年四か月であった。』
 ダビデは、ユダヤから逃げて来た自分がペリシテ人の都でペリシテ人の王と共に住むのは問題だと思いました。何故なら、ユダヤ人とペリシテ人は強い敵対関係を持っていたからです。もしダビデが都で王と共に住めば、王を殺そうと企んでいるとか、刺客として忍び込んだ、などと疑われかねません。ユダヤ人はペリシテ人の敵でしたから、ダビデがペリシテ人の地のどこにいようとも、完全に疑われることが無くなることはなかったでしょう。しかし、王の都から遠く離れた場所に住めば、こういった疑いを多かれ少なかれ抑えることができます。ですから、ダビデはペリシテ人の王アキシュに、王から離れた地方のどこかを住まいとして自分に与えてくれと要求します。ダビデは何とかペリシテ人の反感や疑いを弱めたかったのです。アキシュは『その日』にダビデの要求を受け入れます。神がアキシュにダビデの要求を受け入れるよう働きかけて下さったのです。神はダビデを救い守るため、ダビデをこの地へと導いて下さいました。ですから、ダビデがペリシテ人の地でなるべく苦しまないよう王に働きかけられたのです。このようにしてダビデに与えられた『ツィケラグ』という場所は、ペリシテ人の地の郊外にあり、アキシュのいたガテから30kmほど南に離れています。これだけ離れていれば、ダビデがペリシテ人とその王を滅ぼすため忍び込んだなどといった疑いも持たれにくくなったことでしょう。

 ダビデがペリシテ人の地に住んだ期間は『一年四カ月』、すなわち16か月でした。この期間(数字)に何か象徴的な意味はあるのでしょうか。まず16か月という数字を考えるならば、象徴的な意味はないはずです。この16を分解するならば「8かける2」か「4かける4」となります。しかし、ここでこのような分解が求められているとは到底思えません。次に480日という数字ですが、これもやはり何も意味を見出せません。聖書において「480」という数字に象徴的な意味はないはずだからです。最も可能性として高いのは『一年四カ月』、つまり「14」です。聖書において14は短い期間であることを意味します。もしこうだった場合、ダビデが『ペリシテ人の地に住んだ日数』は短かったという意味になります。

 ダビデに与えられたツィケラグという場所は、『今日まで、ユダの王に属している』とここで書かれています。つまり、Ⅰサムエル書が書かれた『今日』にはまだユダ王国とその王が存在していました。何故なら、まだユダとその王が存在したからこそ、このように書かれたのだからです。このことから、この巻がいつ書かれたのか大まかな時期を特定できます。それは、ユダヤ王国が北と南に分裂してから南王国ユダの滅亡する紀元前585年までです。この約400年の間にこの巻は書かれました。ユダ王国の滅亡以降に書かれた可能性はありません。『今日まで、ユダの王に属している』という言葉は、ユダがまだ存在していたからこそ、書かれたのだからです。もしユダが滅亡していたら、もうユダの王はいないのですから、このようには書かれていなかったでしょう。次の巻もやはり筆記時期はこの巻と同じです。何故なら、Ⅱサムエル書はⅠサムエル書の続きであり、前半と後半の関係にあるからです。

【27:8~9】
『ダビデは部下とともに上って行って、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。彼らは昔から、シュルのほうエジプトの国に及ぶ地域に住んでいた。ダビデは、これらの地方を打つと、男も女も生かしておかず、羊、牛、ろば、らくだ、それに着物などを奪って、いつもアキシュのところに帰って来ていた。』
 ダビデはペリシテ人の地で住むようになってから、異邦人である『ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人』を襲って滅ぼしていました。神が共におられたのでダビデは敵を打ち倒せました。『アマレク人』は最強の民族でしたが、この民族にもダビデは勝利しました。アマレク人よりもダビデと共におられる神のほうが強かったからです。神と共にいる勇士がどうして打ち負かされるでしょうか。

 ダビデは敵から奪った戦利品を、いつもアキシュのもとへ持ち帰っていました。これはアキシュに信頼され彼の好意を得るためです。昔から王また管理者は、僕の勤勉や努力を大いに喜ぶ傾向がありますけども、アキシュもその例に漏れませんでした。明らかにダビデは王の僕として優秀でした。

