【Ⅰサムエル記2:11~30】(2022/08/07)


【2:11】
『その後、エルカナはラマの自分の家に帰った。幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。』
 エルカナたちは、シロの聖所で礼拝とサムエルの献納を終えると、例年通り、ラマの自宅に帰りました。帰宅の時はペニンナも一緒だったことでしょう。ただサムエルだけはシロの聖所に留まりました。これ以降、サムエルはシロの聖所で主に仕えることとなります。サムエルはエフライム族でしたからレビ族でなかったものの、聖所で主に仕えていました。普通であれば聖所で主に仕えるのはレビ人です。それなのにサムエルが聖所で仕えていたのは、サムエルが主に捧げられた人間だったからです。

【2:12~17】
『さて、エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、民にかかわる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえをささげていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子が三又の肉刺しを手にしてやって来て、これを、大なべや、かまや、大がまや、なべに突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。彼らはシロで、そこに来るすべてのイスラエルに、このようにしていた。それどころか、人々が脂肪を焼いて煙にしないうちに祭司の子はやって来て、いけにえをささげる人に、「祭司に、その焼く肉を渡しなさい。祭司は煮た肉は受け取りません。生の肉だけです。」と言うので、人が、「まず、脂肪をすっかり焼いて煙にし、好きなだけお取りなさい。」と言うと、祭司の子は、「いや、いま渡さなければならない。でなければ、私は力ずくで取る。」と言った。このように、子たちの罪は、主の前で非常に大きかった。主へのささげ物を、この人たちが侮ったからである。』
 エリの2人の息子であるホフニとピネハスは父と同じように祭司でしたが、『よこしまな者』―直訳ではベリヤアルの子―だったので、祭儀の生贄においてとんでもない冒瀆行為を犯し続けていました。捧げられている生贄を好き勝手に取り自分の所有としていたのです。これは酷い強奪の罪でした。また息子たちは生贄の脂肪がまだ焼かれていないのに、その脂肪を好き勝手に取っていました。本来であれば脂肪は焼いて神に対する香の煙とせねばなりませんでした。当然ながら律法は、この息子たちがした通りに行なえなどと全く指示していません。旧約時代の生贄はキリストという真の生贄を指し示す影です。ですから、2人の息子はキリストとその御救いを蔑ろにしていました。この罪がどれだけ酷いことであるのか、プロテスタントの読者は詳しく説明されなくてもよく分かるはずです。聖書も『子たちの罪は、主の前で非常に大きかった。』と書いています。

【2:18】
『サムエルはまだ幼く、亜麻布のエポデを身にまとい、主の前に仕えていた。』
 『サムエルはまだ幼』なかったのですが、実際にどれぐらいの年齢だったかは分かりません。イスラエルの成人年齢は12歳ですから、12歳以下だったことだけは確かとしてよいでしょう。このサムエルが『亜麻布のエポデを身にまとい、主の前に仕えていた』と言われているのは、サムエルが祭司として仕えていたことを意味します。何故なら、エポデとは祭司が着る衣装だからです。『主の前に仕え』るとは、聖所で主のため聖務を執り行うことです。民が持って来た生贄を捧げたり、供えのパンを供えたり、ユダヤのため執り成しの祈りを捧げたりするのが、そうです。

【2:19】
『サムエルの母は、彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに、その年のいけにえをささげに上って行くとき、その上着を持って行くのだった。』
 ハンナはサムエルのため上着を聖所へ毎年行くごとサムエルに与えていました。献納によりサムエルの親権はハンナから神に移行していましたが、やはり母親らしくハンナはサムエルを愛しく思わずにいられませんでした。母の愛がこの『小さな上着』において示されています。ハンナは1年ごとにこの上着をサムエルのため作っていました。しかし、この上着が1着だけだったかどうかは分かりません。もしかしたら複数作り持って行っていたのかもしれません。聖書はこの上着が何着だったか何も示していません。まあ別にこれは些細なことなので分からなくても何も問題にはならないのですが。

