週報:【罪に対する永遠の刑罰】(2021/08/01)


神は罪人である人間を永遠に裁かれます。神の前で犯された罪は全て永遠の意味を持ちます。神は時間を超越した永遠者であられますから、人間が時間の中で犯した罪を一時的な行為としては捉えません。永遠のうちにおられる神にとって罪とは何であれ「永遠の罪」です。ですから、人間の犯した罪には永遠の刑罰が下されるのです。しかし、神が永遠の刑罰を下されることに不満な人もいるはずです。「どうして人は永遠に裁かれなければいけないのか?」と。しかし、神の永遠性のことをしっかり考えるならば、神が永遠の刑罰を下されることは非常に合理的であると分かります。例えば、誰かがゴッホの絵を20億円で買ったとして、それからしばらくして、その絵に悪い人が5cmの穴を開けたとします。これではゴッホの絵が完全に台無しです。この場合、穴を開けた悪い人を警察に逮捕させるか、訴えるか、賠償金を請求するかしない人は多分いないと思われます。何せ普通の紙に穴を開けられたのではないのですから。普通の紙であれば大変な事態とはならなかったでしょう。このように対象物が尊ければ、その対象物を損ねた悪の度合いもそれだけ大きくなってしまいます。だからこそ、神とその義に対して犯された罪は、永遠の刑罰に値するのです。何故なら、神とその義はゴッホの絵などよりも遥かに偉大で神聖だからです。ゴッホの絵における尊さは有限ですが、神とその義における尊さは無限です。このため神の前で犯された罪は、無限の罪悪性を持っています。ですから神に犯された罪は、無限の刑罰、すなわち永遠の刑罰をもって裁かれなければいけないのです。しかし、次のように言う人もいるでしょう。「人間が罪を犯すように計画されたのは神だから人間に永遠の刑罰が下されるのはおかしいのではないか。」確かに人が罪を犯すように計画のうちで予定されていたのは間違いありません。しかし、このように言う人についてパウロはこう言っています。「すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」(ローマ9:19~21)もし神が人間の罪を計画しておられたので人間は永遠の刑罰を受けるべきでないと言うのであれば、社会的な犯罪を犯した人もこのように言えることになります。何故なら、誰かが社会で犯罪を犯すのも、神がそのようになるのを前もって計画しておられたのですから。しかし、例えば犯罪者が「私が犯罪を行なったのは神がそうなるように計画しておられたからであった。だから私は犯罪に対する刑罰を受けるべきではない。全ては神の計画が引き起こしたことなのだから。」などと言っても、法による刑罰を免除してもらうことはできないでしょう。このように言う犯罪者は、周りの人たちからただ刑罰を受けたくないだけなのだと見做されることでしょう。社会においてこのような弁明が意味をなさないのと同様で、神の前においてもこのような弁明は意味をなしません。さて、罪人である人間に与えられる永遠の刑罰とは「地獄の苦しみ」です。すなわち、人間は死んでから、この世界ではない別の空間にある地獄に移され、そこで永遠に火で焼かれることになります。黙示録21:8の箇所ではこう書かれています。「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」キリストはこの地獄についてこう言っておられます。「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」(マルコ9:48)この地獄における永遠の刑罰を免れるためには、イエス・キリストを信じなければなりません。主イエスを信じること以外に地獄を回避することは絶対できません。それは聖書にこう書かれている通りです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒の働き4:12)救い主であられるキリストを信じるならば、神はその人の罪をキリストにより赦して下さいますから、その人はもはや地獄には行かず天国へ行くようになります。そして、そこで永遠に生き続けるのです。主イエスがこう言っておられる通りです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(ヨハネ6:47)