 ところで、ダビデがここに挙げられている異邦人を襲って滅ぼしたのは問題なかったのでしょうか、罪とならなかったのでしょうか。これは神の御心に違反していませんでした。何故なら、これらの異邦人は滅びに定められた罪深い民族だったからです。これはヨシュアたちがカナン人たちを殲滅したのと同じです。ヨシュアたちの殺戮が罪では無かったのと同じで、ダビデがこの時に行なった殺戮も罪ではありませんでした。この世はダビデの行ないを問題視するかもしれません。しかし、世の感覚こそ問題視されるべきです。世の感覚は、ダビデが神において為した行ないを問題ありとしているからです。ダビデは本当に神にあって行なったのであり、異教徒たちが神の名のもとに残虐行為を正当化するのとは違いました。ヨシュアやこのダビデは唯一真の神において聖務を実行しました。この世は戦争で兵士が敵を滅ぼすことについて問題視しないはずです。そうであればダビデが敵を滅ぼしたことも問題視されるべきではありません。

【27:10~12】
『アキシュが、「きょうは、どこを襲ったのか。」と尋ねると、ダビデはいつも、ユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた。ダビデは男も女も生かしておかず、ガテにひとりも連れて来なかった。彼らが、「ダビデはこういうことをした。」と言って、自分たちのことを告げるといけない、と思ったからである。ダビデはペリシテ人の地に住んでいる間、いつも、このようなやり方をしていた。アキシュはダビデを信用して、こう思った。「ダビデは進んで自分の同胞イスラエル人に忌みきらわれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべになっていよう。」』
 ダビデはアキシュに対し、いつも本当は異邦人を滅ぼしたのに、ユダヤ人およびユダヤ人と関わりのある民族を滅ぼしたなどと偽証して報告していました。これはアキシュを欺いて信頼されるようになるためでした。敵であった者(ダビデ)が自分の仲間である者たち(イスラエル人)に嫌われる行ないをするというのは、アキシュにとって歓迎すべきことだからです。アメリカ大統領にしても、もし中国共産党の幹部がアメリカに亡命し、中国の害となることばかり頑張って行なったとすれば、どれだけ喜ぶでしょうか。アメリカの政府高官が中国に移住して、アメリカの害となることばかり行なうので、中国の国家主席がニヤリと笑みを浮かべるのも同様です。ダビデはアキシュを欺き続けるため、遠征先の敵どもを一人も残らずことごとく滅ぼしていました。もし生き残った敵がアキシュに真実を知らせたとすれば、ダビデはアキシュに疑われてしまうからです。悪人もよく証拠隠滅のため口封じとして人殺しをしますから、ダビデはそれと似たようなことをしたのですが、だからといってダビデが悪人で悪いことをしたというのではありませんでした。

 アキシュは全くダビデに欺かれたので、ダビデを大いに信用しました。神がダビデの欺きを成功させられたからです。ダビデが自分自身で巧みに欺けたのではありません。神がダビデとアキシュとに働きかけて下さったのです。このように神が働きかけるならば、どんなことでも上手に行くものです。もし神が働きかけて下さらなければ、アキシュはダビデに欺かれていなかったでしょう。その場合、ダビデはすぐにも嘘を見破られ、アキシュの信頼を得ることが出来なかったでしょう。

 ところで、ダビデは明らかに嘘の報告をして欺きましたが、これは『偽証するな。』という戒めに対する違反とならなかったのでしょうか。一見するとダビデは律法に違反したかのようです。しかし、これは律法違反となりませんでした。何故なら、ダビデが嘘を付いたのは、イスラエルの敵に対してだったからです。戦いの時に助かろうとしたり有利になろうとするため、欺いたり嘘を付いたりするのは、一般的に言っても罪とはなりません。今でも戦争時において他国へのスパイ活動や情報工作を行なったというので、罪とされることはありません。もしそうしなければ敵に打ち負けて滅んでしまいかねないからです。ダビデもこのような状況に身を置いていました。ですから、ダビデが行なった欺きは罪に定められなかったはずです。もしこれが日常生活で行なわれた欲望を満たすための欺きだったとすれば、ダビデは罪を犯していたことになるでしょう。しかし、ダビデの状況はそういった日常的な状況と異なりました。戦争時や危急の時は普段であれば罪とされる行ないが罪にならない、ということを理解できない者がいるでしょうか。

