週報:【カトリックの間違った理解について】(2021/01/24)


カトリックは、非常に守るのが難しいと思える命令を、命令ではなく「勧告」として理解しています。何故なら、それは普通に考えて守り難いと感じられるからです。ですから、そのような命令は司祭や修道士などより完全であることを求められている信者だけが守ればよいとします。例えば、キリストが言われた次の命令がそうです。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)この命令は、守るのが最も難しい命令の一つです。イギリスの高名な哲学者であるJ・S・ミルという人も、この命令の非常な道徳性に驚きを隠せませんでした。また次の命令もそうです。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:39)これも守るのが難しい命令です。何故なら、私たちは生来的に復讐に走りがちな傾向を持っており、神が復讐をして下さるまで待てないことが多いからです。特に弱かったり精神が卑小であればあるほど、人は復讐に走りやすい。例えば中国人がそうであり、ニュースを見ても分かるように彼らは必ず復讐をする民族です。アダム・スミスが「道徳感情論」の中で言ったように女性も男性に比べると復讐に走りやすく、復讐の際には自分の心を自制できず、限度を弁えない場合が多いのです。男性も、ヒュームのような人格者でなければないほど、すぐに、また大きな復讐をしやすい。さて、これらの命令はどのように受け取ればよいのでしょうか。本当にこれらは守れる人だけが守ればよい「勧告」としてのみ語られたのでしょうか。カトリックの考え方は正しいのでしょうか。私は言いますが、カトリックは完全に誤っています。これらは、どれも明白な「命令」です。それは、その言われている内容を見れば明らかです。カトリックが勧告として理解している聖句は、どれも「~~しなさい。」と命令口調で語られています。「~~できるのであれば、そのようにしたほうがよい。」などとは言われていません。カトリックが、守るのに困難だからといって命令を勧告として受け取ったのは、異常な判断でした。私たちは上で挙げられたような命令を命令として受け取り、たとえ守るのが難しいと感じられても、それを守れるような者となれるように願わねばならないのです。アメリカではカトリックのバイデンが大統領になりましたが、私たちはカトリックの愚かな考えに惑わされないようにすべきでしょう。もしカトリックと一緒に歩まねばならないとしたら正しい信仰がどれだけあっても足りなくなってしまいます。カトリックの悪い影響を受けて、正しい信仰が無残にも破壊されてしまうからです。