【Ⅰサムエル記2:31~3:20】(2022/08/14)


【2:31~32】
『見よ。わたしがあなたの腕と、あなたの父の家の腕とを切り落とし、あなたの家には年寄りがいなくなる日が近づいている。イスラエルはしあわせにされるのに、あなたはわたしの住む所で敵を見るようになろう。あなたの家には、いつまでも、年寄りがいなくなる。』
 31節目で『腕』と言われているのは祭司を意味しており、『あなたの腕』とは祭司であったエリの息子たち2人であり、『あなたの父の家の腕』とはエリたち以外の祭司たちです。『切り落とし』とは殺されて死ぬことです。エリの息子たちは間もなく死ぬことになります(Ⅰサムエル記4:11)。他の祭司たちはサウルに殺されてしまいます(Ⅰサムエル記22:18)。これからエリの属する家には『いつまでも、年寄りがいなくな』ります。何故なら、エリたちのゆえ注がれる呪いにより、エリの『家の多くの者はみな、壮年のうちに死ななければならない』からです。そのようになる『日が近づいている』のでした。実際、エリの家に属する者たちが虐殺される日はそう遠くありませんでした。また、これから『イスラエルはしあわせにされる』と神は言っておられます。これはソロモンを通してイスラエルに与えられた未曽有の繁栄でしょう。ソロモンより以前は平和がまだありませんでしたから、『しあわせにされる』時はソロモンの時だったと考えるのが妥当です。しかし、イスラエル全体の幸せと対極的にエリの家は幸せを味わえません。それどころかエリの家に属する者たちは『わたしの住む所』であるエルサレムで『敵を見るようにな』ってしまいます。これはエリの同族であるレビ人が多く殺され、祭司職に就いていたレビ人も罷免され悲惨な状態となるからです。

 このように主を蔑む者は呪われて悲惨となります。もしエリたちが主を蔑まなければ、呪いが注がれませんから、悲惨を免れていたことでしょう。こういうわけですから、私たちは主を蔑まないようにしなければいけません。神は御自分を蔑む者に報いられるでしょう。私たちのうち一体誰が呪いを受けて悲惨になりたいと思うでしょうか。このエリたちは私たちに対する悪しき教訓として置かれています。

【2:33】
『わたしは、ひとりの人をあなたのために、わたしの祭壇から断ち切らない。その人はあなたの目を衰えさせ、あなたの心をやつれさせよう。あなたの家の多くの者はみな、壮年のうちに死ななければならない。』
 神は祭儀の職務に仕える祭司が断ち切られないよう、エリに続いて『ひとりの人』を新たな祭司として立てられますが、これはサムエルを指します。というのもエリの家に属する祭司が滅ぼされることで、イスラエルに祭司がいなくなってはいけないからです。このサムエルは『あなたのため』すなわちエリのため次の祭司として立てられます。神は、エリが祭司の断絶により絶望しないよう計らって下さったのです。もしサムエルがこれから祭司の職務を執り行なうというのであれば、エリも祭儀のことで嘆かずに済みます。しかし、このサムエルはエリ『の目を衰えさせ』『心をやつれさせ』ます。何故なら、サムエルが次の祭司として立てられるのは、エリの家が裁かれるために起こることだからです。エリの家は裁かれるので、自分たちの部族であるレビ人を次なる祭司として立てることができません。そうではなくエリの家には属さない非レビ人が次なる祭司となるのです。もしエリが裁かれていなければエリの家に属するレビ人がエリに続く祭司となっていたでしょう。ですから、エリはサムエルのことで嘆かなければいけなくなります。

 これからエリ『の家の多くの者はみな、壮年のうちに死ななければならな』くなります。つまり、彼らは『年寄り』(Ⅰサムエル記2:32)になるまで生きることができません。神から下される死の呪いがサウル王を通してまだ壮年であった彼らの上に襲いかかるからです(Ⅰサムエル22:18)。これはエリにとって耐え難い悲劇だと思えたはずです。

【2:34】
『あなたのふたりの息子、ホフニとピネハスの身にふりかかることが、あなたへのしるしである。ふたりとも一日のうちに死ぬ。』
 エリの家に対する恐るべき宣告が真実であるという印は、エリの息子である『ホフニとピネハス』が『ふたりとも一日のうちに死ぬ』ことによりました。神は息子たちを殺すことで、エリに下された宣告が絶対確実であるということを前もって証明されるのです。彼らの死ぬことは戦争によりました(Ⅰサムエル記4:11)。この印はエリたちが悪かったため与えられるのですから、ホフニとピネハスが死んだとしてもそれは自業自得でした。もしエリたちが正しく歩んでいれば、このような印が与えられる必要はありませんでしたから、2人の息子たちが死ぬこともなかったでしょう。このように悪を行なうとやがて自分の身に帰って来るので悪人は悲惨なのです。

