週報:【コントと実証主義について】(2021/05/23)


フランスにオーギュスト・コント(1798―1857)という有名な哲学者がいます。ブラジルの国旗に「秩序と進歩」と書かれているのはコントの言葉です。彼は「実証主義」という哲学の創始者です。これは世界に大きな影響を及ぼしました。これは宗教や形而上学といった超越的な思弁を無視して、ただ経験的な事実に基づいて得られる見解にのみ信頼すべきだとする哲学上の立場です。現代人の多くは、データや目に見える事柄に非常な重きを置き、宗教的な事柄を軽んじる傾向があります。これは正に現代社会が実証主義的になっている証拠です。コントによれば、人間の知識における発展段階は3つに分けられます。すなわち、最初が宗教的、次が形而上学的、そして最後は科学的という段階です。科学的な思弁方法は宗教的および形而上学的な思弁方法よりも優っているとコントは言います。そして形而上学的な思弁方法は宗教的な思弁方法よりも上位に位置するとも彼は言っています。確かに古代の時代性は非常に宗教的であり、人々の思弁は実に宗教的でした。プラトンやアリストテレスの時代になると、形而上学的な思弁が力を増してくるようになりました。これは古代ギリシャの書物を読めば分かります。そして近代になると時代性は科学的になり、観察や実験など事実に基づく思弁が重要視されることになりました。ですからコントの言っていることは、一見すると正しいかのように思えなくもありません。しかし、コントの見解は間違っていると言わねばなりません。このコントによれば、人間の知的発展における最高段階は科学的な思弁であるとされ、科学は万物を解決する魔法の鍵でもあるかのように見做されています。しかし、科学では例えばこの世界や人間の意味・存在理由を明らかにすることは出来ません。それは宗教によって取り扱われるべきことです。というのも科学とは、単にデータや規則などといった経験的事実に基づいて宇宙における原理を解明する学問であって、よく言われるように「意味」や「理由」については取り扱いの範囲外だからです。科学がどれだけ正しいデータや規則を入手したとしても、どうして世界や人間の意味を解明できるのでしょうか。それは宗教の啓示が教えることなのです。コントは19世紀における驚くべき科学の発展に目を奪われ、科学こそ万能の鍵であると勘違いしたので、このことを悟ることが出来ませんでした。宗教には宗教の為すべきことがあり、科学には科学の為すべきことがあるのです。ですから、科学と宗教また形而上学に序列を付けることは出来ません。コントがこれら3つに序列を付けたのは、音楽で言えばクラシック<ジャズ<ロックまたR&Bという序列付けをするのと一緒です。何故なら、昔にはクラシックしかなく、次にジャズが現われ、そしてロックとR&Bが形成されるようになったからです。こんな序列付けはあまりにも馬鹿げています。このコントは、晩年になると自分の述べた見解に反することをするに至りました。最愛の恋人を失ったショックにより精神状態が変化し、「人類教」という宗教を創始したのです。しかもコントはその宗教における「大祭司」に就任しました。自分が最も劣ると述べて軽蔑していた宗教的な段階に自ら陥るとは、正にその名が示す通り「コント」であると言えましょう。このように自己矛盾している哲学者の見解をどうして受け入れることが出来るでしょうか。私たちはこのような哲学者と哲学に注意せねばなりません。確かに科学は優れており、そこには明らかに神の恵みが注がれていますから、無視したり軽蔑することは出来ません。プロテスタント教会は科学のうちに注がれている神の恵みに心を傾けるべきです。この科学により私たちは多くの文明的な幸いを受け、神の設定された自然における規則を深く知ることが出来るからです。しかし、宗教的な思弁をコントのように低い段階にあるものとして見做すことは絶対に出来ません。何故なら、もし宗教を蔑ろにするのであれば、私たちはこの世界と人間における真理から遠く離され、霊的な闇の中を彷徨い歩かねばならなくなるからです。これは非常に悲惨なことです。