【28:1】
『そのころ、ペリシテ人はイスラエルと戦おうとして、軍隊を召集した。』
 ペリシテ人はまたもやイスラエルと戦おうと軍隊を召集します。これはハマスが何度も繰り返してイスラエルにロケット弾を打ち続けているのと似ています。決して和合できない敵という存在がいるのです。ペリシテ人とイスラエル人は正にこれでした。韓国人と日本人もこのようであるかもしれません。この時にペリシテ人が召集したのは『全軍』(Ⅰサムエル29章1節)でした。総力を挙げてイスラエルに打ち勝とうとしたわけです。このことからイスラエルを憎むペリシテ人の敵意と本気度がどれほど大きかったか私たちは理解できます。

【28:1~2】
『アキシュはダビデに言った。「あなたと、あなたの部下は、私といっしょに出陣することになっているのを、よく承知していてもらいたい。」ダビデはアキシュに言った。「よろしゅうございます。このしもべが、どうするか、おわかりになるでしょう。」アキシュはダビデに言った。「よろしい。あなたをいつまでも、私の護衛に任命しておこう。」』
 アキシュは欺かれてすっかりダビデが同胞ユダヤを裏切れる者だと思い込んでいたので、イスラエルとの戦いに参加するよう求めます。この求めは自然でした。アキシュにとってダビデは同胞を殺せる者であり、実際に殺していたと思っていたからです。しかし実際のところを言えば、ダビデは同胞を殺せなかったでしょうし、これまで殺してもいませんでした。ですから、これから行なわれるイスラエルとの戦いでダビデの欺きがアキシュにバレてしまいかねませんでした。ダビデがアキシュと一緒に行っても、ダビデはイスラエル人を殺そうとしなかったはずだからです。しかし、ダビデは快くアキシュの求めを受け入れます。『このしもべが、どうするか、おわかりになるでしょう。』という言葉は、つまりダビデがユダヤ人を抵抗なく打ち殺すという意味です。ところが実際に殺せるということはありませんでした。それにもかかわらずダビデはこう言いました。これは、アキシュの前にいる以上、どうしてもこう言わざるを得なかったからです。もしこう言わなければアキシュから疑いの目で見られることになりかねませんでした。ダビデが示した態度にアキシュは『よろしい。』と言って満足しました。もうこの時にダビデはアキシュから完全な信頼を得ていました。ですから、アキシュはダビデを『いつまでも、私の護衛に任命しておこう。』と断言します。これはダビデが一点の欠けもないほど信頼されていたことを示しています。何故なら、護衛とは王の命を守る者であり、国内で最も重要な職務だと言えるからです。というのも、もし王が殺されたらその国は立ち行かなくなるのですから。

 このようにダビデは全くペリシテ人の仲間として振る舞っていました。ダビデはカメレオンのごとくペリシテ人と同じになりました。ですから、アキシュはダビデが自分たちの仲間であると思い込んでしまったのです。このダビデもそうでしたが、ユダヤ人は昔から同化が得意です。外国にいてもその国の民族と同じ性質や様子を持つことが出来ます。ですから、ユダヤ人といってもほとんどその国の人と変わらないように感じられるのです。アメリカでもこのようなユダヤ人が多く存在します。日本でもデープ・スペクターやマーティー・フリードマンやベンジャミン・フルフォードは雰囲気が私たち日本人と全く一緒です。人相が日本人なのです。ユダヤ人とはこのような民族です。また、ユダヤ人は権威者に従順な傾向も強く持っています。私たちが今見ているダビデもその通りでした。ナチス時代のドイツにいたユダヤ人もそうでした。収容所にいたあるユダヤ人などは、まだ収容所に送られていない隠れているユダヤ人の住所リストを自ら収容所の上官へと渡したので、流石にドイツ人の上官も唖然としてしまい、そのユダヤ人が一体何をしているのかほとんど理解できないほどでした。この出来事についてはルドルフ・ヘスの回想記で書かれています。この収容所で自分たちの同胞を顔色一つ変えずに殺したり死後処理したりしたユダヤ人の働きぶりは、今でもよく知られています。ここまでユダヤ人は権威者(この事例ではドイツ人の上官)に従順なのです。ユダヤ人であるボブ・ディランも、「どのような国にいようが王にはしっかり従うつもりだよ。」などと言っています。自分が属する国や団体の権威者に従順だというのもユダヤ人を特徴付ける明白な印なのです。