【2:20~21】
『エリは、エルカナとその妻を祝福して、「主がお求めになった者の代わりに、主がこの女により、あなたに子どもを賜わりますように。」と言い、彼らは、自分の家に帰るのであった。事実、主はハンナを顧み、彼女はみごもって、三人の息子と、ふたりの娘を産んだ。少年サムエルは、主のみもとで成長した。』
 ハンナが誓願した通りに子サムエルを献納したので、エリは神がサムエルに代わる子を与えて下さるよう願い求めました。ハンナは神に喜ばれる敬虔なことをしました。ですから、神はエリの祈りを聞かれ、ハンナに5倍もの報い(5人の子)を与えて下さいました。ご覧ください、神は敬虔な者に対しこんなにも寛大になされます。このようにハンナはサムエルに続いて5人の子を産みましたが、この「5」(人)に数字的な意味はないはずです。こういうわけでサムエルはハンナの長子だったことが分かります。しかし、エルカナにとっては長子ではありませんでした。エルカナの長子はペニンナの子どもだからです。

 このハンナの事例も示している通り、敬虔な者には大きな報いがあります。ハンナは一時的にであれ子を全く失いました。けれども神はその後ハンナに5倍もの子を与えて下さいました。このように、私たちが神のために何かを手放すのは決して無意味な行為となりません。もちろんハンナのように少しの間は欠損が生じたままの状態が続くかもしれません。しかし、時が来れば、神はその欠損をあり余るほど補って下さいます。キリストも使徒たちにもし犠牲を払うならば幾倍にも報いられると言われました。マタイ19:29の箇所で書かれている通りです。私たちが主のため何か手放すことは後ほど多くを得ることなのです。

 こういうわけで、サムエルはシロの聖所にずっとおり、そこで『主のみもとで成長』していました。『主のみもとで成長した』とは、つまり主の保護下にあり、主から教えられ導かれていたということです。もっとも、まだこの頃のサムエルは主を知らないでいたのですが(Ⅰサムエル記3:7)。この世はサムエルの境遇をあまり良く思わないかもしれません。しかし、サムエルは非常に幸いでした。何故なら、人の本質的な意義は神に仕えることだからです。この世は神を知らないのでサムエルの幸いが分からないのです。

【2:22】
『エリは非常に年をとっていた。彼は自分の息子たちがイスラエル全体に行なっていることの一部始終、それに彼らが会見の天幕の入口で仕えている女たちと寝ているということを聞いた。』
 エリは非常な高齢になっていましたが、意識はハッキリしており、ボケてはいませんでした。またその耳も全く聞こえなくなってはいませんでした。エリはもう間もなく98歳で死にますから(Ⅰサムエル記4:15~18)、この時は90代だったはずです。古代でここまで生きるのはかなり長生きです。

 このエリの息子である2人の祭司ホフニとピネハスは、2つの邪悪な行ないをしていました。一つ目は先に見た通り、民の生贄の肉を勝手に取り上げることです。これは『息子たちがイスラエル全体に行なっていること』とここで言われています。もう一つは『会見の天幕の入口で仕えている女たちと寝ているということ』です。この不品行が公然と行なわれていたか密かに行なわれていたかは分かりません。もし密かに行なわれていたとすれば神がそれを明かされたことになります。何故なら、『隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるため』(マルコ4章22節)だからです。当然ながら彼らの父エリはこのような悪を免れていました。

 このような醜聞はエリの耳にも届いていました。エリが実際に息子たちの醜行を見ていたというのではありません。エリは単に民の噂話としてその醜行を知っただけに過ぎませんでした。

【2:23~25】
『それでエリは息子たちに言った。「なぜ、おまえたちはこんなことをするのだ。私はこの民全部から、おまえたちのした悪いことについて聞いている。子たちよ。そういうことをしてはいけない。私が主の民の言いふらしているのを聞くそのうわさは良いものではない。人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」』
 エリは当然ながら息子たちの醜行を苦々しく思っていました。それは普通のユダヤ人であってもすべきでない行為だったからです。祭司はそういった行為をするなと教え指導すべき立場にあります。ところが、エリの息子たちはそのような立場にありながら、酷い醜行に陥っていました。これではエリが苦々しく思わないことなど決してできない話でした。ここでエリは息子たちに関する民の噂を真実な事柄として見做しています。何故なら、それは『民全部』に知れ渡っていた噂だったからです。祭司であるこの息子たちがこういった醜行に陥っていたというのは、この時代のイスラエルが堕落していたことを示しています。何故なら、祭司ほど敬虔に歩むことが求められている存在はないからです。その祭司でさえこういった悪徳に汚染されていました。であれば民衆は尚のこと容易く堕落に陥っていたはずなのです。

