週報:【近代の歴史認識から考察するキリスト教の活発化】(2021/06/13)


最近においてキリスト教は、あまり勢いが見られなくなってしまいました。欧米では世俗化が進んでいますが、ここ日本では信じる者の数があまり増えていません。新しい教会堂は、今では非常に珍しいと思えます。どこを見ても会堂が古いか、住まいの家または公的な施設を会堂として使っているかです。これは信者と献金が少ないことを意味しています。新しい教会も、あまり多くあるとは感じられません。私の経験から言えば、むしろ、もう使われなくなった教会堂があったり、別の教会に吸収されたり、どこかの活動拠点から撤退したりしているケースのほうが遥かに多いと感じられます。カトリックはと言えば、イルミナティの人間が教皇に就いていますし、相変わらず異常な教義を奉じ続けている有り様。東方正教会は、未だに三位一体について冒瀆的な理解から離れようとしないままです。というより、カトリックと東方正教会はそもそもキリストの教会ですらないのですが。さて、最近のキリスト教が活発化していない理由は一体何なのでしょうか。その理由には幾つかありますが、今回は近代における歴史認識からその理由を考察したいと思います。近代のキリスト教が活発化していないのは、文明の発達と物質的な充満にその理由を見出せます。およそ200年ぐらい前から、ヨーロッパを中心に産業が大いに発達し、その結果、社会は物質的な繁栄を享受することになりました。このような物質的な充足に人々の心が奪われてしまいました。このため、この世のことしか考えようとしないニーチェや物質的な事柄に最上の価値観と解決があると勘違いしたコントのような人が多く現われることになったのです。ですから、産業の発達した近代に生きる人々は、この世の事柄に精神が引き付けられて、神や天国といった超越的な宗教事項には疎くなってしまったわけです。非常に敬虔なクリスチャンであっても、突如として前代未聞の出来事が目の前で起きたならば、その出来事に驚いて頭が一杯となり、一時的に霊的なことを考えられなくなってしまうはずです。思考は一つしかないのです。ある事柄に100%の思考を費やせば、他の事柄に思考の力を振り分けることは難しいでしょう。近代人がこの世の物質的な事柄に刺激されて真理から遠ざかっているのは、これと同じことです。今でも次から次へと新しい概念や商品や技術が現われ、人々の精神を刺激し引き付けています。別に私はそのような刷新が悪いと言っているのではありません。しかし、その文明的な発展のせいで人々が今でも宗教から心を遠ざけている状態となっているのです。これから文明の発展が100年続くか300年続くかは分かりませんが、やがて発展の終わりが来るはずです。ホーキングも言っていましたが、発展がいつまでも続くことはないはずです。その時が来れば、徐々に人々は物質的な事柄から刺激をあまり受けなくなっていくでしょう。何故なら、今の時代のように新しい事柄がもはやほとんど現われて来ないからです。そのようになれば、文明の物質性に飽きることにもなります。その時こそ、人々が再び信仰に戻って来るようになるはずです。まだ産業が近代化していない中世以前の時代を思い返して下さい。その時代では物質があまり人々を刺激していなかったので、人間精神は当たり前のように宗教的な事柄を受容していました。物質が人間精神を引き付けないと、精神は自然と超越的な事柄に向くものなのです。今でも信仰の復興を求めている方々が多く見られますが、今述べた近代の歴史について考えるならば、信仰が復興するのはまだまだ先のことだと私には思えます。実際、ここ200年間の時代は、キリスト教が活発化するどころか停滞また衰退するばかりではありませんか。物質の刺激は非常に力があります。物質の発展が好奇心と欲求を刺激するならば、尚のこと物質は力強い。ですから物質界の発展がピークに達して止まらない限り、キリスト教が再び繁栄するのはまだではないかと思われるのです。もちろん、神が間もなくキリスト教の繁栄を予定しておられるというのであれば話は別です。その場合であれば、物質の発展と充満における状態がどうであれ、すぐにもキリスト教は再び繫栄することになりましょう。何故なら、神に不可能はなく、神は御心に適ったことをなさるからです。もしそうなればどれだけ良いでしょうか。