週報:【死について】(2021/08/15)


古代の有名な哲学者セネカはこう言っています。「私たちが思い違いをしているのは、死を遠くに見ていることである。」この言葉は間違っていません。何故なら、人生とは非常に短いからです。聖書は人生の短さについてこう言っています。「私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。私たちの齢は70年。健やかであっても80年。…それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」(詩篇90:9~10)人生が「ひと息」のように短いとすれば、人生を終わらせる死は近いことになります。この死は今に至るまでずっと恐れられてきました。しかしエピクロス派とストア派によれば、死が恐ろしいのは、死に至るまでの経緯です。この哲学の派にとって死それ自体は恐ろしい現象ではありません。エピクロス派の創始者であるエピクロスが言うところによれば、「死がある時に生はなく、生がある時に死はない。」からです。J・S・ミルなど近代の哲学者でもこのように考えている人たちがいます。しかし、この考えは聖書によれば間違っています。聖書によれば、死とは人間が神に犯した罪に対する刑罰です。パウロはこう言っています。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)つまり、この死は神が罪深い人間に怒っておられることの証拠です。死が神からの呪いであるからこそ、実に多くの人たちがこれまで死を恐れてきたのです。ですから聖書から言えば、エピクロスのような人たちはただ自分を欺いて強がっているだけに過ぎません。エピクロスが言ったように、もし死んでから全てが無になるというのであれば、確かに死は恐れるべき現象でなかったかもしれません。しかし聖書によれば人は死んでからも意識が存続します。ヘブル9:27の箇所ではこう書かれています。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」。人間は死んでから人生において行なった全てのことを神から裁かれます。そうであれば死とは実に恐るべき現象であると言わねばなりません。一体、誰が神の裁きを受けて縮こまらずにいられるでしょうか。しかも、その裁きを受けてから地獄に投げ込まれるのです。ですから聖書から言えば、エピクロスのように死を恐れようとしないのは狂気の沙汰だということになります。イエス・キリストが人としてこの世に来られたのは、私たちをこの裁きから免れさせようとするためでした。キリストは私たちの罪を身代わりに負われ、十字架の上で死んで下さいました。ですから信じる者はキリストのゆえに罪を赦され、もはや死んでから裁かれることがなくなります。聖書がこう言っている通りです。「御子を信じる者はさばかれない。」(ヨハネ3:18)信じた人は裁かれて地獄に行くことがありません。むしろ神から快く迎えられて天国へ入ります。ここに死からの救いがあります。このイエス・キリストによる救いを信じなければ死んでから大変悲惨なことになってしまいます。