 25節目でエリが『人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。』と言っているのは良く分かります。神は憐れみ深い赦しの神であられますので、聖徒たちの対人罪における仲裁者となって下さるからです。しかし、エリが『人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。』と言っているのはどういう意味でしょうか。対神罪については赦しがないとでも言っているのでしょうか。対神罪についても赦しがあるのは確かです。実際、ダビデは神に対して罪を犯しましたが(詩篇51:4)、神はダビデの対神罪を赦されました(Ⅱサムエル12:13)。しかも、対神罪についても『仲裁』者がおられます。その仲裁者とはキリストであられます。キリストは私たちの罪のため神に執り成しまた弁護して下さっておられるからです(ローマ8:34、Ⅰヨハネ2:1)。では、エリは一体何を言っているのでしょうか。エリはただ息子たちが悔い改めて罪を止めるよう求めているだけなのでしょう。つまり、エリはただ息子たちが敬虔な恐れを抱くように『人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。』と言っただけなのでしょう。

【2:25】
『しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころであったからである。』
 2人の息子たちはエリの言葉を拒み、悔い改めて罪を止めようとしませんでした。つまり、息子たちは心を頑なにさせました。もし息子たちが悔い改めていたら神から赦しを頂けていたでしょう。何故なら、神は憐れみ深い赦しの神であられるからです。彼らが心を頑なにさせたというのは、神が彼らの心を頑なにさせたのです。彼らが頑なさを好み欲したので、神は「そういうことならお前たちの好きなようにしたらよい。」と彼らを頑なさの中に委ねられたのでした。悪の原因は全く息子たちにあります。ですから、神が彼らの心を頑なにされたものの神に非は全くありません。これはあのパロの場合と同じです。パロも神により頑なにされました(出エジプト記4:21)。パロが頑なさを愛したので、神はパロを頑なさのうちに捨て置かれたのです。ですから、パロの場合も神により頑なにされたものの、そのようにされた神に責任は全くありませんでした。もちろん神は息子たちの心を悔い改めに傾けることも出来ました。しかし神はそのようになさいませんでした。『彼らを殺すことが主のみこころだったから』です。息子たちはエサウと同じように選ばれていなかったので、滅びるため悔い改めない頑なさの中に留まるよう定められていたのでした。詰まる所、2人の息子たちは罪深く愚かでした。もし彼らが謙遜で選ばれていたとすれば、父エリの言葉を聞いて改悛していたことでしょう。

【2:26】
『一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。』
 2人の息子たちが滅びに向かって下り行くのと対極的で、サムエルは良い歩みのうちにどんどん成長して行きました。一方は呪われており、一方は祝福されています。しかし、両者は同じ聖所の場所に住んでいました。この世では麦と毒麦が同じ場所に並んで生えているものなのです。日々成長していたサムエルは『主にも、人にも愛され』ました。これはサムエルが悪徳を免れていたからなのでしょう。これは箴言3:4の箇所でこう書かれていることです。『神と人との前に好意と聡明を得よ。』一方、2人の息子たちのほうは神からも人からも嫌悪されていたはずです。何故なら、彼らは酷い悪徳に染まっていたからです。

 幼かったサムエルについて書かれたこの箇所は、まだ幼かった頃のキリストに関して書かれたルカ2:52の箇所と、言われていることが似ています。ルカ書ではこうあります。『イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。』

