週報:【法的事実である救い】(2021/06/27)


救いは法的な事実です。ある人が無罪であればその人の無罪は事実であって、ある人が有罪であればその人の有罪は事実です。それと同じで、ある人が救われていれば救いは事実であって、救われていなければ救われていないのが事実です。無罪である誰かが自分は有罪ではないかと不安になっても、その人が無罪であることに間違いはありません。それと同様、救われている人が自分の救いについて不安になっても、その人が救われていることは確かです。これとは逆に有罪である誰かが自分は無罪でないのかと思っても、その人が有罪であることに変わりはありません。これと同様、救われていない方々が自分はやがて天国に行けるはずだと思ったとしても、天国に行けないことは確かです。救いを受けている人は、どのようにしても救いから落ちることがありません。何故なら、神はその人が救われるように定めておられるからです。救い主キリストは、御自身のもとに来て救われた人を決して救いから落とさせません。主がこう言っておられる通りです。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:37)一方、救いに定められていない人は、どのようにしても救いに入ることがありません。その人はそもそもキリストの救いを本当に求めることさえありません。何故なら、その人は地獄で永遠までも刑罰を受け続けるように神から定められているからです。しかし、今救いを求めていないからといって、絶対に救いに定められていないとは必ずしも言えません。何故なら、十字架上の強盗のように、死の間際になってから救いを求める人もいないわけではないからです。このように救いとは神の定められた法的な事実なので、私たちは救いの確信を強く持つことができます。それというのも法的な事実とは揺るぎ得ないものだからです。それは最高裁判所で一度下された判決がそれ以降、覆され得ないのと一緒です。救いの法的事実における揺るぎなさはダイヤモンドよりも堅固です。このように救いの確信を強く持てるのは何という幸い、何という恵みでしょうか。プロテステントのアルミニウス派やカトリックでは、救われた者が救いから落ちることもあり得るなどと誤って考えていますから、力強い救いの確信を持つことが原理的に難しいのです。中世のカトリックでは、大変驚くべきことに、救いの確信を持つことが不遜また異常であるとさえ思われていたほどでした。実際、イグナチウス・デ・ロヨラ(1491―1556)の「霊操」という有名な本では、ルターが唱えていた救いの確信が危険視されています。これは彼らが救いは法的な事実であることを知らなかったからです。このような救いに、これから多くの人が導かれてほしいものです。神から定められている人であれば必ずイエス・キリストを求めるようになります。そして、信仰に入り、イエス・キリストの聖なる救いを受けるようになるのです。