週報:【予測不可能な未来を寛大に考える態度】(2021/10/03)


例えば、古代の時代にいた人が次のようなことを言ったらどうなるでしょうか。「これから人は世界中どこの人とでも瞬時に会話ができるようになるであろう。」これは電話のことであり、私たちのことです。この人は間違いなく周りの人々から笑われ、狂った馬鹿者だと思われ、状況が悪ければ虐められたり投獄されたり罰金を課されてしまうでしょう。ところが、究極的な意味で笑われるべきだったのは、この予言者を笑った人たちでした。予言者を笑った人がもしタイムマシンで近代に行けたとすれば、古代に戻った際、この予言者に謝罪していたことでしょう。この例からも分かる通り、笑うべき話だからといって蔑ろにするのは危険です。歴史を学んでいる人はこのことがよく分かるはずです。むしろ、笑うべきだからこそ、それは実現する可能性があるとさえ言えます。ですから私は未来について次のように考えるのです。まず、銀河間移動の実現。これから光を越えることはできないという既存の科学命題が覆されるか、時空を歪める技術が開発されるなどして、遠い銀河まで旅をすることができるようになるかもしれません。あのホーキングでさえ光を原動力にして進む宇宙船を考えていたぐらいですから、私がこう考えるのは荒唐無稽だとは言えません。次に、他の惑星への大量移住。既に地球と似ていると予測される惑星が幾つか見つかっています。恐らく、そういった惑星は他にも沢山あると思われます。人間の増殖は明らかに御心ですが(創世記1:28)、これからも世界人口が増えれば、いつか地球の居住定員を超える日が来るでしょう。そのようになる時期が来れば、超高速移動または時空間移動の技術を用いて、人間が他の惑星に移住するようになるかもしれません。そして、微小国家世界の到来。民族や言語や宗教や学問の細分化・複雑化を考えれば分かる通り、神は明らかにこの世界が多様になるのを望んでおられます。何故なら、神には三位があり、神は一人であられながら位格において「多数」だからです。ですから、未来の時代は今とは違って、数千もしくは数万の国家が存在していることも十分に起こり得ます。もし今述べたこれらの話を笑うのであれば、その人は電話が登場するのを予言した人を笑った人々と一緒にならないと、確言また保証できるでしょうか。できないはずです。教会のことで言えば、これからこの日本もキリスト教で満ちるようになるかもしれません。今の状況からすれば、そのようなことは考えにくいと思う人も多くいるはずです。しかし、考えにくいと思えるからこそ、それはかえって実現する可能性を持っています。何故なら、神とは全能の御方であって、聖書が教えているように私たちにとって不思議に思えることを為さる御方だからです。これから日本の未来がどうなるか私たちにどうして分かるでしょうか。『何が起こるかを知っている者はいない。』(伝道者の書8章7節)とソロモンは言っています。であれば、「これから日本にキリスト教が満ちることはない。」などと決めつけることはできないでしょう。そういうわけですから、キリスト信仰がこの日本にも充満することを願って、これからも私たちは伝道をしていかねばなりません。『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。』(ヘブル11章6節)と聖書は述べています。今では実現しないと感じられることであっても、信仰の活動があれば、これから実現することにもなるでしょう(マルコ11:22~24、ピリピ4:13)。しかし、信じないので何もせず怠惰になっていれば、どうして実現することがあるでしょうか。役に立たない僕は神に嫌われます(マタイ25:30)。