週報:【聖書にこそ「答え」がある】(2021/06/20)


どこかにある本はどうしてあるのでしょうか。誰かがそれを書き、どこかの出版社がそれを出版したからです。道を走っている車はどうしてあるのでしょうか。ある自動車会社が構想を練り、工場で造り、販売したからです。ある絵が壁に吊り下げられています。誰かがそれを書き、誰かがそれを吊り下げたに違いありません。それでは、この宇宙はどうしてあるのでしょうか?宇宙全体を超越した至高者であられる神が、全てを予め計画し、その計画に基づいて宇宙を造られたのです。本や車や絵といった小さい物体にさえ存在の理由があるとすれば、それらを無数に内包する宇宙という巨大な物体には尚のこと存在の理由があります。何故なら、宇宙は本、車、絵などよりも遥かに大きく、深く、本質的だからです。「本や車や絵には存在の理由があるが、宇宙には存在の理由があるかどうか分からない。」と言われるでしょうか。それは「机の上に書かれている落書きにはそれが書かれた理由があるだろうが、ピカソの書いた絵画にはそれが書かれた理由があるかどうか分からない。」と言うのと一緒です。さて、スーパーで売られている唐揚げには、何かの意味があるのでしょうか。当然あります。すなわち、それを売って利益を得るためです。では道に置かれている標識や警告板には何かの意味があるのでしょうか。これもあります。すなわち、そこを移動する人たちが移動しやすくなったり事故を起こさなくなるためです。それではこの宇宙が造られたことには何かの意味があるのでしょうか。これも当然ながらあります。すなわち、この宇宙における被造物を通して神の栄光が表わされるためです。唐揚げや標識・警告板といった小さな物体にさえ意味があるのであれば、それを内包する巨大な宇宙には尚のこと意味があります。ニーチェは、自分自身の内部を探れば世界や人間についての理由また意味が見いだせると考えていました。彼は外部からの教えや概念や示唆に聞き従うことを嫌いました。何故なら、そのようにするのは従属者的であり、弱さの現われだとニーチェには思えたからです。ですから彼はある時から全く本を読まなくなってしまいました。しかし、ニーチェのように自己自身から答えを引き出そうとしても徒労に終わるだけです。何故なら、人間の内部にあるのは無知の闇と罪と弱さと愚かさだけだからです。このような内部ばかりニーチェは見つめていたので、晩年には発狂して精神障害者となってしまいました。では、卓越した哲学者や著名な科学者に聞けば、この世界と人間に関する理由と意味が分かるのでしょうか。これも徒労に終わるだけです。例えばタイムマシンで昔に戻り、ホーキングに「この宇宙はどうしてあるのか。」と聞いたとしたら、どうでしょうか。彼は「宇宙は永遠の昔からずっとある。」とか「この宇宙は法則により生じた。」などと言って、私たちに真っ直ぐな答えを提供することが出来ないでしょう。アインシュタインに「人間はどうして存在するのか。」と聞いた場合はどうでしょうか。彼は物理学以外の分野では言っていることが一貫していませんから、私たちを満足させるような回答は貰えないでしょう。この世界と人間の理由また意味は、聖書に答えが記されています。聖書はこう言っています。①:この宇宙は全て神の栄光のために造られた。②:人間は神に従うべき存在として造られたが従わなかったので刑罰として死ぬことになり、最後には地獄へ落ちる運命が与えられた。③:神は人間の罪が赦されるために御自身の御子イエス・キリストを十字架で贖いとされた。④このイエス・キリストを信じる者は罪の赦しを受けて天国に入ることが出来る。聖書がこの世界と人間について教えていることは首尾一貫しています。それは聖書の教えが真理だからに他なりません。人間に「答え」を要求しても得られないでしょう。人間は死すべき小さな蛆虫に過ぎないのですから。この宇宙の境界さえどうなっているか知らない人間がどうして宇宙について答えを知れるのでしょうか。まだ人間の脳についてはほとんど解明されていませんが、自分自身の人体のことさえ分かっていない人間がどうして人間についての答えを知得できるのでしょうか。私の同胞である日本人の方々には聖書をこそ求めていただきたい。聖書、この聖書の中にこそ、私たちに対する真の答えが啓示されているのです。