週報:【真の宗教は唯一―キリスト教】(2021/07/04)


キリスト教が、キリスト教だけが真の宗教です。ここにこそ神の啓示された真理があります。古代ユダヤ教も真理の宗教ですが、これはキリスト教へと成長する前段階としてのキリスト教ですから、キリスト教と同一視されるべき宗教です。実際、古代ユダヤ教の信者も、実体の影においてイエス・キリストを信じていました。私たちキリスト教では、実体としてイエス・キリストが信じられています。このキリスト教以外は、偽りの宗教・邪教です。それは人間が勝手に頭の中で作り出した、ただの空想に過ぎません。それゆえ、キリスト教以外の宗教には真理がありません。紀元1世紀以降のユダヤ教だけは真理の欠片を持っていますが、今のユダヤ教は古代ユダヤ教がキリスト教へと脱皮した後に残った抜け殻ですから、そこには十全な真理が見られません。こういうわけで、キリスト教以外の宗教には価値がなく、それを信じても根本的な意味はありません。人間の創作物に過ぎない宗教を奉じたところで、何の意義がありましょうか。もしこの世にキリスト教が存在しなかったとすれば、私は無宗教になっているでしょう。出鱈目な宗教を信じても無駄ですし、無宗教のほうが好きなように生きられますから。しかし、この世にはキリスト教がありますから、私はキリスト教であり続けるでしょう。何故なら、キリスト教には神の真理があるからです。このように言われるのを聞くと、「それではキリスト教が真理であるその理由は一体なんなのか?」などと思われる方がいるに違いありません。これに答えるのは簡単です。私はこう言いましょう。キリスト教の聖典である聖書には「証拠としての奇跡」が伴っていると。もし神から本当に啓示を受けた人、また神そのものである人がいたとすれば、そのような人は神の啓示を伝える人として証拠としての奇跡を行なえるはずです。聖書に出てくる人や聖書を書いた人たちを見ると、どうでしょうか?「人となって来たイエス・キリスト」(Ⅰヨハネ4:2)は、神であられましたから、これでもかと言わんばかりに多くの奇跡を行なわれました(ヨハネ20:30、21:25)。だからこそ、キリストの奇跡を見た多くの人たちは、キリストこそ神の子である救い主であると信じたのです。新約聖書の大半を書いた使徒たちも、人を死から蘇らせたり、病人を癒したり、悪霊を追い出すなどといった奇跡を行ないました。旧約時代の預言者たちも、やはり奇跡を行なっています。ですから、聖書には神の啓示された真理が書かれており、その聖書に立脚するキリスト教は真理の宗教だということになるのです。今に至るまで、聖書に書かれている多くの奇跡が出鱈目だったということを証明できた人は誰もいません。コンスタンティヌス大帝以前のローマ皇帝であれフランスの啓蒙主義者たちであれニーチェであれ、これまでにキリスト教の消滅を願い求めた人たちは数多くいます。そのような人たちは、どうして聖書の奇跡が偽りであることを論理的また明瞭に証明しようとしなかったのでしょうか?もし証明できればキリスト教を根底から覆すことができるのです。これほどキリスト教にとって強烈な攻撃は他にないでしょう。しかし、ニーチェが特にそうですが、キリスト教を毛嫌いする人たちは、キリスト教を表面的に愚弄するだけで、内面から深く攻撃するということはありません。ニーチェがしているキリスト教批判などは私にとって犬がキャンキャンと吠えているようなものです。彼らは聖書の奇跡が偽りであると証明することができません。それは聖書の奇跡が本当に行なわれたからに他なりません。キリストほど奇跡を行なった人はいませんが、もしキリストが奇跡を行なっていなかったとすれば、あんなにも短期間のうちにキリスト教が広まることはなかったはずです。嘘つきどもの馬鹿げた虚しい宗教を一体誰が進んで信じようとするのでしょうか。しかし、タキトゥスも言っている通り、偶像崇拝の本拠地とでも言うべきあのローマにさえ、紀元1世紀の時点でキリスト教が無視できないほどに普及していたのです。これは本当にキリストが奇跡を行なわれたのでなければ、起こり得ないことです。学的で聡明なローマ人たちが(セネカや大プリニウスやユウェナリウスやクインティリアヌスが現われることのできた文化的に高い土壌がローマにはあったことからも、紀元1世紀におけるローマ人たちの知的レベルの高さは明らかです)、福音書に書かれている奇跡の話を確かめようとすれば、幾らでも出来たはずです。例えばキリストの奇跡を見たことが明らかな人を何人も尋ねるのです。そうして本当にキリストの奇跡を見たのかどうか詳しく聞くのです。そして確かめて嘘だということが分かったとすれば、どうしてあんなにも多くのローマ人たちがキリスト教に入ったのでしょうか。考えられないことです。ですから、キリスト教の聖典である聖書には、本当に証拠としての奇跡が伴っていることになります。キリスト教以外の宗教であれば、別に信じなくてもよいと思います。そのような宗教には真理がありませんから。しかしキリスト教だけは信じることを、お勧めします。何故なら、キリスト教とは神から出た宗教であって、そこには神の真理があるからです。