【2:35】
『わたしは、わたしの心と思いの中で事を行なう忠実な祭司を、わたしのために起こそう。わたしは彼のために長く続く家を建てよう。彼は、いつまでもわたしに油そそがれた者の前を歩むであろう。』
 神はエリたちの次に祭司となる者としてサムエルをこれから起こされますが、愚かだったエリたちとは異なり、このサムエルはしっかり御心を行なう敬虔な人でした。神は、御心に適わなかったエリたちを言わば更迭し、新たな祭司としてサムエルを据えられるのです。企業の社長は支店長がしっかり働かなければ、その支店長をクビにするか支店長の座から遠ざけるなどするはずです。神が愚かな祭司たちを退けてサムエルを起こされたのは、これと同じでした。神はこのサムエル『のために長く続く家を建て』られます。この家とはこれから建設されるイスラエル国家のことです。実際、この国家というイスラエルの家は『長く続く』ことになりました。またサムエルは『いつまでも』すなわちその生きている間ずっと『わたしに油そそがれた者』であるイスラエルの王『の前を歩む』こととなります。この『わたしに油そそがれた者』とはここではキリストを意味していません。

【2:36】
『あなたの家の生き残った者はみな、賃金とパン一個を求めて彼のところに来ておじぎをし、『どうか、祭司の務めの一つでも私にあてがって、一切れのパンを食べさせてください。』と言おう。」』
 エリの家に属する『生き残った者はみな』神から罰されますから、祭司として立てられたサムエルの『ところに来ておじぎをし、『どうか、祭司の務めの一つでも私にあてがって、一切れのパンを食べさせてください。』と言』うことになります。ご覧ください、これは何という惨めさ、何という屈辱、何という下落でしょうか。これが悪のゆえ神に罰された者たちの末路なのです。本来であれば祭司たちがレビ人でないサムエルに優越し彼を統導するはずでした。しかし祭司たちは罰を受けるので、サムエルのところに来てへこへこしなければいけないのです。

【3:1】
『少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。』
 『少年』と書かれているゆえまだ成人年齢である12歳に達していなかったであろうサムエルは、シロの聖所にいてずっと『エリの前で主に仕えてい』ました。『エリの前で』とは「エリに指導・管理されつつ歩む中で」というほどの意味です。というのもエリは親権こそないものの幼きサムエルの保護者だったからです。

『そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。』
 神は御言葉と幻により啓示を与えておられました。『主のことば』とは記号(言語)により真理を啓示することです。これは人間が理解できる仕方ですから、内容の解釈はともかく、認識的に曖昧なところはありません。『幻』とは夢や脳内イメージにより啓示が与えられることです。ペテロに示された幻がこれでした(使徒の働き10:10~17)。神が本当に幻を通して啓示される場合、ペテロの事例からも分かる通り、必ず明白な御言葉が伴います。新約時代で神からの幻を見たなどと語る人は、幻を見たとは言っても、明白な御言葉が欠けています。つまり、映像だけであり記号がないのです。このような幻を見たと語る人はこれまで少なからず現われましたが、どれも信頼するに足りません。もしそれが本当に神からの幻であれば必ず御言葉が伴っていたでしょうから。モーセやヨシュアの頃は、このような啓示が多く与えられていました。特にモーセの時代は凄まじかった。トーラーの巻を読めば分かる通りです。しかし、エリの時代にこのような啓示はほとんどありませんでした。これはこの時代のイスラエルが不信仰で不敬虔だったことを意味しています。何故なら、堕落した世代には『主のことばを聞くことのききん』(アモス8章11節)が起こるからです。堕落しているということは、神を嫌っているということです。神は御自分を嫌う者に対し御言葉をお与えになりません。人間は嫌いな者に話しかけようとしないものですが、神もこれと同様なのです。ですから、もしエリの時代のイスラエルが堕落していなければ、神からの啓示が大いに与えられていたはずです。マラキからバプテスマのヨハネまでの時期にも、このような飢饉がありました。その頃のユダヤ人はかなり堕落していたからです。要するに、御言葉が多いか少ないかということは、敬虔さまた堕落性を示すバロメーターなのです。今の時代の教会について言えば、あまり敬虔な傾向を持っていないことが分かります。今は御言葉を語る説教の時間がどこも短くなっており、昔は一般的だった講解説教があまり行われなくなっており、註解書もほとんど書かれなくなっているからです。古代教会と宗教改革期の教会と比べるならば、今の教会に御言葉が少ないのは火を見るよりも明らかです。

