週報:【言葉の重要性について】(2021/11/14)


川勝知事の発言により大きな問題が生じており、知事の進退を決する事態にまで至ってしまいました。もし知事が変わるのであれば、川勝知事が主の御心でなくなったということです。知事が変わらないままであれば、神が川勝知事を静岡に立てておられるということです。何故なら、「存在している権威はすべて、神によって立てられたもの」(ローマ13:1)だからです。ちょっとした言葉が致命的な悲惨を招くというのは昔から言われてきたことです。フランシス・ベーコンは「随想集」の中で、ぽろっと出る些細な言葉に注意せよと述べています。当人からすれば何でもないような言葉が悲惨を齎した事例は数知れません。カエサルは「スラは文字を知らなかった。」という僅かな言葉のために死にました。何故なら、この言葉はつまり独裁官だったスラに比べて自分は文字を知っているから尚のこと独裁官として相応しいのだ、と暗に言うことだったからです。当時のローマにおける元老院議員たちは、カエサルの持つ異常過ぎるほどの権力に危険と不安を感じていましたから、この言葉によりカエサルが自分から退くことはないと知り、暗殺しかこの独裁官を取り除く方法はないと確信するようになったのです。このため、カエサルは50人近い議員に取り囲まれて暗殺されてしまったのでした。これ以外にも小さな言葉で身を滅ぼした人が多くいます。要するに言葉が私たちの全てを決します。ソロモンはこう言いました。「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」(箴言18:21)キリストもこう言っておられます。「あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:37)私たちの人生はこの言葉にかかっています。ですから、私たちは言葉において罪を犯さないようにせねばなりません。キリストにより贖われた聖徒たちの舌は、神の住まいです。何故なら、私たちの全体が神の神殿だからです(Ⅰコリント3:16~17)。神の住まいである私たちは、その舌を聖く用いねばならないのです。ヤコブはこう言っています。「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ3:2)このようになれればどれだけ素晴らしいでしょうか。あれやこれやと言いまくって川勝知事のように悲惨な事態を招くぐらいであれば、ピューリタンのように無口でぶすりとしているほうが遥かにましです。何故なら、悲惨を招くような悪い言葉は罪ですが、だんまりして無愛敬なのは別に罪ではないからです。ジャズの帝王と言われるマイルス・デイヴィスをはじめ米国のグラミー賞における受賞スピーチでは「サンキュー」としか言わない人もいますが、何か罪深いことを喋ったばかりに大騒ぎになるよりは全然良いのです。