週報:【神に敵するこの世】(2022/01/16)


実に多くの人たちが神に敵対しています。ここ日本について言えば、ほぼ全ての人が神の敵として歩んでいます。この人も、あの人も、どの人も、そうです。このように言われると少なからぬ数の日本人がこう応じるかもしれません。「いや、神に敵対しているなんてとんでもない。私はキリスト教徒の拝む神も尊んでいますよ。」しかし、本当に日本人のほぼ全ては神の敵なのです。何故なら、もし神に敵対していないというのであれば、どうして「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」(ヘブル1:3)である御子イエスを信じようとしないのでしょうか。どうして「イエスは主です。」(Ⅰコリント12:3)と言わないのでしょうか。また、どうして神とキリストに少しさえも聞き従おうとしないのでしょうか。もし神に敵対していなければ多かれ少なかれ服従しようとしていたはずです。日本人に対して神の命令に従って正しく歩もうと言ったとすれば、全ての人が嫌がるに違いありません。であれば日本人は、やはり神に敵対していることになります。これは日本人だけでなく、御子を信ぜず御子に聞き従おうとしない全ての国の人でも同じです。御子を信じて神に従おうとしない人は、例外なく神の敵としての存在です。これはパウロの言葉から分かります。パウロはまだ御子を信じていなかった時の自分たちが神の「敵であった」(ローマ5:10)と言っているからです。神は御自分に敵対している人たちに対しても、雨や季節や食物や喜びにより、その恵みを通して御自分のことが証しされるようにしておられます(使徒の働き14:17)。また、御自分の敵に対しても、死ぬ時まではまだ永遠の裁きが下されないよう忍耐を持って猶予しておられます。更に、人々が御子について知れるよう、教会により福音が宣べ伝えられるように働きかけておられます。それにもかかわらず、日本にいるほとんど全ての人は御子の救いを無視し、神に敵することを止めようとはしません。つまり、神のことなど別にどうでもいいのです。神に従うことが嫌いなのです。自分が神になっているのです。日本人の神は自分の「腹」(ピリピ3:19)つまり欲望なのです。ですから、神を自分の上に位置付けることなど耐えられないのです。これは何という傲慢、何という不敬虔、何という倒錯でしょうか。これでは神の敵として地獄に投げ込まれても文句は言えません。それゆえ日本人のほとんど全ては地獄に投げ込まれてから初めて自分がどれだけ愚かだったのか気付かされるのです。しかし今はこうであっても日本がこれからどうなるか分かりません。ヨーロッパの人も最初は「キリストという聞いたことのない神が拝まれているらしい。」ぐらいの知識しかない状態でしたが、今や多くの人がキリスト教となりました。ここ日本もヨーロッパのようにならないと誰が言えましょうか。誰も言えません。もしヨーロッパの人がなかなか御子を信じようとしないからといって、福音が宣べ伝えられていなかったとすれば、ヨーロッパにキリスト教が満ちることはなかったかもしれません。ですから今の日本人がなかなか御子を信じようとしないからといって、諦めたり弱気になったりして宣教がされないということはあってはなりません。宣教は主の命令です(マルコ16:15)。