週報:【キリストに全てがかかっている】(2020/12/20)


使徒パウロはこう言いました。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)これは、パウロが自分の全てをキリストに置いていたことを示しています。というのも、キリストを自分の全てとしていなければ、このようなことは言えなかったはずだからです。パウロの全てはキリストでしたから、「死ぬこともまた益」でした。つまり、パウロにとって死は害や損失ではなかったのです。何故なら、死ねば天国に招かれ、そこでイエス様と一緒に永遠に幸せに生きられるからです。ですからパウロは、この世を離れてキリストと一緒にいるほうが幸いだと知っていました。神がパウロに教えて下さっておられたのです。このためパウロはこう言いました。「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1:23)このパウロは、キリストに全てがかかっていることを知っていました。確かに、人の全てはキリストにより決定づけられます。すなわち、キリストを信じてキリストに生きる人は永遠の至福に至りますが、「信じない者は罪に定められ」(マルコ16:16)て永遠の刑罰に至ります。これこそ私たちの人生の中で最も重大な事柄です。つまり、私たちの存在はこのイエス・キリストに何もかもがかかっているのです。それゆえ、パウロは「私にとっては、生きることはキリスト」と心から言ったわけです。この世は、パウロの言ったことを愚かだと感じるかもしれません。ですが、パウロは正しく敬虔なことを言いました。私たちはそのことがよく分かります。この世がパウロの言葉を理解しないのは、パウロが神の霊によって天上的なことを語ったからに他なりません。キリストを信じるとは、このパウロのように全てをキリストに置くということです。何故なら、クリスチャンとは「キリストを主とする者」という意味だからです。確かにキリストはあらゆる領域において私たちの主であられます。これから多くの日本人の方々が、このキリストを信じ、キリストにこそ生きるようになるのを願うものです。そのために私たちは福音の伝道をしていかねばなりません。福音伝道がなされるからこそ、イエス様のことが知れるようになるのです。そして知れるからこそ、信じれるようにもなるのです。パウロがこう言っている通りです。「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」(ローマ10:14~15)