【28:3】
『サムエルが死んだとき、全イスラエルは彼のためにいたみ悲しみ、彼をその町ラマに葬った。』
 サムエルの死について再び書かれていますが、内容は前の箇所と変わりません(Ⅰサムエル25:1)。つまり、これは「繰り返し」です。しかし、無意味に繰り返されたのではありません。重要な事柄だからこそ繰り返されました。というのも、サムエルはイスラエルの偉大な祭司だったからです。聖書はサムエルとその死を読者に強く認識させようとしています。ですから、私たちはサムエルという重要な神の器について強く記憶せねばなりません。

『サウルは国内から霊媒や口寄せを追い出していた。』
 サウルが『国内から霊媒や口寄せを追い出していた』のは、律法でこれらの行ないが禁止されているからです。こう書かれています。『あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ19章31節)このような罪が満ちていたためカナン人は裁きにより追い払われ滅ぼされたのです。こう書かれている通りです。『あなたのうちに…霊媒をする者、口寄せ…があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。』(申命記18章10~12節)サウルはこれら2つのことを知っていました。イスラエルにこのような罪があってはならず、イスラエル人がそのような罪のため滅ぼされるべきではありませんでした。ですから、サウルは国内にいた『霊媒や口寄せを追い出していた』のです。サウルのこの行ないは間違っていませんでした。イスラエルとは神の法により統治されるべき国家だったからです。もし神の法に背くならばイスラエルは呪われ滅びてしまいかねません。霊媒や口寄せがイスラエルにどのぐらいいたかは分かりません。かなりいたものと推測されます。何故なら、聖書が彼らの追放について書くというのはつまり書くに相応しいということであり、もし彼らがほんの少ししかいなければ彼らの追放も書くに相応しい事柄とはなっていなかっただろうと思われるからです。彼らがどれだけいたにせよ、彼らがイスラエルにいたという事実は、当時のイスラエルが不敬虔だったことを示しています。何故なら、もし不敬虔でなければ彼らも国内に存在していなかっただろうからです。このような罪深い者たちが生じない土壌・社会であるからこそ、そこは「敬虔」だと言えるのです。

 サウルは愚かで不敬虔な王でしたが、霊媒や口寄せを追放したのは正しい行ないでした。サウルのように不敬虔な者だからといって、全く正しい行ないをしないというわけではないのです。私たちも、霊媒であれ占いであれ迷信深い事柄が国内から無くなるよう願うべきです。それは神の御心に適わないからです。キリストは『御心が天で行なわれるよう地でも行なわれるように』願えと言われました。ですから、こういった事柄が地から無くなるよう願わない者はキリストの弟子として相応しくありません。しかし、こういった罪深い事柄が無くなるよう願うとしても、暴力とか強制などにより実現させてはなりません。平和に、合法的に、秩序正しく、それらが無くなるよう願うべきなのです。教会がオウム真理教のようであってはなりません。紀元1世紀のユダヤ人でもあるかのように、逆らったり暴動を起こしたりすることもいけません。平和の子どもらしく事を為すべきなのです。

【28:4】
『ペリシテ人が集まって、シュネムに来て陣を敷いたので、サウルは全イスラエルを召集して、ギルボアに陣を敷いた。』
 またもやペリシテ人とイスラエル人の戦争が始まりました。ペリシテ人は『シュネム』に、イスラエル人は『ギルボア』に陣を敷きましたが、これはどちらもメギドの大地にあります。メギドとは古代においてかなり有名な戦いの場所でした。メギドはユダヤの北のほうに位置しています。しかし、サウルたちが日頃からいた地域とペリシテ人の領地は、このメギドよりかなり南にあります。ですから、イスラエル人とペリシテ人はかなり北上したことが分かります。両軍は100kmぐらい移動したかもしれません。

【28:5】
『サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心はひどくわなないた。』
 サウルは、ペリシテ人の大軍勢を見て、非常に恐れ戦きました。これはサウルが罪を犯していたからです。罪を犯すならばその心は弱々しくなると律法で示されている通りです。罪を犯すならば呪いが注がれます。このためサウルのように恐れることになります。もしサウルが罪を犯していなければ、ペリシテ人の陣営を見ても恐れなかったでしょう。その場合、ヨナタンのように強く振る舞うことが出来たはずです(Ⅰサムエル14:6)。それというのも罪を犯さなければ神が共にいて下さるからです。神が共におられるのであれば、どうして恐れたりするでしょうか。