【3:2】
『その日、エリは自分の所で寝ていた。―彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。―』
 『その日、エリは自分の所で寝ていた』というのは、日常生活の一場面であって、何か特別だということはありません。この頃のエリはもうかなりの高齢に達しており、そのため『目はかすんできて、見えなくなっていた』のでした。この目のかすみは、エリの罪に対する呪いだった可能性があります。何故なら、モーセは120歳になっても目がかすまなかったからです(申命記34:7)。モーセは限りなく祝福されている『神の人』でした。それゆえ、もしエリが罪を犯していなければ、モーセのように高齢であっても目がかすまずに済んでいたかもしれません。なお、この時代にはまだ眼鏡やコンタクトレンズといった視力の補助用具がありませんでした。

【3:3】
『神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。』
 『神のともしび』とは、燭台(メノラー)に灯されていた火のことです。この時にこの火は『まだ消えてい』ませんでした。つまり、祭司たちが絶え間なく燭台に火を灯し続けていました。これは神聖ですが大変で神経の使う仕事です。

 『サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた』というのは、つまりサムエルが神のおられる聖所を住まいとしていたということです。これはサムエルが神に捧げられた存在だったからです。神に捧げられた者は神のものですから、いつも神と共にいるのです。

 この箇所で『主の宮』と言われているのを石造りの神殿だと思ってはなりません。ソロモンが建造するまで神殿はイスラエルに存在していなかったからです。私たちは『宮』と聞いたら石造りの神殿を思い浮かべがちです。しかし、この時代における『主の宮』とはまだ天幕としての形態でした。

【3:4~5】
『そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ。」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。』
 神は聖所で寝ているサムエルを呼ばれました。それは実際的な音声によったはずです。しかし、サムエルはまだその御声が神から発せられたと分かりませんでした。何故なら、サムエルはまだヤハウェについて知らなかったからです(Ⅰサムエル記3:7)。もしこの時代に神がよく語っておられたとすれば、サムエルも聞こえたその御声が神によると分かったかもしれません。しかしこの時代の民に神はほとんど語りかけておられませんでしたので(Ⅰサムエル記3:1)、サムエルはまさかヤハウェが呼んでおられるなどと思いもしませんでした。サムエルにはその御声がエリの声だと思われましたから、エリのところに向かいます。これは仕方がないことでしたからサムエルの罪になりません。エリはサムエルを呼んでいなかったので、自分のところに来たサムエルを帰しました。エリもまだ神がサムエルに語りかけたとは分かっていませんでした。

【3:6~7】
『主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ。」と言った。サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。』
 神はまたサムエルを呼ばれましたが、サムエルは再びエリが呼んでいるものと思い、エリのところに行って先と同じ通り帰されました。これで神は2度も無視されたことになりますが、これは仕方がないことであり、また神は寛大で忍耐深い御方なので怒りを燃やしたりされませんでした。この時のサムエルはまだ神の御声を神の御声として認識することができませんでした。『サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった』からです。サムエルにとって、神から語りかけられたのはこの時が初めてだったはずです。

 エリはここでサムエルを『わが子よ。』と呼んでいますが、これは先述の通りエリがサムエルの保護者だったからです。ここで『わが子よ。』と言っているからといって、エリがサムエルの実の親だったというわけではありません。

【3:8~9】
『主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。』
 サムエルが三度目に来た時、エリは事の次第を悟ります。というのも、サムエルが老人となっていたエリをからかおうとして来ているとは考えられなかったからです。であれば、神がサムエルに呼びかけておられたと判断するしかなかったのです。サムエルは神のおられる宮にいたのですから、エリは神がサムエルに呼びかけておられるということを確信したのです。こうしてエリは再びサムエルを帰らせ、今度は『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と主に応じるよう指示します。このように応じるのが適切だったからです。これから祭司となるよう定められていたサムエルは主の『しもべ』でした。主の僕であれば、主の御言葉に耳を傾けるべきなのです。

