週報:【宇宙の思考実験と神の憐れみ】(2021/11/07)


神の視点で宇宙について思考実験できる設計としてこの世界は創られています。神はそのような思考実験を可能とされたのです。これは大変驚くべきことです。このような実験ができることについて、科学者は「それは人間の知性の表われである。」と言うでしょう。しかし私たちは、それを神の創造と寛大さに帰さねばなりません。科学者はよく思考実験をしますが、神の側に立って宇宙を考えるということはしません。何故なら、現代の科学者は、神の存在を科学領域に持ち込みたくないからです。科学で取り扱われている現象や物質はそもそもこの神により創造されたのですが…。ですから、科学者たちは宇宙について思考実験をするにしても、宇宙の内部においてしか考えることをしません。つまり、神の視点において宇宙を外側から考えられません。では神のようにして宇宙を見るという思考実験をしてみると、どうなるでしょうか。この実験は、ただ神の創造物である宇宙をより良く知るために行なうのですから倫理的に問題はありません。私たちが神になって宇宙を見ると、宇宙は無限の空間にポツリとたたずんでいるただの砂粒に過ぎないことが分かります。何故なら、神という無限の存在に対して有限はどれだけ大きくても常に無同然だからです。このことから考えると宇宙の形状は、恐らく球形なのでしょう。その球形の中に、あらゆる銀河、あらゆる星々が詰め込まれているわけです。ですから、この宇宙には銀河や星をそこから出させないような力が何か働いているのかもしれません。さて、この宇宙でさえ砂粒同然の大きさしかないとすれば、その中にいる小さな人間はどれだけ小さいことでしょうか。正に無に等しいと言う他ありません。このため聖書は人間が矮小で虚しいと教えているのです。神に対する人間の小ささは、人間に対する素粒子(それ以上分割できない最小粒子のこと)の小ささよりも遥かに極小です。しかし、そのような小さな人間を神は心に留めておられます。私たちより遥かに小さい虫でさえも、神は憐れんでおられます。それどころか神は恩知らずの悪人さえも憐れんでおられます(マタイ5:45、ルカ6:35)。また神はこのように小さな人間として私たちのために来て下さるというほどに、私たちを心にかけておられます。しかも、そのうえ、神は人となられたばかりか、死ぬことさえなされたのです。これは憐みの極み、謙遜の極み、配慮の極みです。神の第二位格であられる御子が小さな人間に御自身をならせたばかりか、死の苦しみにまで進まれたのです。ここに神の偉大さがあります。ですから、人は神をイエス・キリストにおいて崇め、賛美しなければなりません。ところが多くの人たちはこのようなことを知ってはいません。ですから、私たちは多くの人がこのことを知れるよう、神とキリストのことを宣べ伝えて行かねばならないのです。