週報:【魂について】(2021/03/28)


聖書は、私たち人間が魂を持っていると教えています。人間は、その身体に神から魂を与えられたことで、実際に生きるようになりました。創世記2:7ではこう書かれています。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。」ここで言われている「いのちの息」とは魂のことです。また、私たちは死んで身体が廃墟となった後、その霊において神のもとに帰ります。伝道者の書12;7ではこう書かれています。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」ここで書かれている「霊」とは魂のことを言っています。そして、人は神の御前に出頭し、神から正当な審判を受けます。そうして真のキリスト者は天国に入り、そうでない方々は地獄に落とされ神の怒りを受けるのです。ヨハネ3:36で「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」と言われている通りです。さて、この魂はクリスチャン以外にも昔から多くの人が認めており、日本人も例外ではありません。多くの日本人の方が、先祖供養をするのは、その先祖に魂があったことを信じているからでなくて何でしょうか。先祖に魂がなく、死んで全て終わったとすれば、供養はただの馬鹿げた虚しい演技に他ならなくなるからです。この魂ですが、それは私たち人間のどこに宿っているのでしょうか?これは昔から多くの人が疑問に感じてきたことです。魂のある身体の部位は、頭でしょうか、心臓でしょうか、それとも他の部位なのでしょうか。この疑問には答えることができません。何故なら、そもそも魂とは物体ではありませんから、物理的に把握しようとすること自体が間違っているからです。魂が宿ることについては次のように言う他ありません。「どことは言えないが、魂は個々の人間のうちに確かに宿っている。」それでは魂とは一体なんなのでしょうか。それは私たちにとって、どのようなものなのでしょうか。つまり、何を指して「魂」と言えるのでしょうか。これも昔からよく抱かれてきた疑問です。これに答えるのは簡単です。私たちの持つ自我、意識、また私たちの主体そのもの。これこそが正に魂なのです。私たちは誰でも、「自分」を感じており、「自分」において生きており、「自分」をしっかりと持っています。私たちの実感している「この自分」。これが魂に他なりません。これは物理的に言い表しがたく、非常に把握しにくいかもしれませんが、それこそ魂が魂であることの証拠です。何故なら、先にも述べた通り、魂とは物体ではないからです。それは霊ですから、確かに存在していることを感じるものの、どこか掴みどころがないのは当然です。