 ここでエリはサムエルに謙遜を命じています。サムエルは全く神に対し受け身となるべきでした。謙遜こそ御民の持つべき重要な態度・精神だからです。人間は謙遜を捨て反逆したからこそ神に捨てられ堕落したのです。謙遜がなければ敬虔も従順もありません。

【3:10】
『そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。』
 4度目に神が呼ばれた時、サムエルはエリが命じた通りに応じました。サムエルは静かにしており反抗しませんでした。ここで主が『サムエル。サムエル。』と2回繰り返して呼んでおられるのは、サムエルに親しく呼びかけておられるのです。主は御自分が特別に選ばれた聖徒をこのように繰り返して呼ばれます。主はモーセに『モーセ、モーセ。』(出エジプト記3章4節)と呼びかけられました。ペテロに対しても『シモン、シモン。』(ルカ22章31節)と主は呼びかけられました。パウロにもやはり『サウロ、サウロ。』(使徒の働き9章4節)と呼びかけられています。しかし、イスカリオテのユダには「ユダ、ユダ。」と呼びかけられませんでした。ユダは忌まわしい邪悪な者だったからです。

【3:11~14】
『主はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。だから、わたしはエリの家について誓った。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない。」』
 神はサムエルにエリがこれから裁かれると告げられます。何故なら、聖書にはこう書かれているからです。『まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。』(アモス3章7節)エリの家が受ける裁きについて『聞く者はみな、二つの耳が鳴る』ことになります。何故なら、その裁きは凄まじく恐ろしい内容だからです。神は『その日』すなわちエリたちが裁きに定められた日に、御自分の語られた裁きをことごとく実現されます。何故なら、神は言われたことを全て行なわれる御方だからです(民数記23:19)。神がエリの家を裁かれるのは、エリが息子たちの罪悪をしっかり戒めなかったからでした。先の箇所を見ると、エリは2人の息子たちを戒めているようにも思えます(Ⅰサムエル記2:23~25)。しかし、エリは口先で戒めたものの息子たちが悪を全く止めませんでした。これは戒めていないのも同然です。何故なら、戒めていない場合と状況は全く変わっていないからです。神がここで言っておられるのは、エリが戒めにより息子たちの罪悪を止めさせなかったということです。これゆえ、息子たちの罪悪における責任は、エリとその家全体が共犯者として負わなければいけなくなりました。エリが息子たちに悪を止めさせなかった罪は、『いけにえによっても、穀物のささげ物によっても』償うことができませんでした(14節)。これはその罪が致命的だったからです。もしエリが悔い改めていたか、もしくは悔い改める兆候を僅かでさえ示していれば、赦しの余地があったかもしれません。しかし、エリは息子たちの罪について全く悔い改める姿勢を見せていませんでしたから、神は赦しの余地がないと判定されたのです。エリがこのような態度だったからこそ、息子たちの悪を何としてでも止めさせようとはしなかったわけです。神はこの裁きについて誓われました。つまり、この裁きは絶対に取り消されることがないということです。何故なら、人間でさえ誓ったならばその誓った内容を取り消すことがないからです。人間でさえ取り消さないとすれば、尚のこと神は誓った内容を取り消されません。実際、神は誓われた通り、エリの家に対する裁きをことごとく全うなさいました。

 要するに、エリが違反したのは次の律法でした。『あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。』(レビ記19章17節)エリは『ねんごろに戒め』ることで『隣人』である2人の息子たちを悪から遠ざけなかったのですから、事実上息子たちの悪を容認していたことになるゆえ、息子たちの悪における責任を自分も負わなければいけなくなったのです。エリはこのようなことを民に教え導くべきでしたが、自分自身がまずそのように行なえていませんでしたから、大きな罪を犯していたわけです。このようにエリはレビ記19:17の箇所における律法を守らなかったので、永遠の罪と裁きに定められました。これは実に恐るべきことです。ですから、私たちはエリと同じ愚を犯さないよう注意しなければいけません。私たちのうち誰がエリのように裁かれたいと思うでしょうか。

【3:15】
『サムエルは朝まで眠り、それから主の宮のとびらをあけた。サムエルは、この黙示についてエリに語るのを恐れた。』
 サムエルは主から御言葉を受けると再び眠ります。そして起きると『主の宮のとびらをあけ』ました。これはサムエルが行なうべき日々の仕事の一つだったのでしょう。このようなことをしてサムエルは幼い時から主に仕えていたのです。また先にも述べておきましたが、ここで『主の宮のとびら』と言われているのを石造りの神殿として理解してはなりませんん。これはトーラーで規定されている天幕としての宮のことです。