【2:27】
『そのころ、神の人がエリのところに来て、彼に言った。』
 エリのところに来た『神の人』とは、御使いのペルソナにおいて現われたキリストでしょう。主はこのような形で聖徒たちの前に何度も現われておられました。この『神の人』をキリスト以外として捉えるのは難しいと思われます。もしこれがキリストでなければモーセのような預言者だったのでしょう。聖書はモーセを『神の人』と言っています(詩篇90篇・表題)。これがキリストでない預言者だったとしても、その名前が何だったかは示されていません。

『「主はこう仰せられる。』
 『主はこう仰せられる』という言葉は、それが神からの言葉であることを示す証拠としての定型句です。これは言わば神の署名です。ですから、『主はこう仰せられる』という定型句と共に語られる言葉を信じなかったり蔑ろにするならば大きな罪となりました。何故なら、それは神の言葉を受け入れないことだからです。しかし、本当は神の言葉でないのに神の言葉に見せかけようとしてこの定型句を不正利用するのであれば、そのようにした者が大きな罪に定められました。その者は人間の言葉を神の言葉に見せかけるため神の署名を使って欺いたからです。聖書ではこれ以降もこのような類の言葉が多く出て来ます。

【2:27~28】
『あなたの父の家がエジプトでパロの家の奴隷であったとき、わたしは、この身を明らかに彼らに示したではないか。また、イスラエルの全部族から、その家を選び、わたしの祭司とし、わたしの祭壇に上り、香をたき、わたしの前でエポデを着るようにした。こうして、イスラエル人のすべての火によるささげ物を、あなたの父の家に与えた。』
 『あなたの父の家』とはレビ部族のことです。何故なら、エリは祭司であってレビ族に属していたからです。神はレビ人たちがまだエジプトにいた時、御自分をイスラエルにまざまざと御示しになられました。それは諸々の奇跡によってでした。これについては出エジプト記で書かれている通りです。エリの部族であるこのレビ族は、イスラエルのうちで特別的に祭司集団として選ばれた部族でした。この時に至るまでレビ人はイスラエルの祭儀を担当していたのです。ですから、レビ人であったエリはシロの聖所で祭儀を執り行なっていたわけです。このレビ人だけが祭司となり、神をその相続地とするのであって、他の部族とは全く異なっていました。他の部族は祭司になれませんし、神ではなく地上の土地を自分たちの相続地としていたからです。

【2:29】
『なぜ、あなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住む所で軽くあしらい、またあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。』
 確かにレビ人はイスラエルのうちで特権的な立場を持っていました。他の部族はどれだけ祭司になりたいと思っても決してなれませんでした。このようなレビ族に属するユダヤ人であるにもかかわらず、エリたちは神への生贄を蔑ろにしていました。実際に生贄を蔑ろにしていたのはエリの息子たちであって、エリは生贄について愚かなことをしませんでした。しかし、ここではエリも生贄を蔑ろにしていたと言われています。というのも神とは事象を契約的に見られる御方だからです。エリの息子たちは親族としてエリと契約的に一体ですから、息子たちの冒瀆行為はエリにおける責任ともなったのです。それゆえ、ここでは『あなたがたは』と複数形で責任が追及されています。

 ここで神はエリが神よりも息子たちを重んじたと責めておられます。これは祭司でない一般のユダヤ人であっても重大な罪でした。であれば祭司であったエリがこのような罪を犯していたのは、尚のこと重大な罪でした。何故なら、祭司であるエリはそういったことをしないように教えるべき立場なのに、そもそも自分がそのように行なえていないからです。しかし、どうしてエリは神より息子たちを重んじていたと言えるのでしょうか。それは息子たちがエリの言うことを聞かなかったのに(Ⅰサムエル記2:25)、エリは息子たちを処罰したり解職するなどして、強制的に息子たちの悪を止めさせようとしなかったからです。エリの心には神よりも息子たちを重視する傾向がありました。だからこそ、エリは息子たちに言葉で注意するだけで、強引にでも神への冒涜行為を止めさせようとはしなかったのです。つまり、エリにとっては息子たちの欲望が神意よりも大事だったわけです。もしエリが主の御心を第一にしていたとすれば、すなわち息子たちよりも主を重視していたとすれば、どのようにしてでも息子たちの悪を止めさせようとしていたでしょう。行為・振る舞いがその人の価値基準を如実に示しています。何故なら、ある価値基準に基づいてある行為・振る舞いが生じるからです。このエリも正にそうでした。息子たちの行為を強制的にでも停止させようとしないエリの態度は、エリが息子たちを神より重んじていたことの明白な現われだったのです。こういうわけですから、エリが口でどのような弁明をしても、神からの非難を無効にすることはできませんでした。行ないほど雄弁に物語るものが他に何かあるでしょうか。

