週報:【神の超越性と人間の矮小性について】(2022/01/02)


神は無限・永遠であられ、あらゆる存在の上におられそれを造られた、全てを超越しておられる目に見えない絶対者です。この神について真剣に考えれば考えるほど、どれだけ神が凄まじい存在であるか、またその神に対して私たち人間はどれだけ矮小で惨めなのか実感できます。まず、神は時間の中で起こる出来事を永遠の先に至るまでことごとく計画し知っておられます。私たちが正常に考えられるのは有限の範囲内に限られますから、これは絶対に理解できません。永遠の事柄を全て予定することが出来るとは…。もうこの一点だけでも神の凄まじさを理解するのには十分です。また、神は私たち一人一人の姿と精神状態だけでなく、一つ一つの素粒子でさえ全て認識し支配しておられます。それに比べ私たちは自分自身のことさえ全て認識できす支配もできていません。このことからも神に対して私たちがどれだけ取るに足らないか分かるでしょう。また、私たちは眼球の前にある物質しか直接的に視覚することができません。頭の後ろにある物質は見えません。更に私たちは自分で自分の姿さえ見ることができません。一方、神は全ての場所に御自身の目を持っているので、ある物質を360度の方面から見ることができ、しかも近くからでも遠くからでも見ることができます。更に、ある物質を人間の目のように見たり、鷹の目のように見たり、虫の目のように見たり、赤外線センサーのように見たりすることさえできます。このような神に対して人間は一体なんなのでしょうか。また、神は宇宙よりも大きく、宇宙でさえ神から見れば砂粒のよう、否、砂粒以下の大きさしかありません。私たちはその宇宙でさえ大きいと感じるぐらいですから、神に対して私たちはどれだけ小さいのでしょうか。正に無に等しいと言わねばなりません。また、神は御自分の御子をさえ人間としてこの世界に遣わされ、十字架の死にまで進ませられました。御子も御父に従われ、神であられるのに矮小で無数の制限に包まれた人間となり、死の苦しみにさえ服するのを良しとされました。これについてピリピ2:6~8の箇所ではこう書かれています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質を持って現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」これも凄まじいことです。このような神の愛は、私たちの人知を遥かに超えています。今書いたような事柄を世は知りません。何故なら、世の人はキリストを信じていないからです。哲学者や科学者であれば、神について考えますが、その考えは誤謬に満ちています。何故なら、彼らはキリストにおいて神のことを考察していないからです。このキリストにおいて神を考察するからこそ、神と神に関する事柄を正しく知ることができます。というのは、キリストと関わっていない神など神ではないからです。贖い主キリストを通して考えられない神は、どのようにしても出鱈目な神とならざるを得ません。今年も、このキリストが信じられるようになるのを求めて行かねばなりません。どうか、人々がこのキリストにおいて神を正しく知れますように。アーメン。