 この箇所で言われている『黙示』とは、それまで隠されていた事柄が神から公に開示されることです。黙示録1:1の箇所でも『黙示』と書かれています。『サムエルは、この黙示についてエリに語るのを恐れた』のですが、これは単なる人間的な恐れであって、黙示の内容がエリにとって痛ましかったからです。つまり、サムエルはエリの顔色を気にしたわけです。「このようなことを知らせたらエリは何と反応するだろうか。」と。黙示の内容はエリに対する裁きでしたから、確かにサムエルがエリに告知するのを恐れたのは無理もありませんでした。しかし、神の啓示を大胆に告げ知らせることこそ祭司の義務たる職務だということがサムエルにはまだ分かっていませんでした。

【3:16~18】
『ところが、エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは、「はい。ここにおります。」と答えた。エリは言った。「おまえにお告げになったことは、どんなことだったのか。私に隠さないでくれ。もし、おまえにお告げになったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」それでサムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」』
 エリは当然ながらサムエルに告げられた神の言葉がどのようであったか知りたかったので、『もし、おまえにお告げになったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。』という脅迫をもってサムエルから神の言葉を聞き出そうとしました。この脅迫は正当でした。何故なら、神の御告げが隠されたままでいるべきではないからです。ですから、もしサムエルが何か一つでも神の御告げをエリに隠したとすれば、エリが脅迫した通り、サムエルは幾重にも罰せられていたでしょう。このようにしてサムエルは神から告げられた事柄を全てエリに知らせました。

 サムエルから聞いたエリは、サムエルに語りかけたのが主だと確信しました。何故なら、サムエルが語った内容はヤハウェによるとしか考えられなかったからです。人は神の御言葉を読んだり聞いたりすれば、それが神の御言葉であると分かるものなのです。というのもそれは天上的で神聖な内容だからです。福音書のどれか一巻を読むだけでもこれは明らかです。先述の通り、サムエルに告げられた神の御言葉は、エリに対する裁きを宣言する内容でした。それはエリにとって悲惨な内容です。しかし、エリはその御告げを聞いて『主がみこころにかなうことをなさいますように。』と言いました。恐らく、エリは神の裁きを受け入れる覚悟が出来ていたのかもしれません。または絶望していたのでもうどうしようもないと諦めていたのかもしれません。

【3:19~20】
『サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った。』
 『サムエルは成長した。』―すなわちヤハウェの御前において、正しく、敬虔に。成長していたサムエルが罪から遠ざかっていたことはほとんど間違いありません。何故なら、ここでは『主は彼とともにおられ』と書かれているからです。神は罪から遠ざかっている者と共に歩まれます(ヨハネ14:23)。「罪」が人と神との関係を隔て、引き離してしまいます(イザヤ59:2)。ですから、主が共におられたサムエルは、その成長する歩みにおいて罪から遠ざかっていたと言えるのです。もしサムエルがエリの息子たち2人のように罪に陥っていたとすれば、主はサムエルと共におられなかったかもしれません。私たち人間にしても、邪悪な犯罪行為をし続けている忌むべき罪深い人と一緒にいたいとは感じないでしょう。

 主はこのサムエルが語った『ことばを一つも地に落とされ』ませんでした。これはサムエルの言葉がことごとく実現したということです。『ことばを一つも地に落とされなかった。』というのは、恐らく放たれた弓矢の例えです。弓が放たれても地に落ちてしまえば、対象に当たりませんから効果はありません。つまり、言葉という名の矢が地に落ちたというのは、その言葉がその通りにならなかったという意味です。サウルが正にこれでした。サウルは王であったのにその言葉が地に落ちて実現しなかったのです(Ⅰサムエル14:44~45)。しかし、矢が放たれてから落ちなければ対象に命中するので効果を発揮します。ですから、言葉という矢が地に落ちなかったというのは、その言葉がその通りになったという意味です。神がこのようにサムエルの言葉を落とされなかったのは、全てのイスラエル人にサムエルが預言者として立てられたということを知らせるためでした。何故なら、その言葉が全て実現するというのは正(まさ)しく預言者に相応しいことだからです。20節目で『ダンからベエル・シェバまで』と書かれているのはイスラエルの地全体を表示しています。『ダン』はイスラエルの西側にあり、『ベエル・シェバ』はユダおよびシメオンの相続地における南のほうに位置しています。