【2:30】
『それゆえ、――イスラエルの神、主の御告げだ―』
 また再びここで語られている言葉が神から告げられた言葉であると示されています。神の言葉が告げられる際は、往々にしてこのような定型句が繰り返されます。ただ1回だけこのような類の言葉を言えば必ずしも済むというわけではありません。それは聞いている者がその言葉を神による言葉であるとしっかり認識できるためなのです。それゆえ、私たちはこのような言葉が何度繰り返されていたとしても煩わしいなどと思わないようにすべきです。

『あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、今や、―主の御告げだ―絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。』
 神は、エリの属するレビ部族が祭司の職務を永遠的に持つとかつて定められました。それはトーラーで書かれている通りです(出エジプト記29:9)。ですから、レビ部族は本来であればずっと祭司の立場にあり続けました。ところが、祭司であるエリたちが冒瀆行為に陥ったので、神はこの定めを取り消されました。レビ人が永遠に祭司であり続けるという定めは、あくまでもレビ人がまともである限りにおいてだったからです。祭司が神を蔑ろにしていたとしても、レビ人を祭司の立場に置き続ける義務は神にありませんでした。ですから、神がレビ人に関する永遠の掟を取り消されたとしても、神が偽ったとか非難されるべき判断をされたなどと言うことは決してできません。悪いのはもう全くエリの家だからです。全ての責任は祭司たちにあります。もしエリたちがまともであったとすれば、神も御自分が定められた永遠の掟を取り消すことはされなかったでしょう。ここで言われている宣言は、約100年後、すなわちソロモンの時代に成就します。その時、ソロモンによりレビ人が祭司の立場から退けられたのです(Ⅰ列王記2:27)。神は御自分の言われた言葉を地に落とされませんでした。

 神は人が取る御自分への態度に応じられる御方です。それは鏡のようにしてです。ですから、神は『わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。』と言われます。『わたしを尊ぶ者』とはハンナやサムエルのような何よりも神を第一とする聖徒です。このような人たちは神を尊ぶので、神からも鏡のように尊ばれます。彼らは神に尊ばれ蔑ろにされないので、不幸から遠ざけられ多くの祝福を受けます。実際、ハンナは神から尊ばれていたので不妊を癒されましたし、サムエルも神から尊ばれていたので偉大で敬虔な預言者として大いに用いられました。私たち人間もやはり自分を尊んでくれる人を往々にして尊びます。というのも自分を尊んでくれている人を尊ばないというのは不釣り合いだからです。神が御自分を尊ぶ者を尊ぶのは、これと同じです。私たち人間は神に似せて創られた存在なのですから。確かに神を尊ぶならば神からも尊ばれますが、究極的に言うならば、まず私たちが神から尊ばれていたと言わなければなりません。すなわち、まず先に尊んだほうは神の側であり、私たちではありません。何故なら、先に神から尊ばれていたからこそ、その者は神を尊ぶ者とされたからです。もしまず神から尊ばれていなかったとすれば、その者は神を尊ぶ者にされていなかったでしょう。これとは逆に、神を『さげすむ者は軽んじられ』てしまいます。誰から『軽んじられ』るのかと言えば「神から」です。実際、エリとエリの息子2人は神をその行ないにおいて『さげす』んでいましたから、続く箇所で書かれている通り『軽んじられ』ることになりました。愚弄する者に対する報いは愚弄なのです。このように神は鏡のごとく私たちに応じられる御方ですが、これは聖書の全体で示されていることです。ダビデも神に対してこう言っています。『あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。』(詩篇18:25~26)