週報:【イエス・キリストに全てがある】(2021/01/31)


結局のところ、イエス・キリストこそが全てにおいて全てであられます。私は真理を伝えますが、このキリストにこそ心を傾けねばなりません。もしキリストを持っていれば、その人は全てを持っています。しかしキリストを持っていなければ、その人には何もないことになります。何故なら、この世界はキリストのゆえに創造され、キリストのために保たれているからです。聖書でパウロがこう言っている通りです。「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1章16節)多くの人は、このように言われても、なかなか実感が持てないでしょう。霊的な人であれば、今言われたことがよく分かるかもしれません。しかし、そのような人は今の時代において稀です。ですが、全ての人は、このことについてやがて否が応でも豊かに悟るようになります。ある人は天国で、ある人は地獄で。何故なら、その時には全ての人が全てのことを知るようになるからです。あの金持ちも、この地上で生きている時にはこのことを何も弁えていませんでしたが、死んでから豊かに弁えるようになりました(ルカ16:19~31)。確かなところ、この世の全てを持ってはいるがキリストだけは持っていないのと、この世で何も持っていないがキリストだけは持っているのとでは、明らかに後者のほうが優っています。何故なら、後者のほうは、この地上での短い人生を終えた後に永遠の至福へと導かれるからです。前者のほうは、この地上でほんの僅かの間だけ素晴らしい幸せを味わえるかもしれませんが、最後には永遠に炎で焼かれ続けることになります。そうであれば、この地上世界で全てを持っていたとしても、一体なんの意味があるのでしょうか。ですからキリストは次のように言われたのです。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16章26節)キリストに全てがあります。ですから、キリストがなければ人の人生に意味はなく、ただ虚しいだけです。要するに、イエス・キリストに全てがかかっています。私たちは、このキリストのうちに留まり続けねばなりません。そうしなければ絶対に後悔することになるからです。また、他の人たちもキリストに導かれるようになるのを求めて行かねばなりません。私たちは、そのようにするためにキリストに導かれて神の子どもとされたのですから。それは、Ⅰペテロ2:9で教えられている通りです。この静岡にも、キリストを求める人が増えますように。アーメン。