【28:6】
『それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので、』
 サウルは絶望してどうしようもなくなったので、神に伺いを立てました。サウルは既に神から遠ざかっていたものの、神にこそ救いと助けがあるということを忘れてはいませんでした。このように伺いを立てること自体は間違っていませんでした。ダビデもこのようにしていました。しかし、神はサウルに全く答えを与えて下さいませんでした。『夢によっても』とは、神が夢で御心を御示しになられることです。古代において神が夢で王を教え悟らせるということは珍しくありませんでした。ゲラルの王アビメレクもこのようにして神から御心を示されました(創世記20:3~7)。『ウリム』とは、古代ユダヤ人が伺いを立てる際に使った祭儀の道具です。この道具でも神はサウルに答えて下さいませんでした。また神は『預言者』を通して、ユダヤ人によく語っておられました。しかし、預言者によってもサウルは神から答えを受けられませんでした。つまり、何をしても全く駄目でした。こうなったのはサウルが神から離れていたからです。サウルは罪により自分で自分を神から遠ざけていました。神とサウルの関係は断絶状態にあったのです。神はこのような背教者に答えを与えて下さいません。

【28:7】
『サウルは自分の家来たちに言った。「霊媒をする女を捜して来い。私がその女のところに行って、その女に尋ねてみよう。」』
 サウルは恐怖により絶望的な状態となったので、あろうことか霊媒女に助けを求めました。これは何ということでしょうか。かつて自分が追放しておいた者を自分自身により求めるというのは、愚の骨頂です。これはサウルが呪われていたからです。このようにするのが呪いであることは明らかです。

 サウルがこのような振る舞いをしたのは、主の御前に罪を犯したからです。もし犯してなければ霊媒女を求めることも無かったでしょう。罪を犯すならば誰でもこのように呪われ愚かになってしまいます。これは律法でしっかり示されている通りです。申命記28章。

【28:7~8】
『家来たちはサウルに言った。「エン・ドルに霊媒をする女がいます。」サウルは、変装して身なりを変え、ふたりの部下を連れて、夜、その女のところに行き、そして言った。「霊媒によって、私のために占い、私の名ざす人を呼び出してもらいたい。」』
 家来たちから『エン・ドルに霊媒をする女がい』ると聞かされたサウルは、すぐにもその女に会おうと準備します。恐るべき敵ペリシテ人たちが目の前に陣を敷いているのですから、のびのびとしてはいられませんでした。サウルは解決の言葉、助かる導きを何としても得たいと思っていました。日本の「藁にも縋る」という言葉は正にこのことです。『エン・ドル』とは両軍の陣営から近い場所にあります。ですから、サウルはすぐその女に会うことが出来ました。サウルは『変装して身なりを変え』てから、霊媒女のもとへ行きました。サウルは自分で追い払った女のもとへ行くのですから、自分がサウルだと知られるべきではありませんでした。状況を考えるならば、もし変装しなければ寧ろ不自然でした。またサウルは『夜』に会いに行きました。これは、なるべく自分のすることが誰からも知られないようにするためです。いつの時代でも悪者や悪い行ないをする者は、バレないようにするため、視界の悪い夜を往々にして好むものです。ニコデモも悪いことをしに行ったわけではありませんが、誰にも知られたくなかったので、夜を選んで主のもとに行きました(ヨハネ3:1~2)。またサウルが『ふたりの部下を連れて』行ったのは、身の安全のためだったのでしょう。サウルの近くにはペリシテ人たちが大量にいたのです。危険な状況でしたから何が起こるか分かりません。それゆえ、サウルが部下を連れて行かないのは無謀でした。

 このように罪人は、いちいち面倒なことをし、恥ずかしい思いを持たなければいけなくなります。いつの時代でも罪人はこのようです。何かを隠すため、偽ったり姿を変えたり欺くため努力したり、とにかく色々と行なわねばなりません。罪人は罪により自分自身を不幸な状態に陥らせています。サウルにしても罪を犯していなければ、こんな愚かで狂った振る舞いをせずに済んでいたでしょう。罪が割に合わないことを悟っても、罪人は罪の鎖に縛られていますから、なかなか罪から離れられないことが多いのです。このため、罪人には不幸の連鎖が生じてしまいます。サウルもこのようでした。